第13話 3つの背中
東京都に着くと茅野さんは既にそこにいた。
「急にごめんね」
「いや、いいんだ」 僕はそう言いながら、くしゃみをする。
「風邪?」 茅野さんが心配そうに聞いてきた。
「さっきちょっと雨に降られちゃって」 そう言いながらまた僕はくしゃみをする。生乾きの服が僕の体温を常に奪っていく。茅野さんも僕の服が湿っていることに気がついたようだ。
「お風呂入ったほうがいいし、服も着替えたほうがいいよ」
「そうだね、でも」
「うちくる?」 僕に被せるようにして言う。
「え?」
「私の家来る? ここから近いし、家には誰もいないから、大丈夫だよ」 茅野さんは平然とそう言った。ぼくは躊躇した。いきなり家に行くのは、憚られる。
「いや、でも、悪いよ」 と言うと、彼女は反論は認めないって顔を僕に向ける。なぜか茅野さんのその顔はいつも断りづらかった。昔から少し強引で、でもそれが僕の性格とは真逆で、新鮮で、それで以前は好きになった。
「わかった。そうさせてもらうよ」 僕は控えめに言う。
「服はお兄ちゃんの貸してあげる。もう一人暮らししてて家にはいないから、それも気にしないで」 茅野さんは歩きながらそう言った。
茅野さんの言う通り、茅野さんの家は電車に乗ってすぐだったし、駅からも近かった。正直いうと、ありがたかった。今にも熱が出そうな悪寒が背中を走っている。特に何もしていなくても、身体は凄く重くてぐったりしていた。
家は一軒家。結構広そうな印象を受ける。扉を開けると、小さな犬がこちらに走ってきて、茅野さんに飛びついた。犬種は、マルチーズだ。一度動物の絵を描くときに題材にしたことがある。部屋も整然としていて綺麗だった。かといって生活感も程よく感じさせ、安心感がある。結構裕福そうだな、と思った。
まるという名前のその犬は、しばらく僕を見つめる。僕も見つめる。人懐っこいのだろうが、一応警戒しているのか、僕とは絶妙な距離感を保っている。茅野さんが奥の部屋に移動すると、まるは僕のことなんか忘れたかのように茅野さんに付いて行く。
「ずっと付いて来るの?」 僕は、ずっと茅野さんの足元から離れないまるを見ながらそう言った。
「うん、可愛いでしょ、ちょっと面倒な時もあるけどね」 茅野さんはもう慣れているのか、まるは無視して階段に登って行く。まるは頑張って付いていこうと一生懸命階段を上っているが、茅野さんを見失ったのか、階段を降りて僕の前にちょこんと座って僕を見ている。
茅野さんが降りて来る。僕に洋服一式を手渡し、そしてそのままお風呂まで案内してくれた。
「じゃ、後でね」 茅野さんはそういうと、扉を閉める。扉を引っ掻く音がした。「ほら、まる、こっちおいで」という茅野さんの声が扉越しから微かに聞こえる。
お風呂は気持ちよかったけれど、他人の家のお風呂はどこか落ち着かない。それでも、冷え切った僕の体にじわっと広がるお湯の温かみは心地よくて、ゆっくり浸かることにする。
✳︎ ✳︎ ✳︎
お風呂に入り、大分身体が本来の活動を始めたようだった。気分も少し明るくなっていた。茅野さんの言うことを聞いておいてよかったと思った。
お風呂から出ると、茅野さんは制服のまま、テレビをつけながら、それを全く見ずにスマホをいじっていた。ソファだったがサイズがそれなりにあったので、茅野さんとは反対側に座る。しかし、横並びでこの距離感はあまりによそよそしいかと思って、すぐに少しだけその距離を詰める。
テレビはどうやら録画がした番組を流しているみたいだった。恋愛ドラマだろうか、雰囲気的にそう思う。話は分からないけれど、手持ち無沙汰なので、観る。
「ありがとう、助かった」 僕はテレビを見ながらそう言う。
「よかった」 茅野さんはスマホを見ながら話している。
「それで、なんで渡せなかったの」 茅野さんもテレビに目を向ける。
「うん、なんか男子と仲良く話してて」
「それだけで?」
僕たちはテレビを見ながら目を合わせずに会話をする。茅野さんは普通に見ているのかもしれないけど、僕はなんとなく気まずかったからそうしている。まるは姿が見えなかった。
「うん、なんか僕だけ取り残されてた、あそこで声はかけれなかった」
「そっか」
テレビでは女の人が雨のなかを泣きながら走っている。どういう経緯で走っているかは知らないが、少しだけ胸が苦しくなる。
「苦しい?」
「何が?」
「宮寺さんのこと考えるの」
「どうだろう」
「でもいつも乙坂くん、宮寺さんのことで辛そうにしてない?」
「そう、かもね、うん、確かに」女の人は転んだ。靴のヒールが折れたようだった。その場で泣きじゃくる。雨で涙ははっきり見えないけれど、女の人の顔は誰が見ても分かるほど悲しみに暮れていた。その女の人の気持ちが少し気になった。
「そんなに辛いなら、忘れた方がいいんじゃないかな」僕はその言葉に答えなかった。いや、正確には答えることができなかった。
女の人の前に傘が差し出される。男の人がそこに立っていた。二人の関係は分からないけれど、男の人はその女の人が好きなのかな、そんなことを考える。
「そんなに辛いなら、宮寺さんのこと忘れてさ、私と付き合わない?」僕はその言葉を聞いて、茅野さんを初めて見る。茅野さんはテレビの方を見ていた。
その時「今更優しくしないで!」と大声が聞こえて、僕はビクッとしてテレビに目をやる。その女の人は男の人を睨みつけている。
「えっと......まだ彼女を忘れられない。ごめん」 テレビを見ながら答える。
「乙坂くんをそんなに苦しめる人を、まあ私が言うのもあれだけどさ、それでもそんなに好きなの?」
ドラマでは、男の人が「やっぱり、お前が好きだ」と言っている。その目に迷いはない。ただし、女の人のその目もまた、迷いがなかった。
「うん、好き。とっても。僕は彼女に助けられた。彼女はこの苦しみの何倍もの幸せを僕にくれたんだ」
女の人は男の人が差し伸べた手を振り払って、自分で立つ。「あなた、私がどん底の時に何もしてくれなかった」と少し低いトーンで言った。
「私の言ったことは冗談冗談。試しただけ。ほんとに宮寺さんが好きならそれでいいんだ」茅野さんは、声のトーンを変えずに言う。
男の人は、少し悲しそうな顔をした後「君が今幸せならいいんだ」と微笑む。
「ごめん」
「だから冗談だってば」
男の人は傘を女の人に渡し、後ろを振り向いて去っていく。それを見ながら女の人は「私も分からないよ」と言うと、自分の靴を拾ってよろよろと歩き出した。傘はささなかった。
「じゃあ、どうするの? いつまで悩むの?」 茅野さんは僕に聞く。
ドラマはそこで終わっていた。急に部屋が静かになり、気まずくなる。
「分からない」
「そっか」 その後沈黙が続いた。少しして、別の部屋から可愛い足音が聞こえてくる。まるが走ってきて、僕の膝の上に乗ってきてバタバタしている。
「よかったね、まる、乙坂くんのこと気に入ってくれたよ」 茅野さんは久しぶりに僕の方を向く。その顔は笑っていた。
「ほんとに? いてっ、はは、よかった」 僕も笑った。
しばらく僕たちはまるとじゃれあって遊んだ。気まずい雰囲気はなくなっていた。
茅野さんは駅まで送ってくれた。もう雨は止んでいた。
「じゃあ服は今度返すね」
「うん、いつでもいいよ、後、もしまた何か辛くなったら、まるに会いに来ていいよ、今日ずいぶん楽しそうだったから」 茅野さんはニコッと笑う。
「うん」 僕は手を振ると、彼女も少し手を振り僕に背を向けた。なんとなく寂しそうなその背中を見て、その後マフラーの入った袋を見る。ヨレヨレの袋もどこか寂しそうだった。僕は首をひねって自分の背中を見ようとしたけど、諦めた。もし僕の背中を自分で見ることができたら、どう見えるのだろうか少し気になった。
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