第6話「忌苑の偽姫」


 湖には、もう船の姿は見えなかった。漁は朝のうちに終わってしまうのだろうか。村の中はひっそりとして子供の姿しか見えなかったが、湖畔の作業場には人がいて箱いっぱいの魚を開いて塩干しにする作業が行われていた。

 俺とヤーンスが近づいていくと漁師たちは警戒したようだが、一行の半分以上が女性だとわかるとまた黙々と作業にかかった。

「それは、どちらへ運んで売るのですか? リンツヒラーですか?」

 タァンドルシアが話しかけると、漁師は当惑したように彼女を見上げて首を振った。

「わざわざそんな所へ持って行かねぇよ、全部ハラームデンに持って行くんでさぁ。あそこじゃ買ってくれるからよ」

「バイトンメイロへは?」

「山の方に持って行っても魚を食う奴はいねえ。それにあっちに行く街道は危ないしよ」

「確かに……人はどなたも通っていませんね」

「あんたら……あっちへ行きなさるのか?」

「はい。リンツヒラーへ」

「危ねえよ。剣士さんが二人いなさっても、剣じゃどうにもならねえ」

「化け物か?」

 俺が聞くと、漁師は怯えたように首を振った。

「ガー(化け物)も出ますが、デイデルキュアンの幽霊が出るんでさぁ。あすこにあるお屋敷の裏に立って、湖を睨んでなさるんで。そいつを何人もが見てまさぁ」

「あの屋敷があった頃は、この辺りはもっと栄えていたのか?」

 ヤーンスが聞くと、漁師は何度も頷いた。

「そりゃぁもう……この村だって、お屋敷の前にあった大きな町と繋がっていましたんでさぁ。リンツの奴らが攻めてきて、お館様は一族ぜんぶ殺されて、町も何もかも焼かれちまいました。今はもう、ガー(化け物)しかいません……」

「済まん……邪魔をした」

村を過ぎると、とたんに街道の状態が悪くなった。左右の草刈りが行われていない、路面に石が露出したままになっている。あまり使われていないのだ。

「ハイデン州からこちらへは、ほとんど通行がないんだな」

「馬車は時々通っているようだが……」

 その時、俺とヤーンスは同時に右手の林に注意を向けた。何も見えないが、何かの気配があったのだ。

 ヤーンスが手で合図して全員を止めた。俺は周囲の気配を探りながら道の反対側まで退って、全員を視界に収める位置を確保した。襲撃が来るとしたら、どこか。

「何ですか?」

 タァンドルシアが緊張した声を出したので、ヴェルイシアが手で制した。しばらくの間、全員が息を殺して立ちすくんでいた。

「消えたな……何だったんだ?」

 ヤーンスが息を吐いて言った。

「誰かが……いたのですか?」

 タァンドルシアが声をひそめて聞いた。

「気配があった、一瞬だけはっきり感じたんだ。とにかく先に進もう」

 離宮に、ではなく元デイデルキュアン家の屋敷に近づくにつれて、俺は気が重くなってきた。俺の場合は裏庭にいらっしゃる目には見えない人のためだが、他の何人かもそれぞれの事情で足は重いに違いない。

 そしてついに屋敷の正面に到着してしまった。建物だけでなく周囲にも嫌な気配が充満していて、イシュルとタナデュールまで顔色がさえなくなっていた。

「ここで、待っていてもいいぞ」

 ヤーンスがそう言ってくれたが、タァンドルシアはゆっくり首を振った。

「私は行きます、行かなくてはなりません」

 タァンドルシアが行けばヴェルイシアも付いて行く。俺一人でここに残った4人の警戒をするくらいなら、全員まとまっていた方がはるかに楽だ。

「全員で入ろう、その方が安全だ」

 俺はため息と一緒に言葉を吐き出した。

 裏庭をよく見ると、それと知っていれば埋葬が行われた場所は明らかだった。湖に近い端が一部分、不自然に小高くなっていたのだ。まさに俺が煙の剣士を目撃した位置だった。

 イシュルたちがどこかから花を摘んできて供え、全員で黙祷を捧げた。

 不意に風のような音がして、それから歌声が聞こえた。目を上げるとタァンドルシアが両手を差しのべるようにして、かん高い声で歌のように聞こえるものを唱えていた。旋律がないので歌ではないと思うが、だったら何かと聞かれても俺には答えられない。

 不思議なそれをぼーっと聞いていると、すすり泣くような声が聞こえた。タナデュールとルルッスが揃って両手で顔を覆って泣いている。イシュルは目を見開いたまま空を見上げて、ぼろぼろ涙をこぼしている。

 こんな意味も聞き取れない、歌とも言えないものでどうしてそんなに泣けるのか。

 そう訝しんでいると、俺は突然母のことを思い出した。俺が中等学校を卒業して、両親と意見が合わずに家を飛び出してもう何年顔を見ていないだろうか。そんなことを考えていたら、なぜか俺も視界がぼやけた。眼を拭った指先が濡れていた。

 気がつくと歌のようなものは終わっていた。タァンドルシアは首に懸けていた紐を探って何かを唇にあてた。

 風もないのに、どこかを風が吹き渡るような静かな音が流れた。二度、三度、それがあの笛から出ていることがわかったのはタァンドルシアが笛を唇から離した時だった。

「……今のは?」

 ヤーンスがそう聞いて、慌てたように手の甲で眼を拭った。

「シャースと言います、共用語だとただ歌の意味になってしまいますけど。鎮魂と慰霊の祈りです」

「ありがとう、タァンドルシア」

「お礼には及びません、私がやらなくてはならないことでしたから」

「君は……その、力って言うか……それは、何?」

 ヤーンスが恐る恐る聞いた。

「私は、ウードラス神の巫女でもあるのです。ジーンが付いているから、声に精霊の力が宿ります」

 何だかよくわからないが、どうやらここで普通の女性はルルッスだけらしい。

「……あ」

 俺はそのとき気がついた、この屋敷と周囲に漂っていた嫌な気配が消え失せている。屋敷に取り憑いていた無念の恨みが、タァンドルシアの唄で消えてしまったのだろうか。

これならここで夜を明かしても良いと思えるほど、雰囲気だけは爽やかになっていた。あくまで雰囲気だけだが。

「ヤーンス。移動して、野営の場所……」

 その時俺は大人数の足音を聞いた。走ってくる。

「何か、来る!」

 非常に気に入らない状態だった、とにかく全員を裏門からもう一度屋敷の中に入れた。たまたま街道を通ってどこかへ向かう軍勢だと思いたいが、まるで俺たちを待っていたように現れたのが気に入らなかった。

 そして、恐れていたことが現実になった。足音が屋敷の前で止まったのだ。

「何が来たと思う?」

 俺は小声でヤーンスに聞いた。

「東から来たよな」

 ヤーンスも小声で答えた。

「バイトンメイロか、リンツヒラーの方向だな」

 ヤーンスは頷いて苦笑いした。

「だったら、何が来ても最悪だ」

 最良な何かがあるかと考えているうちに屋敷の横を乱暴で無粋な足音がやってきた。それが裏庭で止まった。

「タァンドルシア! ここにいるのはわかっているぞ!」

 裏庭で大声が聞こえた。タァンドルシアが一瞬体を震わせた。

「あれは、ドーラタンテューカ様です」

 ヴェルイシアが言った。

「誰だ、それ?」

「ヴァルヴァンデ、二番目の兄上です」

 タァンドルシアが答えた。ハイデンの分離独立派に担がれている、女にだらしないと言う第二王子だ。

「出て……来ないんじゃ、なかったのか?」

 俺が怒りの呻きを漏らすと、ヤーンスがかすかに笑うような声で言った。

「絶対に出てこない保証はなかったさ。宰相だって脅されれば引っ込む」

「そこまでして出てきたのは、何でだ?」

 俺がそう言うとヤーンスの表情が暗くなった。

「ひとつ……あまり、考えたくない理由があるな」

 何だと聞こうとしてすぐに俺も思いついた、リンツ王の崩御だ。そう考えると腹の奥が重たくなった。その場合、リンツ国内は収拾のつかない混乱に陥る危険がある。

「たぶんこの辺りの町や村に見張りがいたんだな、お兄さんはあんたがここにいることを知っている。黙っていると踏み込まれるか火をかけられるかも知れない。出るか?」

 ヤーンスが聞くとタァンドルシアが頷いた。

「行きます」

 タァンドルシアを先頭に、俺たちは外れたドアを潜って裏庭に出た。第二王子様は少し灰色がかった馬に乗り、軽装の兵を五人伴っていた。

「あ……」

 第二王子ヴァルヴァンデを見た瞬間、俺とヤーンスは揃って声を出した。

「あいつ……見たことある」

 俺が小声で言うとヤーンスが頷いた。

「例の、村の近くで四人斬ったとき。後から来てすぐ戻って行った奴だ」

「タァンドルシア。聖遺を取り戻しに行ったそうだが、取り戻せたのか?」

 ヴァルヴァンデが馬の上から声をかけてきた。

「はい……兄上。なぜそれをご存じですか?」

「もうみんな知っているぞ。お前が突然王宮からいなくなってしまったんだからな、聖遺がなくなったことも知れてしまっている。みんな、お前が取り返しに行ったと信じている」

「そうですか……でもなぜ、私がここにいるとおわかりに?」

「ヤザーニとタフルハームが逃げたのはこっちの方向だ。お前が帰って来る時には、必ずこの辺りを通るに違いないから近くで待っていただけだ」

 俺は腹が立ってきた。何から何まで気に入らない野郎だ。

「聖遺を見せろ。私が預かる」

 タァンドルシアはヴァルヴァンデを見つめて首を振った。

「それはできません。私の手で王宮にお戻しして、父上に報告します」

「父上ならもう身罷った」

 タァンドルシアが一瞬凍り付き、よろけてヴェルイシアに支えられた。

「いつ……」

 かすれた声でタァンドルシアが聞いたが、とうていヴァルヴァンデの耳に届いたとは思えなかった。

「お隠れに……なったのは、いつでございますか?」

 代わりにヴェルイシアが聞いた。

「三日前だ。だがまだ、布告はされていない」

「なぜでございますか?」

「決まっているだろう! 王宮に聖遺がないからだ! 崩御の報と同時に8世が即位の宣誓をしれなければならないからな。聖遺がなければ宣誓式ができない」

 俺たちがイッスリマ家の軍営にいる間にリンツ7世は息を引き取っていたのだ。寝たきりでいないも同然だったから今のところ国政への影響はないが、最大の厄介事である王位継承の行方は完全に不透明になってしまった。

「こいつ、絶対持って逃げる気だな」

「ああ」

 俺とヤーンスは唇を動かさずに小声で話した。

「姫だけでも逃がすか?」

「無理だ、囲まれている」

 さっきやってきた足音は十人二十人ではなかった。屋敷の外を残りの数十人が囲んでいるのだろう。タァンドルシアだけを逃がそうとしてもまず無理だ。

「父上の……」

 タァンドルシアが何度か息をついて背を延ばした。

「私の……手で、父上の……お亡骸に聖遺を、お供えします。兄上方は、どうぞ父上のお傍で、誰が8世を、継がれるのか……ご相談、なさって、ください」

 泣きそうな声でタァンドルシアが訴えると、ヴァルヴァンデは意地の悪そうな笑顔を浮かべた。俺はこいつを馬から引きずり下ろして蹴ってやりたくなった。

「おいタァンドルシア。お前はリンツ7世をお父上なんて呼べないんだぞ」

 タァンドルシアはしばらく固まった。

「意味が……わかりません。兄上」

「俺もお前の兄じゃない。そもそもお前はシシルターリアム(第七姫)じゃないんだ!」

 タァンドルシアはまた凍り付いた。

「なぜで……ござい、ます……か」

「お前は、ヴェルドーツがスリルシアを犯してできた娘だ。父親はヴェルドーツだ! だからお前は、いま聖遺に触れる資格などない!」

 タァンドルシアが数歩後ろによろけてイシュルにぶつかった。

「うそよ。そんな……」

「嘘なものか、俺はそれを見ていたんだ。ヴェルドーツと一緒に東の白館に忍び込んで、寝室でスリルシアを犯したところを!」

 イシュルがタァンドルシアを背後から抱くようにして支えた。タァンドルシアは蒼白な顔で目を見開いて、震えている。

「だからお前はいま、王宮の中で厄介なものになってしまったのだ! 聖遺を持って帰ったところで、邪魔だと思われたらヴェルドーツか宰相に殺されるぞ! 俺と一緒に来い、そうすれば安全だ」

「……嘘つけ」

 俺は小声でヴァルヴァンデを罵った。奴の目を見ればタァンドルシアの身が安全ではないことはすぐにわかる。あれは舌なめずりして獲物を見つめる獣の目だ。

「あの野郎が……兄貴がタァンドルシアのお母さんを強姦してるの、見るだけで満足したと思うか?」

 俺はまた唇を動かさずに、ヤーンスに話しかけた。

「いや……その次に乗っかっただろうな。間違いなく」

 ヤーンスが、小声にもかかわらず怒りと不快感を漂わせる声で答えた。

「なぜ……」

 タァンドルシアの声が裏返っている、こんなことを聞かされてパニックになっているのだ。

「アージュタンテューカ様が……宰相様まで……なぜ?」

「お前がただ七番目の娘なら何でもないことだ。だがヴェルドーツがスリルシアを后にすると、お前はシシルターリアム(第七姫)でありながらアージュターリアム(第一姫)というわけのわからないものになる」

 ヴァルヴァンデは意地悪そうな笑い声を上げた。こいつへの不快感で俺は拳が震えた。

「ヴェルドーツは何が何でもスリルシアを后にしたいから、しきたりを無視してお前をアージュターリアムに据えようとするだろうが、宰相は認めないだろうな。揉めに揉めて、最後はお前なんかいなければいいということになるのだ」

 ひどい人でなしの話しだが、人の命が軽いリンドラではそれで通ってしまうのだろうか。ヤーンスと同じく、俺も腹の中が煮えてきた。

「そんな……」

 タァンドルシアの声は、息の音のように弱々しかった。

「あいつはスリスシアと結婚するためなら何でもやるぞ。お前の兄も姉も殺したように、邪魔になるものは何でも取り除く。たまたまお前は血を受けているから今まで殺されなかっただけだ」

 タァンドルシアが杖を取り落とした。目を見開いたまま、気を失ったかのようにイシュルの腕からずり落ちそうになってイシュルに引きずり上げられた。

「だからお前は王宮にいない方がいい。さあ、一緒に来い」




 ヴァルヴァンデが考えていることはもう明らかで、タァンドルシアをいたぶり尽くした後でヴェルドーツへの嫌がらせにでも使うつもりだろう。俺の中で煮えたぎっていた、こいつへの不快感が殺意に変わった。

「どうする? やべーぞ」

「ちょっと待て……考えている」

 ヤーンスが険しい表情でヴァルヴァンデを睨みながら数秒考えて、それから言った。

「あれは……タァンドルシアの兄弟じゃない」

 ヤーンスがつぶやくように言った。

「そうだな。伯父さんだ」

 俺が答えると、ヤーンスは凶悪な笑みを浮かべた。

「クソ野郎の伯父さんだ」

「ああ、クソ野郎だ」

 ヤーンスは半歩横に動いてイシュルに寄った。タァンドルシアは体の力が抜けて、イシュルに支えられてようやく立っている。

「イシュル、タァンドルシアを正気に戻せるか?」

「力押しこんで、活入れたら。たぶん」

 ヤーンスは小さく頷いた。

「頼むぞ、上手くいくかどうかは彼女次第だ」

 それから俺に体を寄せて言った。

「済まんがお前、機会見てザコを全部片付けてくれ」

「よし……でも、何やるんだ?」

「見ててくれ」

 ヤーンスはそう言って背中の荷物を降ろし、剣だけを持って庭に降りた。

「おい、馬を降りろ。このクソ野郎」

 ヤーンスにそう言われて、ヴァルヴァンデは呆気にとられた様子だった。

「何だと。お前は何物だ! 無礼……」

「無礼はお前だ! 誰の許しで俺の庭に入ってやがるんだ。このクソ野郎!」

「お前の……庭だと?」

 馬がヤーンスを嫌がって逃げようとしている。それを宥めながらヴァルヴァンデは、この超がつく無礼者にどう対処して良いのか困っている様子だった。

「私はリンツ第二王子の……」

「クソ野郎の名前なんかどうでもいい! さっさと馬を降りろ!」

「この……」

 ヴァルヴァンデが腰の剣を抜こうとしたが、その前にヤーンスの剣が空中に光の弧を描いた。ヴァルヴァンデが手元で断ち切られた手綱を呆然として見ていると、一瞬遅れて馬が竿立ちになった。

「うわあ!」

 ヴァルヴァンデは情けない声を上げて馬から放り出され、背中から地面に叩きつけられた。馬が走り出して、私兵らしい男を一人蹴り倒して行った。ヴァルヴァンデに駆け寄ろうとする兵を、俺は裏庭に飛び出して遮った。

「邪魔するんじゃねぇ!」

 まだ斬り合いを始めるつもりはなかったが、一人がわきまえずに剣を振り上げて斬りかかってきた。

「この、バカが!」

 俺は抜き打ちで下からそいつの顎から顔面まで断ち割った。そのまま片手で振り上げて、振り下ろして隣で剣を抜き放った奴を頭から胸まで斬り下げた。

ヤーンスの真似だが、あんなに素早くはできなかった。剣が重いのだ。男の体から盛大に血が噴き出して、地面で雨が降るような音を立てる。

「ひっ、きぃぃっ!」

 変な悲鳴が聞こえた。横目でそっちを見ると、タナデュールがぺたんと座り込んでいた。イシュルはタァンドルシアを抱きかかえたまま、こちらに背を向けている。

 変なかけ声で斬りかかってきた奴と二度打ち合って、もう一人横から突き入れてきた野郎の剣をかわしてその顔面を柄頭で叩き潰した。

 もう一度斬りかかってきた奴の足元に、顔面から血を吹き出している奴を投げ飛ばして躓かせた。つんのめった奴の首を切り飛ばして、地面でもがいている野郎にとどめを刺した。

 首のない体が一歩だけ前によろめいて、両手を投げ出すようにして倒れた。俺は詰めていた息を吐いて周囲を睨んだ。馬も逃げて行ったのでもう外の奴らが押し寄せてくるだろう。ヤーンスはこれをどうする気なのか。

「お前、少しは加減して斬れよ。ルルッスが気絶しちまったぞ」

 ヤーンスが無様な殴り合いでも見たような表情で言った。

「お前みたいに、上品に、できねーよ!」

 俺は剣術を極めた訳じゃなく、戦場で叩き上げた剣なのだ。ヤーンスが肩をすくめてヴァルヴァンデに向き直った。

「おい。あまり俺を待たせるな、お前にはいろいろ聞きたいことがあるんだ。早く立て!」

 ヤーンスに声をかけられて、死人のような顔色のヴァルヴァンデがよろよろと立ち上がった。目の前で部下が四人、あっという間に斬り死んでしまったのだ。だが奴は怒るどころか青ざめて震えている、どうやら実戦経験がないらしい。

 ヴァルヴァンデが情けないほどに細身の剣を抜いた。手が震えていて、ひどい無様な抜き方だった。

「よーし。まだ抜かなくてもいいけど、まあそれでいい」

 ヤーンスは剣に手もかけず、腕を組んで言った。

「ところで俺たちはな……十日ぐらい前に、バイトンメイロの近くでお前を見たんだ」

「あ……何だと?」

「お前、街道の真ん中で四人斬られたの。見なかったか?」

 ヴァルヴァンデの表情が歪んだ。

「お前らか……あの四人を殺したのは」

「ああ……あのとき、お前も馬車を追いかけて来たのか?」

 ヴァルヴァンデが剣を持ったまま、呆然と立ちすくんだ。

「お前が……あの、遣い手か?」

「そうだ、俺たちが斬った。あれはお前の部下だったのか?」

 そう言いながらヤーンスは剣を抜いてヴァルヴァンデに向けた。それだけでヴァルヴァンデは腰が引けて数歩後じさった。

「お前の部下が牧場を襲ったが、しくじって馬車を逃がした。それを追いかけていたんだな。あいつらは俺たちが馬車を見たと聞いて斬ろうとしたからな……お前はその後から悠々とやって来て、部下が殺されているのを見て腰を抜かした……違うか?」

「し……知らない!」

「何とか姫の毒殺も、そいつがやったんじゃねーのか?」

 俺が大きな声で言うと、ヴァルヴァンデは悲壮な表情で首を振った。

「知らない、知らない! 毒は俺じゃない! シントラハーネがヴェルドーツに告げ口しそうだからまずいと教えたけど、やったのは俺じゃない!」

「毒盛ったのは自分じゃないって言うのか? まさかヤザーニがやったとか言うんじゃないだろうな!」

 ヤーンスが一歩迫ると、ヴァルヴァンデは尻餅をついた。

「そ、そうだ……ヤザーニだ、ヤザーニだ。ヤザーニが押さえつけて、タフルハームが、むりやり、飲ませた」

 本当かどうかは別として、あまりにもありがちな話しで驚きもしなかった。

「本当に……どぉーしょもねぇ一族だな……」

 ヤーンスが深いため息をつきながら言った。

「もう何となくわかっちまったけど……お前があの、聖遺だかをヤザーニに持ち出せたのか? それでヤザーニを殺して罪を全部押しつけて、お前が持ち逃げする気だったんだろ?」

 ヴァルヴァンデは否定も肯定もしなかった。尻餅をついたまま引きつった顔でヤーンスに剣を向けていた。

「まあいい……もう、そんな話しは聞くのも面倒だ。いいか、俺の名はヤーンス・テュダル・デイデルキュアンだ」

 そう聞かされても、ヴァルヴァンデは座りこんだまま虚ろな表情でふらふらと剣を構えているだけだった。

「デイデルキュアン家は……」

 ヴァルヴァンデが反応するまでに少々時間がかかった。落馬と斬り合いを見たのと、自分の犯罪を指摘されて麻痺してしまったのだろうか。

「滅びたはずだ」

「俺を除いてな……おい、いい加減立て!」

 ヴァルヴァンデがぎくしゃくと立ち上がると、ヤーンスは襟元から鎖を引き出してデイデルキュアン家のメダユーをヴァルヴァンデに見せた。

「名は言えないが、俺が間違いなくデイデルキュアン家の者だと認めた人たちもいる。そこでだ……いいかクソ野郎。お前はデイデルキュアンの屋敷に許しもなく入ってきたリンツの人間だ」

「当り前だ、私は……」

「うるせえ! 黙って聞け!」

 ヤーンスに一喝されて、ヴァルヴァンデは剣を構えたまままた一歩退いた。

「名誉を汚されたデイデルキュアン家の者として、俺はお前に決闘を申し込む」

「決……闘……?」

「イシュル! 姫に活入れろ!」

「はいっ!」

 イシュルは目を閉じて大きく息を吸い込み、両腕でタァンドルシアの体を強く抱いた。うなだれていたタァンドルシアが頭を起して驚いたように目を見開いた、そして顔に赤みが差した。

「姫様、息吐いて!」

 そう言うとイシュルはタァンドルシアの体を押して放し、平手でその背中を思い切り叩いた。もの凄い音がした。

「ひゅうっ!」

 タァンドルシアが体をのけ反らせ、音を立てて息を吸った。顔が真っ赤になった。それを見てヤーンスが頷き、右手を頭上に掲げた。

「タァンドルシア・イッスリマ! ウードラス神の巫女であるあんたが証人だ! 俺はいまデイデルキュアン家の者として、先祖の無念を晴らし汚された名誉を取り戻す! これは俺個人の恨みではなく、罪なく命を奪われた者への手向けだ!」

 タァンドルシアが凍り付いた、左右の肩にヴェルイシアとイシュルが手を置いた。

「決闘を……認めます! 心正しき者に、ウードラス神のご加護あれ!」

 少し震えてはいるが、タァンドルシアの細身から出たとは思えない素晴らしく通る声だった。精霊の力が宿っているとはこう言うことなのか。

俺はようやくヤーンスが始めた芝居の意味がわかった。シシリターリアムを証人にして、この場を公式の決闘にしてしまえば誰も手は出せない。そしてヴァルヴァンデ自身を含めて、ここでタァンドルシアの秘密を聞いた奴らは全員死ぬのだ。

「さあ来い! ヴァルヴァンデ! だがお前は、あまりにも情けない野郎だから俺の剣はもったいない。抜かずに相手してやる!」

 そこまで舐めたことを言われ、ヴァルヴァンデの顔が真っ赤になった。悲鳴のような情けない声を出して斬りかかり、ことごとくヤーンスにかわされた。三度目に足をすくわれてヴァルヴァンデは無様に顔面から地面に突っ込んだ。

「おい、なにやってる。俺は一歩も動いてないぞ」

 ヤーンスは両手をだらんと下ろしたままだった。俺はその様子と、外からなだれ込んでくるはずの加勢を気にしていた。

だが、なぜか誰も来ない。気味が悪い。

「外の奴らが来ちまう! 早く終わらせろ!」

 俺はじれったくなって思わず叫んだ。『わかった』と言うようにヤーンスがちょっと手を動かした。

「遊んでるんじゃねぇぞ! いい加減に本気出せ!」

 鼻血と涙を垂らしながらヴァルヴァンデは起き上がり、手から離れてしまった剣を拾い上げた。そして変な声を上げて振りかぶり、ヤーンスに切りつけた。

 ヤーンスは相変わらず一歩も動かず、へろへろと振り下ろされた剣をヴァルヴァンデの手からもぎ取った。そして刃を持って地面に投げつけ、ヴァルヴァンデに足払いをかけた。

 ヤーンスが投げた剣は刀身を上に向けて地面に突き刺さり、その上にヴァルヴァンデが勢いよく倒れ込んだ。ほんの一秒に満たない間だった。

いくつもの悲鳴が重なった。うつぶせに倒れたヴァルヴァンデの背中から、血にまみれた刀身が突き出している。

 ちゃんと切れる剣であったことがヴァルヴァンデにとっては幸いだった、あまり痛い思いをしないで死ねただろう。ヤーンスがタァンドルシアを向いて片膝をつき、右手を地面に置いて頭を下げた。

「見届け……ました、ヤーンス・テュダル・デイデルキュアン。あなたに、ウードラス神の祝福が、あらんことを」

 震える声でタァンドルシアが言った。

「おい……ところで。何で、誰も来ないんだ?」

 俺はさっきからそればかりが気になっていた。外の連中が来たら、ヴァルヴァンデは正式な決闘に敗れて死んだとタァンドルシアに宣言をしてもらう予定だったのだ。誰も来ないなんて予想していなかった。

「さあ……外で何かあったのか?」

 気絶しているタナデュールとルルッスを引き起こしてイシュルが力を注入して、何とか動ける状態にした。俺も幽霊を見た時にイシュルに力を貰ったが、あの能力は本物だ。

 全員でそろそろと正面に回って街道の様子を窺った、なぜか誰もいない。

「あの足音……何だったんだ?」

 俺が呆然とつぶやいたとき、木の陰から人がわき出した。それまで気配もなかった場所から黒っぽい服を着た男が三人、ほとんど音もなく道の上に出てきた。

「みんな、退がって。シド、後ろ」

 ヤーンスが低い声で指示を出して、柄に手をかけた。

「敵じゃありません」

 ヴェルイシアが言った。その三人は、タァンドルシアに向かって片膝をつき頭を下げた。

「この人たちは、イッスリマ軍の山岳兵団です」

 そんなものは聞いたことがなかった。三人とも同じ灰色の上着に黒い革のベストを着て、短めの剣を背中に背負っている。ようやく気がついた、ヴェルイシアが着ている革のベストと同じ物だった。

 真ん中にいる、指揮官と思われる男が顔を上げた。

「大殿の命により、シシリターリアム様の道筋を警護いたしておりました」

「ありがとう……ございます」

 タァンドルシアが戸惑ったように答えた。俺たちにはこんな護衛がひっそりと付いていたのだ。ヴェルイシアが数歩前に出で直立すると、指揮官の男が立ち上がりヴェルイシアに顔を向けて小さく頷いた。

「ご迷惑とは存じますが引き続き警護を続けます。この場は私どもが取り片付けますので、どうぞお先へお進みください」

 指揮官がタァンドルシアに言って、小さく頭を下げた。

「よろしく……お願い、いたします」

「何人、付いているんだ?」

 俺は思わず聞いていた。ヴァルヴァンデの手下集団をこの三人だけで片付けたとは思えない。

「総勢は五十人、姫様の周囲には常に二十人ほどが付いております」

 そう答えると、三人は再び音もなく林の中に消えた。

「怖ええな……」

 俺は思わずため息をついて言った。

「夜に、あんな部隊に襲われたら助からないな」

 ヤーンスも首を振りながら言った。

「ヴェルイシア、知ってたの?」

 タァンドルシアが聞くと、ヴェルイシアが頷いた。

「はい……他の人が見ても気付きませんが、合図がありました」

 恐らく、木の枝などを使ったさりげない目印なのだろう。

「あの隊長、お父様じゃないの?」

 タァンドルシアに言われて、ヴェルイシアが気まずそうな表情になった。

「……そうです」

 俺は道の上を見回した。何十人いたのかわからないが、ヴァルヴァンデが連れてきた手勢は痕跡も残さず消されてしまったようだ。背筋が寒くなった。

「あの軍団が道筋を掃除してくれるなら何の危険もない。最短距離を行こう」

 ヤーンスが言った。人鬼に占拠された村を避けて森の中を歩く必要もなかった、全員が緊張から解き放たれて順調に無人の街道を進んだ。ただ、タァンドルシアのことだけが皆の口を重くしていた。

 陽が低くなった頃に野営場所を決め、手分けして薪を集めた。盛大に火を焚こうが何をしようが危険はないので気は楽だった。見張りがいらないのが一番ありがたい。

 久しぶりにルルッスのスープを食べ、漁師村で貰った干し魚を試してみた。ルルッスがハーブを振りかけて焼いてくれたそれは、臭みもなくて悪くなかった。

「魚は、骨もよく炙って食べた方がいいですよ」

 イシュルが実を食べた残りを火にかざしながら言った。

「骨? おいしいの?」

 タナデュールは魚が苦手なのか、骨に身が残りまくったひどい食べ方になっている。

「味もいいけど栄養素。女性の体には必要なの」

 タァンドルシアも、火に投げ入れようとしていた骨を火にかざしている。

「それはイシュルがぁ、でかくて食い物たくさん要るからじゃないのぉ?」

「ターナはそーゆうの食べないから背が伸びないの!」

 イシュルとタナデュールは仲が良いのか悪いのか、話だけ聞いているとさっぱりわからない。

 この旅でこんなに和やかな野営は初めてだった。だがみんな、無理にはしゃいでいるのだと俺にはわかった。

 タァンドルシアの表情はひどく虚ろでほとんど口も利かない、『もう死にたい』と思っているのかも知れない。

 俺はふと気がついて、ずっと手をつけられずにいた剣の研ぎを始めた。湖畔で拾った石で、鈍ってしまった刃を研ぎ出すのだ。嫌な音がするので石を細かく動かして、なるべく音を立てないように研いだ。

「その剣は、何年……使っているのですか?」

 ふいにヴェルイシアが聞いてきた。

「これは公社の装備係で貸し出してくれるやつ。ヤーンスみたいに自分の剣を持ってる人もいるけど、ほとんど支給品を使う。自分で持ったら保管が面倒だからね」

「自分で研ぎに出すとバカ高いしな」

 ヤーンスが言った。

「誰それの剣と、決まっているのですか?」

 ヴェルイシアに聞かれて、俺は首を振った。

「決まってない。でもたまに同じ剣にあたると、『ああこいつか』ってわかる」

「どこで?」

 タナデュールが聞いた。

「重心とか振ったときの感じとか、それぞれちょっと癖がある剣は持ったらすぐわかる。もの凄く人を斬った剣もわかる」

「どう……わかるのですか?」

 ヴェルイシアが何となく不審そうに聞いた。

「そんな剣が回ってきた時は、決まってきっつい戦闘に巻き込まれるんだ。そしてやたらに敵を斬るはめになる……きっと剣が呼ぶんだろうな」




 夜中に気配で目が覚めた。誰かが静かに起き上がってどこかへ歩いて行く、熾火の明かりでそれがタァンドルシアだとわかった。すぐに気配も音もなくヴェルイシアが体を起して、タァンドルシアを追って姿を消した。

 ヴェルイシアが一緒なら危険はないので放っておこうと思ったが、誰かが動いた気配で俺はまた目を開けた。ヤーンスだ。

 ヴェルイシアと同じく気配を消して、タァンドルシアたちが消えた方向に歩いて行く。無視して寝ようと思ったが、どうしても気になって俺も体を起した。

 足音を忍ばせて歩いて行くと、木立が切れたあたりに人影がふたつ並んで腰を下ろしている。タァンドルシアとヤーンスだと星の明かりでわかった。

 そこから少し先は街道で、左からずっと登ってきたのだ。明るいうちは遠くにまだヴェルミエ湖が見えていたが、今は闇に沈んでいる。

 それを見ながら二人は何を話しているのだろうか。完全に余計なことだが、これは護衛だと自分に言い聞かせてその場でしゃがみこんだ。

 数秒して、俺はすぐ近くに人の熱を感じて呼吸が止まった。体が触れるほどの傍に、俺と同じようにしてヴェルイシアがしゃがみ込んでいたのだ。それまで全く気がつかなかった。

「何を……話して、いるのかな?」

 気配を立てないように、ほとんど息を吐かずに言った。

「知りません」

 微かなヴェルイシアの声が返ってきた。ヤーンスはタァンドルシアと一フィート(三十センチ)ほど間をおいて、ぼそぼそと何か話している。言葉までは聞き取れない。

「ええ……」

 タァンドルシアの小さな声は聞き取れた。ヤーンスの邪魔をしないように、気配を悟られないために呼吸を思い切り遅くした。

 呼吸を抑えるために集中すると、ふいに何か濃厚な匂いに気がついた。植物の匂いとは全然違う。何だろうと考えているうち、その正体に気がついて俺は呼吸が乱れた。匂いの元はヴェルイシアしかなかった。

 それまでヴェルイシアは『女の姿をした何か』としか思っていなかったが、いま感じているのはまさに女性の匂いだった。訓練で気配は消せても肌の匂いは消せないらしい。

 一度それに気がついてしまうと意識から追い払うのは難しかった、脈が強く速くなって、呼吸は浅くなってしまった。俺の体の奥で何かが激しく疼いている。

『まずい……』

 俺の気が完全に乱れた。それがヴェルイシアにも伝わったらしい、ヴェルイシアの気配まで乱れている。俺は姿勢を変えず、静かに退がってその場を離れた。と言うより逃げ出した。


 翌朝パンとお茶の朝食を済ませると、野営の痕跡を念入りに消して荷物をまとめた。そんなことは不要だとわかってはいるが、山岳兵団がどこかで見ていると思うと下手な仕事はできなかった。

 荷物を担いで立ち上がったときに、ヴェルイシアと目が合ってしまった。ヴェルイシアが一瞬表情を強張らせて横を向いた。夕べのことで怒らせてしまったのかと思ったが、ヴェルイシアは一瞬だけ窺うような目で俺を見た。

「どうしたの?」

「いえ……」

 タァンドルシアに聞かれて慌てている様子だったが、ヴェルイシアの顔がはっきりと赤くなっていた。

「お前……」

 街道に出て歩き始めたところで、ヤーンスが小声で俺に言った。

「俺たちの後ろで何やってた?」

 やはりヤーンスには気付かれていた。

「何も……警戒、してたんだよ」

 まさかヴェルイシアの匂いで発情したとは言えなかった。

「本当かよ」

「あそこで……なにがやれるって、思うんだよ?」

「ヴェルイシアがガタガタになってるじゃないか」

「あ?」

 思わず後ろを振り返ると、またヴェルイシアと目が合ってしまった。ヴェルイシアが目を見開いて、慌てて横を向いた。俺まで何となく顔が熱くなった。

 もの凄く気まずい思いを引きずりながらいつまでも続く上り坂を歩き、太陽が頭上に来る前に『例の村』が見えた。コムスデという名前だったか。

「たぶん……山岳兵団が先に行って掃除してるよな?」

「連中の手にかかったらあっと言う間だろうな」

 何しろ武装していたはずの数十人を音もなく片付けてしまったのだ。それでも念のために俺が偵察に出た。

 はたして村は、最初から誰もいなかったかのように無人だった。そこで昼食と休憩をとることにしたのだが、イシュルとタナデュールは慌ただしく走り回って村の中を調べ始めた。

「リンツヒラーが近くなったら、アデルバスとルルッスは先に商館に戻ってくれ。待機する場所は後で決める、何か異常が起こっていたら知らせてくれ。何もなければ夜まで待って、様子を見ながら分かれて商館に入る」

 ヤーンスがこの先のことを話し始めた。タァンドルシアが王宮へ戻る、それはこの旅の終わりであるはずだった。それなのに、なぜか最も危険な部分になってしまった。

「ここの川、飲まないで!」

 イシュルがそれだけ言ってまた走って行った。この川も汚染されているらしい。

「タァンドルシアが王宮に戻るのは商館で状況を確認してからだ、場合によっては何日か待って貰うことになるかも知れない」

 ヤーンスが言うと、タァンドルシアは少しだけ考えてから頷いた。

「おまかせします」

 リンツ王が崩御して、ハイデン州分離独立派が担ごうとしていた第2王子ヴァルヴァンデは死んだ。だが奴が死んだことは、俺たちと山岳兵団以外誰も知らない。

「すると……どうなるんだ?」

 俺はうっかり言葉に出してしまった。

「何がだ?」

 ヤーンスに聞かれた。

「第二王子はどこかに消えちまった。これって相当まずいことだよな」

「そうですね」

 タァンドルシアがお茶のカップを両手で抱えながら答えた。

「いつ王宮を出られたのかわかりませんが、もう行方を捜し始めているかもしれません」

「あいつ……ああ、ヴァルヴァンデは。王宮に戻る気がなかったんじゃないか?」

「え?」

「ああ……そうだな」

 俺が言ったことをタァンドルシアは聞き返したが、ヤーンスは気がついた。

「俺たちは……ヴァルヴァンデがあんたと宝物を持ち逃げする気だったとしか思えないんだ。持ち逃げするなら王宮には戻るはずがない」

「ハイデンの、自分を担いでいる連中のところへ行くつもりだった」

 ヤーンスが言ったことに俺も同意だったが、この話を続けることには抵抗があった。タァンドルシアの精神に余計な負担がかかる。

 突然、ヴェルイシアが立ち上がった。

「ここを出て、隠れましょう!」

 その声が緊張していた。

「何だ?」

「いま合図がありました。何か来るようです」

 俺たちには何も見えなかったし聞こえなかったが、たぶん山岳兵団の合図があったのだろう。大急ぎで火を消して、燃えさしを集めて川に捨てた。イシュルとタナデュールを呼び戻し、村の中に残った足跡などをできるだけ消してから小川に沿って移動した。

 林の中に入り込んで村の監視を始めると、まもなく街道を四人の兵士がやって来て慎重に村を覗いて行った。誰もいないことを確認したのだろう、数人が街道を戻って行くとしばらくして騎馬を先頭にして旗を掲げた軍団が街道をやってきた。

「あれはヴェルドーツ殿下と、アトラミケル殿下です」

ヴェルイシアが言った。

「第一王子と第三王子までお出ましか……」

 王子たちの一行は村の中に入り、どうやらそこで休憩するらしい。兵たちが小屋を壊してそれで焚き火を始めている、騎乗の王子に従う兵は百人。それに荷物を乗せた駄馬隊まで伴っていた。

「至れり尽くせりのご出撃だ」

 ヤーンスが呆れたように言った。

「二人でヴァルヴァンデの捜索……なんてやらないよな」

 俺は王子たちが連れて来た兵士の数に、何となく不自然さを感じて言った。

「いなくなった方がありがたいのに、自分たちで探すはずがないな。タァンドルシアの捜索ならありえるが……」

「それをあの二人で協力し合って、やるのか?」

「それはない」

ヤーンスは断言した。俺もそう思う。

「だいたい、タァンドルシアを探すのに槍なんていると思うか?」

 ヤーンスに言われて、俺が感じていた不自然さが何だかわかった。いくら王子二人の出撃でも大げさすぎる、まるで戦闘に向かう部隊のようだ。

「まるで戦争しに行くみたいだな」

「そう、見えるな」

 二人でそう口にしてから、もの凄く不吉なことに重い至って目を見合わせた。

「……まさか」

「いや、あり得るぞ」

 それ以上は言葉にしたくなかった。ハイデン州に逃亡したヴァルヴァンデを追って、奴と一緒にハイデン独立派を掃討する。ハイデン独立派にどれだけの人間がいるのかそして武力を持っているかどうかはわからないが、悪くするとハイデン州で戦争になる恐れがある。

 いまリンドラ国は最悪の不安定状態なのだ。そんなことをすれば枯れ草の中で火遊びをするようなものだ。だがハイデン独立派が担ごうとしていたヴァルヴァンデはもうこの世にはいない、それだけが幸いだ。

「見栄で、派手な軍隊を率いて捜索に出たのかも知れない……」

「だったらいいな」

 何はどうあれ、王子たちが村にいたのでは俺たちは動けない。このまま様子を見るしかなかった。数時間が過ぎても一行は動き出す様子がなく、偵察隊なのか五人ほどの兵がヴェルミエ湖方面に向かった。

「戦闘行動なら、普通はここまで見張りを入れるはずだな」

「ここで触敵を想定しているかどうかだが、念のためにみんなを五十ヤード奥に」

「了解」

 みんなの移動はヴェルイシアに任せて俺たちは見張りを続けた。村の広場になった場所では幕舎(テント)の設営が始まったようだ、川の水を汲んで湯が沸かされている。川から汲んだ水をそのまま飲んでいる兵がいる。

「あいつらの目的はどうあれ。ここでやり過ごしちまえば、タァンドルシアは楽に王宮に戻れるよな」

「それだけは確かだ」

 俺が言ったことにヤーンスが同意した。

「王宮から王子たちに伝令が走るだろうから、たぶん向こうに着いて二日くらいは安全だ」

 その後のことは全くわからない。ヴェルドーツがタァンドルシアをどうするのかもわからない。

「タァンドルシアが王宮に着いちまったら任務達成だよな?」

「まあ……そうだな」

 おれが聞いたことに、何の感情もこもらない声でヤーンスが答えた。

「……いいのか?」

「何が?」

「彼女が危ないっての、わかっているだろ」

 ヤーンスの目にわずかな感情がうごめいた。

「それは……義援士の仕事じゃない」

「それじゃ第二王子斬ったのも仕事か?」

「あれは事故で説明がつく」

「お前、堂々と決闘挑んだだろ」

「うるさい」

 ヤーンスは少しの間いらいらとした様子で王子たちの野営地を睨んでいたが、やがて俺に聞いた。

「俺たちに何ができるんだよ、四人しかいないんだぞ」

 俺だって何か作戦があるわけではなかった。

「義援士としては。どう……決着がついたら、ここの国民が幸せになれるか……だろ? 一番は」

 ヤーンスは俺を見つめ、野営地を睨み、手元の草を見つめた。

「だめだ……話しがでかすぎる。現実的じゃない」

 やがて小さく首を振りながらヤーンスが言った。

「何だよ?」

「リンツ王の廃位しか考えつかない」

 もの凄い話しだった。俺たちでリンドラに革命を起すようなものだ。

「もうちょっと……穏やかなの、ないのか?」

「絶対君主じゃない王様なら、ハンマみたいな立憲君主制だ」

「じゃ、それで行こう」

「バカかお前! 俺たちだけでどうやれって言うんだよ」


 日が落ちてあたりが薄暗くなった。火を焚けば間違いなく発見されてしまうので、俺たちの食事はパンと干し肉と水だけだった。村の中では肉が焼かれて兵にまで酒が振る舞われているらしい。いい匂いと賑やかな声がこっちに漂ってくる。

 ルルッスと見張りについていると、まだ交代には早いのにヤーンスとヴェルイシアがやって来た。

「ちょっと思いついたことがある」

 ヤーンスが俺を呼んで言った。

「山岳兵団に頼んで、あいつらを例の廃鉱まで引っ張って行ってもらう」

「廃鉱って……ああ、時間稼ぎか?」

「そうだ。あのあたりを捜索していたら、それだけで二日や三日かかる」

「どうやるんだ?」

「男女の四人連れを装って、逃げます」

 ヴェルイシアが非常に簡略な説明をした。見え隠れしながら誘導するのだろう。

「でも、時間稼ぎして……何をやるんだ?」

「王宮がどんなことになっているかを見て、タァンドルシアが考える時間ができる」

「考えて……何が、できるだろう。タァンドルシアに……」

 俺の問いにヤーンスは微かに首を振った。

「それは彼女が決めることだ。ハンマへ逃げ出すか、国に残って成り行きを見守るか……」

「国に残って、危険はないのか?」

「聖遺をお持ちになっていない姫様を狙う者は、もういないと思います」

 ヴェルイシアが言った。

「だといいのだがな……」

 考えながら村を見ていると、幕舎から誰か出てきた。格好からしてヴェルドーツとアトラミケルのようだ。

 二人ともカップを手にして、湖がある方向を眺めて何か話しているようだ。ヴェルドーツが体を反らして、どうやら笑っているらしい。こちらは風下なので微かに笑い声が聞こえた。

「引き回すだけでなく、さらに何日か足止めできるかも知れません」

 ヴェルイシアが言った。

「どうやる?」

「廃鉱まで誘導して、その間に村の入り口にあった橋を落とします。精錬場にできていた堰を崩せば川が増水して、数日は村で身動きが取れなくなります」

 山岳兵団なら何でもない仕掛けなのだろう。

「可能ならやってくれ」

 ヤーンスが言うと、ヴェルイシアが頷いて音もなく姿を消した。

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