第5話「軍団の国」
Ⅰ
ずいぶん久し振りのまともな食事だと思ったが、たった三日のことだった。山をふたつ越えて息を切らせ、幽敵を十人ばかり斬り、廃鉱と洞窟をくぐり抜けて凍えかけただけだ。ついでに初めて本物の幽霊を見て腰を抜かした。
リンツヒラーのマイテザール商館を出てから、もう一週間も経っているような気がした。
提供されたのは食事とベッドだけではなく。俺たちは屋敷に引き込まれた温泉で汚れを落とし、半ば無理やり新しい衣服を提供された。
イッスリマ家の屋敷は本当に軍営で、タァンドルシアを栄誉礼で迎えるために整列した兵だけでも二百人はいた。
屋敷の裏手にはものすごく広い中庭があって、その向こうにはどう見ても兵舎にしか見えない細長い建物が並んでいる。恐らく庭ではなく練兵場なのだろう。
「ここ……どれくらいの規模だと思う?」
「建物を見ると、連隊とは行かなくても旅団くらいの規模はありそうだな」
ヤーンスに言われて俺は頭の中で計算した。義援士の戦闘部隊は第一第二共に約二百人、ほぼ中隊の規模だ。ふたつの戦闘部隊と輜重(補給)隊を合わせるとハンマ国軍の大隊とほぼ同じだ。二個大隊で最低規模の旅団になるから、ヤーンスはここの兵員を一千程度と読んだのだ。
義援士戦闘部隊の全戦力を持ってしても、ここと正面切っての戦闘は回避するだろう。数が揃っているだけでなく、精強な軍だということは雰囲気でわかる。
「そしてこれは……リンドラ国の軍じゃないよな?」
俺が言うとヤーンスが頷いた。
「リンツの王子が持っている私兵の、はるかに規模がでかいやつだ。これはイッスリマ軍だぞ、ここと比べたら王子の私兵なんて木の葉みたいな物だ」
イッスリマ家はリンドラ国内の独立した軍組織、いわゆる軍閥らしい。
「リンツは……当然ここを知っていて、認めてるんだよな?」
「ここは連合外の国と国境を接しているからな、国軍の代わりを務めているのかも知れない。ただこの軍の存在をハンマは知っているのかな?」
ヤーンスが何だか深刻そうな声で言った。
「これを知らないなんて……そんなことが、あるのか?」
「リンドラが国軍の中に含めて数だけを連合に報告しているか、リンドラ行政府が関与しないので報告していないこともある。ここにこれだけの独立軍が存在しているなんて俺は聞いていない」
そこでヤーンスは声を小さくした。
「お前、うかつにこの軍について質問するなよ」
「何で?」
「ハンマか公社の、悪くするとリンツの間者だと疑われるかも知れない」
「タァンドルシアと一緒に来たのに?」
「だからだ」
ヤーンスは声が大きいと手で合図しながら言った。
「彼女がどんな説明をするか知らないが、現れかたが普通じゃない。おまけに俺たちもイシュルたちも普通じゃない」
「考えすぎだろ?」
「彼女が何も知らずに間者を連れて来た、その疑いは持つはずだ。いまリンツ王家がどんなことになっているか、ここの連中が知らないはずがない。ハンマの間者と思われても追い出されるだけで済むが、リンツの間者と思われたらたぶん命はないぞ」
俺は急に部屋に中がうすら寒くなったような気がした。確かにタァンドルシアのお爺さんと一緒にいた軍幹部らしい連中は、油断がならない気配を漂わせていた。
「リンツが……そうか。当然、見張るよな……」
先乗りで入る人間はやはり違う。限られた情報から正しく状況を読み解いて行動しないと命に関わるのだ。
「リンツ家はとにかく武力と謀略だ、それでリンドラの動乱を勝ち残った」
だとすれば、国中に間者を放っているのだろう。そこで俺はふいにヴェルイシアを思い出した。彼女の体術と一度だけ目にした変装、彼女こそ間者ではないのか。
「ヴェルイシアは何物だと思う?」
俺に聞かれてヤーンスは少し考えたようだった。
「もしタァンドルシアが言ったように、ヴェルイシアがここの生まれなら。イッスリマ家がタァンドルシアに付けた護衛で、目に見える間者なのかも知れない」
「目に見える間者ってのは、何だ?」
「恐らく……タァンドルシアに近づく間者を、消す」
何となく、ヴェルイシアの雰囲気にふさわしいと思った。
翌朝、タァンドルシアとヴェルイシアは俺たちと朝食を共にしなかった。静養が必要だと言うことだが、それは仕方ないだろう。イシュルとタナデュールも回復はしたようだが、まだ何となく元気がないのだ。
「姫は、三日くらいの安静が必要だと思います」
イシュルがテーブルの上を見回しながら言った。ここでの朝食は穀物粥が普通らしい、それにケッシュ(獣脂と血と赤身肉を腸に詰めて燻し上げたもの)の薄切り、干した果物、濃いミルク茶。軍営らしい質実な食事だ。
アデルバスとルルッスは粥に慣れていないらしくて戸惑っているが、義援士は食える物なら何でも腹に収めてしまう根性が必要だ。
「姫様のぉ目的は、果たしたんですよねぇ。これからどうしますぅ?」
大きなお茶のカップを両手で持ってタナデュールが言った。
「姫様しだい……じゃ、ないかな?」
ヤーンスが固いケッシュを噛みながら言った。
「義援士の皆さんは仕事があるのですから、姫様は後でここの馬車で送ってもらえばいいんじゃないですか?」
ルルッスが言ったが、俺はそうは思わなかった。
「姫は。リンツヒラーを出るときに、置いて行ったら許さないって言ったんだぞ。最後まで一緒に行動しろって言うと思う」
俺がそう言うとヤーンスも頷いた。
「たぶんな」
それから粥をひと匙食べて言った。
「お前ら、ここの医療設備とか衛生設備とか見せて貰ったらどうだ?」
そう言われて、いきなりイシュルとタナデュールの目が生き返った。
「見せて、もらえますかねぇ?」
「たぶん食事が終わったら、ここの幹部に呼ばれて話しをすることになる。そこで頼んでみればいい」
少し心配になったが、イシュルとタナデュールは間者には見えないだろう。ひどい技術バカなのだから。
食事が終わると、思った通りに全員が別室に案内された。広大な中庭を見渡すことができる広い部屋で、バールグート爺さんと二人の軍人が待っていた。
タァンドルシアはいなかったが、なぜかヴェルイシアはいた。
バールグート爺さんはヴェルイシアと一緒に窓際の大きな長椅子に座っていて、机の向こうにいる男が立ち上がった。
「旗将のクワイ・サーエン・イッスリマだ。ハンマ軍なら上級大将というところだ」
俺とヤーンスは反射的に姿勢を正して敬礼した。
「将軍のダダルート・イッスリマだ」
机の脇にいる男が名乗った。明らかにクワイと兄弟だ。
「五王並立五国公益義援公社、警護隊曹長ヤーンス・グリッグゼルです」
「同じく五王並立五国公益義援公社、警護隊二等兵曹シド・ヨギュルバスであります!」
公社の中では階級などあまり関係ないが、レジムの名残と指揮系統のために形だけは残っている。技術義援士は階級などないので、他の四人は名前だけを名乗った。
「父のバールグートは昨日挨拶しているな。それとシシリターリアム様の護衛で、君たちと行動を共にしていたヴェルイシアもここの者だ」
そこでヴェルイシアが立ち上がってお辞儀をした。
「自分で名乗ったことがありませんでした。ヴェルイシア・カウイ・タランサクです」
初めてヴェルイシアの完全な名前を聞いた。
「ヴェルイシアは、リンツ家ではなく儂が付けた護衛でな」
爺さんが言った。やはりそうだったのだ。
「最初に確認しておきたいのだが。君たちはリンツヒラーにあるマイテザール商館の子弟を除いて、全員が公社の義援士だな?」
ダダルートが聞いた。
「はい。イシュルが医療技術士、タナデュールが技工技術士、私とシドが護衛の剣士です」
ヤーンスが答えた。俺は説明をヤーンスに任せることにした。
「確認をしたいので、全員の義援士記章か身分証を見せてもらえるだろうか」
義援士は身元を明らかにするため、金属製の小さなプレートに名前と識別の番号を刻んだものを常に身につけている。俺は全員分の記章を受け取って、ダダルート将軍に渡した。ダダルートはそれを書き写して、ヴェルイシアを呼んでどこかに持って行かせた。
「ヴェルイシアは、シシルターリアム様の遠い親戚だ」
ダダルートは記章を返す時にそう言った。
「みんな、かけてくれ」
そこでクワイが、ひとつ息をついてから話し出した。
「シシルターリアム様が君たちと共にここまで来た理由と経緯については、ヴェルイシアから詳しく聞いている」
俺は思わずヤーンスの様子を窺ったが、表情も変えていなかった。
「君たちが……シシルターリアム様の手助けをして聖遺を取り戻してくれたことには、リンドラの国民として感謝を申し上げる」
イッスリマ軍の最高位者が頭を下げたので、俺たちも全員恐縮しながら頭を下げた。
「私とダダルートは、シシルターリアム様から見て伯父にあたる」
姪だと言ってしまうと失礼になるのだろうか。
「君たちはマイテザール商館に滞在していたのだから、現在リンツ王室が置かれている状態について聞いているし。シシルターリアム様からもそのことについて聞き知っている。そのような認識でよろしいかな」
「はい。事情は聞いております」
ヤーンスが最低限の言葉で答えた。
「それについては当家としても憂慮している」
クワイ上級大将は、それ以上リンツのことには触れなかった。外国人に余計な情報を教えて良いはずがない。
「君たち義援士隊が入国した目的についてはある程度のことを聞いているが、君たちからも直接聞きたい。話してくれるかな?」
ヤーンスが頷いて説明した。
「依頼者はマイテザール公商館です。内容はリンツヒラーから東へおよそ4マイルにあるコムスデという村の奪還でした。後続の義援士が入国する前に国境が封鎖されたために任務遂行が困難となり、待機していました。そのときにシシルターリアム様からの相談を受けて、公商館の主人が依頼内容の変更を申し出てこのような事態になりました」
「村の奪還とは、盗賊によるものか?」
クワイが聞いた。
「いえ。こちらで魑魅魍魎と呼ばれているものたちによる占拠です」
しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。
「その……魑魅魍魎だが。ハンマ国や公社でもそのように認識しているのか?」
「いえ。公社では妖怪などではなく特殊疾病、何らかの原因による病気の一種と認識しています」
またしばらく沈黙が続いた。
「その根拠は?」
「限られた範囲で発生すること、栄養状態と衛生状態が悪い土地での発生が多くあること、そしてほぼ同時に発生すること。まだ十分な検証がされていませんが、伝染性である可能性が低いこと。そして罹患者が普通の人間と同じように死に至ること。これらを考え合わせた結果です」
クワイの質問に答えたのはイシュルだった。
「その根拠では、病気であると断言するのは難しいと思うが?」
「人間に何かが取り憑いて妖怪に変身したと検証証明することは不可能ですが、同じ異変を医学的に検証することはできます」
クワイがイシュルを見たまま小さく頷いた。
「確かに、衛生状態が悪い村で発生していることは間違いない。何年か前にハイデン側の州境付近にある村でそれが起こって、向こうの手が回りきらないので我々が出動したことがあった。村民を避難させて建物を全て焼き払い、再建して井戸を掘ってから村民を戻した。その後は再発していない」
「どのような原因で起こっていると、お考えですか?」
イシュルが質問したが、クワイは首を振った。
「我々は軍だ、そんな研究ができる人材はない」
クワイは椅子に座ったまま少し姿勢を変えた。
「その調査も任務に含まれているのか?」
「単に村を奪還しても病気が再発すれば意味がありません。予防ができるかどうかの検証は行います」
「なるほどな……」
ヤーンスの答えをクワイが信じたのかどうか、表情からは読み取れなかった。
「調査で、何か有益なものは得られたのか?」
クワイが気味の悪い質問をした。これではまるで審問だ。
「ヴェルミエ湖に流れ込む川の流域に廃村があって、そこで多数の発病者を確認しました。正式な調査はリンツヒラーに戻ってから実施することになると思います」
イシュルはこの場の雰囲気を読んで回答をぼかしていた。さすがに頭は良い。
「ヴェルミエ湖のほとりに、屋敷の廃墟がなかったか?」
ふいにバールグート爺さんが言って、ヤーンスが微かに体を動かした。
「ありました。そこにも連中が入り込んでいました」
何となく不安を感じて、ヤーンスの代わりに俺が答えた。
「ほお、まだ形が残っていたか」
バールグート爺さんが、がさがさした笑い声を出した。
「そこで何か見なかったか?」
続けてバールグート爺さんが聞いて、ヤーンスがまた微かに身じろぎした。
「見ました」
俺が言うと、ヤーンスが眼だけを動かして俺を見た。
「まだ戦ってる……煙みたいな、人の……姿」
しばらくの間、全員が固まってしまったようだった。笑われるかも知れないと思っていたのだが、俺はこの場をどうしたらいいのかひどく困った。
「体が冷え切っていたの……それだったのね」
イシュルが低い小さな声でそう言うと、バールグート爺さんが微かなため息をつくのが聞こえた。
「あそこが何か……知っていたのか?」
クワイが、何か沈痛さを帯びたような声で言った。
「いえ……タ……シシルターリアム、様は。古い離宮だと……」
「……そうか」
ドアをノックする音があって、外に控えていたらしい兵士がドアを開けた。どこかへ行っていたヴェルイシアが戻ってきた。手に見覚えのある紙のテープを持っていて、クワイがそれと紙片を見比べて頷いた。
「済まんが、マイテザール公商館経由で公社の本部に照会を依頼した。今日中には確認が取れると思うのでそれまで待っていてほしい、この屋敷の中では自由にしてくれて結構だ」
「電信が、ここにもあるのですか?」
俺が聞くとクワイが頷いた。
「町にマイテザール公商館の支店があってリンツヒラーの本店と電信が通じている。緊急の通信が必要な場合は、そこに電信を依頼することがある」
ヴェルイシアはそこまで使いに行ったのだろう。
ヴェルミエ湖畔の廃墟についての件は中断したまま話しは終わった。俺たち六人は何となくひとつの部屋に集まった。
「信用されたと、思わない方がいいよな……」
俺はそう言いながら、胸の中に詰まりっぱなしだった息を吐き出した。
「少なくとも、公社の確認が取れるまではな」
中庭では兵士の訓練が始まった。密集隊列を組んだままの駆け足、結構な速さだ。
「百二十人で一隊か……」
それが五集団走っている、大隊の規模だ。六百人のかけ声で窓ガラスが震えるように思えた。俺たちにとっては珍しくもない光景だが、イシュルとタナデュールは気を呑まれてしまったようだ。呆然と立ち尽くしてそれを見ている。
俺は、それとは別のことが気になっていた。さっき爺さんたちに事情を聴かれた部屋の照明器具を見て気がついたのだ。この部屋もそうだった、天井から提がっている照明器具がどう見ても電灯なのだ。まだ点いていないが、これは燈油や蝋燭のランプではない。
「ここ……電気が来てるのか?」
全員がそれを見上げて、首をひねった。
ドアがノックされて、お茶のセットを乗せたワゴンを押したヴェルイシアが部屋に入ってきた。
「ヴェルイシア。ここは電気が引かれているのか?」
「はい」
当り前のことのようにヴェルイシアが答えた。
「発電してるの?」
「いえ、マローメサバルから買っているそうです」
ヴェルイシアは全員分のお茶を淹れてそのまま出て行くのかと思ったが、ワゴンの脇で何となく居心地が悪そうに立ちすくんでいる。
「どうした?」
俺が声をかけると、おろおろと部屋の中に視線を彷徨わせた。
「話しを……して来いと、大殿が……」
「大殿?」
「あの、バールグート……様が……」
普段のヴェルイシアではなかった。とりあえず、全員立ったままでは落ち着かないのでそれぞれにお茶を手にして腰を下ろした。
「姫様の……身の回りで起こったことは、全て報告することを命じられていますので……済みません。皆さんのことも話してしまいました」
声にも何となく張りがない。タァンドルシアの傍にいないと気が抜けてしまうのだろうか。
「それがあんたの仕事なら、仕方ないだろう」
ヤーンスが言ったが、俺は『そこで何か見なかったか?』という爺さんの質問が今になってまたひどく気にかかった。
俺は単にヤーンスが麻痺状態にならないように、とっさに変な答えを思いついたのだ。だがヴェルイシアが見て聞いたこと全てを話したと言うことは、ヤーンスがデイデルキュアンの縁者であると爺さんたちは知っているのだ。
「姫様のぉ、親戚だったんだぁ」
タナデュールが聞くとヴェルイシアは微かに頷き、心地悪そうに視線を動かして窓の外を見た。
「どこかで薄く、血は繋がっているそうです」
駆け足集団が兵舎の方に向かって行くと入れ替わりに別の集団が中庭に入ってきた、これも百二十人隊の五集団だ。これで計千二百人。
「なぜイッスリマ家は、君を姫の護衛に付けたのだ?」
ヤーンスが聞くと、ヴェルイシアはゆっくりと視線を部屋の中に戻した。
「タァンドルシア様には、実の兄上様と姉上様がおいででした」
過去形だった。
「タァンドルシア様が十四歳におなりになったときに、相次いでお二人が亡くなられました。あまりにも急なことで、大殿は暗殺を疑われました」
「何てこと……」
イシュルが呻いた。リンツ王宮の中は暗殺だらけだ。
「タァンドルシアまで命を狙われそうになったのか?」
ヤーンスの質問にヴェルイシアはゆっくり首を振った。
「私がついてからはそのようなことはありませんでした。タァンドルシア様を亡き者にして得をする者がいるとは思えないのです、一番下の姫ですから」
「姫の具合は?」
イシュルが聞くとヴェルイシアは小さく頷いた。
「少しですけど食べて、眠っています。顔色は良くおなりです」
健康を取り戻してくれるのはいいが、王宮に戻れば再び残酷な世界が彼女を待っているのだ。いっそこのまま帰らない方がいい。
「ここからリンツヒラーまで、あの坑道を使わないで何日かかる?」
ヤーンスが聞いた、早くも何か次の行動を考え始めているらしい。
「山とヴェルミエ湖を巻いて行きますから、歩きなら四日から五日、馬なら三日です」
中庭の二番目の集団がまだ走っている間に、兵舎の方から次の集団が現れた。これは人数が少なくて、隊列も足並みもあまり揃っていない。
それが近づいてきて一人一人の姿がよく見えるようになると、俺はヤーンスを軽く肘で突いて窓の外に注意を促した。非常に若い男や女性が混ざっているのだ。
「あれは調練の兵です」
俺たちの視線に気がついてヴェルイシアが言った。
「ひと世帯からひとり、年に三十日の調練を受けると税の減免を受けることができます」
非常時に動員できる予備の兵力だ。
「イッスリマ家はどれだけの兵力を持っているんだ?」
相手がヴェルイシアなので、俺はつい聞いてしまった。
「この本営に一千五百、全体で五千を越します」
「リンドラ国軍のほぼ半分か」
ヤーンスがそう言って再び窓の外を見た。だがヴェルイシアが言った数字は恐らく正規兵だけで、他に動員できる調練兵がかなりの数いるのだろう。
「リンツが攻めてきても、片手でひねり潰すと大殿はおっしゃっています」
ヴェルイシアが部屋を出ていくと、中庭では調練兵による槍の訓練が始まっていた。
「ヴェルイシアは、バールグートさんと近い血縁ですね」
ふいにイシュルが言った。
「何でわかる?」
「耳の形とか、顔の作りに共通している部分が多いですよ」
そう言われてから、ヴェルイシアがバールグートと並んで座っていたことを思い出した。たとえ親戚であっても、あれは従者への扱いではない。
夜までに公社からの返答があって、俺たち全員の身元は確認された。夜にはバールグート爺さんや奥さん、つまりタァンドルシアのお婆さま。そしてクワイ旗将夫妻と、幾分元気を取り戻したタァンドルシアも出てきて明るい電灯の光の下で夕食になった。
爺さんたちといろいろ話しているうちにわかってきた。ここは、グーンドラの州都イスルヒラーはリンドラの中にあって別世界なのだ。マローメサバル王国との国境貿易が統一リンドラ以前から行われていて、かなりの物資が行き来している。それがイッスリマ家に大きな収入をもたらしているらしい。
そんなことを気軽に話していいのかと心配になったが、秘密でも何でもないことらしい。
「堂々と来て、学ばせてくれと言えばいくらでも見せてやるし教えてもやるのに。リンツから来る人間は姑息なのばかりだ」
良い機嫌になっているバールグート爺さんが大きな声を上げた。
「堂々と来て勉強して帰ったのは、今までに一人しかおらん!」
「誰ですか?」
俺が聞くと、爺さんは天井を睨んでちょっと考えていた。
「トラゼントムールでございまいましょう? 父上」
クワイが言うとバールグート爺さんが大きく頷いた。
「そうじゃ。トラゼントムール・ホーヘルオーツだ! あいつは傑物だった」
堂々と来なかった連中がどうなったのか、俺は聞こうとも思わなかった。
Ⅱ
翌日、俺たちは調練兵に混じって訓練に参加した。じっとしていると体が鈍ってしまう。
中庭を走って、それから森の中で隊列を乱さないように走り抜ける約二時間の駆け足。戻ったら剣や槍の訓練。俺たちは調練の士官に頼まれて剣の指導を手伝った。午後は座学で読み書きから仮設住居の作り方まで、調練兵の程度に合わせた様々な科目があるようだ。
「これだけの兵と、設備と……イッスリマ家はただの軍閥じゃないよな。もう国の中の国だ」
座学の方は遠慮して、俺とヤーンスは軍営の中を見学して歩いた。
「ああ……もしかするとリンツ国軍よりも費用がかかっている感じだし、リンツヒラーより何十年も進んでいる」
将軍と家族たちが居住する建物と、電気設備以外はどこでも見て良いと言われた。だが身元は確認されたと言ってもどこかで監視はされているだろうから言動には注意しなくてはならなかった。何かのかけ声がする方へ向かっていると、ダダルート将軍がやってくるのが見えた。
「ヤーンス君。シド君もちょっと、一緒に来てくれ」
促されるまま付いて行くと、大勢が剣の実技訓練を行っているところに連れて行かれた。訓練が中断されて、兵が全員直立した。
「ヤーンス君。その剣は、どのようにして今君の手にあるのだね?」
「自分を拾ってくれた、義援剣士の遺品です」
ヤーンスが答えるとダダルートが頷いた。敬礼のかけ声があって、クワイとバールグート爺さんまでやってきた。何が始まるのだろう。
「珍しい剣だが、扱いには慣れているのだろうね」
『当然だ』と言わんばかりに、ヤーンスは返事をせずに頷いた。
「ワズルタフト!」
ダダルートが呼ぶと、兵士の前にいた年かさの男が出て来て直立した。
「ワズルタフトは我が軍の剣術師範だ。君と是非立合をしたいと言っている」
ワズルタフトが俺たちに頭を下げた。それを見ただけで、俺ではこいつと立ち会うなんて無理だとわかった。師範なのだから当り前だが、俺なんか比べものにならない凄い遣い手だ。
「立合と、言うことは……真剣ですか?」
ヤーンスは、動揺していたとしても声には出ていなかった。
「もちろんだ」
「何故でしょうか? 立ち会う理由がありません」
俺もそう思った。どうしていきなり真剣での向き合いになるのか。下手をすればどちらも無事では済まない。
「君にはなくても、ワズルタフトにはあるそうだ」
何も言わずにワズルタフトが抜いた。並んだ兵の中から声のない呻きのようなものが立ち昇った。ひと呼吸あって、ヤーンスがゆっくりと抜いた。
空気が凍り付いた。
どれだけ固着が続いたのか、俺は息が苦しくなってそっと吐いた。その瞬間に二人が動いて位置が入れ替わった。二人ともお互いの刃をぎりぎりで躱している、俺はかろうじてそれを見て取ることができた。
ヤーンスが息を吐いた。顔が汗にまみれている。剣をゆっくりと後ろに引き、頭上で横に掲げるように構え直した。ワズルタフトの額にも一筋汗が流れた。俺は全身が湿っている。
ヤーンスがすり足のような動きで前に出て、一瞬遅れてワズルタフトも動いた。微かな金属音、刃が打ち合ったのではなく擦れ合った。そのときにはもう二人は跳び離れていた。
ヤーンスが寸前で下に構え直して入れてきた突き、それを受け流してワズルタフトが切り上げ、ヤーンスが飛び退いたのだ。
瞬きしていたら見落としたかも知れない、一瞬の動きだった。
「もうよい!」
地響きがするような、爺さんのもの凄い声だった。ワズルタフトが数歩退いて剣を収めた。
「間違いありません。ウーデラクスンの剣術です」
息を吐きながらワズルタフトが言って、額の汗を拭った。
「私も確かに見た。ご苦労だった」
ワズルタフトはそう言ったダダルートに一礼し、次いでヤーンスにも頭を下げて兵の前に戻った。
「お前たち! 得難いものを目にしたぞ。訓練を続けろ!」
クワイの号令で兵たちは解散して訓練を再開した。ヤーンスはまだ呆然としたように剣を下げて立ちすくんでいる。
「これは……何だったのでしょう? ウーデラクスンとは……」
気が抜けたような声で言って、ヤーンスはようやく剣を鞘に戻した。
「済まなかった、どうしても確かめておかなくてはいけなかった。話すことがあるので、二人とも来てくれ」
クワイとバールグート爺さんに従って俺たちは本館へ戻り、昨日いろいろと質問を受けた部屋に案内された。
「シシルターリアム様はまだこの先も君たちと一緒に行動することを望まれているそうだが、君たちはどうなのか?」
部屋に入るなりクワイが聞いた。
「彼女がそう思っているのでしたら、全員に異存はないと思います」
戸惑ったようにヤーンスが答えると、クワイが頷いた。
「これから話すのは全てヤーンス君に関わることだ。シシルターリアム様以外の全員にも聞かせていいかどうか、君が判断してもらいたい。デイデルキュアン」
ヤーンスが弾かれたように顔を上げた。
「私たちは、君のことを知っている。儂は最初に見たときにわかった」
バールグート爺さんが言った。
「君は昔、ここへ来たことがあるのだよ」
ヤーンスは少しの間呆然として、それから小さく何度か頷いた。
「みんなにも……聞かせて、ください」
施設の見学に行っていたイシュルとタナデュール、俺たちの衣服を繕っていたアデルバスとルルッスが呼ばれ、最後にタァンドルシアとヴェルイシアが部屋に入ってきた。
一軍の将が年若い自分の姪に最大の礼を尽くさなければならないというのは、俺には何とも落ち着かない光景に見えた。
それよりも俺はバールグート爺さんとヴェルイシアのことが気になっていた。ヴェルイシアはタァンドルシアと変わらないような年齢だし、意識してみればお爺ちゃんとその孫娘にも見える。
「まず……二十年前の経緯から話そう」
爺さんがため息交じりに重々しくそう言って、話しを始めた。
「ハイデン州は一度リンドラに統合されたが、いろいろ揉めたあげくに離脱して公国に戻った。そしてリンツ家に滅ぼされてまた州にされた。その時に、デイデルキュアン公の一族が皆殺しに遭った……一人を除いてだ」
爺さんはヤーンスに目をやって続けた。
「ウーデラクスンという公家の隊長が、ひどい怪我をした子供を抱いてここまで逃れてきた。我々とデイデルキュアンの間でも境界線を巡って長い間小競り合いがあってな、まあ関係が良いとは言えなかった。だがそんな相手でも、怪我をした子供を連れて逃れてきたのでは見捨てることなどできん」
爺さんはそこで咳払いした。
「ヤーンス、君は……その剣技を、誰に習った?」
「アハデラ・グリッグゼルという義援剣士です。俺……私を、拾ったと……」
爺さんは頷いた。
「さっき見せて貰った君の技は、デイデルキュアン家に仕えていたアデル・ウーデラクスン隊長のものだ。君が持っているその剣も、恐らく彼のものだ。ダダルートもワズルタフトも、ウーデラクスンと何度も立ち会っているから独特の剣術を見間違えることはない。国を出て名を変えたのだろう」
そこで爺さんはため息をついた。
「そしてヤーンス、君の本名はヤーンス・テュダル・デイデルキュアンだ。ウーデラクスンは君の名を明かさなかったが、儂らはすぐにわかってしまった」
そう聞かされても、ヤーンスは表情すら変えなかった。
「全然違う名前じゃなくて……良かったです……ただ、他のことはすっぱり頭から抜け落ちています」
「惨すぎるものを見てしまったからだ。子供は自分を護るために、記憶を封じてしまうことがあるからな」
「あの……屋敷跡の広間で……似たような光景を見て、そこの部分だけ一瞬思い出しました」
爺さんが頷いて、ヴェルイシアに目をやって小さく頷いた。ヴェルイシアが立ち上がり、クワイの机に置いてある小箱を受け取った。それでどうしたら良いのか少し迷ったらしい、爺さんがヤーンスの方を目顔で指した。
「ウーデラク……ああ、グリッグゼルは今、どうしている?」
バールグート爺さんが聞くと、ヤーンスは表情も変えずに答えた。
「任務中に死にました。五年前です」
「そうか……」
ヴェルイシアがヤーンスの前で小箱の蓋を開けた。
「それは、デイデルキュアン家のメダユーだ。君の物だ」
「え? 俺の?」
爺さんが頷いた。
「ウーデラクスンは君をここへ置いて欲しいと頼んだが、さすがにそれは無理だった。知らなかったふりをしていても、将来リンツと揉め事の火種を抱え込むことになるからな。それで傷の治療が終わるまではここに留めて、マラサダへ逃がした」
「これを……俺、私は……どうしたら?」
「君が身につけていたのをウーデラクスンが置いて行ったのだ。捨てるわけにもいかんのでずっと取っておいた、持ち主が来たから返すだけだ。何をするのか、それとも何もしないのかは自分で決めろ」
ヤーンスはしばらく箱の中を睨んでから手を伸ばした。金属ではなく、青い石に象眼を施した物だった。象眼は、廃墟の壁に彫られていたあの紋章だ。銀色の鎖がついたそれを手に乗せて、ヤーンスはじっと見つめていた。
「何か思い出したか?」
俺が聞くとヤーンスはゆっくり首を振った。
「儂が伝えるのは、これだけだ」
バールグート爺さんがそう言って、椅子の背にもたれた。代わってクワイが言った。
「シシルターリアム様の回復を待って、君たちをハイデン州境まで送り届ける。リンツヒラーまで送りたいところだが、シシルターリアム様はご自分でお戻りになることを希望なさっている」
「いつ出発するんだ?」
俺が聞くと、少し俯き気味にしていたタァンドルシアが顔を上げて答えた。
「明日にでも」
「ちょっと、手を……」
イシュルがタァンドルシアの手を取って、しばらく目を閉じて眉間にしわをよせていた。それから目を開けて首を振った。
「せめて明日一日は休んでください。まだ回復は十分ではありません」
そう言われてタァンドルシアは不満そうだったが、バールグート爺さんもヴェルイシアも同意したので渋々従ってくれることになった。
「ああ、ヤーンス」
部屋を出ようとすると、爺さんが思い出したように声をかけた。
「あの屋敷の裏庭に、私たちの手でご一族を葬った。もしできたら、参じておくといい」
ヤーンスが戸惑ったように立ち尽くして、それから頭を下げた。
「お気遣いを、感謝いたします」
夕食にはタァンドルシアも同席した。気を遣ってくれたのか、爺さんたちは来なかった。
「ヤーンスさん。ご一族のために……何かなさるのですか?」
上品にぶどう酒を一口のんでから、タァンドルシアがヤーンスに聞いた。
「裏庭に花を供える」
ヤーンスの答えはそれだけだった。
「もう少し……劇的なことがあるかと思ったんですけどぉ、凄ぉく淡々としてましたねぇ」
タナデュールがパンを小さくちぎりながら言った。ここのパンは黒くないし、いくらか柔らかい。
「どう対応しろって言うんだ? 俺はほとんど覚えてないんだから、『ああそうですか』としか反応できないだろ」
ヤーンスが大皿から切り分けた肉と蒸した穀物を取り、ソースをかき混ぜながら答えた。
「それにもう、考えるだけ考えて。たとえ俺がどれだけ悩もうがどう動こうが、現実はもう変わらないって結論を出しちまった」
「それは……投げ出しちゃってない?」
イシュルが恐る恐る聞いたが、ヤーンスは首を振った。
「諦めるとか投げ出すなんて、それは今とこれから先のことだろ。俺の問題は全部もう起こってしまったことで、今さら変えようがない」
「ご先祖……どころか、親兄弟のことでも?」
ヤーンスは、重ねてそう聞くイシュルを横目で一瞬だけ見た。
「それも昔のことだ」
ソースをかけすぎてしまったらしく、ヤーンスは皿の上を少し睨んでから蒸した穀物をもうひと匙足した。
「俺は……自分が何物か、それがわかったからもういいんだ」
「お名前を、どうなさるのですか?」
タァンドルシアに聞かれてヤーンスは肩をすくめた。
「俺は一人の義援剣士だ。アデハラ・グリッグゼルの養子ヤーンスだ」
そこで顔をタァンドルシアに向けた。
「それより、タァンドルシアは俺なんかよりもっと大変なことをこの先に抱えているだろ?」
そう言われてタァンドルシアは少し嫌な表情になった。
「あー。言ってはならないことをー!」
タナデュールが大げさな声を出して、イシュルとルルッスが困ったような笑みを浮かべた。これを笑っていいのかどうか判断に困るところだが、とりあえず全員が気力を取り戻しているのは確かだった。
ハイデン州までは輜重(補給)馬車での移動になった。もちろんそれは俺たちだけで、タァンドルシアとヴェルイシアは客用の馬車だった。輜重の馬車でもサスペンションがついているので乗り心地は悪くなかった。
見送る輸送部隊の兵に手を振って、俺たちははるか遠くに霞んで見えるヴェルミエ湖を目指して歩き始めた。
「グーンドラとハイデンの間はまともな道なんだ」
くっきり刻まれた轍が交通量の多さを物語っている。しかもただの土ではないようだ、道の表面は固く滑らかに整えられている。日が高くなると、荷馬車や荷を背負った人たちが目立つようになった。
「リンツヒラーよりも通行が多いな」
俺はヤーンスに話すと、ヤーンスも頷いた。
「しかも、ハイデン州からグーンドラ州に物資が向かっている」
俺は頭の中でリンドラの地図を思い出した。
「グーンドラ州から、リンツヒラーに行く道あったっけ?」
「……今通っている、この道だけだ。ハイデンを経由しないで行く道はない」
ヤーンスが何かを考えながら答えた。
「道がどうしましたか?」
後ろにいるタァンドルシアにも聞こえたらしい。
「ハイデンから、物資がグーンドラに向かっている。それはグーンドラからどこへ行くのかってこと」
タァンドルシアも俺たちに言われて気がついたらしい、すれ違って行く荷馬車を振り返って見ていた。穀物なのか馬車は大きな袋を積み上げている。
「リンドラの納税って、基本的に物納だったよな」
「グーンドラ州は、連合に加盟する前から国へは貨幣納税でした。納入量が多い上に遠いので、貨納にしたそうです」
「ハイデン州は?」
ヤーンスが依然として何かを考えている様子で聞いた。
「昔は全量が物納でしたけど、ここ数年は貨幣納入が増えてきたそうです。だから、リンツヒラーではかえって穀物の値段が上がって困っています」
「ハンマにいて、よくそんなことまで知っているな」
「ハンマで……いまリンドラがどうなっているかを、教わっています。何だか、おかしなことなのですけど……」
タァンドルシアがもう一度後ろを振り返って、不審そうな表情になった。
「グーンドラがハイデンの農産物を、買い取っている……の、でしょうか?」
「たぶん……それだな」
ヤーンスが言った。
「兵糧の確保、昔ながらだな……でもまだここじゃ、それが正攻法か」
俺はうっかり物騒なことを口にしてしまった。
「えっ?」
さすがにタァンドルシアは意味がわかったようだ。
「戦争の……準備?」
「タァンドルシア、リンツ国軍の人員は?」
「え? あの……」
「歩兵一万五千、騎馬隊1千ですが、それはイッスリマ軍と各州軍を含めてです」
ヴェルイシアが代わりに答えた。
「リンツヒラーに駐屯している国軍は歩兵が三千に騎馬が百で、ほぼそれが全部です」
「無理だ、戦ったらリンツは絶対勝てない……」
バールグート爺さんが「片手でひねり潰す」と言ったらしいが、それは誇張でも何でもなかった。イッスリマ軍とリンツ軍では勝負にならない。たとえリンツ軍が2倍3倍の兵力でかかっても怪しいところだ。
「大殿は、代々のリンツ王にはお輿入れをしています」
姻戚関係になっておくことで、敵対しないことを明らかにするのか。
「その気になればイッスリマ家はリンドラを取れるのに……しないと言うことか?」
ヤーンスが呻くような声で言った。
「リンツ家が再統一を成し遂げる戦でも、イッスリマ家は守りを固めて一切動かなかったそうです。民を苦しめるだけだと」
「不戦のための軍か……」
俺は唸った、イッスリマ家は防衛に徹底しているのだ。
「ハインスドラとの境界争いが何年も続いていた時に、大殿はイッスリマ家をお継ぎになりました。でも、すぐに国内での争いは無益だと悟られてデイデルキュアン家と講和を結ばれ、その後はサルバンタ国境の防備に専念なさったそうです」
「あんたも良く知っているな……やっぱり大殿の孫か?」
俺はうっかり口を滑らせたのだが、ヴェルイシアの動揺はもの凄かった。
「そ、そ……し……失、礼。です……」
「え? そうなの?」
タァンドルシアに言われて、ヴェルイシアの動揺はさらにひどくなった。
「大殿様とヴェルイシアさんには、遺伝的な共通点が三つ以上あります。だから子孫である確率は八割以上」
イシュルが容赦なく断言するとヴェルイシアがよろけた。
「あの……いえ、違い……姫様……そんな、おそれ多い……」
「お祖父様の孫なら私と一緒じゃない。おそれ多いも何も関係ないわ、ヴェルイシアも旅の間私を姫って呼ぶの禁止!」
「ちょっ……あの……」
和やかな雰囲気でしばらくの間移動は続いた。驚いたことに街道には食事やお茶を提供する店があった。街道の利用は確かに多いが、こんな商売が成り立つほど多い上に安全が確保されているのだ。同じ国の中とは思えない。
「さっき道ばたに小屋があっただろう?」
ヤーンスにそう言われて俺は思い出した。
「ああ、外に見張りみたいなのが立ってたな」
「裏手の樹の間に馬もいた、あそこは監視所か早馬の中継場所じゃないかな?」
「それを運営しているとしたら……イッスリマ家かな?」
「その可能性が高いが、あそこにいたのは軍人には見えなかったな……ハンマで言えば業者が存在しているかもな」
途中にあった店のひとつで『バップ』と呼ばれるらしい簡単な昼食を買い求めて、店先にある丸太のベンチに腰を下ろして食べた。パンに塩漬け肉を焼いた物と山羊のチーズを挟んで、甘い味のソースがかかっている。ハンマで言えば『ブースクリク(サンドイッチ)』だ。
味は濃いが悪くない、そしてその気になれば歩きながらでも食べられる。
「リンドラにこんな物があるなんて……知りませんでした」
タァンドルシアが手の中のバップを見ながら言った。
「道ばたで物を食べるなんて、やったことないだろ」
からかい気味に俺が言うと、タァンドルシアは首を振った。
「大学の近くにあるバゥラ(カフェ)で、急いでお昼を食べる時は外でしたよ」
「あ……そうか」
リンドラにいると、彼女がハンマの大学生だということをつい忘れてしまう。
「家に戻って……その後どうするか決めたのか?」
ヤーンスがタァンドルシアに聞いた。こんな場所でするには深刻な話しだが、俺もそれが気になってはいた。
「一番上の兄上が家をお継ぎになるのが筋ですし……たぶん、そうなると思います」
「ご長男は結婚していないのか?」
俺が聞くと、タァンドルシアは難しい顔をした。
「一度はなさいましたけど、三年前にご病気で……それっきりお後添えは娶られないままです」
五人もお后がいた父王とはずいぶん違う。
「その奥さん一筋だったんだ……」
「さあ……あまり乗り気ではなかったみたいでしたけど」
そう言ってしまってから、タァンドルシアは慌てたように自分の口を指先で塞いだ。
まだ日があるうちにハラームデンという町に入った。街門に見張りの兵はいたが、グーンドラ方面の街道から入る場合は自由通行らしかった。
イッスリマ軍営を発つ前に、クワイからハラームデンで宿泊する宿を指定されていた。恐らくイッスリマ家が使う定宿なのだろう。タァンドルシアの身分を知らされている訳ではないだろうが、俺たちは賓客扱いだった。
タァンドルシアにあてがわれた部屋は広くて、間違いなくクワイかダダルートのような将軍が奥さん随伴で使うような感じだ。夕食の後で全員そこに集まって明日以降のことを確認した。
「明日からは何が起こるかわからない」
ヤーンスが地図でヴェルミエ湖を指した。
「早朝に発てば昼前にはここへ着く」
バールグート爺さんに言われたように、ヤーンスの家族を慰霊しなければならない。
「問題はその後だ。早いのは山越えかこっちの道、ただし街道だと幽敵とやり合う危険がある。どっちも二日だ」
次に街の印を指した。
「安全なのはバイトンメイロ経由。だが一日余計にかかる」
「一日でも早い方がいいです」
すぐにタァンドルシアが答えた。
「山越えだと、シドとイシュルがまた死にそうになる。一番安全なのはこの……何て言ったか忘れたけど、村を迂回してこっちの街道に出る方法だ」
「時間はどれくらい余分にかかりますか?」
タァンドルシアに聞かれてヤーンスは首を傾げた。
「川を渡る必要があるのが問題だ……それでも半日までは余計にかからないと思う」
「幽敵と斬り合うことを考えたら、何でもないな」
俺が言うとタァンドルシアが頷いた。
「だったらそれで行きましょう」
タァンドルシアは決断が早い。
「たぶん野宿で、場所は成り行きだ」
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