10 警察官、消防士がいない

 この国には警察署がなく、警察官もいない。また消防署がなく、消防士もいない。

 防犯は人工知能がパソコンやスマホの全通信のコーパスを検閲することで行っている。検閲を行う人工知能は防犯ロボットまたは検閲エンジンとよばれる。これはもちろん身体性のあるロボットではないし物理的なエンジンでもない。この国では防犯のための検閲は許容されている。検閲エンジンは複数あり、その検閲は他の検閲エンジンによって再検閲され、相互に監察することになっている。特別政治委員会である監察委員会が検閲エンジンを管理する。この検閲システムをパニンスペクトン(一望検閲装置)またはマシンスペクトン(公衆検閲装置)という。これはミッシェル・フーコーが生前に予言していたとジル・ドゥルーズが述懐した、IT管理社会における電子的なパノプティコン(ジェレミ・ベンサムが考案した監獄の一望監視装置)である。


 かつて世界中の電話をアメリカのCIAが傍受しているという都市伝説があった。よくよく考えてみると、世界中の電話を傍受するには世界中の電話機の数だけ、しかも世界中の言語に対応できるCIAの職員がいなければならなかった。おそらくそれはアメリカの人口を超えていた。しかし今は1人の職員もいなくても検閲エンジンが同時に数十億人の通信を傍受して解析できる。ビッグデータ検閲である。

 技術的に全通信検閲が可能になったことから無差別検閲社会がすでに現実になっている。通話やメールやブログで「天安門事件」とつぶやくと、世界中どこにいても中国の検閲エンジンにチェックされ、中国と通信していたアカウントが突然遮断されるというのは、随分前から都市伝説どころか現実になっている。天安門事件が起こった6月4日を5月35日や8×8と書いて検閲を逃れる技も有名である。実際理由もわからず中国向けに使っていたアカウントが突然使用不能になり、1か月以上もしてから理由もわからず復旧することがある。

 メールやブログやSNSの投稿などの文字列の検閲は容易である。携帯電話の音声は本人の声に似せたロボット音声であり、もはや音声(パロール)ではなく、コーディングされたデジタルデータとして検閲可能になっている。画像化した情報もたちまち解読されてしまう。

 検閲は警察だけではなく、民間企業も行っている。グーグルやアマゾンが検索ワードを検閲し、ユーザー一人一人の商品の嗜好を分析し、一人一人の端末に違ったアフィリエイト広告を表示するDRMを実施しているのは今やよく知られたことである。このためグーグルもアマゾンもすべてのユーザーのすべての検索履歴を保存しているという。これは違法行為で、検索履歴を保存してはならないとされている。だが検索履歴は暗号化され、断片化され、世界中のデータセンターに分散化され、多重化されているので、当局に取り締まりのすべがない。消去を命じても消去を確認できない。データセンターのいくつかが災害やテロで潰れたとしてもデータが失われることはない。インターネット上のすべてのデータが保存され、検閲される社会、それがネット社会である。


 言語検索だけではなく、音声検索や画像検索も日に日に進歩しており、画像の盗用をするとすぐに発覚してしまう。東京オリンピックロゴ問題でも盗作発見のために画像検索が使われたことはよく知られている。音声検索はさらに普及しており、うろ覚えのメロディーを口ずさめばたちどころにスマホが曲名を教えてくれる。

 選挙運動にも検索履歴は使える。どの政党が人気か、どの政治家が当選しそうかくらいのことなら、検索ワードのデータベースがあれば簡単に割り出せてしまう。

 コンピュータやスマホに打ち込んだ文字列をそっくり盗み出せれば、文字列を打ち込んだフォーマットがわからなくてもクレジットカード番号や暗証番号の割り出しは造作もない。16ケタの数列が2度現れたらクレジットカード番号以外にはありえないし、4ケタの数列の反復は暗証番号である。文字列の解析から、名前も生年月日も住所も電話番号も、恋人や愛人の名前や連絡先や密会場所までもすぐにわかってしまう。しかも何年前でもさかのぼれる。スマホが普及してせいぜいまだ10年でこれだから100年後が空恐ろしい。

 好むと好まざるとにかかわらず検閲技術はさらに発展していく。検閲を当局の捜査手段、企業のマーケティング戦略、選挙運動、犯罪者のなりすまし手段にだけ使わせるのではなく、市民の権利と利益を守るために逆利用する仕組みを考えていかなければならない。


 この国では犯罪者を検挙する必要がある場合は事犯ごとに設置される事犯委員会が判断する。それでは間に合わない緊急事態に対応するため緊急事態対処委員会(EMC)が常設されている。これが事実上の警察である。EMCには消防の機能もある。

 現場検証、犯罪捜査、犯人検挙はセキュリティグループに委託される。このグループの捜査員が実質的には警察官である。ただし捜査員は武装してはならないとされている。このため捜査業務は人よりもロボットに適性がある。この国には武装警察官はいない。捜査員は官吏に準じて責任能力を免脱される。

 消防活動も同様にセキュリティグループに委託される。このグループの救助員が実質的には消防士である。救助員は人命救助のために自らの命を賭すことになるので、人が従事した場合は憲法の無差別平等主義に反することになる。このため救助員はすべてロボットである。救助員も官吏に準じて責任能力を免脱される。


 市民がかならず携帯するスマホには自動緊急通報機能(オートSOSファンクション)があり、緊急事態に遭遇すると自動的にSOSを発する。事故や犯罪に巻き込まれた場合や急病で倒れた場合が緊急事態に相当する。SOSを人工知能が受信すると救急ドローンが現地に到着して被害者を救助し、現場を調査し、犯罪者を捜索する。

 道路がないこの国の緊急救助はすべて人工知能によって飛行するインテリジェンスドローンによっており、全国どこにでも5分以内に急行するように配置されている。

 インテリジェンスドローンは全機が超高精度GPSと超音波レーダーを備えた自動飛行なので、衝突事故を起こすことはなく、混雑時にはコウモリのように自動隊列化する。また飛行能力を失ったドローンを周囲のドローンがサポートして緊急着陸させる機能もある。商品の輸送や観光などの用途で飛行中のドローンも緊急救助に参加させることができる。それでも墜落を回避できない場合のために、地上の人との衝突を回避する緊急噴射装置を備えている。


 各都市の各地区はコンセントセキュリティシステム(各住民が検閲の権限と仕組みを理解して承認するかわり、検閲による防犯サービスの提供を受けられる社会防衛システム)による独立した安全(防災防犯)ブロックとして隔絶されている。インターネットはVPNとなり、さらに小ブロックの多重VPNに分割される。

 この安全ブロックに滞在するかぎり、すべての通信と会話は、音声も文字も画像もVPN単位のパニンスペクトンによって検閲され、いかなる秘密も保たれない。さらに監視カメラ、Dシステム(ドローンID自動判別装置)、街頭音声認識装置も随所に設置されている。友人知人の訪問、ドローンによる郵便配達や宅配便、引っ越しセンターなど、このブロックに立ち入ったすべての人やマシーンの通信も同様である。VPNに接続されていないバイクはブロック内を走行できない。スマホを車体前方にセットし、表裏の三次元カメラを同時オンし、オンラインドライブレコードモードにしなければロックが解除されないからである。すべての監視画像と傍聴音声はパニンスペクトンによって検閲文字列と総合され、不測の事態が予知される。

 こうした徹底した検閲によって、ブロック内の犯罪や事故、いじめや自殺、住民間の紛争が未然に防止される。これをシースルーウォールシティとよぶ。さらに防災も徹底するため、ブロック全体を圧縮空気や超電導磁石によってフローティングする免震ブロックにしていることもある。

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