第9話 僕と彼女の想い
「悠人......」 彼女の顔は引きつったままだ。それを見た彼女の友達は顔を見合わせて何やら話している。
彼女は彼らに何かを言うと、こちらに歩いて来た。
僕に迷いはなかった。
「こっち来て」 僕は彼女の手を掴むと少し強めに引っ張るようにして歩く。彼女の抵抗は感じられなかった。
人混みを抜け、人通りの少ないところに来る。ベンチが幸い空いていたので、そこに座る。いざ二人きりになると、どう切り出せば良いか分からなくなり、沈黙が流れた。
「悠人」
彼女の言葉に、僕は唾を飲む。
「とりあえず、浴衣直したら?」 僕はそう言われ、自分の浴衣が酷い有様であることに気がついた。崩れているというよりほんどはだけている状態に近く、帯は今にも落ちそうである。
「あ、ごめん」 僕は慌てて、直そうとするが、そういえば直し方がわからない。
「これ、どう直すの?」 僕が困った顔をすると、彼女は初めて笑顔を見せた。
「やってあげる、ほら、後ろ向いて」 僕は彼女に身を委ねる。
「悠人、どうやって浴衣着たの?」と彼女は少し笑いながら言う。
「お母さんに、無理やり着させられたんだ......」
「そうなんだ、でも、似合ってるよ」と話しながら小気味よく浴衣を直していく彼女の温もりを背中で感じる。僕は時折目に入る細くて綺麗な手をじっと見つめていた。
「これでよし」とほどなくして綺麗になった浴衣を、満足そうに彼女は見ていた。
「ありがとう」僕は綺麗になった浴衣を崩さないように慎重にベンチに座る。
「えーと、それでさ......」僕は少し落ち着いてきた気持ちを崩さないようにゆっくりと話し出す。
「うん」 彼女の顔からすぐに笑顔がなくなる。先ほどの和やか雰囲気は一瞬で吹き飛んでいた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「それでさ、なんで会ってくれなくなったの? それに既読すらつかないし......」
「ごめんね」 彼女はそれだけ言う。
「僕がどんな気持ちになったか、わかる?」 僕は語気が強くなっていくのを感じる。
「うん、ごめん」 彼女の声は少し震えている。
「僕がどんだけ辛かったか、わかる?」 僕は込み上げて来るものを我慢して、話を続ける。
「うん、ごめんね」 そう言う彼女の目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「僕のこと、嫌いになった?」
「ううん」 彼女は首を横に降る。
「他に、好きな人ができたの?」 僕は一番気になっていたことを口にだす。口に出した瞬間ぎゅっと胸がきつく締まる感覚を覚える。
「ううん」 彼女の涙が浴衣を少しずつ濡らしていく。
「はっきり言ってよ! 他に好きな人ができたなら、もし僕のこともう好きじゃないなら......」 僕は少し大きな声を出した。しかしそれは彼女のもっと大きな声に遮られる。
「バカにしないで!」 彼女は溢れる涙を押さえることもせず、僕を睨んでいる。僕はその気迫に口を紡ぐしかなかった。
「バカにしないで......好きでもない人の前でこんなに......泣いたりしない」彼女はまだ、僕を睨んでいる。
「じゃ、じゃあどうして......」
彼女はそこで初めて、涙を拭くと、深呼吸をした。
「あのね、私の前のお父さんはね、お母さんと高校生の同級生だったの」
いきなり話が飛んだように思えて僕は口を挟みたくなったが、ぐっとこらえる。彼女が話してくれるその言葉を全部聞こうと思った。
「それからずっと一緒にいたんだって。大学も同じ。大学の頃から一緒に暮らしてて、周りから夫婦ってからかわれるほどに、二人はね、仲良しだったの」
結菜は下を向きながら話している。
「それでね、お父さんは、将来画家を目指していたの。そう、悠人みたいに。でも芸術大学には全部落ちちゃって、大学は普通のところに行ったみたいなんだけど、それでも一人で絵の勉強をしてたみたい。お母さんはその楽しそうに本気で絵を描く姿を好きになって、ずっと応援してたの」
「私と一緒。遺伝かな」 へへっと彼女は照れ臭そうに笑う。
「それで大学卒業と同時に結婚して、お父さんは一度は就職したんだけど、やっぱり絵の道を諦められなくて、仕事を辞めて絵を描いていたんだって。お母さんはそれでもよくて、お母さんが主に働いてお父さんをずっと支えてたの」
「私も小さい時にお父さんが絵を描くところを見てた。お母さんが嬉しそうにその絵を見てたのをよく覚えてる」
彼女は目を細めて言う。
「それでね、ある日お父さんの絵が評価されて、お父さんは画家として本格的に活動を始めたの。日本中を、世界中を回るから、家にはだんだん帰らなくなっていったみたい」
僕の夢と同じだ。それを聞いて少し不安を覚える。
「それでも最初はうまくやっていたの、久々に帰ると仲よさそうに話してた。でもね」
彼女の声のトーンが落ちる。
「だんだんとすれ違いが起こったの。子育ては全部お母さんがやってたし、価値観や考えることがずれてきた。お父さんとお母さんは喧嘩ばかりするようになって、私、それを見てよく泣いていたな」
彼女は今度は悲しそうな目をしている。
「そんな時にお父さんはどんどん仕事が忙しくなって、さらに家に帰ってこなくなったの。電話も、メールもだんだん減ってきた。お父さんの話は家でもほとんど出なくなった」
彼女は一度大きく息を吸った。
「それで最後に一通だけメールが来たんだって」
「『離婚しよう。ごめん。いつ会えるかも分からない人を愛せるほど、僕は器用じゃないし余裕もない。 君は君の人生を生きてくれ』ってね。高校生から付き合ってて、ちょっとでも離れたら、これ」 彼女は呆れている顔なのか、悲しい顔なのか、よく分からない顔をした。
「今お母さんは出会ってすぐに結婚した人ととても幸せそうにしている。新しいお父さんはいつも定時で帰るから、いつも一緒にいれる。いつもその人の温もりを感じることができて、だから幸せそう」
僕は彼女の言いたいことがわかって来たような気がした。
「僕たちもそうなるってこと?」 僕は久々に口を開く。
「怖いの。遠距離なんて無理なんじゃないかって。遠く離れてたらその人の温もりなんて感じない。何回トークでやり取りしたって、悠人の温もりも、洗いたてのシャツの洗剤の香りも、美術室の匂いも、何も感じないよ」
彼女はちらっと僕を見る。
「悠人も画家になったら、いろんなところに行く。家にいつ帰れるか分からない、でしょ? 私はね、怖い」
「そんな、まだ高校生なのに、そんな先のことで」 そういうと彼女は首を横に振る。
「今もそう、少し前の悠人、見ていられなかった。顔色は会うたびに悪くなるし、どんどん痩せてくるし、目の隈はすごいし、すごく体調悪そうだった。悠人は私と会うためにそこまで無理をしてくれる」
僕は下を向く。確かにあの時は、相当大変だったし無理もしていた。
「だったら、会う頻度を抑えよう。それだったら負担も少ないし」
「それは私も思った。けど、会えない時は悠人のこと考えると辛くなるし、この先もずっと離れて暮らすことになる。この辛いのがいつまで続くんだろうって思うと、何が正解か分からなくなっちゃって...... 」
彼女はため息をつく。何かに迷っているようだった。僕も会えていない時は辛い。確かにこの終わりのない洪水のような寂しさに、これからも流され続けないといけない気もした。確かに僕は彼女の温もりを求めて、毎週会いに行こうとする。これからも、ずっと。会わなくていいなんて思えない。それなら......
「それなら僕は、結菜と一緒にいるよ」 僕は結菜の手を握る。
「画家だって色んな働き方ができるし、それに、いざとなったら画家を......」そこまで言うと、「それ以上言わないで」と結菜が僕の手を振りほどく。
「悠人は前のお父さんとは違う。それもわかってる、だからダメなの」 それを聞いて僕は首をかしげる。
「私は絵を楽しそうに描く悠人を好きになったの。私は悠人に絵を描いていて欲しい」
「そっか」 言葉に詰まり、それだけ言う。
「ちなみに私が、悠人にどこへでもついて行くって言ったら、どうする?」 彼女は僕の目を見る。何かを求める目に見えたけど、僕はそれが何なのかは分からなかった。
「もちろんそれはそれで嬉しいけど、結菜には自分の理想の生活をして欲しいし、それを奪ってしまうのは、多分よくない気がする」
僕の本心だった。自分の思い描いた夢、それを奪う権利は、誰にもない。
「私も、同じ。だから、私といると悠人の人生が、壊れちゃうと思うんだ」 彼女は僕を見つめる。彼女の顔は今まで一番見たこともないくらい悲しそうだった。
「私といたら、悠人は絵を描くことを、やめてしまいそう。どこかで自分の人生を犠牲にしてしまいそう」 彼女は僕の目をまっすぐ見ながら、僕に言う。
「私には私の生活が、人生があるし......」 彼女はまた目から涙が溢れそうになっている。
「僕には僕の生活が、人生がある......か」
「私は、悠人が大好き...... 今も、とっても、でも大好きだから、大好きだからこそ、私は悠人とは...... 一緒には居れない、いちゃ、いけない気がする」
彼女は泣いてて言葉が出なくなりそうなのを、無理やり声にする。
お互い好きだから、一緒にいれない......僕はその言葉をすぐには理解できなかった。でも今僕たちは、その話をしている。
何が正しいのか分からない。このままズルズル会い続けて、終わりのない辛さと不安を彼女に与え続けるのが、正解だとは思えなかった。けど、会わないという判断も、正解だとは思えなかった。
彼女を説得するだけの、言葉も、自信もなかった。どこかで僕も納得しているところがあった。何が正解か分からない僕には、何も言う資格なんてない気がした。
僕たちの少し先では子ども達が線香花火をして遊んでいた。線香花火の音が聞こえてくる。僕はそれをぼんやり眺めていた。
子どもの持つ線香花火が不意に消える。それは、僕らの関係の終わりを告げるようだった。僕はそれをじっと見つめていた。
「そっかぁ、じゃあ僕のこと......まだ好きなんだよね?」 僕は改めて聞く。
「うん、とっても」 彼女は笑ったけれど、その目から落ちる涙は、その止まり方を忘れているみたいだった。
「僕も、好きだよ、とっても」 僕も微笑む。
僕たちは手を取り合うと、そっと唇を交わす。
なぜか、胸が苦しくなる。前はあんなにも嬉しかったことが、どうして今はこんなにも苦しいんだろう。
彼女はおもむろに唇を離すと、僕との関係を断ち切るかのようにすっと立ち上があった。
「ばいばい」
「うん」 またね、とは言わなかった。
彼女はまだ僕と繋がっていた手をゆっくりとほどく。彼女は最後にほんの少し微笑むと、僕に背を向け、人混みの中に消えていった。
僕はそれをずっと眺めていた。
少しして、唇に手を触れる。彼女の最後の温もり。もう一生感じることがないかもしれないと思った瞬間、僕は込み上げてくるものをとうとう抑えきれなくなった。
僕はベンチに置いてあった狐のお面を手に取ると、それをそっとつけた。
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