2018年1月8日
月曜日の朝がきた。祝日でさえなければ、すぐにでも大学病院につれて行けるのに。
夫は休日出勤。
荒くテンポの速い呼吸。うとうとと眠る。目に見えて弱っている。よろよろと歩いて水を飲む。
黒っぽい目やにが出てきたので、ふいた。
もう、血尿しか出ない。
膿のようなねばつく尿を、体全体を収縮させて必死で絞り出す。
生きようとしている。
それでも体液から、死にゆく生き物のにおいがする。
昨日にも増して苦しそうに唸り、嘔吐する。吐き出すのは、もはや赤黒い反吐。文字通りの血反吐。
たまらず夫に電話する。
「もう、苦しそうで見てられない」
泣き崩れた。
「すぐ帰る」
嘔吐の後、水を飲む。頑固なことに、いつもの場所に置いた皿からしか飲まない。口元に水を置いても顔を背ける。
口をゆすぐ意味もあるのだろう。水を飲んだらすぐに水をとりかえる。
とにかく狭い所に入りたがる。猫のお気に入りの場所と被る。いつもなら前足パンチで追い出すお猫様が、困惑した顔で見ている。
気難しくなって、しっぽを振らなくなった。
それでも私の姿が見える所にいる。
いつもいつも、台所で立ち働く私を、出入り口のペットサークルの所に座って見ていた。きちんと座って見ていた。
今日は寝そべっている。それでも、じっと見ている。
そばにいると安心するのか。一緒にいることしかできないのに。今日が休日でさえなかったら。
遅れに遅れまくった昼食を作っている最中、夫が帰って来た。
「また何も食べなかったね?」
「や、だから今食べてるし」
「君が倒れたら本末転倒でしょう」
そしてざんくろーの背中を撫で、言った。
「やせちゃったね」
静かに午後がすぎる。録画した牙狼を見る私の後ろに座っていた。
この子、甘える時はいつもなぜか背後に座る。
バリケンに入って眠り始めたので、仕事部屋に移る。
年賀状の返事を書いて、案件の進捗を確かめて、同人誌の通販の確認をする。
陽が落ちる頃、夕飯の準備を始める。
ざんくろーは、夫の傍らに寝そべっていた。左の前足にあごを載せる、お気に入りのポーズで。
明日、やっと病院に連れて行ける。おそらくその場で入院になるかもしれない。タオルに家族のにおいをつける。そばにいるとわかるように。捨てられたのではないと少しでも伝わるように。
凝った料理を作る気力はなかった。レトルトのカレーをあたためて食べる。
食べ終わって、一息ついた時。ざんくろーが急に立ち上がった。
腹を波打たせて、「くぶっ、くぶっ」と息を吐く。
私と、夫と、猫。家族全員が見守る中、彼はふらつきながらも水の皿の所に行き、がぶりと一口、水を飲んだ。
それからバリケンに入って、ぎこちなく。痛む体を。思うように動かせぬ体を懸命に傾け、どさりと横たわる。四つ足を投げ出し、ぜいぜいと荒く早い呼吸をくり返す。
「よしよし、大丈夫だから……」
しばらく、傍らについていた。そのうちまたうとうとしてきたので、皿を片づけ、お茶をわかそうと電気ケトルに水を入れる。
見てるしかできないのが
「つらい」
「明日までの辛抱だから。もう少しだから」
どうして犬は救急車を呼べないの。
どうして週末に悪化してしまったの。
どうして連休に。
何度もくり返した問いかけ。これからもそいつを抱えて行くつもりだった。明日の朝の段取りを考える一方で、通院中に死んじゃったら。入院中に死んじゃったらどうしようと恐れた。
他所に預けて、捨てられたと思わせて、独りぼっちで死なせてしまったら。
そんな思いが凝り固まった「つらい」だった。
今でも思う。この言葉が、トリガーを引いてしまったのではないか。
言わなければ良かった。
言ってはいけなかった。
不意にその時が訪れた。
夫がバリケンを見て立ち上がる。
駆け寄った。
痙攣が。最後の痙攣が始まっていた。
「ざんくろー。ざんくろー!」
呼びかけて、手をのばす。肩に触れると、カチっと牙が鳴る。もうろうとした意識の中で、警戒してる。こんな時にも戦う気なのか。君ってやつは。
夫が私の手をつかんで引き戻す。
「もう、噛まれてもいい!」
離してくれない。猫はうずくまって見ている。
痙攣が続く。
「よしよし、ざんくろー、よしよし、よしよし」
涙と鼻声で、ぼだぼだになった声を振り絞る。
「よしよし、よしよし……」
子犬の頃腕に抱き、膝の上であやしたように。
痙攣が止まる。
ぱくっ、ぱくっと口が開閉する。
「ざんくろー!」
呼びかける。弱々しくぱくっと口が動き、止まった。
目の光も、もう無い。
「うそだ、うそだ、こんなのひどい」
夫と抱き合い、泣きわめいた。
「うそだ、うそだ、信じない」
声を振り絞って泣きわめいた。
「今日が休みじゃなかったら。病院に連れて行けたのに。今日が休みじゃなかったら!」
痙攣が始まってから息絶えるまで、五分とかからなかった。腫瘍があるとわかってから、いつかこの時が来ると覚悟していた。だけどあまりに早すぎる。あまりにあっけない。金曜日までは普通に歩いて、さっきまで生きていたのに。
「うそだ、信じない」
泣いていても、時間を無駄にはできない。
ここからは時間との戦いだ。
「だっこする」
ぐんにゃりした体を抱きしめる。
もう動かない。まだあったかいのに、力が抜けている。どんなにリラックスした時も、どこか体に硬さがあったのに。ぐにゃぐにゃのくったくた。
「お湯……洗面器に、ボディソープ溶かしてもってきて」
においづけするために身につけていたタオルで、体を拭いた。目元と口の中は、水を含ませたキッチンペーパーで拭った。
お尻にこびりついた便、こぼれた血尿さえも最後の瞬間まで、彼が必死で生きようとした証に見えた。
体の汚れを落とし、口にこびりついた吐瀉物を拭った。頑丈な足、筋肉質の体、雪のように白い毛並。白くて丈夫な歯は、一本も欠けていない。だらりとした舌を口の中に収める。開いたままのまぶたは、指で押したら簡単に閉じた。
猫は動かなくなったざんくろーさんのにおいをかいで、すぐに離れた。
「あおー、あおー!」
鳴きながら探し始めた。もう、この子にとってざんくろーさんの体は「ちがうもの」になってしまったのか。
あんまりに急すぎて、何の準備もできなかった。
ざんくろーさんの体が入るだけの箱が見つからず、資源ゴミに出すためにくくって車庫に置いてあった段ボールを取りに行く。うっかり懐中電灯を忘れて、暗がりの中手探りで探した。
通販の箱をガムテとトイレシートで補強して、ありったけの保冷剤を敷き詰め、寝かせる。前足と後脚をおりまげて。
ギリギリだった。もう、硬直が始まっていた。
いつも上で寝ていた黄色い毛布をかけて、北向きの和室に安置する。大好きだったさつまいものおやつをキッチンペーパーにくるんで口元に置いた。
静かで、おだやかで、眠っているようにしか見えない。
だけどもう、動かない。
遺体を安置してから、ツイッター上で訃報を告げる。
たくさんのお悔やみの言葉をいただいた。
「お守り送ろうとしたら、ざんちゃんの方がせっかちだった」
「ダッシュで虹の橋渡っちゃったよ」
夜中、生まれた時からのかかりつけの先生にあてて、手紙を書いた。
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