第3話

 店を開ける前に多感で神経質な自分が一番働いている頃だった。

客は一日で三百人も入る店で、出入りの珈琲卸し会社が、「お宅の仕入れ代金は、銀座の資生堂パーラーを上回る程になってきた」と嬉しいことを言ってくれた。

私はその話に内心狂喜していたのである。

「不眠症のようなもの」はまだ続いていた。夜になって布団に入ってさあ眠ろうと思うと、その途端逆に目が覚醒してしまう。

どれ程努力しても眠ることができない。眠ろうと意識すればするほど逆に目が覚めてくる。酒や眠剤を飲んでも眠れない。

私の意識はありありと覚醒し、じっと私を見守っている。私の肉体であり、同時に私は眠りの縁のようなものを指の先に僅かに感じる。

でも薄い壁に隔てられて、私の肉体はふらふらと薄明かりの中を漂うだけだった。

そんな状態の中で、私は昼間に五十食のパスタを作るのだった。十二時から二時までで私の神経はくたくたになってしまう。

 昼の間、私の頭は常に膜がかかったように霞んでいる。それは高血圧のせいだ。物事の正確な距離や質量が感触を見定めることができない。

そして柔らかな欠落が一定の間隔を置いて、波のように押し寄せてくる。電車のシートや、教室の机や、あるいは夕食の席で、私は知らないうちにまどろむ。

意識がいつしか私の体から離れていく。世界が音もなく揺らぐ。いろんな物を床に落としてしまう。意識はそのまま突っ伏して眠っていたいと思う。でも駄目だ。

覚醒がいつも私の側にいる。私はその冷ややかな影を感じ続ける。私自身の影だ。

奇妙だ、と私はまどろみながら思う。私はその自身の影の内側にいる。私はその鈍い無感覚な薄闇の中で歩き、食事をし、話を交わす。

誰一人としてその異変に気付かなかった。

 私は終始まどろみつつ生きていた。私の周りで、私の中で、あらゆるものが鈍く重く、どんより濁っていた。

自分がこの世界に生きて存在しているという状況そのものが、不確かな厳格のように感じられた。世界の果てにある、見たことも聞いたこともない土地に、私の肉体はそこで私の意識と永遠に離れ離れになってしまうのだ。

だから私は何かにしっかりとしがみついていたかった。

 でも周りを見渡しても、しがみつけそうなものは一つとして見当たらなかった。

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