5 国会がない
この国には国会がなく、国会議事堂もない。代表民主制(間接民主制)による議員はおらず、公職選挙もない。
もともとこの国には国会があり、国会議事堂もあった。国会議事堂がなくなった直接の理由は建て替えの予算だった。老朽化した国会議事堂の建て替えが必要になったとき、莫大な建替予算をかけずともバーチャル議事堂でよいのではないかと議論になった。国会議事堂がバーチャルになってもなんの問題もないことがわかると、議員もバーチャルでよいのではないかと議論になった。なぜなら議会が議論の場であり意思決定の場であるというのは過去のことである。どの国においても議会はすでに決まっていることを今決めているかのように見せかける劇場にすぎなくなっている。その証拠に議会の議論(パロール)によってなにか一つでも結論が変わったところを見たことがあるだろうか。いわば国会もしくは国会中継はフェイクドキュメンタリーなのである。どうせフェイクな議論ならバーチャル議事堂、バーチャル議員で十分なのである。しかし国会が自ら国会をなくすという決議をすることは難しい。このため国会の廃止は道路革命まで待たなければならなかった。
仮想議会、仮想議員には物理的制約も人的制約もない。そこですべての国民がスマホを通じて仮想参加することができる一般議会(ジェネラルパーラメント)が成立した。この政治形態は直接民主制とはよばれず、一般民主制とよばれる。直接民主制の議会(民会)では国民が現実に議場に参集して議論することを要する。これに対して一般民主制では議場の制約がない。旧来の代表民主制の議会は特殊議会(スペシャルパーラメント)とよばれ、IT技術の進展によって一般議会が可能になるまでの過渡的な議会形態とみなされている。
この国の一般議会は政治委員会によって構成されている。政治委員会は政策ごとに数万にわかれており、どの委員会の議論にもすべての国民がSNS(ソーシャルネットワークサービス)によって参加できるSNM(ソーシャルネットワークミーティング)方式を採用している。政治委員会は普通政治委員会と特別政治委員会にわかれる。特別政治委員会は審議手続きに特別の規定が置かれているだけで上位の政治委員会ではない。憲法審議会は特別政治委員会である。政治委員会に階層構造を設け、その頂点に中央政治委員会を設けることは禁止されている。これを政治委員会独立の原則という。政治委員会のテーマは重複してもよい。これは非排除の原則という。SNMはVPN(バーチャルプライベートネットワーク)の単位となる。
政治委員会の意思決定は採決によらない。人工知能が議論の全趣旨を勘案して一般公論へと自動集約する。フィードバックされた一般公論を基にさらに議論が続いていく。人工知能は政治委員会の議長ではなく、議論を指揮することも自ら議論することもない。
一般議会による政治は合意(評決)を必要としないため、合意なき政治とよばれる。政治委員会は機関をもたないため、機関なき政治ともよばれる。
国の予算は特別政治委員会である予算委員会で議論される。予算委員会も事業ごとに数万にわかれており、どの予算委員会の議論にもすべての国民が参加できる。
各事業は複数年にわたるため、いわゆる歳入歳出予算ではない。ただし3月ごとのプット予算とコール予算は均衡しなければならない。プット予算とは国民のプットすなわち税収、コール予算とは国民のコールすなわち事業費である。
各予算委員会の予算案が出そろうと、人工知能がこれを総合して予算原案を自動生成する。予算原案は国民全員参加の公論市場の入札にかけられ、プット予算とコール予算の均衡点として予算総額と各予算案の優先順位がベイズ確率によって調整される。
この国の税制は景気変動に対してフレキシブルではない。しかし公共事業が少ないため、税収によって事業費が制約されることはまずない。それでも差額が生じた場合、他の国と同様に起債で事業費をまかなうことができる。ただし三年を超える起債(長期国債)や予算総額を調整するための起債(赤字国債)は認められない。
公論市場による予算策定は合意を必要としないため、合意なき予算とよばれる。
国会がまだあった時代にも、国会の仕事は法律と予算を作ることだった。しかし大きな国では法律が増え、予算が増えて、かぎられた人数の議員の手に負えなくなり、法律も予算も人数が多い官僚に任せるようになった。議員の仕事は各官庁の大臣になって官僚を管理することに変わった。これは議院内閣制とよばれていた。官庁を会社とすれば、内閣は取締役会、国会は株主総会だった。
さらに法律が増え、予算が増えると、大臣が官僚を支配することも難しくなった。国会は形骸化し、議員の仕事は官僚に陳情することに変わった。国民や企業が議員に陳情し、議員が官僚に陳情する政治を間接陳情型民主制という。陳情とは利権の調整だから利権調整型民主制ともいわれる。議員はロビーストにすぎなくなった。
道路に代表される公共土木施設の利権がなくなれば陳情も必要がなくなる。このため道路がないこの国では間接陳情型ないし利権調整型民主制も必要がなくなった。
この国にも公共事業はある。しかしこの国の公共事業の9割は環境保全事業であり、そこからはなんらの利権も生まれない。環境は観光の利益を生むものの、これは独占できないからである。SNMによってすべての市民が直接意思決定に参加するため、私欲の意見は徹底的に解体されてしまう。市民は恥を知っており、人工知能は権力に阿ることをしない。政治家と官僚の密室に意思決定を委ねるから私欲の意見が通ってしまうのである。
国会がなくなり、政治家がいなくなっても、政党は存在している。政党が政治にかかわらないだけである。政党と政治団体の区別はない。他の国の政党には右翼と左翼があるが、この国の政党には左翼しかない。左翼とは理想論であり、理想との比較において現実を批判し、理想にいたる革新を考える。右翼とは現実論であり、理想を退けて現在の利権を既得権として保守しようとする。左翼は理想の理論的支柱を必要とするのに対して、右翼は現実を正当化する詭弁を弄する小賢しさがあればたりる。多くの国で左翼が瀕死の状態となっているのは、かつてのマルクス主義のような理想を語る理論的支柱が喪失しているからである。
政治思想は現状に対するわかりやすいアンチテーゼとして統一的で総合的な国家観を示せなければ単なる政治批評で終わってしまう。マルクスの資本主義批判が政治思想としてひいては革命思想として成功したのは、社会主義と共産主義をわかりやすい理想の国家観として提示できたからである。マルクスの死後100年以上が経過したのに、まだだれも彼の理想を超えられていないのは残念なことである。しかしそろそろ準備は整っている。新たな革命思想は唯物論によってではなく情報論とシステム論によってもたらされるだろう。
この国では既得権を守るための保守的詭弁は差別とされるので、反革命勢力すなわち右翼は存在しない。ただし極右(エクストリームライト)はわずかに存在する。どの国でもそうだが極右は憲法の正統性を否定している。そうかといって未来に向かった理想ももたない。理想をもてば左翼になってしまうからである。結果的に極右は反動または復古(リアクション)ということになる。
どの国においても政党は、主義の共有に基づこうと、利権の保守に基づこうと、階級のイデオロギーに基づこうと、宗教の理想に基づこうと、有権者への迎合に基づこうと、一貫して公論の担い手であったかにふるまってきた。なぜならもともと政党は公論を共有する人々のパーティだからである。
政党政治では選挙に勝利して多数派となった政党すなわち与党が、公論の代表者もしくは代弁者であるかのように偽装する。この時公論とはいわずに民意ということもある。これは多数派には公論がなく、少数派にこそむしろ公論があるからである。多数派は意見などどうでもよく、ただ多数派になりたかっただけであるのに対して、少数派には少数意見がある。そして多数派も内心では少数意見の正しさを認めている。
多数派が打ち出す政策こそ、むしろ少数の幹部の少数意見に乗っ取られているということは、政党政治ではよくあることである。ひとたび与党になってしまえば、党内政治(おおげさに党内民主主義ということもある。しかし多数派工作は民主主義とは似て非なるものである)が政治よりも重要になる。なぜなら政策は党内政治から作られるようになるからである。
多数派すなわち与党が公論を危険なものとして忌避することは各国の国会中継を見ればよくわかる。議論を遠ざけ答弁をはぐらかすのは常に与党である。これは政権交代で野党が与党になったときも同じである。
公論はいつも野党の側にあるかに見える。というよりも政策に関与できない野党は公論にしか立つ瀬がないのである。公論が野党の側にあるというのは政党政治における公論のパラドックスである。これはじれったくても無意味なジレンマではない。野党がなく、公論がないよりはましだからである。
日本でも総選挙のたびに左翼が凋落を続けている。右翼は理想より現実でいいとして、理想を語れなくなった左翼には存在する意味がない。左翼の退潮は理想の衰亡を意味する。果たして日本の左翼が求めてきた理想はリアリティのないニヒリズムだったのだろうか。もはや左翼にかつての理想を取り戻させることはできないのだろうか。
左翼の理想はつきつめれば無政府主義になる。これは左翼の弱点でもある。リアリティをもって無政府主義の国を描き出すことは容易ではないからである。歴史上、戦争や内戦によって無政府状態に陥った不幸な国はあっても、無政府主義社会を民主的に安定させた幸福な国はかつて存在したことがない。無政府主義国家は実現できない理想あるいは政府と国家の形容矛盾であって、現実の国は政府による統治を必須とする。
だからといってできるだけ政府の干渉が少ない国を理想とする修正主義を容れるわけにもいかない。小さな政府はむしろ無条件(無規制)の経済的自由を求める右翼(新保守主義)の理想である。
結局左翼の理想は福祉国家、環境国家に矮小化され、無政府主義とは対極の大きな政府に向かってしまうことになる。これが高負担高福祉によって社会的な自由と経済的な平等の理想を実現しようとする社会民主主義である。だが大きな政府は官僚支配とならざるをえず、無政府主義の理想とはますますかけはなれたものになっていく。こうして左翼は政府を批判し、官僚を批判しながら、大きな政府を容認し、官僚支配を容認せざるをえないというジレンマ(自己矛盾)に陥ることになる。しかも福祉国家や環境国家は修正資本主義的にもアプローチできるので、福祉や環境を訴える革新政党は保守政党と無差別化されてしまう。つまり左翼も右翼も似たり寄ったりの政策のカタログ(マニフェスト)を掲げることになる。このジレンマこそ、左翼が理想を失って迷走し、ジリ貧になっている理由である。
脱官僚と脱コンクリートをかかげた民主党政権が惨憺たる結果に終わったのは、直接的には官僚のあからさまなサボタージュによるものであるけれども、脱官僚のあとに実現すべき政府(脱官僚政府)の姿が見えていなかったことによる。すなわち官僚主導政治に対して政治家主導政治があっけなくギブアップしたのである。それもダブルスコアのゴールドゲームだった。
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