2018年1月9日
夜が明けた。
夜の間、がたんと物音がするたびに「ざんくろー?」と反応していた。永年身に付いた習性は一夜程度じゃ抜けはしない。
起きてみれば、ざんくろーさんのいなくなった部屋はシャクに障るほどせいせいとして空っぽで、冬特有の白い光に満ちていた。そして、あまりに静かだ。
さてはあいつ、体を置いてさっさと成仏しちまったか。
北向きの和室に行くと、そこには昨夜の通り、段ボール箱の中で犬が寝ている。
やっぱり寝ているとしか思えない。寝息が聞えないのが不自然なくらいに。
「ざんくろー。ざんくろー」
呼んでも当たり前だが起きない。耳もしっぽもぴくりともしない。
やがて葬祭場の開く時間になったので、電話して予約をとった。受付のお姉さんとコントみたいな会話をしてしまった。
「もしもーし」
「もしもーし」
「もしもーし」
「もしもーし」
「聞えてますか?」
「大丈夫ですか?」
動揺してる遺族との対話に慣れているようだった。さすがプロ。
その後、宅配便が続々と届く。ざんくろーさんのためのお見舞い。ざんくろーさんのためのお守り。ざんくろーさんをモデルにした年賀状。
枕元に備えた。
幸い、この日はきつい冷え込みで、遺体を安置した北側の和室はキンキンに冷えている。しかし寄せ集めの保冷剤は既にやわらかくなりはじめていた。
「あー、保冷剤追加しないと」
遮光式土偶のような顔、赤い目も、マスクをつければ「アレルギーでーす!」ですむ。カムフラージュして買い物にGO。
大量の保冷剤とお供え用の花を見繕う。近くにお寺があるので、近所のスーパーの花売り場は品揃えが豊富だ。白い花や菊もそろっている。
しかしどう控えめに見たってざんくろーには似合わない。黄色いヒマワリとピンクのチューリップを選ぶ。お会計の時、顔見知りのレジのおばさんに「はなやかですね」と言われた。
帰宅後、追加の保冷剤を腹の下に入れる。白いぼさぼさの剛毛の手触りは生前と変わらない。
「ざんくろー」の手触りだ。骨が太くてがっちりしたジャックラッセルの体だ。
でも冷たい。昨日まであんなに必死にあっためていた体を、何故私は冷やしているのだ。
遅めの昼食にオムレツを焼いた。
年をとってからのざんくろーの好物で、焼いてると「くれ!くれ!」と騒ぐから薄味にしておすそ分けしていた。人間はあとからケチャップをかけて食べればいいと。
それなのに騒がない。苺を買ってきたのに、かぎつけて飛び出してこない。枕元に置いても動かない。
「起きろよ。オムレツだぞ。いちごだぞ。はちみつもらったぞ。飛びつけよ、こら。何で寝てるんだお前」
低く唸りながらしおっからい涙を零し鼻をすすった。
私が泣いていると、すっとんできて「どうしたの、どうしたの」と心配してたのに。こんなに泣いているのに、起きてこない。
やっぱり君は、もういないんだな。
半分たれていた耳は、硬直して立っていた。鼻水をすすりながら消臭剤を置く。どんなに冷やしても、死のにおいは消せない。
顔を洗ってからiPhoneの画面を見ると、不在着信があった。大学病院の先生からだ。
かけ直すと、すぐに先生が出た。ざんくろーの死は夫が朝一番に電話で伝えたはずなのだが。
「お力になれず申し訳ありません。私がもっと早く外科手段をとっていたら……もっと早く治療に踏み切っていたら」
先生は何度も何度も謝った。先生のせいじゃない。だって検査に行った時はあんなに元気で、急変するなんて誰にも予想がつかなかったのだから。
強いて不運があったとすれば連休で、昨日も病院が閉まっていたことぐらい。
だが、こうも思うのだ。見た目よりずっと弱っていたざんくろーを、果たして車に乗せて三〇分かけて病院に連れて行けただろうか。途中で死ぬリスクが高かったのではないかと。
だから、こう答えた。
「あれは、誰にも予測できなかったと思います。金曜日までは散歩に行って走り回っていたのですから。病院でみなさん(主に若いお姉さん)に可愛がってもらって、喜んでいました」
「そう言っていただけると……あの、それで……今回のケースは特殊でして……申し上げにくいのですが」
「剖検ですか?」
「はい」
剖検、なんて言葉がするっと出たことに驚かれているようだった。主にCSIでなじんだ単語だ。
頭の中で日数を計算する。
明日、連れていって、剖検して……夫の予定と照らし合わせる。
「申し訳ありません。協力したいのはやまやまなのですが、主人が火葬に立ち会えるのは明日しかないのです」
ペットに忌引は適用されない。明日、半休を取るのが精一杯だった。
「そうですよ、ね。すみませんでした」
「お世話になりました」
ぶしゅっと鼻をかんで、CSで映画を見る。「レッド・ソニア」からの「鮫の惑星」。こんな時でもサメ映画は楽しい。隣を見て「ほらーサメだよー」と笑って……空っぽの空間に話しかけている己に気づく。
無理だ。忘れるなんて無理だ。納得するなんて無理だ。昨日まではそこにいたのだ。
病気が発見されてから、たった17日。伏してから3日しか経ってない。
「うそだ。こんなのうそだ」
苦い涙を呑み歯を食いしばってうずくまる。
「うそだ。信じない」
猫が、こてんとよりかかってきた。
「ごめん」
この子はずうっと探していた。段ボール箱の中をのぞきこみ「ちがーう!」と鳴いて。バリケンの中をのぞきこみ「いなーい!」と鳴いて。ソファの後ろをのぞきこんで「いなーい!」と鳴いて。
ケージの中に入って、片づけられずにいたざんくろーさんの水入れのにおいをかいで「どこー!」と鳴いていたのだ。
「ごめんね」
なでまわすとひっくりかえって、前足で私の手をかかえこんで後脚で蹴りをかましてきた。
いたいけどうれしい。
夕飯を作りながら、何度も台所と居間の境目を振り返る。白と茶色の長い鼻面がにゅっとのぞいてるような気がして。
昨日はそこに寝そべっていた。今は居ない。
可愛い可愛い子犬の頃の記憶もあるけれど、やはり狂おしいほど恋しいのは、白髪の増えたじーさまのざんくろーだ。金曜日まで一緒に散歩にいって、昨日まで生きていたざんくろーだ。
夜、冷えきった体をなでながら思った。
これからの時間は、夫がさみしくなるなあと。
ソファに並んで座って男同士、サッカー中継を見ていた時間だから。
居間に戻り、こたつで本を読む。
「あれ、まだ起きてるんですか」
「何となく」
私が居間にいれば、必然的に猫も一緒にいる。
「今日ね、大学病院の先生から電話があったよ。どうして先生は、私の電話にかけてきたのだろう」
「君に直接、謝りたかったんじゃないかな」
そうだったのか。
「先生はよくしてくれたよね」
「うん、そうだね」
「ざんくろーもごきげんだった」
「そうだね」
「あんなに元気だったのに……」
一人でいられなかったのは、私だ。
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