第5話 出発と再出発
彼女が転校する。
僕は呆然とその文章を見つめていた。
「どういうこと?」と、僕はようやく指を動かし、返信をする。すぐに返事は来た。
「詳しくは直接、水曜日に」
「わかった」 それだけ送ると僕はスマホを閉じる。
通知音は、僕にとってまた少し怖いものになった。
家に帰って、課題の絵を描こうと鉛筆を持つ。しかし、それを動かす指の何倍もの速度で頭の中でいろいろなことが駆け巡り、僕は投げ捨てるように鉛筆を机に放ると、ベットに横たわった。
今日の楽しかった記憶が、あまり思い出せない。このタイミングで言わなくても......しかし、そのことを言わずに今日を楽しんでくれた彼女の辛さを考えると、僕は彼女を責めることはできなかった。
月曜日のバイトと火曜日の美術学校ではミスの連続だった。レジの打ち間違い、お釣りの渡し間違い。課題の絵は初めて完成しなかった。先生からも少し心配された。
美術学校から帰る途中。「大丈夫か?」と声をかけてくれたのは、
「なんかあった? 講義もずっとぼーっとしてたろ? 真面目なお前にしちゃ珍しいと思ってさ」
大翔は明るいキャラで誰とでも仲良くなる。特に困っている人は放っておけない正義感の強いやつで、こうして少しでも様子がおかしいと声をかけてくる。前に一度僕が思い通りの絵が描けなくて苦しんでいる時も、相談に乗ってくれた。
「その、色々あってね」 僕は無理に笑う。
「失恋か?」 何気ない言葉にドキッとする。
「なんで?」
「そうなのか?」大翔は少し目を丸くした。
「いや、うん、似たようなものかな」 僕は道にある石ころを蹴る。石ころは横にそれて、もう蹴れない場所に転がる。
「今俺も喧嘩中」 大翔は少し大げさににっこり笑う。
「彼女と?」
「今その話だろ。ま、難しいよな、恋愛」 大翔は今度はしんみりと空を見上げている。
「転校しちゃうんだ」 誰かに聞いて欲しくて、僕はそのことを話す。いつもなら一人で抱えていた。彼女が少し僕を変えてくれたのかもしれない。
「彼女が?」
「うん」
「なるほどね、遠距離か」
遠距離。その言葉はとても冷たく感じた。
「まあ遠距離って難しいっていうけどさ、その人次第じゃん? 二人が好きならなんとかなるって」 大翔は励まそうとしてくれているのか、いつもより大げさな笑顔で僕に接してくれる。
「そうだね、頑張るよ」
「おう、俺も、頑張らないと」 僕たちはそっと拳を付き合わせた。こういうのもとってもいい。少しだけ気持ちが落ち着いた。
家に帰ると、遠距離という言葉が気になって、スマホで調べる。
遠距離 恋愛
遠距離 恋愛 失敗
遠距離 恋愛 成功
色々調べる。記事が変わるたびに一喜一憂して心が持ちそうにないので、調べるのはやめた。結局は僕と結菜の問題だ。ネットの知識よりも結菜の言葉を聞かなきゃ。
水曜日、放課後美術室に行くと、そこには結菜の姿があった。僕は一気に緊張して、心臓が飛び出そうな感覚を覚え、唾を飲み込む。彼女にもいつものあっけらかんとした表情はなく、重苦しい雰囲気に包まれていた。
「結菜、どういうこと?」回りくどい詮索をするほど、僕に余裕はなかった。いきなり本題に入る言葉をかける。
「転校することになったの」 結菜は僕と目を合わせようとしない。
「どこに?」 僕は恐る恐る聞く。
「名古屋」 それを聞いて僕は少し安心した。行けない距離ではない。
「名古屋か、それだったら、新幹線で......」 僕は慌ててスマホで路線検索をした。
「ほら、東京から2時間もかからないよ、お金はかかるけど、僕には少し貯金もあるし」 スマホを見せながら、僕は少し明るく言った。少しでも明るくしないと、どんどん底のない暗闇に落ちていきそうな気がして。
「でも、それ、大学に行くためのでしょ?」 結菜は自分の足元を見ながらそう言った。
「そうだけど、でも僕にとっては結菜に会うのもすごく大切で」 僕は一度に吐ききってしまった息を、改めて大きく吸い込む。
「だからその、今みたいに毎週、会いに行くよ。毎日連絡もする。だから、とりあえずこっち、見てよ」 僕がそういうと彼女は僕の顔を見る。泣きそうな顔、ではなかった。もっと複雑で、どこか悲しげで、どこか寂しげで、僕にはその表情の意味が分からなかった。
「悠人だけが来るのは、大変でしょ。私も、行く」彼女はぎこちなく笑った。
僕はその言葉を聞いて、安心した。まだ結菜と一緒に居られる。そう、これからも、ずっと。
そこからは少しだけ、お互い冷静に話した。彼女のお母さんが再婚するらしい。やはり、女手一人で子供4人を養っていくことに限界を感じたそうだ。結婚相談所で知り合って、そのまま意気投合してすぐ結婚に至った。そして、その新しいお父さんの仕事の関係で、家族で名古屋に行くことになったらしい。
「私は最初は、抵抗あったけど、お母さんは前より幸せそうで、だから、むしろ、嬉しかった」
彼女は昔のお母さんの苦労を思い出すかのように言った。
「そういえば、いつから行くの?」 僕は、大事なことを聞いてないと思い、慌てて聞く。
「4月から。新学期からの方が色々と馴染みやすいだろって、おとう、さんが」結菜はまだお父さんと呼ぶことに慣れていないのか、ぎこちなくその言葉を使う。
「そっか、じゃああと少しだね」
「そうだね」
✳︎ ✳︎ ✳︎
それからの日々は逆にあっという間だった。この短い間に、時間の単位が変わってしまったんじゃないかと思える。待ち遠しかったりしたと思えば、あっという間だったり......
僕は少し多めにバイトに入るようになった。名古屋までの往復代は、高校生にとってはとんでもない額だった。それでも僕は結菜に会いに行く気持ちは揺るがなかった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
東京駅は相変わらず大勢の人で溢れていた。
もう美術学校は春講習が始まっていたけれど、この日は休んだ。
「じゃあ、向こうでも頑張ってね」 僕は結菜の手を握りながら、しっかり彼女の目を見つめる。
「うん」 彼女が少しだけ繋いだ手に力を込めたのが僕の手に伝わり、僕は嬉しくなる。
「僕が行くまでに、といっても、あと少ししたら行くけど、名古屋の観光案内できるようになっておいてね」 僕は冗談めかして言う。
「わかった」 彼女はにかっと笑った。久々に彼女の笑顔を見れた気がした。
電車のアナウンスがホームに響き渡る。
「もう行かないと」
「そうだね」
二人は手を離す。
僕は彼女が見えなくなるまで手を振って、そして彼女が見えなくなっても、少し手を振っていた。
帰り道に目の前をひらひらと落ちていくものが目に入り、ふと上を見上げると、桜が少しだけ咲いている。もうそんな季節か。結菜と会う頃には、桜は満開だろうか。そんなことを考えながら、僕は道を歩いた。
家に帰ると、通知音が鳴る。結菜かな、そう思って画面を開くと大翔の文字が見える。少しがっかりしたけど、それはそれで大翔に失礼だと思ってすぐに既読をつける。
「元気か?」 これだけ。大翔らしいなとクスッと笑う。
「ぼちぼち」
「そうか、ならいいんだ。講習、ちゃんと来いよ」
「明日からは、ちゃんと行くよ、今日はたまたま」
そのあと、ヘンテコなスタンプが送られてきた。ドロドロしたコミカルお化けが、両手を上げて叫んでいる。よく分からないけど、少し元気が出た。
✳︎ ✳︎ ✳︎
新学期。
クラスが変わった。
クラス表を見ると、知らない人ばかりだった。見たことのある名前を見つけたと思ったら、あの茅野さんで、かなり憂鬱になったけど、それでも新学期は少しワクワクしていた。結菜に会いに行く週でもあったからかもしれない。
登校していると、茅野さんとばったり会う。茅野さんは僕を見つけると露骨に嫌な顔をした。僕も露骨に嫌な顔をしてしまった。周りには誰もいなかったので、二人だけなのが気まずさを助長させる。二人して無言のまま、少し離れて歩く。
「何よ」 茅野さんはちらちらと僕に見られていることに気がついて、露骨に不機嫌さが伝わるように僕に言う。
「いや、何も」 僕はなるべく茅野さんを怒らせないように気を使う。
「ごめんね」 僕はその言葉を聞いて、一瞬茅野さんが僕に言った言葉だとは思わなかった。僕がしばらく黙っていると、茅野さんはまた話しだした。
「あの時、私も好きな人に振られてたの。それで、ちょっとイライラしててさ、勢い余って友達にトーク画面見せたら、すごい勢いで拡散しちゃって」
勢い余って見せるものでもないと思ったが、自分でも抑えきれない感情を僕はもう知ってる。分からなくもなかった。
「収拾付かなくなっちゃって、私も荒んでたから、少しチャラい人ともその時つるんでたし、忘れたかったの。でも宮寺さんにぶたれて思った、私何してるんだろうって......」
ずっと心に留めていたものを吐きだすかのように次々と発せられる茅野さんの言葉を、ただ聞く。
「そっか」 改めて茅野さんの髪を見ると、黒髪に戻っている。あの時は明るい茶髪だったのを思い出す。
「今更許してもらおうなんて、都合いいいかな?」 茅野さんは僕の顔を伺うように言う。
「いいよ、もう怒ってないし。それに新しいクラスで茅野さんくらいしか知ってる人がいなくて、むしろ話しかけてくれてよかったよ」僕は笑顔でそう言った。
茅野さんはホッとしたように息を吐く。
「あの彼氏とはまだ付き合ってるの?」 僕はふと気になって聞く。茅野さんのSNSはブロックしていた。見たくなかったから。
「もうとっくに別れた、最低な彼氏だったわ、私も最低だったけど」 茅野さんは腕を組んで眉間にしわを寄せている。
「て言うか、乙坂くん、結構男前なんだね。あの時宮寺さんをかばう姿、かっこよかったよ」と茅野さんにいきなりかっこいいと言われ、僕は少し照れくさくなった。
「とにかくよかった、仲直りできて、といっても、一方的な嫌がらせだったけどね」 僕はあえて分かりやすく嫌味っぽく言う。
「だからごめんってば」 へへっと彼女は少し嬉しそうに笑うと、僕に軽く手を振って小走りで徐々に僕との距離は遠くなり、最後には見えなくなった。時計を見るとまだ登校時間まで時間があった。何を急いでいるんだろう。僕はスマホを取り出して、茅野さんのブロックを解除した。今思うと、ブロックはちょっと女々しかったかな。きちんと話せば分かり合えるし、人も許せるようになる。
彼女と会って僕は本当に変わった気がした。
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