タナカスナオは遠野一香のなかで遠浅の汀に立つ
岡野めぐみ
タナカスナオは遠野一香のなかで遠浅の汀に立つ
とても暑い日のような気がした。
青いはずの空を白くするほど、太陽が近い。
ぼくはというと、白っぽいYシャツの袖を肘までたくしあげ、たぶんベージュ色のスラックスの裾を膝の高さまで折り曲げて、遠浅の汀に立っている。
海水がゆるゆると足首を掴んでいるような、きめの細かい砂がふわふわと裸足の裏にあるような、そんな感覚はある。でも、海水も砂も、大気ですら、その温度をぼくに伝えてはこない。
ここにあるのは、きっと暑いのだろうと思わせる風景と、音。
はるか遠くに雑音のような波の音。ゆっくりと前へ足を踏み出すと、それっぽい水の音がした。まるでまがいものののような。
いったいここはどこなのだろう。
そう自問しながら、くだらない、と思った。
ここは遠野一香のなかだ。
夏、三年前の夏だ。
遠野一香は海を知らないと唐突に言った。
そこら辺のファストフード店のカウンターに並んで座って、二人でフライドポテトをつまんでいる時に。
直前まで何を喋っていたのか、今となっては思い出せない。でも、きっと取るに足らない話だったのだろう。まして、相手は遠野一香だ。海を知らないという何だか大げさな言い方にも、ぼくは面食らうこともなく、家って海から遠いところだったの、というようなことを何気なく訊ねた覚えがある。
彼女は、港は家の近くにあったけれどね、と返してきた。
笑っていたと思う。ぼくが困惑したからだ。
遠野一香の家は海に近かったらしい。だが、遠野一香にとってそれは海ではなかった。
「砂浜がね、なかったの。どこにも。潮が引いても砂なんて見えないの」
それでも海は海だろう、そんなことを言った記憶がある。
まあ海でしょうね、と遠野一香はひときわ長いポテトの一本を口に押し込み、でも、と続けて首を振った。
「私にとって、あれは海ではないの」
「海を知らないのに?」
少しばかり意地の悪い調子で言った覚えがある。
けれども遠野一香は、油脂で汚れた指をペラペラの紙のナフキンで拭い、 しれっとうなずいた。
「知らないからでしょうね。知らないから期待ばっかり大きくなる」
遠野一香のいう海は、遠浅で、小麦色をしたきめの細かい砂の浜があって、砂浜の両端は、まるで極端な三日月のように湾曲して途中から岩場になり、木々のしげる岬となる。そこが外洋の波を防ぐから、潮が引いてしまうといつまでも穏やかで、潮が満ちる時もまた穏やからしい。
そんな海はないよ、とぼくは笑った。
あるかもしれないじゃあない、と遠野一香も笑った。
「きっと知らないだけ。そう、何も知らないからだよ。知らないからこうやって笑っていられる」
そんな遠野一香はもういない。一年前にいなくなってしまった。
最後にぼく宛に送られてきた写真は、今ぼくの目の前にあるこの風景だった。
『やっぱりあったよ、タナカくん』そんなメッセージ付きで。
ぼくのことも、あの会話も覚えていたのだ、遠野一香は。
いや、そんなことを覚えているなんて、と驚いたぼくは彼女のことを知らなかった、ただそれだけのことなのだろう。
ここはやっぱり遠野一香のなかだ。
小麦色をしたきめの細かい砂で成る遠浅の汀に立ち、ぼくは左右を見る。
砂浜の両端は、まるで極端な三日月のように湾曲して途中から岩場に、そして、岬になっていた。ノイズまじりの波の音は、岬が防ぐ外洋の波の音だろう。
目に映るもの以外がまるでまがいものなのは、ぼくが遠野一香を知らないからだ。知らないままだったからだ。
試しに砂浜に手を入れてみる。
感触が本物めいているのは、たぶん、ぼく自身が海の砂の感触を知っているからだろう。
ふと、指先に触れた硬いものを無理やり掴んで引き上げてみる。
小さなアサリのようだと思いながら見てみると、黒くつやつやとしたシジミだった。
周囲に河口はない。ここは汽水ではないはずだけどな、と手のなかの黒い宝石のようなシジミに語りかける。
ここが、ぼくの知らない遠野一香のなかだからだろうか。
そう、遠野一香にそんな知識があったのか、ぼくは知らない。
遠野一香が海を知らなかったように、ぼくは遠野一香のことをなにも知らなかった。
そして、ぼくは知っている。冥界で食べ物を口にして地上に帰れなくなった女神の話を。
ぼくのいた場所に遠野一香はもういない。
今、ぼくの知っている遠野一香のなかに居続けるためには、これを食べてしまえばいいのだろう。
手のなかのシジミを口に放り込んで飲み込む。
海の味のする、ぬるい石のよう。
食道を抜けて胃に落ちた時、かちり、と身体の奥で音がしたような気がした。
一度ではなく、二度、三度、四度――
ああ、これできっとまた、ぼくの精神は、遠浅の汀と三年前のあの夏を行き来するのだ。
目を閉じて、彼女の名を口にする。
遠野一香。
もう彼女がどんな顔をしていたのかもよく思い出せない。
とてもとても好きだったのだけれども。
そう、とても――
――とても暑い日のような気がした。
【了】
タナカスナオは遠野一香のなかで遠浅の汀に立つ 岡野めぐみ @megumi_okano
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