第4話「亡霊の国」


 薄い空気で足に力が入らなかった。ふらつくので下りは登りよりも慎重に歩かなくてはならない。谷底にたどり着いたところで暗くなり始めたので、そこで野営だった。火を焚いても誰にも見られる危険がないことが有り難かった。

「こんなものが姫様のお口に合うかどうか……」

 そう言いながらルルッスが鉄鍋で作ってくれたのは燻し塩肉と干しイモと干し菜のスープ、それと例の黒いパンとぶどう酒。輜重(補給)隊も随伴できない山の中で食える夕食としては、全く悪くなかった。携行食の固パンと水だけなんて夜もあるのだ、これだけでも明日の行動意欲が湧いてくる。

 鉄鍋と水はアデルバス、食料はルルッスが背負っている。たぶん二人の荷物が一番重いのだろう。

「ヴェルイシアと旅したときなんて。炙った干し肉とビスクだけなんてこともありましたよ、これは凄く有り難い食事です。あの……旅の間は私を姫だと思わないでくださいね」

「旅って……何が目的の旅をなさるのですか?」

 タナデュールが驚いていた。一国のお姫様が従者一人だけで野宿をするなんて、どこの国でもあり得ないことだ。

「年に一度、ハッシジーン山にあるウードラス御霊殿での礼拝です。男性は山へ入れませんし女官たちはそんな体力がありませんからどうしてもヴェルイシアと二人だけになります」

 道理で、山登りを何とも思っていないはずだ。昼間に登って降りての間は話しをする余裕もなかったので、聞きそびれていたことを思いだした。

「タァンドルシア、どうしてお姉さんがヴェルミエ湖に向かうってわかるんだ?」

 姫だと思うなとのお達しだったので、遠慮なくため口で聞いた。タァンドルシアは小枝にパンを刺して焚き火で温めながら、視線だけを上げて俺を見た。

「姉が逃げ込みそうな場所をヴェルイシアに調べてもらおうと思ったら、調べるまでもないって……」

 タァンドルシアは少し肩をすくめて見せた。

「襲われた馬車が向かっていた先にはもうひとつ村があって、そこも今は無人だそうです。それでもそこを通ろうとしたのですから目的地はハイデンの先にあるミヘイル、そこは姉様の縁者トロムハーラム家があります。夜を徹して馬車で走って、ヴェルミエ湖の近くにある今は使われていない離宮で休むかも知れないとヴェルイシアは考えたようです」

 そう言ってパンに付いた灰を吹いて落として、小さくちぎって口に入れた。

「ほかに、行きそうな場所は?」

 ヤーンスがヴェルイシアに聞くと、彼女は黙って首を振った。

「大きな町ですと役所があって必ず衛士がいますから、王族とわかる人間が従者も連れないでいきなり来たら報告されます。村ですと泊まる場所がありません。農家に泊めてもらうことはできるでしょうけど、姉様みたいな世間知らずは絶対にもめ事を起して領主に報告されます」

 ひどい言い方をタァンドルシアがしたので、ヴェルイシアまで苦笑していた。

「あんた、何を遣うんだ?」

 ヤーンスがそう聞いた瞬間、ヴェルイシアの顔が無表情に戻った。彼女が持っている武器らしい物は腰のナイフだが、あれはどちらかと言えば道具だ。しかしヴェルイシアは身のこなしも目配りも武術者で、どう考えても普通の侍女や女官ではない。

「ヴェルイシアは体全部が武器です」

 タァンドルシアが言った。体術ならば何もいらない、相手が持っている得物を奪う技もあると言うし。戦場ではお目にかかることがない技なので、一度くらいまともに見ておきたいと思った。


 翌朝は周囲が暗いうちに黒砂糖入りのお茶とパンの朝食を済ませ、足元が明るくなるとすぐに出発した。アデルバスの見立てによると、今日越える山は昨日のよりもかなり低いので昼過ぎには向こう側に出られるらしい。確かに、昨日よりは呼吸が楽だ。

 四時間足らずで頂上に着き、かなり近くなったヴェルミエ湖を望んだ。湖の向こう側は平坦地が続き、そこは一面の麦畑であるらしい。牧草しか生えていない王都の周辺とは大違いだ。湖にはいくつも小舟が出ている、あれはたぶん漁をしているのだろう。

「なるほど、食料か……」

 どこの国であってもこの土地は領土に加えたくなるだろう。広大な湖に広大な農地、そこから上がる産物だけで充分にやって行ける。国を富ませるのにまず必要なのは農業生産と漁業生産の量だ。この地にはその両方がある。

 そこで疑問がわいた。国の中にこれだけの食料生産地があるのに、王宮がある町ですら貧相な食事に甘んじている。これは果たして技術が遅れて物流がうまく行っていないだけが理由なのか、普通は何とか運ぼうと工夫するのではないのだろうか。

 あの広い麦畑も俺が想像していた非効率な古代農業とは様子が違う、生産は行われているのに流通しないのなら余剰分はどうなっているのか。休憩の間、ずっとその疑問について考えていた。

 それほど急がなくても、日没までかなりの余裕を残して離宮の近くまでたどり着いた。俺とヤーンス、タァンドルシアとヴェルイシアで偵察に向かった。

 『今は使われていない離宮』とタァンドルシアは言っていたが、それはどう見ても半分がた崩れ落ちた廃墟でしかなかた。

「あそこ、いつまで使ってたんだ?」

 俺はタァンドルシアに聞いてみた。維持管理も何もされず、朽ちるに任せていたようだ。それも十年どころではない。しかも何か、嫌な気配が満ちている。

「昔の離宮が湖の傍にあると聞いていただけで、こんなだとは知りませんでした。ヴェルイシアは知ってた?」

「この廃墟があることは知っていました。何だったのかまでは知りません」

 煉瓦の塀で囲まれて、恐らく裏側は湖に面しているのだろう。

「けっこう良い場所なのに何で使わなくなったんだろうな、もったいないな。おいヤーンス、ちょっと覗いてこないか?」

 ヤーンスの返事がなかった。見ると、目を見開いたまま固まっている。

「おい、どうした?」

「……あ」

 金縛りが解けたように、いきなりヤーンスが声を出して頭を振った。

「どうした?」

「いや……何だか、一瞬頭がぼーっとして」

「空気が薄いの、今になって効いてきたのか?」

「いや……もう、平気だ」

 俺とヤーンスは身を潜めていた茂みから立ち上がり、道に近づいたところでもう一度身を潜めて周囲を警戒した。念のためそこで少し様子を窺ってから、俺は匍匐で道の左右を見渡せる位置まで前進した。大袈裟だがどうしても戦地での動きになってしまう。

 草むらから首だけ突き出して、一秒で左右の路上を見る。見たらすぐ戻る。すぐにヤーンスに手で『止まれ』の合図を送った。何かが接近してくる。

「馬、二人、二百ヤード(百八十メートル)」

 ヤーンスのところに戻って伝えた。

「先回りできたかな?」

 俺はタァンドルシアのところへ戻り、ヤーンスは残りの四人を呼びに行った。

「馬と人間二人、こっちに来る。このまま待つ」

 そう伝えるとタァンドルシアが固い表情で頷いた。

「姉さんたちだったら、拘束するのか?」

 俺がそう訊くとタァンドルシアは少しの間険しい表情で考えて、やがて言った。

「本当に聖遺を持って逃げていたなら王宮に戻っても姉にはもう居場所はありませんし、ヤザーニは死罪でしょう。取り返したら好きなところへ行かせます」

 妥当な判断だった。やがて女性を乗せた兎馬を曳いて、男がのろのろと歩いて離宮の廃墟に入っていった。

「間違いありません。姉上とヤザーニ様です」

 タァンドルシアが沈痛な声で言った。

「あの様子じゃ、どこかで兎馬を手に入れて一晩中歩いていたようだな」

 そのまま少しの間待って、二人が出てこないことを確認してから全員で動いた。正面の入り口はほぼ崩れていて、そこに兎馬はいなかった。入れそうにないので裏にまわったのだろう。

 正面にアデルバスとルルッスを置いて逃げ道を塞がせた。俺とヤーンスは他の四人を連れて離宮の外を回り、裏から入ることにした。

「あいつ……よく平気でここに入ったな」

 鈍感なのか勇敢なのか、たぶん疲れて鈍感になっているのだろう。離宮は近づきたくないほど嫌な感じが漂い出している。

 建物は床と壁こそ石や煉瓦でできているが、屋根は木の骨組みに板葺きだったようだ。ほとんどの部分で屋根が崩れ落ちている。建物に近づくと嫌な気配はますます強かった。

 側面から裏に回り込もうとしていた時に、兎馬独特のラッパのような声が響いた。そして耳障りな罵声と悲鳴。

「幽敵! いるぞ!」

 俺とヤーンスが同時にそう叫び、全員が走った。建物の中で女のけたたましい悲鳴が上がった。建物の角を回って裏庭、兎馬が何かに怯えて狂ったように暴れている。

「イシュルとタナデュールはここで!」

俺たちは半分脱落している裏の大扉から中に駆け込んだ。

 ヤーンスを先頭に部屋をいくつも抜けた。崩れ落ちた瓦礫や屋根材で足元はすごく危なっかしいが、ヤーンスはまるで間取りを知っているように迷うことなく大広間へ入り込んだ。

 剣をやたらに振り回しているのはヤザーニだ、だが扱いに慣れていないのが明らかだった。敵は二十人から三十人ほどか、皆ボロボロの衣服を着て棒やら錆びた刃物やらバラバラの武器を携えている。全部人鬼だ。

「おらーっ!」

俺とヤーンスは同時に抜刀して、奴らの注意を惹くために大声を上げて走った。

「ヤーンス! 姫を!」

 だが三姫の姿が見えなかった。悲鳴だけがひときわ高くなり、苦しげに何度か途切れてやがて完全に途絶えた。どうやら石の大テーブルに群がっている奴らの下敷きになっているらしい。だが足元が悪い上に敵は数が多い、なかなか近づけない。

「どけーっ! この野郎!」

 俺とヤーンスで片っ端から叩き斬った。そのうち、敵わない相手だとようやく気がついて生き残っている奴らは逃げ始めた。指揮役がいないから攻める時には揃っていても、逃げようとするとメチャメチャになる。

「シドさーん! ヤーンスさぁーん!」

 裏手でタナデュールの叫び声が上がった。俺とヤーンスは死体を踏み越え瓦礫に躓きながら裏口から走りだした。タナデュールが小型の弩で矢を続けて射ている、どんな仕組みだかわからないが構えたままでたて続けに発射できるらしい。

 苦痛の声が上がり敵が一匹が倒れたが。集団の残りはそいつを置き去りにして走って行き、木の中に紛れて見えなくなった。

「箱ふたつぅ、持って逃げましたぁ!」

「くそっ!」

 三姫たちが持ってきた物を持ち去ったに違いない。短い矢が二本突き立ったまま這いずっている奴にとどめを刺そうとして、俺はそいつが女性だと気がついた。

止めを刺すのをためらっていると、タナデュールが走ってきて至近から首筋に矢を撃ち込んだ。

 面目がなくて、俺は仕方なく森を睨んだ。すると今度はイシュルに押し退けられた。まだヒクヒクと痙攣している敵の首筋を布片で拭ってから注射針を突き刺した。

「うっ!」

 凄惨な光景には麻痺しているはずの俺とヤーンスなのに、それを見て揃って呻きを漏らした。それは斬り合いとは別種の恐怖を感じてしまう光景だった。

「あの集団ならたぶん村丸ごとの数です。女性もいましたし、そう遠くない距離にある村に戻るはずです」

 イシュルが早口でそう言いながら、抜き取った血液をガラスの小さな板に一滴垂らして同じガラス板で挟み込んだ。それを紙で巻いて鉛筆で何か書き込み、瓶に入れて中に消毒液を垂らした。俺もヤーンスも唖然とするほどの手早さだった。

「人鬼ばかりでしたけど、他にはいませんでしたか?」

『こいつの恐怖心はどこにあるんだ?』俺は幽敵よりもイシュルの方が怖くなってきた。

 足取りも重く大広間に戻ると、もっと気が重くなる光景がそこにあった。石の大テーブルに張り付けにされたような姿で、三姫のタフルハームはこと切れていた。引き裂かれた服と血にまみれた下半身、姫がどんな目に遭わされたかは見ただけでわかった。

 疲労と心労と恐怖に姫の心臓は耐えられなかったのだろう。引き裂かれた服で何とか体を隠そうとしているヴェルイシアを、タァンドルシアが無言で見守っていた。俺とヤーンスは右手を胸元にあて、頭を下げて三姫の冥福を祈った。

「タァンドルシア。姫たちの荷物を、奴らが持って逃げた」

 俺がそう告げると、タァンドルシアは三姫の亡骸に視線を向けたまま頷いた。

俺はため息をついて広間を見回した。瓦礫の上に死体が折り重なる凄惨な光景だった。その中にはヤザーニの死体も混ざっていた、無残にも鈍器でなぶり殺されている。

「逃げた方向はわかっている。あいつらはそう遠くない村に向かうだろう」

 タァンドルシアはようやく姉から視線を外して、手の甲で目を拭った。

「行きましょう、このまま……焼き払っていただけますか」

 俺が頭を下げると、タァンドルシアはヴェルイシアに支えられるようにしてテーブルを離れた。

「火種は……ああ、ルルッスが持って……」

 そのとき俺は、ヤーンスの異変に気がついた。テーブルの上にある3姫の死体と、その向こうの壁を見つめて固まっていた。

「おい、ヤーンス。どうした」

 また例の気が抜ける現象かと思ったが、何かが違った。息づかいが荒く、握りしめた手が震えている。

「おい!」

「あの紋章……暖炉……」

 どこか虚ろな声でヤーンスが言った。

「あ?」

 ヤーンスの視線をたどると、壁に作り付けの暖炉の上に彫られた大きな紋章が眼に入った。暖炉も紋章も苔が生えているが、紋章は何とか見分けることができた。

「姫……」

 異様に低いヤーンスの声に、部屋を出ようとしていたタァンドルシアとヴェルイシアが足を止めて振り返った。

「ここを、離宮と言いましたよね」

 ヤーンスではない誰かが喋っているような気がした。

「ええ……私は、そう聞かされました」

 ヤーンスがゆっくりと、体ごとタァンドルシアに向き直った。

「ちがいます。ここは……僕が産まれた、デイデルキュアン家の住まいでした」

「デイデル……キュアン?」

 姫が呆然とした声で言った。

「はい。姫様の、リンツ家に従わず皆殺しにされた、ハインスドラ公デイデルキュアン一族です」

「おいヤーンス! お前、何言ってる!」

「ここの気候が平気なのも、この館を知っているのも当たり前でした。僕はここに住んでいて、ある日母も姉も、妹もリンツ一族に殺されました。あの姫様のように、あのテーブルの上で、腹を切り裂かれて!」

 ヴェルイシアがタァンドルシアを護るように前に出た。ヤーンスが剣を抜き、迷ったように剣先をふらつかせてから右脇に構えた。

数秒の固着があって、ヤーンスとヴェルイシアが同時に動いた。刃が噛み合う音、それから体を打つ重い音がして二人は飛び離れた。

 ヴェルイシアはナイフを構えてそこで再び構えを取ったが、ヤーンスはよろけて床に片膝をついた。ヴェルイシアがヤーンスの剣をナイフで受けて流し、その肘がヤーンスの胸にめり込んだのだ。一瞬だったが、俺は辛うじてその動きを見取った。

「どうして……僕は、ここへ来たのだろう……」

 そうつぶやいてヤーンスは立ち上がり、よろめきながら広間を走り出ていった。





 重ね重ねの惨劇が起こった広間が火に包まれていく。リンツの血族タフルハーム姫とヤザーニの遺体とともに、ありとあらゆる忌まわしいものが火に飲み込まれていく。

 俺たちは少し離れた森の中で、燃える離宮を見守りながらそこで朝を待つことにした。廃墟は派手に火と煙を立ち上らせたので役人と農民らしい一団が様子を見に来たが、結局何もしないで引上げていった。

 タァンドルシアはヤーンスの一件から全く口をきかなくなり、ずっと頭を抱えたままだった。あまりにも沈痛な野営場所の空気に耐えかねて、俺は周辺の警戒に出た。

 離宮の廃墟はいまだにくすぶり続けて、離れた場所でも煙の臭いが漂ってくる。だがそれを除けば特に異常はなかった。ここでも澄んだ夜空に月が輝き、湖がその光を映し出している。空気や水の汚染が深刻なハンマでは、失われてしまった風景だ。

「貧乏だから美しいって……そんなのありか?」

 何かどこかが、ひどく間違っているような気がする。

 微かな波が打ち寄せている湖の際に行き、剣を湖水に浸してから枯れた草の穂で何度も拭った。現場から帰って装備係に預けておけば補修や研ぎまでやってくれるのだが、しばらくそんな余裕もなく戦地を渡り歩いていた。

 刃研ぎに使えそうな小石を何個か拾って岸辺を離れ、離宮の脇を通って野営地に戻ろうとした。そのとき俺は、まだ煙が漂っている裏庭に何かを見た。

 とっさに剣に手をかけていた、煙の中に人影のようなものが見えたのだ。一瞬ヤーンスが戻ってきたのかと思った。

 しかしその人影は戦っていた。剣を振り下ろし、突き、左右に剣を持ち替えて薙ぎ払っていた。ヤーンスの剣筋ではない。

 やがてそれが人ではなく、煙が人の形になっているのだとわかった。微かな夜の風に煙が吹き払われるとその姿は見えなくなったが、新たな煙が流れてくると戦う人影はまた現れた。

 俺の全身にどっと冷たい汗が浮いた。音を立てないようにそろそろとそこを離れて、道を走り渡って逃げた。

「何かあったの?」

 野営地に戻ると、イシュルがすぐに俺の異常に気がついたようだった。

「いや……」

 それほど気温は低くないのに、俺の全身は冷え切っていた。

「異常はない」

 声が変にかすれて、震えていた。出たときと同じ姿勢で俯いていたタァンドルシアが顔を上げた。

「顔、真っ白よ。何があったのよ」

 イシュルが立ち上がって俺の横に座った。

「何でもないんだ」

 剣士が幽霊を見て震え上がったなんて格好が付かない。

 イシュルが俺の胸と背中に手をあてて、ゆっくりと擦った。

「うわぁ……体の芯まで冷えてる」

 イシュルの手が触れたところから俺の体に体温が戻ってきた。俺を見つめていたタァンドルシアがふと目を細めた。

「無念だったのね」

 そう言ってまた顔を伏せた。


 翌朝は夜明けと共にまだうっすらと煙を漂わせている離宮の横から、奴らが逃げた痕跡を見つけ出して追跡を始めた。

 俺はできるだけ離宮の裏庭を見ないようにしていた。この付近で村人の姿を見かけないことが不思議だったが、その理由がやっとわかった。

「ここぉ……昔は、建物いっぱい建ってましたねぇ」

 タナデュールが足元を見ながら言った。

「何でわかる?」

「地面掘った跡とかぁ、基礎とか杭の跡がたくさんあるんですよぉ」

 林を抜けると道の痕跡を見つけた。人が使うことはなくなってほとんど植物に埋もれているが、人ではないものによって踏み分けられていた。

 道の痕跡をたどっていくと朽ちかけた橋があって、その先で村の廃墟に出会った。みんなを離れた場所に待機させて、俺は一人で偵察に向かった。

 小屋と、納屋ほどもある大きめの建物が全部で七棟ある。それに何物かが出入りしているような痕跡が見える、ここが離宮から逃げた奴らの居場所かも知れない。

 足音を忍ばせて村に入り、崩れそうな小屋の裏に身を潜めてしばらく様子を窺った。だが物音一つ聞こえなかった。そのうちふっと、風が何かの臭いを運んできた。血だ。

 そろそろと動いて、隠れていた小屋の中を覗いてみたが空だった。隣の、比較的まともに形で残っている大きめの小屋を覗いた。むっと血の臭いが押し寄せてきた。

 小屋の中で十人近い幽敵が折り重なるようにして死んでいる。どれも急所をひと突きされていた。

「ヤーンスだ」

 たぶん昨夜のうちにヤーンスは離宮から逃げた奴らを追跡して、ここを急襲したのだ。積み重なった死体の隙間に何かを見つけて、俺は死体を蹴って押しのけた。廃村には不似合いな箱がふたつ現れた。

 ひとつは蓋が開けられ中身がぶちまけられていた。死体のひとつが貴石で作られた髪飾りらしいものを握りしめていた。反撃する余裕もなく全員が突き殺されたのだろう。

 もうひとつの箱は打ち壊されていた。中に入っていた物がどれなのかはわからない。

全員をを村に呼び入れて、タァンドルシアに箱を見せた。

「これが、聖遺を納めていた箱です。中を見たことはありませんが、箱を拝んだことがあります」

 壊された箱を指して、タァンドルシアが沈痛な表情で言った。

「こいつらを殺したのはヤーンスに間違いない。あいつが宝物を持って行った」

 俺は手当たり次第にその辺の小屋を叩き壊したくなった。奴はタァンドルシアに復讐するつもりなのだろうか。

「シドさん!」

 村の周囲を調べていたアデルバスが走ってきて俺を呼んだ。入ってきた方向とは反対側に山へ向かう道が続いている。その道を塞ぐように一本の木が倒れていた、幹が美しいほどの断面を見せている。

「ヤーンスだ……これは」

 付近に死体は転がっていないから、これはわざと斬り倒したものだ。

「俺たちを呼んでいやがる」

 村の中に戻りながら他の小屋も中を覗いた、どれも中は空だった。小川から水を引き込んでいるため池があり、そこには水面に突き出るように建てられた小屋があった。そこを確かめようと池に近寄ると、大きな魚が何匹も水面を騒がせた。

「ため池じゃなくて、これ養魚池ですよ」

 アデルバスが小屋の外を指して言った。小屋からはさらに池に張り出した床があって、網を水中に降ろす腕木があった。四つ手の網はもう朽ちて、ロープだけが垂れ下がっている。

 畑の跡もあった。麦らしい作物は雑草と混ざって野生化してしまったようだが、この村はかなり食料の自給ができていたのだ。

「鬼病は……凄く貧しいところで起こると思っていたけど。そうでもないのか?」

 俺が独り言のようにつぶやくとアデルバスが首をひねった。

「僕も、そう教わっていました。食べ物や水が悪い土地で起こるって……でも、ここは違いますね」

 箱を発見した小屋に戻った。さすがに死体だらけの小屋の中にはいたくなかったようで、全員が外に出ている。

「ヤーンスは俺たちを呼んでいるみたいだ。印を残している」

 俺がそう言うとタァンドルシアは頷いた。

「行きましょう」

 たぶんそう答えると予想はしていた。だが俺は、彼女に来てほしくなかった。

「できたら、なんだけど……これ、義援士の不始末みたいな物だから……」

 俺が一人で片を付けるべきだと思った。

「お一人で行かれるの?」

「まあ……その方が、いいかなって……」

「いけません」

 怖い顔でタァンドルシアに却下された。

「ヤーンスが何考えているのかわからないし、危険が……」

「危険なのは最初からわかっています!」

 三姫さんたちを追跡するのとは程度が違いすぎる危険なのだが、彼女は聞き入れてくれなかった。

「行きますよ!」

「ひ……タァンドルシアさん。あの、飾り物とかは……」

 ルルッスが小屋の中を指しながら言った。

「あなたにあげます!」

「え?」

 ルルッスがうろたえていたが、タァンドルシアが行ってしまうので諦めて追いかけてきた。俺はアデルバスを促して早足で先頭に出た。

「何か武器、遣えるか?」

 ヤーンスがいなくなったので、全体の戦闘力が大きく下がってしまったことが気がかりだった。アデルバスを単なる荷物運びとしか考えていなかったが、仕事で鍛えた腕力はあるので戦力になる可能性はある。

「剣の稽古はまだ許されていませんけど、荷馬車が襲われた時に棒で盗賊打ち倒しました」

 頼もしい答えだった。

 川に沿った道をしばらく進んでいくと、またヤーンスが切り倒した木が見つかった。適当な太さだったので枝を切り落として、削って柄を作ってやった。即席の棍棒だ。ヤーンスの穴埋めとまでは行かないが、これで幾分の戦力にはなるだろう。

 休憩になると、イシュルとルルッスは草むらや木立の中に分け入って行く。薬草や食用の植物を捜しているのかも知れない。イシュルは薄い空気で死にそうになっていたのに仕事があるといきなり活発になった、義援士に志願するだけあってやはり強いのだ。

「今いる場所は……たぶんこのあたり」

 俺は地図を指してタァンドルシアに説明した。ヴェルミエ湖を基準にした推定だ。

「道は上りになっているから。方角と歩いた時間からすると、この山にかかっていると思う」

「先はぁー。鉱山で行き止まりかぁー、山越えの道なのかぁ……ですねぇ」

 タナデュールが鉱山を示す印を指して言った。いま歩いている道までは書き込まれていない、しかも地図が作成されたのは六年も前だった。

「下の村があの有様ですしぃ、道は使われていないからぁ。たぶん、廃鉱になっていると思いますよぉ」

 タナデュールが俺の懸念を見抜いたように言った。そして付け加えた。

「ここへ私たちを引き込んでぇ、ヤーンスさんは何をしたいのでしょうねぇ?」

 単純に考えるならタァンドルシアの命を狙っていることになるが、手間と時間をかけてそんな所まで誘い出す理由がわからない。それにヤーンスはタァンドルシアを憎んでいるようには思えなかった。

「さあ……わからない」

 離宮でヴェルイシアと戦いになった時も、ヤーンスは前に出てきたヴェルイシアの殺気に反応してとっさに剣を抜いてしまったとしか思えない。ヤーンスに殺気は感じられなかったし、抜いてから明らかに迷っていた。

「シドさん!」

 イシュルとルルッスが戻ってくると、何か険しい表情でイシュルが言った。

「あの川の水は飲まないでください」

「あ? 何でだ?」

「いまちょっと確かめたら、硬い味がしました」

「水に味があるの?」

 タァンドルシアが聞くと、イシュルが小さく頷いた。

「何も味を感じないのが一番良い水です。許せて微かな塩の味くらいです。でも苦みや硬い味を感じたら、それは飲んではいけない水です」

「飲んだら……どうなる?」

 俺は漠然とした不安を感じながら聞いた。

「水に溶けている物にもよりますけど、すぐにどうなるものではありません。でも何年も飲み続けたら、何か中毒症状が出ると思います」

 俺は自分の不安が何だかわかった。

「あの村……この川の水飲んでいたのかな?」

 俺が言うとイシュルが頷いた。

「あー、井戸はなかったようですぅ。この川があってわざわざどこかへ汲みに行くはずがありませんからぁ、そのまんま飲んでいたと思いますよぉ」

 タナデュールも短時間で村の中を調べていたようだ。

「魚は?」

 アデルバスが聞いた。

「えっ?」

 タナデュールが何度も瞬きした。

「養魚池があったんだ。たぶんあれ、自分たちで食べるための魚だよ」

 アデルバスが言うとタナデュールがイシュルを振り向いた。イシュルの表情が一層厳しくなっていた。

「良くありません、水に溶けている毒素は魚にも溜まります。それを食べたら水よりもっと濃い毒を口にすることになります」

 二人とも俺とたいした変わりない年齢なのに、イシュルとタナデュールが持っている知識と能力は凄いもののようだ。女王様は若くて優秀な技術者を送り込んできたのだ。

「水の毒は、鬼病にも関係があるのですか?」

 タァンドルシアが聞くとイシュルは首を振った。

「無関係ではないと思いますけど、まだはっきりわかっていません。あの村は食糧事情も水も良いのに、村人全部が発病してしまったようですから」

 たったひとつの村を見ただけで、いろいろわかってしまったらしい。

 再び川に沿ってしばらく進むと、土手に囲まれた大きな池に行き当たった。なぜか池の中に屋根だけがいくつも見えている。

「これわぁー、製錬場の跡ですねぇ」

 タナデュールが池の底を見て言った。

「あそこ……骸炭(コークス)炉みたいなのがあります。あそこににょっきり立っているのが精錬炉の煙突でぇ。鉄か……こんな場所でこの規模なら、銀かなぁ……あー。炉滓の山崩れて川埋めちゃったんだぁ……」

 黒っぽい石の山が崩れて精錬場の手前で川をせき止め、周囲に積み上げてあった砕石が土手の役割をして精錬場全体を水没させてしまったのだ。

「ああ……これはいけない……」

 イシュルが呻くように言った。

「これじゃ、川の水に何が溶けているかわかりません」

 堰になっている下で浅瀬を見つけて川を渡り、道の痕跡をたどった。ヤーンスのつけた目印は依然として続いていて、とうとう山の麓までたどり着いた。

 道はそこで行き止まりで、山の中程に坑道が口を開けている。製錬場に何かの鉱石を供給していた鉱山だったのだろうが、採掘はもう行われていない。坑道からは水が流れ出していて坑道の脇で小さな滝になっている。

「あー。あれきっと水脈切ってぇ、採掘できなくなったんじゃないですかねぇ?」

 そんなことはどうでもよかった。

「ここで、あいつは何をしたいんだ?」

「あ、あそこ……木が、すっぱり切り倒されてますぅ」

 やはりヤーンスはここへ俺たちを誘い込むつもりなのだ。奴はここで何をしようと考えているのだろう。

 俺とアデルバスで、坑道の入り口まで斜面の安全を確認してから全員を呼び集めた。

「やっぱり、ここが奴の目的地らしいぞ」

 坑道の入り口は高さが十フィート以上もあって、木の枠で補強されている。いつ遺棄されたものかがわからないが、枠はまだしっかりと入り口を守っているようだ。

「たぶん奴はこの中で……おい、何してるんだ?」

 タナデュールとイシュルが俺の話を聞いていなかった。しゃがみこんで坑道から流れ出る水に見入っている。

「あ……構わないでください。この水が……」

 イシュルが何だかごにょごにょ口の中で言ったが意味がわからない。

「銀かなぁ……」

 タナデュールが落ちていた砕石を拾って虫眼鏡で見ている。

「ねえイシュルぅー。リンドラは、鉄と銀以外何掘ったの?」

「知らなーい」

 俺は完全に無視されている。

「あとは銅と石炭です、それと北の方で岩塩」

 アデルバスが答えた。

「銅鉱石じゃないからやっぱり銀かなぁー。あー、これ何か嫌な色してるしー」

「えっ? なに?」

 タナデュールの独り言にイシュルが敏感に反応した。

「このぉ、黒くてツヤある筋……」

 タナデュールがイシュルに砕石を見せている。

「これ、たぶん砒鉄だと思うよぉ」

「うええ?」

タナデュールが立ち上がってあっちこっちを見回して、水の流れに沿って歩いて行く。

「おい、タナデュール。どこ行く!」

「いや。あのぉー、水ぅ」

 俺もタァンドルシアたちも、唖然として二人を眺めていた。二人とも水を見ると他のことが目に入らなくなるらしい。

「義援士の方は……お仕事に、もの凄く集中なさるのですね」

 タァンドルシアが、感心したのか呆れたのかよくわからない口調で言った。

「まあ……技術専門職は、そうなのかも」

 技術義援士があんなのばかりだと思われたくなかったが、考えてみればそれほど技術屋を知っているわけではなかった。全部あんなのかも知れない。

 坑道から出た水の流れを追って行ったタナデュールがすぐに戻ってきて、イシュルと深刻そうな顔で話し合っている。俺は二人を置いてヤーンスを追うべきかどうか迷った。

「それ、後にできないのか?」

「ちょっと待ってください、すぐ終わりますから!」

 そう言って、イシュルはタナデュールを連れて走って行った。やがてイシュルがもの凄い勢いで走って戻ってきた。

「地図!」

 叫ぶように言うと、俺が出した地図を引ったくるようにしてのぞき込んだ。タナデュールが遅れて戻ってくると、地図のあちこちを指して標高だの高低差だの岩盤だのと二人で話し合っている。

放置して勝手にやらせた方がいいのかと考えていると、イシュルが立ち上がって言った。

「シドさん! 中、行きましょう!」

 まるで俺が行動をためらっていたかのようだった。

「湧水の元、調べます」

 タナデュールが坑道の入り口で荷物から小さな木箱を取り出した。中には火打ちと付け木と火縄が入っている。火打ちの石と金属で付け木を挟んで叩くとすぐに付け木が煙を上げて燃え始めた、その火を火縄に移す。

「あ」

 タナデュールが声を上げた。

「坑道が、空気吸ってますぅー」

 言われてみると、確かに付け木の煙が坑道に流れ込んでいく。

「吸うと……どうなるんだ?」

「坑道が行き止まりじゃなくてぇ。どこかに、通じていているかも知れないんですぅ」

 ヤーンスはそのことを知っているのか、承知の上で俺たちをさらにどこかへ連れて行こうとしているのか。考えると腹が立ってきた。

「おいヤーンス!」

 腹立ち紛れに坑道の中に怒鳴った。

「お前、何がしたいんだよ!」

 坑道の中に俺の声が反響したが、ヤーンスの返事はなかった。

「行きましょう」

 タァンドルシアが言った。まるで俺だけがたじろいでいたような雰囲気だった。

「ちょぉーっと。待ってくださいねぇー」

 タナデュールがまた何かを組み立てていた。木の筒に樹脂を塗ったものの中に、灰色の石のようなものを入れて蓋をした。筒の先に細いパイプを射し込んで、そこに鉄の皿のようなものを取り付けた。何だかわかった。

「あ、ガストーチか」

「はいー。金属部品、ほとんどなくして作りましたぁ」

 タナデュールがそう言いながら二段重ねになった上の筒に水を注いだ。細いパイプの先端に火縄を近づけて慎重に息を吹きかけると『ポン』と音がして火が灯った。

「お前、そんな物作ったらここじゃほとんど魔法使いだぞ」

「いつまでたってもかがり火やローソクじゃぁ、産業が進みません。魔法って思われないように普及させようと思ってぇ、いろいろ考えたんですよぉ」

 ほかの3人だけを外に残していくのも逆に危険そうだった。照明を持ったタナデュールと俺が先頭になって、坑道へ踏み込んだ。

 中へ入ってしまうと、空気の流れは明らかだった。

「これならぁ、障気ガスの心配はありませんねぇ」

 流れる水は冷たく、坑道は途中でいくつか枝分かれした。煙が流れて行く方向と水が流れてくる方向を選んだ。

「水が……何か問題なのか?」

 俺はタナデュールに聞いてみた。

「下の村でぇー。川の水が汚染されていたのってぇー、鉱石が原因だと思いますぅ。汚染の元はたぶん鉱滓だと思うんですけどぉ、でも水が最初から悪いのかも知れないんですよぉ。それで水源を確認したいってぇ、イシュルがぁ」

 俺がこんな穴の中で足を濡らしているのは聖遺という宝物を奪還するためだが、イシュルとタナデュールの目的は別だった。もし調査のために違う道筋を行く必要が生じたら、二人は迷わず別行動を取るに違いなかった。

 俺はタァンドルシアの安全を優先すべきであるのだが、リンドラ全体のことを考えるとイシュルとタナデュールの安全も確保したかった。頭が痛いが、とりあえず今はヤーンスの追跡と鬼病の調査は平行できている。

「ヤーンスのやつ、この中をどうやって進んでいるんだ?」

「私もそれ不思議ですぅー。明かりがなかったら水の流れをたどるしかないですけどぉ、それだって危なすぎますぅー」

 俺の何気ないつぶやきにタナデュールが答えた。そうだとすると、奴はどうしてこの暗闇の中を歩けるのか。一度止まって後ろを確かめてみたくなったが、奴はきっとどこかに身を潜めてやり過ごすに違いなかった。

 ある分岐で、水が流れてくる坑道と煙が流れて行く坑道が別々になった。

「先に水、行くか?」

 俺は冷えてきた足に閉口しながら言ってみたが、イシュルは聞かれたことも気がつかない様子でますます冷たくなった水をかき分けて進んで行く。

 ありがたいことに、それほど進まず水源に行き当たった。行き止まりになった岩の壁、大きな亀裂から勢いよく水が噴き出していた。

イシュルがずぶ濡れになりながらそれを手で受け、口に入れては吐き出すことを繰り返していた。

「この水は大丈夫! 汚染は外だわ!」

 濡れた金髪をかき上げながらイシュルが叫んだ。





 分岐まで引き返し、空気が流れてくる方の坑道を進んだ。しばらくすると水がなくなり、坑道の地面は乾いてきた。そしていつの間にか、坑道ではなく洞窟の様相を帯びていた。掘った穴ではなく自然にできたものだ。

 その穴もどんどん狭くなり、一人が腰を屈めてようやく通れる大きさになった。這って進まなければ無理な状態になったら引き返そうと思ったとき、タナデュールが声を上げた。

「光ぃ、見えますぅ!」

 場所は不明だが、山の下を抜けたのだ。

「さて……あの野郎は、どこだ?」

 俺は周囲を見回したが、ヤーンスの姿はない。

「すぐ火を熾して! イシュルが凍えてる!」

 叫ぶようなタァンドルシアの声だった。ヴェルイシアに引きずられるようにして洞窟から出てきたイシュルは、顔が青白くなって震えていた。水を確かめるのにずぶ濡れになった上に、地底の風に何時間も晒されたのだ。

 時間はまだ早いがそこで火を熾して、イシュルとその衣服を乾かさなくてはならなかった。ルルッスが急いでお湯を沸かし、砂糖を入れたものをイシュルに飲ませた。

「すみません……ちょっと、迂闊でした」

 全員が持っていたありったけの予備衣類を着込まされて、イシュルの顔はようやく元の色を取り戻した。白い肌で血の気が引くと本当に青くなるのだと初めて知った。

 イシュルほどずぶ濡れではないものの、全員が足を含めてあちこちを濡らしていた。それで今日はここで行動を打ち切ることになった。

 地図を睨みがらここの位置を推理していると、早くも森の中は暗くなってきた。全員が暖まるための大きな火の横に、鍋をかけるための石を組んだ竈が別に作られた。

 薪を拾いに行ったアデルバスが戻ってくると、何とその後から兎を2匹ぶら下げたヤーンスが現れた。あまりにも自然に現れたので、みんな反応しそこなってしまった。

「ルルッス、塩をくれ」

 全員が唖然としている間にヤーンスは火のそばで兎の皮を剥いて木の枝に通し、ルルッスが差し出した塩を振って火の傍で地面に挿した。

「……おい」

 ようやく俺は声を絞り出した。

「ちょっと待ってろ」

 ヤーンスは背負っていた袋を降ろし、中から薄い柔革で包まれた物を取り出した。

「姫様……じゃなくてタァンドルシアに返しにきた」

 俺はそれを受け取って、隣のタナデュールに渡した。タナデュールがヴェルイシアに、それからタァンドルシアの手に渡された。

「悪いが確かめるために見たぞ。青銅の、矛と言うか槍の先と、杯みたいな物で間違いない」

 タァンドルシアが震える手で柔革の包みを解き、しばらく見入ってから包み直した。それから気がついたのか、もう一度革を拡げて聖飾を全員に見せた。そしてもう一度包み直し、自分の雑嚢の中へ慎重に納めた。

「理由を……お聞かせいただけますか? ヤーンスさん」

 静かな声でタァンドルシアが言った。

「俺はリンツ家に復讐をしたい訳じゃない。あそこへ行って暖炉と紋章を見るまで忘れていたくらいだからな……」

 兎の解体に使った木の枝を火に投げ入れた。

「だから……箱を持って逃げるあいつらの痕跡をたどって、村まで行って取り戻した。これは義援士としての任務だからな。でも……考える時間が欲しかった」

「何をだよ」

 俺は反射的に聞いてしまったことをすぐに悔やんだ、自分がヤーンスの立場だったらどうするか。復讐に凝り固まって聖飾を持って逃げるかも知れない。売り飛ばせるものかどうかは知らないが、どこかリンツの人間には手の届かない場所へやってしまうだろう。

「お前……どうやって来た?」

「ずっと後ろを付いて行った」

 俺が予想していた通りのことをヤーンスが答えた。

「こっちへ出られるって……知ってたのか?」

ヤーンスは、火にかざしている兎の向きを変えながら首を振った。

「なあシド……俺はこれから、どうしたらいいと思う?」

 そう聞かれても、俺に答えられるはずがなかった。

「デイデルキュアンの人間だってことを……受け容れるか、どうか?」

 そう言ったイシュルに、ヤーンスはちょっと視線を向けた。

「まあ……そこが始まりで、同時に行き着く先なのだろうけど」

 しばらくの間、兎の肉が焼けるちりちりという音だけが聞こえていた。

「俺を拾って育ててくれた人は……」

 ヤーンスは地面から小枝を拾い上げ、しばらくそれを眺めてから火に投げ入れた。

「討伐した盗賊の息子に殺された。そいつは、自分の父親が盗賊だったことを知らなかった。ただの革職人だと思っていたんだ」

「普通……そんなこと、知らせないよな?」

 俺が聞くとヤーンスは微かに頷いた。

「俺が義援剣士になってから、部下だった人に会って。その人が教えてくれた。アハデラ・グリッグゼルは立派な剣士だったと俺に教えたかったのだろう。親父の後を継いで革職人になっていた息子に、黙って刺された……そんな、余計なことを教えてくれた」

 何とはなく、その後は聞きたくなかった。

「仕事の休暇を使って、そいつを探し出した。残してくれた金はたっぷりあったからな……そいつを斬って、何食わぬ顔でまた任務に出た」

「革職人……を?」

 タナデュールが聞くと、ヤーンスはゆっくり頷いた。

「殺そうと思って探したわけじゃなかった。話しを聞きたかっただけだ……だが、そいつも父親と同じことになっていた。革職人だけで食っていけなくて、やっぱり盗賊稼ぎに手を出していた。そいつを含めて、5人も斬る羽目になった。たぶん……他の奴らも普段は堅気の仕事で、盗賊は副業だったんだろう」

 ヤーンスはまた兎の向きを変えた。

「知らなくてもいい事を知って、やらなくてもいい事をやって。もっと、やらなくていい事をやっちまった……」

 焼けた兎から脂が垂れて、熾にしたたり落ちて音を立てた。

「ルルッス、人数分に切り分けてくれ。焼けたところから食って、また炙るんだ」

 俺に渡されたのは頭の所だった。しばらくの間みんな黙って兎の肉を食べ、生焼けの部分を炙ってまた食べた。

「頭は、肉を食ったら骨が焦げるまで焼くんだ。そしたら脳みそが食える」

 焼いてナイフの柄で頭を叩き割った。脳みそは濃厚な味がした。

「リンツの宝物は、一度俺が手にした……それで先祖には、とりあえず言い訳になると思う」

 食べ終わった骨を火に放り込んで、ヤーンスが言った。

「もう……いいと、言うことですか?」

 タァンドルシアが聞くと、ヤーンスはゆっくり頷いた。

「聖遺を取り戻していただいたことを、リンドラ国民に代わって感謝申し上げます」

 タァンドルシアがそう言って頭を下げた、ヤーンスの件はこれで終わってしまった。俺個人としてはひどく物足りないのだが、もう何も言えなくなった。

 みんなが寝入った夜半になって雨が降り出して、急いで洞窟に潜り込んだ。雨は夜が明けてから激しくなり一日降り続いた。薪もないのでうすら寒い洞窟の中で火も焚けず、みんなひたすら耐えるしかなかった。

「どうする? 洞窟を戻るか、出て道を探すか……」

 俺はヤーンスと帰路の検討を続けた。明かりはタナデュールのガストーチだけが頼りだが、ガス石は持たせてあと1日分だそうだ。

タナデュールが坑道を戻ることができるか一人で確認しに行き、その間は風に吹き消されそうなロウソクしか明かりがなかった。

「正確な場所はわからないが……移動した時間から考えると、いまこの辺じゃないかと思う」

 リンツヒラーからかなり北の位置をヤーンスは指した。

「ハイデン州とグーンドラ州の間? もうマローメサバルに近いじゃないか」

「グーンドラは、イッスリマ家の領地です」

 ヴェルイシアが言った。

「イッスリマって……タァンドルシアの、家系か?」

 俺が聞き返すとヴェルイシアが頷いた。

「ヴェルイシアも、グーンドラの生まれです」

 タァンドルシアが言った。

「だったらイッスリマの家に寄って馬車でも借りれば、楽に帰れるんじゃないか?」

 俺が言うと、タァンドルシアはゆっくり首を振った。

「だめです、リンツ家のもめ事に巻き込むことになります」

「ああ……そうか……」

 タナデュールが戻ってきて言った。

「だめだすぅー。水かさ上がって、もう通れませーん」

 雨がやむまで待って、洞窟から出て道を探すしかなくなった。全員が体を寄せ合ってそこで眠った。だが地面はごつごつの岩で、湿ってひんやりした風がずっと吹き付けてくる。とても眠れるものではなかった。


 翌朝に雨はやんでいた。だが洞窟から出ると事態は一層悪化していることがわかった。ヴェルイシアを除いて女性全員の顔色が悪くなっていた。特にタァンドルシアは歩くのも辛そうな状態だ。火を焚いて体を温めたいが、森の中は何もかも雨で濡れてしまっている。

 三日連続の野宿など俺とヤーンスには何でもないことだが、お姫様の体にはもの凄い負担だったのだ。しかもその前は半日冷たい水の中を歩いた上に寒さでろくに眠れなかった。

「まずいぞ……何とか乾いた場所を探さないと」

 急いで作戦を考えなくてはならなかった。このままだとタァンドルシアは動けなくなる、できるだけ早く暖かい場所で休ませなければならない。

「少し登って、周りを見てきます」

 そう言うとアデルバスが洞窟の上をよじ登って行った。樹木の高さより登れば視界が得られる。

「あっちの方向にー、畑みたいに拓いた場所があるー!」

 ヴェルイシアがタァンドルシアを背負って濡れた森の中を移動した、とにかく火を焚けるだけの場所でもいいから移動しなければならない。のろのろと一時間余り移動をすると森が切れた。

「葡萄畑だ……」

 見渡す限りに葡萄の樹が植わった土地が拡がっている。今は採り入れの季節ではないから畑には人はいない。その中をしばらく行くと、農夫が休憩に使うらしい屋根だけで壁のない小屋があった。

 今は乾いた場所なら何でも構わなかったので、そこで火を熾してお湯を沸かした。イシュルはまた真っ青だし、タァンドルシアは顔が土気色になっている。

「いま人がこっちを見て、どこかへ行った」

 全員に砂糖湯が行き渡って人心地を取り戻した頃、見張りをしていたヤーンスが言った。だが何がどうでも動ける状態ではなかった、成り行きに任せるしかない。

 やがて、二人の男が馬に乗ってやって来るのが見えた。

「あれは……軍人だな。役人って雰囲気じゃない」

 俺が言うとヤーンスも立ち上がって、やって来る二人を見た。

「……そうだな」

 俺とヤーンスは残り全員をそこに留めて、小屋の外に出た。

「ここで何をしている」

 馬に乗った二人が、少し離れた場所で止まって聞いた。鞍に剣を差していて、あきらかに軍人だ。片方は少し後ろに控えて援護の体制になっている。

「旅の者だ。森で雨に遭って連れが具合を悪くした。それで小屋を借りて休んでいた」

 ヤーンスが答えた。

「どこから来た」

 俺たちが少しでも敵対行為と見える動きをすれば、馬で突っ込んでくるだろう。

「リンツヒラーから、ハイデン州を抜けてきた」

 馬上の男がちょっと表情を動かした。

「おい。ハイデンを通ってきて、どうしてこんな場所にいる。街道から離れているし人も住んでいない場所だぞ、行き先はどこだ」

「ヴェルミエ湖から山に入って、廃鉱を抜けてこっちに出てきた。人を探して来たので、行き先は不明だ」

 嘘でもごまかしでもないが、信じられないほど無茶な話しだ。男が後ろに控えているもう一人を振り返った。後ろの男が首を傾げた。

「旅の目的が、人探しか?」

「そうだ」

 男は俺たちの扱いに困っている様子だった。

「取り調べが必要だ、全員巡視所まで来て貰おう。お前たちの剣は預かる」

「ここはグーンドラ州か?」

 ヤーンスが聞いた。

「そうだ。ハイデン州のように甘くはないぞ、おとなしくついてこい」

 そう言った男の目が俺たちの背後に向けられた。ヴェルイシアに腕を支えられて、タァンドルシアがこちらへ歩いて来る。

「私はタァンドルシア・フィム・イッスリマ・シシル・ターリアム・リンツです。これは全員私の同行者で、女性がみんな弱っています。できたら宿泊の場所をお借りできませんでしょうか?」

 男が明らかに動揺した。

「イッスリマ……ターリアム……リンツだと?」

 タァンドルシアが袖をまくり上げ、指輪と腕輪を示した。男が慌てて馬を降りて地面に膝をついた。

 それから大騒ぎになった、中隊規模の騎馬隊がやってきて俺たち全員を馬に乗せて運んだ。巡視所では馬車が待っていて、そこからまた移動になった。そして着いたところはどう見ても軍営だった。

 兵が整列して旗を捧げ持ち、タァンドルシアが馬車を降りると抜剣の敬礼が捧げられた。タァンドルシアは土気色の顔のまま、背を伸ばして兵の間を歩いた。

 儀仗列の奥では軍服にマントを着けた老人を中心に、何人もの男女が並んでタァンドルシアを待っていた。

「シシルターリアム様、バールグート・イッスリマでございます。お召しを心より歓迎いたします」

 老人がタァンドルシアの前に片膝をついた。タァンドルシアが一瞬戸惑い、それから顔をくしゃくしゃにした。

「お祖父様!」

 タァンドルシアが叫んで老人に抱きついた。

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