パピィ・ウォーカー

@stdnt

第1話

 盲導犬として生まれた犬は、厳しい訓練を受けて大人となり、盲目の主人のもとで一生の役目を果たす。犬たちは、厳しい訓練の始まる前、生後の一年間だけ、一般の家庭に飼われ、十分に愛情を注がれて育てられる。これは、厳しい訓練の前の心身の温存のためでもあり、また、人と接することに幸せを見いだせるような大人になってもらうという飼育側の意図によるものである。幼少期に十分な愛情を注がれた犬は、その分だけ、優秀な盲導犬として育つようである。一年間だけの限定で、犬たちに愛情を注ぐことになるホストファミリーのことを、「パピィ・ウォーカー」というそうである。

 ある盲目の歌手Mの盲導犬Nは、他の多くの犬たちと同じくパピィ・ウォーカーの深い愛情を経て、歌手Mのパートナーとして活躍していた。大人として、訓練された犬として、歌手のサポートの日々を送っていたのだ。しかし、そのパピィ・ウォーカーとしてNを育てた家庭の子供たちは、―実は多くのパピィ・ウォーカーの家庭がそうなるのであるらしいが―Nとの楽しい日々を忘れることができずにいたようである。

 歌手Mは、その実力とともに、繊細な気配りが魅力の人間であった。Nのパピィ・ウォーカーである家族のことを知ったMは、自身のコンサートにその家族を招待する。

 コンサートでは、NがMを護衛するかのように、すっくと背筋を伸ばし、前を向いていた。Nのエスコートは手慣れたものであり、プロとしての、大人としての成長に、招待された家族は大変感激したそうである。

 しかし、最前列にいて気が付いているはずの家族に対し、Nは全く反応をしめさなかったようだった。厳しい訓練が、幼き頃の思い出を忘れさせたのか。それでも立派に務めを果たす姿を、家族は見守るばかりであった。でも、この話はそれで終わりではない。

 コンサートが終わり、Mの特別な計らいによって、パピィ・ウォーカーの紹介があった。MがNに家族へのあいさつを許した瞬間である。Nは家族に駆け寄り、大きくしっぽをふって、家族との再会に喜びを示したのだ。

 Nは、家族のことを忘れてはいなかった。かつ、その家族の存在を認めつつも、Mのサポートという自分の役目に徹していたのである。Nとそのパピィ・ウォーカーであった家族の絆と、そしてNの賢さ、責任感の強さに、心を打たれる逸話(実話)である。


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 場末のバーでコークハイをあおっていた。毎週末最後のルーティンだ。かつてはその手腕で本社を牛耳り、拠点となる大型店舗を駆け巡った恩田であったが、定年を間近に控え、現在のポストは僻地の支店長であった。派閥争いに敗れ、入社当時からかわいがっていた腹心の部下を失っていた。争いは両者痛み分け。少し先が読めていたら、争いに加わっていなかっただろう。まだ若かったのだ。


 部下の名前はここでは伏せておこう。名前が意味を持つのは、良くも悪くも心が重なっている時のはず。今、かつての腹心に重なる部分はないはずだった。


 争いの結果、会社は大きな損失を被った。派閥は解体したが、主たる社員たちにポストの変化はなかった。争いは会社を良くするためと、主張し続けた恩田のポストだけが、変わったのだ。道連れを恐れた恩田は、腹心との関係を、切った。


 カウンターの向こう側は、今ではもう、なじみになっていた。白髪の混じる長髪を束ね、今日も丹念にグラスを磨いている。こちらの事情を詮索しない寡黙なタイプが恩田を落ち着かせるのだった。「いらっしゃいませ」「なにになさいますか」「ありがとうございました」いつもこれだけである。BGMはなく、いつもラジオニュースが流れている。へたな歌謡よりずっとましだった。


 今日のニュースは、大型の交通事故に始まり、ある野球選手の記録樹立、中東地域での紛争と続いていた。酔いにまかせていたが、ぼんやりと聞き流すうちに、聞きなれた単語が入ってきた。


 ニュースは本社を報じている。今では世界でも聞きなれた社名に成長をとげている。ニュースで耳にするのは珍しいことではなかった。そして恩田のかつての腹心は、今では、本社CEOの腹心となっていた。


 ニュースではどうやら、本社側がまたしても大きな成長をとげたとのことであったが、恩田には関係がなかった。成長の果実は地方支店へ。そんな内容が流れている。コークハイを追加した。もう自分には関係のないことなのだ。


 ラジオを消してくれないか。コークハイを受け取ってそう頼もうとしたとき、ドアが開いた。「いらっしゃいませ。」深夜をとうに周り、この時間には珍しい来客であったが、その風貌には見覚えがあった。忘れもしない、柔和な瞳。突然の音信不通を理解できず、何度も留守電に入っていた声。変わらぬその声がいった。「恩田主任、お迎えにあがりましたよ。」横のスツールに座ったのはかつての腹心であった。


「斉藤、斉藤じゃないか!」


恩田は名前の意味を思い出し、斉藤のコークハイを注文したのだった。


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