エピローグ
鹿野習作
エピローグ
卒業証書を片手に、誰もいない廊下を歩く。階段を上れば、三年二組の教室はすぐそこだ。
三年二組は僕が一年間を過ごした教室だ。扉を開けて中をのぞくと、思った通り、ひとりの女の子がぼんやりと外を眺めていた。黒のショートヘアに細い肩。後姿しか見えないけれど、間違いなく佐倉だ。
「何してるの、こんなとこで」
後ろから声をかけた。佐倉は僕を一瞥し、すぐにふいと顔を背けた。
「別に何も。けど、強いて言うなら、いろんなことを思い返してたの」
佐倉の口元が少し緩んでいた。珍しく笑っているらしい。出会った頃ならば見逃していたであろう小さな変化。三年かけて、ようやく彼女の表情を少し読み取れるようになった。外側に出ないだけで内心はけっこう色彩豊かな人なのだ。
僕と佐倉は文芸部の仲間だった。仲間という表現は僕たちには似合わないが、他に適切な言葉は浮かばない。とりあえず友達でないことは確かだ。今日こうして話をしようと思ったことさえほんの気まぐれにすぎない。
「浅木こそ、どうしたの?」
「佐倉を探してたんだよ」
「嘘」
「ホント。ま、最後だしね」
空いている机に体重を預ける。前を向くと、丁寧にメッセージとイラストが書き込まれた黒板が目に入った。力作だ。実は僕も下手なりに少しだけ手を入れた。黒板の隅で寝転がっている、脈絡のない猫のイラストがそうだ。幸い、統一感のない騒々しさの中では悪目立ちしていなかった。
ぐるりと辺りを見回す。三年二組の教室はいつもと違ってどこかよそよそしい。今日で見納めだとわかっているけど、じっくりと眺める気にはなれなかった。
そっと隣に視線をやると、佐倉がスマホを操作していた。彼女は普段、滅多にスマホを使わない。部室ではいつも本を読んでいた。これは早く帰れという意思表示だろうか。
静かに傷ついている僕にスマホの画面が向けられた。
「この日、暇?」
画面に映っているのは映画の公開スケジュールだ。次の金曜日、十四時からの回。最近話題のアクション映画だった。
「卒業だしそりゃ暇だけど。一緒に行こうってこと?」
「そ。なら一時に駅前集合ね」
「どうしたの急に」
外で佐倉と遊んだことは一度もない。こうも唐突だと意図を勘ぐってしまう。
「ちょっと意地悪してやろうと思って」
佐倉はスマホをポケットに戻し、いつも通りの平坦な口調で言った。
映画と意地悪が僕の中でうまく繋がらず、はてと首をかしげる。アクション映画は嫌いではない。
「最後だなんて言わないでよ。これでも多少は寂しいと思ったりするんだから」
ひとりごとみたいな言い方だった。それを聞いて、そっと表面を撫で、慎重に咀嚼した末、ようやく腑に落ちた。僕の何気ない一言を佐倉は『会うのが最後』という意味に捉えたらしい。深く考えて使ったわけではなく、僕の感覚だと『高校最後の日』ぐらいの意味合いしかなかった。佐倉が寂しがる様子なんて想像もつかないし、まるで冗談みたいだけど、彼女の言葉は不思議なほどあっさりと飲み込めた。たぶん僕も同じ気持ちなのだ。
合点がいくと同時に、でもやっぱり最後ではないかとも感じた。僕と佐倉は別の大学に進学するし、お互い出不精だし。会おうと思えばいつでも会えるのかもしれないが、裏を返せば会おうと思わない限りは会えなくなるのだ。会おうと思うまでもなく毎日顔を合わせていた日々とは違う。
つらつら考えながら、彼女との別れを惜しんでいる自分に気がついて可笑しくなった。部活引退から半年、同じクラスに居ながらろくに会話もしなかったのに。
照れ隠しをかねてひとつ尋ねる。
「佐倉は大学で文芸サークル入るの?」
「たぶんね。浅木も入るでしょ」
確信している、といった様子だ。実際そうなるだろう。読書も創作も一人で完結可能な趣味だけど、高校での活動は楽しかった。もう一度ああいうことをやってみたい。
僕たちが引退したのは九月、文化祭の翌日だ。その日もって文芸部は正式に活動休止となった。僕たちのひとつ上は四人部員がいたけど、今年の部員は僕たち二人だけで、後輩はゼロ。部員がいなくなったのだから活動できるはずがない。文芸部はそれなりに歴史ある部だそうで、部誌の保存やら何やらで廃部ではなく休部扱いになるらしい。顧問の吉崎先生は僕たちよりよっぽど休部を残念がっていたから、そのうち復活するはずだ。僕たちの知らないところで、僕たちの知らない後輩によって。
三年前、先輩に誘われて文芸部に入った日のことを思い出す。そこには吉崎先生がいて、先輩たちがいて、一足先に入部していた佐倉がいた。あの日の文芸部はもうない。けれどそれを悲しいことだとは思わなかった。先輩たちはどこかで楽しくやっているだろうし、僕も佐倉もとりあえず元気だ。だったら十分。
黙っているといろんなことを回顧してしまう。まるで走馬灯みたいだ。柄にもなく湿っぽくなりそうで、努めて明るい声を出した。
「学園祭には遊びに行くよ。書き溜めといて」
僕は投稿サイトに作品をあげているが、佐倉はweb上に作品をあげないので、彼女の書いたものを読むには直々に出向くしかない。僕は彼女のファンだから、その時ぐらいは足をのばそうと思う。
「仕方ないな」
佐倉は微笑んでいるように見えた。
僕は机から尻を離し、制服の裾を整える。本当はもう少しくだらない話をして、あわよくば誰も欲しがらない僕の第二ボタンを押しつけようとも思っていたが、そんな気はとうに失せていた。
僕は帰ると告げ、佐倉は右手をひらひらと振った。彼女は帰るとも残るとも言わなかったが、立ち上がるつもりはなさそうだ。
別れの言葉を考える。上手い言い回しは思いつかない。かわりに出たのはごくありきたりな別れの挨拶だった。
「じゃあ、またどこかで。三年間楽しかったよ」
「じゃあね。私も楽しかったよ。それなりに」
一言余計だ。そこはとっても楽しかったでいいだろう。まあ、彼女なりの照れ隠しということにしておこう。
実際は「またどこか」なんてことはなく、金曜日になったら映画に行くわけだけど。
僕は振り返らずに教室を出た。一人で廊下を歩く。金曜日はすぐそこだ。
エピローグ 鹿野習作 @shika_no_syusaku
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