9 裁判所がない
この国には裁判所がなく、法廷もなく、裁判官もいない。他の国では法廷が公開され、陪審員(裁判員ともいう)が市民の中から任命される。この国ではすべての国民が裁判官なので陪審員はいない。裁判所の弁論(パロール)の廃止は議会の議論(パロール)の廃止と対である。古典的な哲学ではエクリチュール(法として書かれた文字)が権力を特権化し、パロール(聴衆に向けて話された言葉)がそれを民主化する(人民に取り戻す)と考えられてきた。この国では逆にパロールが例外者(代議士、裁判官、弁護士、教授、医師など)の特権化であり、エクリチュール(SNSへの自由な投稿)がそれを民主化すると考える。
刑事犯罪者の裁判は特別政治委員会である刑罰委員会で行われ、当事者と近親者、関係者を除くすべての国民が審理に参加できる。ただし犯罪者の氏名や住所、映像などの個人情報は保護される。
民事係争の裁判は特別政治委員会である調停委員会で行われ、同様にすべての国民が調停に参加できる。個人情報の保護はさらに徹底して行われる。
刑罰委員会と調停委員会はどちらもバーチャル開催で、当事者が出頭する必要はなく、検察官、書記官は人工知能が担当する。
裁判は6審制で、2審の裁決から仮執行の申立てができる。それでは間に合わないときは仮処分申請もできる。刑事、民事とも各審級は3か月以内と決められており、延長はできず、自動的に結審する。すなわち裁判は最長1年半である。再審は理由を問わずに認められる。再審も6審制で、審級停止の申し立てができる。再再審は理由がある場合に認められる。再再審も6審制である。再再審まで全部で18審制ということになる。
弁護士という特権的職業はなく、だれでも報酬を得て他人の代理人となれる。代理人を業とすることもでき、代理士または代理業とよばれる。カリスマ的な代理士が事業拡大と後継者育成のために代理業を起業することが多い。これは他の国にならってローファームとよばれる。
弁護士にかぎらず、この国には一切の国家資格がない。教育レベル認証が資格の代わりになっている。代理士として信頼されるには法科系の最高教育レベル認証が必須である。医師も同様である。教育レベル認証が実力にそぐわない者が一人でも現れた場合、すべての者の認証が遡及的に取り消される。
刑事犯罪は正義に対する侵犯と定義されている。したがってこの国の刑法典は犯罪については定義せず、正義について定義する。正義は憲法の永久4原則(環境・平等・平和・共生)によって具現されており、汚染・差別・戦争・暴力を憲法上の四大不正義とよぶ。このうちとくに人間的差異の絶対的非差別が重んじられている。
非差別の正義には次の4類型がある。頭文字をとってCEOS(セオス)という。
1 条件(コンディション)の正義
2 均等(イコール)の正義
3 公開(オープン)の正義
4 共有(シェア)の正義
非差別の正義の4類型に応じて不正義(正義に対する侵犯)には次の4類型がある。
1 悪条件の不正義
2 不均等の不正義
3 封殺の不正義
4 独占の不正義
これらは生存、分配、否認、排除の不正義ともいわれる。
犯罪者(容疑者)は留置されず、どんな重罪者であっても在宅起訴である。
この国の防犯システムは非常に優れているので、準備行為を伴う計画犯や共謀犯はほぼ不可能である。したがって犯罪の大半は衝動犯、過失犯、無自覚犯、愉快犯である。これらの非計画犯や非共謀犯に対しては簡易な裁判が行われることになっている。
これに対して準備行為を伴うか、もしくは準備行為を偽装し、あるいは隠蔽した計画犯や共謀犯の裁判は厳格に行われる。
国内に滞在する外国人、国外に滞在する国民に対して、この国は裁判権を有する。官僚、官吏は責任能力を免脱(無責任化)されており、故意または過失のいずれについても刑事訴追は行われない。ただし機能停止、記憶洗浄などの行政処分を受ける。罷免された場合は記憶媒体が物理的に破壊されるとともに分散化されたすべての記憶が消去され、存在しなかったことにされる。
民事係争は、利益に対する侵犯と定義されている。利益には次の5類型がある。頭文字をとって5Pという。
1 経済的利益(プロフィット)
2 名誉的利益(プライド)
3 能力的利益(パフォーマンス)
4 居場所的利益(プレース)
5 感情的利益(プラトー)
利益の5類型に応じて民事係争(利益に対する侵犯)には次の5類型がある。
1 経済損失
2 名誉棄損
3 能力侵害
4 居場所侵略
5 感情喪失
民事係争の解決は、回復、代替、代償、賠償、謝罪、忍容、拒絶のいずれか、またはこれらの組み合わせによることとされている。また解決には時点解決(一発解決)と期間解決(持続解決)の別がある。代執行はできず、刑事手続きに移行する。
刑事罰が財産刑しかないことから、刑事裁判と民事裁判を統合すべきだという有力な憲法改正発議があり、すでに憲法改正成案まで進んでいる。早晩この国には刑事と民事の訴訟の区別がなくなるだろう。この場合刑事事件における責任能力は動機責任能力(意志の自由)ではなく結果責任能力(良心の呵責)になる。
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