第2話「揺らぎの国」


 『シシリターリアム』タァンドルシア姫を乗せた馬車は、舗装もない土の道路をがたがたと走って飛行場から市街へ入った。侍女が一人随行で乗っているのだが、揺れで舌を噛みそうなのでタァンドルシアは話しをすることもできなかった。

 市街に入ると道路は石畳になるが、馬車の乗り心地はあまり変わらない。サスペンションなどという機構がついていないので、乗客を衝撃から護るのは布と藁を何重にも重ねた分厚いシートだけだ。

「何があったの? お父様?」

 王宮が見えて馬車が速度を緩めたので、ようやくタァンドルシア姫は話しができる状態になった。飛行機の中着替えさせられている間は、誰も何も説明してくれなかったのだ。もっとも彼女たちはお召し替えの下級女官なので、本当に何も知らなかったのかも知れない。

「いえ。カトラターリアム様が、白湯をお召しにならなくおなりです」

 馬車の揺れで気分が悪くなったのか、顔色の悪い侍女が言った。カトラターリアムは母親違いの姉姫で、『お湯を飲まなくなった』は『逝去』の遠回しな表現だった。

「……そう」

 タァンドルシア姫はそれだけ答えて窓の外に目をやった。馬車の横を黒髪の女性が走って付いてくる。たいした速度ではないのだが、馬車にずっと走って付いてくるのだから普通ではない。

 馬車は速度を落として城の楼門をくぐり、宮殿の手前から横道に入った。

 宮殿の周囲には広大な庭園が拡がり、そこにいくつもの館がある。王子たちの館と、リンツ王の后と姫が住む館だ。

リンツ7世にはかつては五人の公妃がいたが、既に二人は高齢や病気で世を去っている。

 馬車は城内で『東の白館』と呼ばれている館の前で止まった。リンツ第5公妃スリルシアの住まいである。タァンドルシアにとってはここが実家だ。

 タァンドルシアは館に入るとまず『お湿し』と呼ばれる部屋に連れて行かれた、浴室だが湯船があるわけではない。香油とハーブが入ったお湯を満たした大桶がいくつも運び込まれて、タァンドルシアはそこで全身を拭き清められるのだ。

「ヴェルイシア、姉様は何で?」

 三人の女官に全身を拭き上げられ髪を梳られながら、タァンドルシアは部屋の隅に控えている女性に話しかけた。

「急でした。石の花を嗅がれたと」

 『毒殺された』の隠語だった。女官たちの手が一瞬止まり、タァンドルシアの表情が強張った。

「犯人は?」

「まだです」

「電信で呼び戻すなんて何かと思ったら……もうこの国、どうなってるのよ。で……亡くなったのはいつ?」

「一昨日です、お屋敷でも全て銀器をお使いください」

 タァンドルシアはしばらくの間眉をひそめて考えて、それから女官長のタラーシェンに聞いた。

「ねえ……もしかして、お葬式ってまだ先じゃないの?」

 タラーシェンは当然のように頷いて答えた。

「十日後の予定になっています」

「もう……」

 タァンドルシアは数秒うなだれてから顔を上げた。

「何で電信なんか使うのよ、慌てて帰ってきて損したわ」

「姫様。姉姫様が暗殺されたのですから、普通は悲しむか不安がるものですよ」

 ヴェルイシアに皮肉を言われ、タァンドルシアがちょっと不快そうに眉を寄せた。

「母上が一緒の兄上と姉上と、お后違いの姉上じゃ感情が全然違うわ」

「そうかも知れませんが」

「それに私を暗殺して何の意味があるのよ、ヴェルイシアがいたら不安なんかないわ。でもこの国って、人の権利も命も軽すぎるわ」

 タァンドルシアの体を拭いていた女官の手がまた一瞬止まった。

「ここをハンマと比べるのは無理があると思います」

 ヴェルイシアの声は、その表情と同じくあまり感情が感じられなかった。

「医療だとかそんなことじゃなくて、もっと基本の話しよ。平等の理念から考えたら、ここじゃ王族の命だって軽くなくちゃいけないのよ」

「難しいことをおっしゃる」

「難しくなんかないわよ。ハンマの王女様だって、毎日平民と同じく王宮から出て外で仕事なさっているのよ」

「王宮に住まわれていたら平等とは思えませんが」

「うるさいわね。だから王女様は国政のお仕事の上に五王連合国の福祉のために働いていらっしゃるの! 平民よりもっと大変なお仕事なさっていらっしゃるのよ。収入がたくさんあるってことは、それだけ大きな責任を果たさなくちゃいけないの!」

 そこでタァンドルシアはタオルを渡され、自分で顔を拭った。

「それなのに私は国費を使って留学して、帰ってきたら何十人にも出迎えされて女官使って体を拭いてもらって……あ、ごめんね。あなたたちは何も悪くないのよ」

 女官たちの表情が強張っていることに気がついて、タァンドルシアは女官たちに声をかけた。

「自分に与えられた仕事をして、お給料貰っているのは正しいことなのよ」

「私たちはシシルターリアム様にお仕えすることが喜びです」

 一番若い女官がそう言って、傍で見守っている女官長に睨まれた。女官から王族に話しかけるなど、普通は許されないのだ。

「いいのよ。そう思ってくれるなら私も嬉しいわ」


 清めを終えたタァンドルシアは金糸や銀糸の刺繍で飾られた装束に包まれて、ようやく母スリルシアの前に出ることができた。半年ぶりの帰国だった。

「お母様、タァンドルシアただ今戻りました」

 母の前で片膝をついて頭を下げ、タァンドルシアは帰国の挨拶を行った。

「ご無事のお戻りをウードラス神に感謝いたします。タァンドルシア。おかけなさい、顔を見せて」

 そこでようやくタァンドルシアは母の隣に座ることができる。侍女がお茶を運んでくると、スリルシアは全員を退出させた。

「どうして便りのひとつもよこさなかったの」

 お茶のカップをタァンドルシアに渡すと、スリルシアは厳しい声で言った。タァンドルシアがちょっと首をすくめた。

「一度は帰ってきましたよ、お母様」

「それは神殿礼拝があったからでしょ。終わったら、またすぐハンマに行ってしまったではないですか」

「でもお母様。私が王宮宛てに郵便を出したらどうなるか、ご存じですか?」

 五王連合所属国の中では国境を跨いでも各国内普通料金が適用される。ハンマからリンドラ国内宛ての郵便も、例の骨董飛行機で運ばれる場合でも普通料金だ。

 だがタァンドルシア姫がハンマからリンドラ王宮宛てで郵便を差し立てたら、その内容にかかわらずハンマ郵政局が在ハンマリンドラ大使館に取り扱いの確認を求めることになっている。

 何しろリンドラからハンマに留学する王族はタァンドルシアが初めてで、その通信は『公用』として扱うようにリンドラ宰相が決めてしまったのだ。

 だからリンドラ大使館はハンマ郵政局からタァンドルシアの封書を預かり、クーリエを仕立てて遺漏のないようにリンドラへと運ぶ。たった封書一通のために骨董飛行機が臨時で飛んでしまうこともあり得る。膨大な経費が発生してしまうのだ。

 この余計なお世話を、ハンマ留学を始めてすぐにリンドラ公使自らがタァンドルシアの元に参じて伝えたのだ。公使のおもねりとしか考えられないが、タァンドルシアは逆にご機嫌伺いの手紙すら出せない状態になってしまった。

 それを説明したのだが、スリルシアは聞く耳を持たなかった。かなりのお小言を聞かされた後、タァンドルシアは母と共に館から僅かな距離を馬車に乗って宮殿に向かった。


 リンツ7世はここ二年ほど、宮殿から出ることはなくなっていた。以前は体重二百二十ポンド(百㎏)近い体躯であったのだが、足腰を痛めてからは横になる生活が続き次第に痩せ始めた。

 今年に入ってからは謁見どころか執務室に出ることもなくなり、ほとんど寝たきりのような状態になっている。

 スリルシアは宰相トラセンドムール・ホーヘフェルオーツに断りを入れ、侍医に状態を聞いてみた。今日は時々目を覚ますことがあるらしい。

「お父様……」

 タァンドルシア姫は怯えたような声で寝台の父に声をかけた。微かに瞼が動いた。

「タァンドルシアでございます。ハンマから戻りました」

 リンツ・シシル・リンツ(リンツ7世)が、震える瞼を開いた。

「お父様」

「もう……」

 父の言葉に、タァンドルシアはそこで固まった。

「もう、おやめください。それ以上は……」

 タァンドルシアはおろおろと母を振り返った。

「父上……お願いで……ございます……」

「昔を、思い出していらっしゃるのね……」

「お祖父様……は……?」

「あなたから見てお祖父様は5世様よ……きっと、古い戦いの夢を見ていらっしゃるのよ」

 タァンドルシアは祖父を知らなかった。彼女が産まれる遙か前に、戦争で受けた傷が元で死んでいたのだ。その後を継いで僅か在位二年で病没した父の兄リンツ6世も知らない。

「お母様……父上は……」

「もう一年以上……あなたがハンマへ立った後から、お加減が悪くおなりです」

「もの凄く、お窶れになって……」

 王の住まいである宮殿奥から退出すると、そこにリンツ第一王子であるヴェルドーツの姿があった。正式な名はタァンドルシア同様に長く、『ヴェルドーツ・フィム・テテルハラム・アージュ・ターテュンカ・リンツ』と言う。

「タァンドルシア、来い。話がある」

 挨拶も抜きでヴェルドーツが言った。母娘は膝を折って頭を下げた。

「ただ今、殿へのご挨拶を済ませたところでございます」

「タァンドルシアだけでいい」

 ヴェルドーツはスリルシアを無視して言った。タァンドルシアはおろおろと母と兄を見比べると、スリルシアが目顔で『行きなさい』と伝えた。

 ヴェルドーツはリンツ王が使っていた執務室へ入ると、従者も侍女も退出させた。

「公社の義援士と一緒に帰ってきたと聞いたが」

 執務用の大きな机につき、タァンドルシアを立たせたままヴェルドーツは聞いた。

「はい。警備を兼ねた助手の交代でおいでになったそうです」

 タァンドルシアは固い声で兄に問い返した。

「話をしたのか?」

「はい。飛行機の中では」

 ヴェルドーツは不快そうな表情になった。

「そんな者と迂闊に口をきくな。ハンマの間諜(スパイ)かもしれないぞ!」

「ハンマのマリリエル王女様から使わされたお方です。王女様がそんな者を……」

「口答えをするな!」

 怒鳴りつけられて、タァンドルシアは一瞬微かに体を震わせた。

「国内の様子や王宮の中について聞かれた訳ではありません。義援士のお仕事について私がお話を伺ったのです」

「いま何が起こっているか、知っているな」

「カトラターリアム様のことは……さっき、聞きました」

「それだけではない」

 ヴェルドーツは大きく息をついた。

「スーダヤージェ(聖遺物)が持ち出された。今日、弔問に来た外王子ヤザーニの奴がタランターリアム(第三姫)と一緒に父上を見舞った。枕元からなくなっているのがわかったのはその後だ」

「ヤザーニ様が聖遺をお持ちになってどうするのでしょう? 持っていて何かの役に立つとは思えません」

「理由などわからん、だがあの二人が持ち出したとしか思えない。父上があのご様子で聖遺がないと、もしもの時は困ったことになる」

 ヴェルドーツはまた大きく息をついて椅子の背に体を預けた。

「誰か……兄上様の、どなたかが。取り戻しに?」

「それができれば苦労はしない。だが物が聖遺では弟たちには任せられない」

「なぜ……ですか?」

「私は父上の代わりでここを動けない。第二のヴァルヴァンデはハイデン州独立を目論んでいる奴らが付いているから聖遺を持ち逃げされる危険がある。第三のアトラミケルは愚か者だから自分で探しに行かず、戻ってくるように祈祷を依頼するだろう」

「兄上が……ヴァルヴァンデ様にここを任せて、ご自分で行かれればいいのではありませんか?」

「もし父上がお隠れになって……その時に私が不在で聖遺もなければ、本当に収拾がつかなくなるのだ」

 タァンドルシアは目を閉じてため息をついた。

「私に……探しに行けと、おっしゃるのですか?」

「お前では無理なことくらいわかっている。ヴェルイシアに行かせろ」

 タァンドルシアは目を開けて、困惑した表情でヴェルドーツを見た。

「ヴェルイシアはイッスリマの家人です。私以外のことでは動きません」

「お前が命令しろ!」

「私の身に関することで私の命令は聞いてくれますが、それ以外のことはイッスリマ家を通さないと無理です。兄上がイッスリマ家に頼んでください」

「そんなことができるか!」

 タァンドルシアはしばらく兄を見つめ、視線をそらした。

「兄上は、ダーナカトラ様以外は娶られないのですか?」

 タァンドルシアはそっぽを向いたまま言った。

「そんなことは関係ない!」

「ダーナカトラ様が亡くなられてもう3年ですよ」

「タァンドルシア! 言われたとおりにヴェルイシアを使え!」

「それは無理だと申し上げております!」

 ヴェルドーツは、怒りで顔を真っ赤にしながらタァンドルシアを睨んだ。

「お前だけだ! 私にそんな口を利くのは! 父上は……お前を、甘やかしすぎた!」

「姉上たちが兄上の前でどのような口を利くかなんて存じません。私の口が兄上のお気に召さないとしたら、ハンマの教育がリンドラには合わないのだと思います」

「お前の態度を見れば、ろくでもない教育を受けたとすぐにわかる!」

 タァンドルシアがヴェルドーツを見据えて、静かな声で言い返した。

「私がハンマの大学で学んでいるのは、五王連合に関係する法律・行政・経済のことです。そして王族としての作法や知識をマリリエル王女様直々に学ばせていただいています。学ばなくてはならないことが多すぎて、いくら時間があっても足りません」

「お前は……」

 ヴェルドーツは席から立ち上がったが、その後は言葉に詰まったように何も言わなかった。リンドラにおいては一般市民の子供を対象とした学校教育はまだ始まったばかりで、地方に行けば義務化はされていても学校がない州もある状態だった。予算がないのだ。

「そんなことを、学ませに……」

 ヴェルドーツは息をついてゆっくりと腰を下ろした。

「ハンマに、戻ることを禁じる」

 ヴェルドーツは自信のない声で言った。

「申し訳ありませんが、兄上はそのような命令権をお持ちではありません」

 ヴェルドーツの頬が引きつったように動いた。タァンドルシアの言葉は、『長兄に逆らう』というあり得ない対応だった。

「もういい! 出て行け!」

 タァンドルシアが必要以上に丁寧な礼をして部屋を出て行くと、ヴェルドーツは荒々しい足音を立てて王宮の北側に付随する行政府館に向かった。

「宰相はいるか!」

 うろたえる下級役人を叱責するような声でヴェルドーツが言うと、そんなことには慣れた様子の老官吏が宰相執務室に王子を導いた。

「いまタァンドルシアと話しをしたが、ヴェルイシアを使うのは無理だ」

 執務机から立ち上がって頭を下げた宰相トラセンドムール・ホーヘフェルオーツに、王子は不機嫌そのものの口調で言った。

「私はあのような者を使うことには賛成いたしかねます。紛失について、式部の責任者に事情は聞かれましたか?」

「それは……軍か行政府でやることではないのか?」

「いえ。侍従と女官は全て式部の所属で、式部は王室の直下でございます。私どもではできかねます」

「式部長をここへ呼べ!」

 宰相は職員を呼び式部長を呼ぶように伝えたが、職員はうろたえていた。

「式部長は、先日の……カトラターリアム様の、事件で、責めを受けまして……式部から、あの、放逐されております」

「代わりの者がおろう! 今日シシリターリアムの迎えを指示したのは誰だ!」

 職員は縮み上がって小さな声で答えた。

「まだ、こちらには連絡が来ておらず……誰が式部長なのかわかりません」

「わかった……私が式部に行ってくる」

 ヴェルドーツは渋い表情で言って職員を下がらせた。

「宰相。一連の事態が収まるまで、国境を封鎖したい」

 トラゼントムールは一瞬言葉に詰まったようだった。

「各国境には、既に軍兵と役人を配しております。完全な封鎖となりますと、州に命じて動員をかけなければ無理ですぞ」

「ハンマとの間だけでもいい。ハンマに逃げ込まれるとやっかいなことになる」

「それなら可能ですが、航空便も止めますか? 外交行嚢や郵便まで止まりますが」

「何便か止まったところで、こちらが困ることはあるまい」


 タァンドルシアが執務室を出ると、それを待っていたように第二王子ヴァルヴァンデと第三王子アトラミケルが現れて会議用の一室にタァンドルシアを引っ張り込んだ。

「何ですか兄上方。この、なさりようは!」

 タァンドルシアが眉間に怒りのしわを寄せながら言った。

「ヴェルドーツと何を話した」

 ヴァルヴァンデがタァンドルシアの腕を掴んで聞いた。

「たぶん兄上方もご存じのことです。父上と、亡くなった姉上のこと」

 そう答えてタァンドルシアは兄の手を振り払った。

「ヴェルドーツは捜索に行くのか?」

 ヴァルヴァンデが急くように重ねて聞いた。

「聖遺のことですか? 政務で動けないとおっしゃってなさいました」

「それじゃどうするんだ?」

「知りません! 私に聞かないでください!」

「お前は本当に……ヴェルドーツ様みたいな口の効き方をするなぁ」

 アトラミケルがそう言うと、ヴァルヴァンデが不快そうに弟王子を見た。

「何だ……お前に探しに行かせると思ったのに、違うのか」

「どうしてそうなるのですか! こんなところで私に絡まないで、ご自分で行かれたらいかがですか!」

「そんなにわめくな、はしたない」

 こめかみに青筋を立てているタァンドルシアを疎ましそうに見て、ヴァルヴァンデは部屋を出ていこうとした。

「あ、兄上……どちらへ?」

「ヴェルドーツが動かないならそれでいい、俺はちょっと出かけてくる。ヴェルドーツには黙っていろよ」

「もしかして、本当に探しに行くのかしら……」

 タァンドルシアが小声で言うと、それが聞こえたのかアトラミケルが落ち着かない様子になった。

「兄上たちの御用は、これで終わりですか?」

 不機嫌な声でタァンドルシアが聞くと、アトラミケルは首を振った。

「いや、ああ……イリュースが、ずっと会いたがっていた。今度はいつ帰ってくるのかって。見舞いに、来てもらえないか?」

「サーエンターリアム(第五姫)様のお具合はいかがですか?」

「良くなったり……また動けなくなったり、あまり変わりないよ」

 娘が戻るのを待っていたスリルシアに断りを言って、タァンドルシアはアトラミケルの馬車で第四正后ハーランサイエと第五姫イリュースが住む『西の青館』に向かった。

「お帰りになったばかりなのに、ごめんなさいね。タァンドルシア」

 イリュースの声はか細く、息に嫌な音が混ざっていた。

「またお香焚いてるの? 胸に悪いからダメだって言ったでしょ」

 イリュースとタァンドルシアは産まれが数日違いであり、いつからか二人きりの時はお互いに敬語を使わない間柄になっていた。希に他の兄姉が見舞いに来てもイリュースの傍までは来ないが、タァンドルシアはイリュースのベッドに腰を下ろす。

「胸の病にはきれいな空気と栄養が必要なの!」

 タァンドルシアは足元から紙箱や袋をいくつも取り出した。

「はいこれ、食べて」

 途中で自分の館にたち寄って、ハンマから持ってきた旅行鞄をそのまま持ってきたのだ。それにはリンドラでは手に入らないチョコレートやソフトビスク、バタカロッツ(バターキャンディ)が詰め込まれていた。

「タァンドルシア、お菓子でリンドラを破産させる気?」

「それは大げさ」

 ハンマではどうと言うほどの値段ではない菓子なのだ、しかしそれを輸入して流通させる力がリンドラにはなかった。乏しい経済力と貧弱な運送能力は、蝋燭や食用油、穀物といった生活必需品を少量輸入するのが精一杯なのだ。

「帰ってくると、自分の国が貧乏すぎて悲しくなるわ」

「仕方ないわよ。私たちが産まれるちょっと前まで国中が戦争だったのだから」

 イリュースが、バタカロッツの小さなかけらをつまんで口に入れた。

「あ……美味しい。すごく甘い」

 嬉しそうに口を動かすイリュースの肌は、透けるように白い。健康であればタァンドルシアと同じく浅黒いはずなのだ。胸に宿った病が、イリュースから全てを奪っている。

「イリュースの病気も、ハンマだったらすぐ治るのに……」

 イリュースはタァンドルシアを見てゆっくり首を振った。

「神様のお決めになったこと、私は逆らわない。治るときは治るし、治らないなら仕方ない……時々僧侶様に来ていただいてお話を聞くの。それで何も間違ってはいないって、思う」

 イリュースとタァンドルシアは同時にベッド脇にある金色の箱に目をやった。両手で持てるほどの大きさで、その一面は両開きの扉になっている。扉は開けられていて、内側も金箔で飾られた箱の中に見慣れない像が収められている。

 イリュースの母が産まれた地にいる神の像だと聞いた。この神像を拝むためにイリュースは香を焚いているのだ。

「光の賜りに、命の賜りに、森と水の精霊に、御神のお力の永久ならんことを。善き心ある物に祝福を、世と人に尽くす者に、祝福を」

 タァンドルシアは小さな声で神像に祈りを捧げた。リンドラ高地族の守護神ウードラスへの祈りだったが、タァンドルシアはそれしか知らなかった。

「なに?」

 イリュースにも祭文が聞こえたらしい。

「何でもない……神様だって平等なはずだって、思ったの」





 街中に自動車は走っていない、路面電車も走っていない。空に電線は張り巡らされていない。透明な空以外には何もない。

 石積みの家と畑が終わると、木と石を使った二階建ての大きな建物が増えてきた。道路は石畳になって幅が広くなり、そこがリンドラの首都リンツヒラーの中心だった。パンやわずかな野菜を売っている店はあるが、これではハンマのど田舎にある古い町にも負ける。

 何しろリンドラ全体の総生産がハンマの中級都市ひとつに及ばないのだ、つまり国中まんべんなく貧乏なのだ。

 俺たちの何が珍しいのか、子供たちがぞろぞろついてくる。

「子供が多いんだな……」

「赤ん坊の死亡率がもの凄く高いんだ。産まれた子供の半分は1年以内に死ぬ」

「……それでたくさん作るのか」

「だから平均寿命がいつまで経っても五十歳を越えられない。リンツヒラーは公社で水道施設を整備したから、衛生状態はいくらかマシな方だ」

 人だけは多いが何だか活気のない街を歩いて、ヤーンスは街中で一番大きな建物の門扉を潜って中に入った。そこで異質な物を目にした、電線だ。

「ここの主人センテルバスさんが今回の依頼者だ。元義援士で、ヤマ(仕事)の間のねぐらも提供してくれる」

「ここだけ電気が来ているのか?」

 俺は電線を見上げながらヤーンスに聞いた。

「電気じゃなくて電信の線だ。公商館だから特別に許可されていて、国内とハンマの支店に通じているそうだ」

 門から建物までは結構な距離があった。商館だから商品の積み卸しをここで行うのだろうか。子供たちもこの中までは入ってこなかった。

館の大きなドアをノックすると、ドアに付いている小窓が開いた。

「ヤーンスだ。もう一人の剣士がいま着いた」

 ドア中の小ドアが開けられると、そこは広々とした空間で、そのまま中庭に通じている。きっと荷さばき所も兼ねているのだ。

 ヤーンスは案内もされずに二階に上がり、ドアのひとつをノックした。背は高くないが恰幅のいい男が笑いかけてきた。

「やあ、センテルバス・マイテザールだ。よく来てくれた」

 俺とヤーンスはセンテルバスの私室に招き入れられた。

「シド・ヨギュルバスです。マイテザールさんは……ハンマ出身ですか?」

 最後に「バス」が付く名や姓はハンマに多いのだ。

「そうだ。生まれはハンマだよ、こっちへ来たのはマリリエル王女様に頼まれてでね」

 俺はマリリエル王女様から直々に頼まれたこと、ここへ来る飛行機でタァンドルシア姫と一緒になったことを話した。

「ああ……四姫様の葬儀で呼び戻されたんだな」

「ヤーンスから、毒殺かも知れないと聞きましたが」

 俺が聞くとセンテルバスは深刻な表情で頷いた。

「状況からしてそうらしいと言うだけだ。王宮の水差しが全て新しい物に代えられた。王宮にあった予備の物まで全て捨てられたらしくて、新しい品物をうちで納入した。どうしていきなりそんなことをするのかと思ったらすぐに三姫様がお亡くなりになったと報せが出てね。これは部屋に置かれる飲み水の水差しに毒が入れられたんじゃないかと思ったんだ」

「死んだのは、一人だけですか?」

「公表されているのはね。王族以外は、宰相でもなければ公表なんかされない」

 女の子がお茶を運んできた。娘のルルッスだとセンテルバスが紹介した。

「ハンマのお茶と同じだと思っていたら驚くよ」

 センテルバスが笑いながらカップにお茶を注いでくれた。ミルクティだが、もの凄く濃密な泡が立っている。

「発酵させて型に押し込んで固めた茶葉を砕いて煮出す。山羊の乳を入れて混ぜ棒で葉を押しつぶしながら混ぜて、濾すんだ。食事の時は塩を入れることもある」

 濃厚な味で、黒砂糖の固まりを入れるとさらに濃厚になった。

「これに煎った麦の粉を入れて練って、それだけが食事という貧しい国民も少なくないのだよ」

「こんな高地ですから作物の種類も少ないでしょうね」

 俺が言うとセンテルバスが頷いた。

「この、リンツヒラーがあるリンドラ州は野生種に近い麦とイモと豆、あとは羊くらいしか農産物がない。下の方にあるハイデン州やグーンドラ州はいろいろな産物があるのだが、物流の能力が追いつかなくてリンドラ州ではいつも食料が足りない」

 センテルバスはお茶を運んできたトレーの上を指した。

「塩も砂糖も国の専売で税金がかかる。リンドラ州の岩塩坑は王の所有で、昔はそれでかなり潤ったこともあったが今は安い海塩が輸入できるようになってしまった。だから政府は今どうやって安い塩を国内に入れないかで無駄な苦労をしている、低い税率にして流通量を増やせばいいと思うのだがね。国民の生活を全く考えていないんだ」

 俺は塩味のミルクティがどんな味なのかを想像してみたが、実際に試してみようとは思わなかった。

「暗殺事件との関係ははっきりしないが、現王のリンツ7世はもう高齢でね。まあリンドラは平均寿命が五十歳に満たないのだが、王はもう六十を越えている」

 そこでセンテルバスは俺たちのカップにお茶を注ぎ足した。

「王子が三人……他にリンツ姓ではない王子もいるのだが。困ったことに、まだ王は王太子を指名していないんだ」

「つまり、世継ぎが決まっていない?」

 俺が聞くとセンテルバスが頷いた。

「そして、どうやら王様の具合が良くないらしい。ここしばらく宰相としか会っていないと聞いている」

「うわぁ……それはまずい」

 国が極めて危なっかしい状態だと、俺の足りない頭でも理解できる。

「未だに王位の継承が決まっていない理由は?」

 ヤーンスが聞くと、センテルバスは大きくため息をついた。

「私は王宮や政庁に人を入れているから、本当なら聞こえてこない王宮内の情報も手に入るのだが……7世が立太子を宣言しなかった理由はわからない。何となく決めかねているうちに、ずるずる時間が経ってしまったのかも知れないな」

 俺とヤーンスは寝室に割り当てられた部屋で、夕食の時間まで確定していない仕事とリンドラの国内事情について話しをした。

「お前、どこまで任務の内容を聞かされた?」

 ヤーンスが二枚の地図をテーブルに拡げた。一枚は俺が持ってきた公社製のものだ。

「ここの……鬼病に関係する調査で、マイテザールさんと技術士で細かいことは決めるって聞いてきた」

「まだそんな進行具合か……あ、これ六年も前に作られているな」

 ヤーンスが公社製地図の製作責任者サインの日付を見て言った。

「ここへ来るのに地図なしだったのか?」

 先乗りで現地調査をするのが任務なのに、地図を持たされないのは変だった。

「ハルムシトラからの渡り(直行)で、受け取れなかったんだ。だからここで貰った絵地図だけだった」

 俺たちは顔を寄せて、公社支給の地図とセンテルバスから渡された絵地図を見比べた。

「この国じゃ地図は機密文書にあたるからな。現地の人間に持っているところを見られるなよ」

「地図が機密? 何だそれ?」

 全くもって前時代的だ。

「距離とかは別として、位置関係は絵地図の方が合っていそうだな」

 ヤーンスが、リンツヒラーから少し離れた場所にある村を指した。そこは公社の地図では何も印がない。

「マイテザールから聞いた話では、この村が丸ごと鬼病にやられたそうだ。ここは街道がすぐ近くを通っていて、そのせいでこの街道が使えなくなっている」

 ヤーンスの指が、公社の地図でリンツヒラーから大きな湖に繋がる線をたどった。絵地図と見比べると何となく位置関係が把握できた。

「それがわかったのが去年の終わりで、軍が村を焼き払いに行ったが失敗して撃退されたらしい」

「敵はどれくらいの戦力?」

「わからん」

 ヤーンスは肩をすくめた。

「村の住人は、百人まではいなかったはずだとマイテザールは言ってる。村を偵察に行ったけど、周囲が開けているから五百ヤードぐらいまでしか接近できなかった。街道は村の端を南北に通っていて、森を出て村に向かってずっと下りだから遠くからでも発見される」

「火矢でも射込んでから突っ込めば、簡単に終わると思うけどなぁ……」

「百人相手にするとして……歩兵二小隊(四十八人)とライフル兵一隊があれば行けるはずだが、それは公社の部隊だったらだ。リンドラ軍の装備がどんな程度かは知らないし、ここでライフルは使えないがな……」

 ヤーンスは首を振りながら言った。

「それに俺たちは、ぶった斬って焼き払うために来たんじゃない。斬るのは最小限に止めて、医療士が死体を調べて技工士が村全体の検査をやる」

 『鬼病』に罹った患者を調査するので、やたらに殺しまくってはまずいのだ。

「技工士が村の検査をして、何になるんだ?」

「俺にもわからない」

 ヤーンスが首を傾げた。

「技術屋は技術屋で、見て何かわかることがあるんだろう。俺たちが敵陣の弱点見抜くみたいに……明日の朝早くにここを出れば村には昼前に着く、陸路組が着くまでの時間潰しにはなる。行ってみるか?」

 ヤーンスが言った、何はともあれ偵察しないことには始まらなかった。

「そうしよう」


 翌朝、酒を飲み過ぎたわけでもないのに。俺は鈍い頭痛を感じながら目を覚ました。きっと空気が薄いからだろう。

「ここの気候平気なのか?」

 俺は寒冷地戦闘服の上に外套を一枚着ているが、ヤーンスは外套なしでも平気らしい。

「マサラダの北も結構寒かった」

「気温が同じでも、空気はこんなに薄くないだろ」

「まあ……そうだな」

 人家がなくなるとしばらく牧草地が続き、やがて木が多くなってきた。道が分かれているところで地図を確認した。

「こっちが例の村へ向かう街道で、そっちは……」

 ヤーンスが地図で町を示す記号と絵を指した。

「バントンメイロと言う、羊の集散地があるかなり大きな町だ。そこを経由して、大きく回って湖の手前でまたこの街道に合流する」

 地図で見ると結構な距離を迂回している。

「歩きで迂回したら二日は余計にかかりそうだな」

「馬車でも町まで半日。まあ、この国じゃそう急ぐ用事もないだろうけど」

 そこから村が見えるところまで、警戒しながらゆっくり進んだ。森を抜けるとまた牧草地と畑で、その先に集落が見える。

「なるほど、これじゃ街道から来るのは丸見えだ」

「ここから五百ヤード、馬で突っ込まないと不意打ちは無理だな」

 森から出たとたんに発見されてしまうが、だがそれは村で常に見張っていればだ。二人でしばらくの間村を監視したが、何も変化は起こらなかった。当然のことだがこの街道を通っていく何者もいない。

「何か思いついたか?」

 やがてヤーンスが言った。

「街道沿いの森の中を進んで、村の近くで待機……囮の集団を街道から接近させて、迎撃に出てきた集団を側面から……でも俺があそこを守備するなら、森の中には罠を仕掛けるな」

「それは……あるな」

 ヤーンスが唸った。

「敵の人数がわからないのが嫌だな」

 ヤーンスが言った。どんな作戦で行くにしろ、敵の戦力がわからないと危なくて仕方ない。

「後は牧草地から夜襲かな。あの小川に沿って侵攻すれば……でも月が明るいから、月が出てないタイミングか……」

「それじゃこっちだって何も見えない。一軒だけでも火をかけないと」

「そうなるな……」

 俺はため息をつきながら言った。今の戦力では手の出しようがないことだけは明らかだった。

「戻るか……」

 村から視線を外さずにしばらく後ろ向きに移動、村が見えるか見えないかの距離で木陰に身を潜めてしばらく様子をうかがった。村には何の動きも起こらないことを確かめてから、通常の移動を開始した。

「何年やっているんだ?」

 道の左右に別れて端を歩く。黙っていてもそのポジションを取るのだから、ヤーンスもかなりの経験を積んでいるのだろう。

「ソロに出されるようになって……もう一年経つな」

 俺はちょっとたじろいだ。『ソロ』とは隊に加わってまとまって派遣されるのではなく、単身で現地に乗り込んで本隊の到着までに現地の視察や行動の下準備をする役割だ。経験と慎重さが求められる。

 ヤーンスは俺とそう違わない年齢だと、見た目で勝手に思い込んでいた。

「何歳なんだ?」

「はっきりわからないが、二十ぐらいだと思う」

 やはり、俺と同じくらいではあるらしい。

「なんで……はっきりわからないんだ?」

「ガキの時に義援剣士に拾われて……そこはマサラダじゃなかったらしいんだが、詳しいことを教えてもらわないうちにその人は死んだ」

「つまり……生まれた場所も、家族もわからない?」

 そう言うとヤーンスは黙って頷いた。気の毒ではあるが、俺と同じ頃の生まれなら国や地域によっては疫病や盗賊で親兄弟をなくした子供は珍しくない。

「グリッグゼルって、姓は?」

「拾ってくれた人の姓だ。拾われた最初は口もきけなかったらしくて、その人が名をつけてくれた」

「……覚えてないのか?」

「ああ、何も」

 とんでもなく恐ろしい目に遭って、記憶をなくしたのだろうか。だとしたら真っ白な髪も頷ける。

「拾ってくれた人は任地で死んで、俺の所には剣だけが帰ってきた。その人が、もし自分が死んだら義援士になれと言われていたから志願した」

 いま身につけている細身の剣がその遺品なのか。それは細身なだけではなく、全体にゆるく湾曲した珍しい剣だった。剣の重さや力で叩き切るのではなく、刃を滑らせるようにして引き切るのだろう。

 そのとき、俺もヤーンスも同時に足を止めた。道の向こうから疾駆する蹄の音が近づいてくる、とっさに左右に跳んで灌木の陰に隠れた。すぐに緩いカーブの向こうから二頭だての馬車が二台、かなりの勢いで突っ走ってきた。あのまま道に突っ立っていたら危ないところだった。馬がもの凄い鼻息の音を立てていて、相当無理をしていることが見て取れた。

「急ぐ人もいるらしいな」

 馬車を見送りながら俺が言うと、ヤーンスは首をかしげた。

「馬車に女が乗っていたが、見たか?」

「よく見えなかった。あれは王宮で使っている馬車だな」

 前を走っていた方は、昨日タァンドルシア姫のお迎えに来た物と同じ形だった。中が見えたのは一瞬で、激しく揺れていたのでどんな人間が乗っていたのかまでは見えなかった。

「あっ」

 ヤーンスが馬車が向かった先を見て声を出した。

「馭者は曲がろうとしていたみたいだが、曲がれなくて真っ直ぐ行った。あの村の方だ」

 俺とヤーンスは一瞬顔を見合わせて、同時に馬車を追って走った。あの勢いで走り抜けてしまえば何事もないだろう、だが少し曲がった下り坂なので道を外れる危険がある。

 俺たちは肺が破れる思いで突っ走り……それは俺だけでヤーンスは空気の薄さを何とも感じていない様子だ。俺は走っては止まりを繰り返さなければ無理だった。

 それで、結果としては間に合わなかった。樹を透かしてようやく見えるようになった村の手前で馬車の一台が横倒しになっていた。その状態でも馬が止まらないので引きずられて分解していく。

 もう一台の馬車は先へ行っているが、村から出てきた奴らがそれを追って行く。馬車はひどくふらついていて、今にも横転するか道を外れてしまいそうだ。

 そこまでは見たが、俺たちに気付いた村の奴らが向かってきたので余裕がなくなった。虚ろな眼と変形した肢体、症状が進行した鬼病患者だ。棍棒や農具を引きずるようにして向かってくる。

「予定にはないが、やるか?」

 ヤーンスが冷静な声で言った。

「やらねーで、どーする!」

 いま見えているだけで相手は二十から三十。はっきり言ってかなり無理な戦闘だが、この危急に駆けつけなかったら義援士の名が廃る。

「やるっきゃ、ねーだろ!」

 俺とヤーンスは走りながら抜刀して、すれ違いざまに二人に血を吹かせた。ひっくり返った馬車には何人もが群がっていて、聞こえるのは馬のいななきだけだ。馬車の乗客を救助するのはもう無理だ。

「切り抜けて、向こうだ!」

 止まらずに、立ちふさがる奴だけを斬って走り抜けた。もう一台の馬車は道を外れて見えなくなった。

 肺が破れそうな思いで駆けつけると、ゆるい斜面には衣類やら箱やら様々なものが散乱して、馬車はゆるい斜面の下で木にぶつかって止まっていた。乗っていた人はもう逃げたのだろう、木立の中から女の悲鳴と男の怒声が響いてくる。

 俺とヤーンスは斜面を駆け下りて声を追った、木の間を走る何かの姿。罵声と悲鳴。追い付いた敵の背中にヤーンスが剣を突き入れた。逆さに持つようにして突き刺して、それから撥ね上げるのだ。急所を突かれた奴は声も上げず、血を噴いて痙攣しながら倒れた。

 箱を両脇に抱えて逃げていく男、たぶん馭者だろう。その背中をボロボロの服をまとった奴が短槍で突いた。転倒した男を五人ほどがめった突きにしている。

「おらあー!」

 俺は切れる息を必死に吐き出して吠えた。それで五人がこちらを向いた。まだ姿形は人間らしさを留めているが眼だけは異様だ、長剣と短槍、あとは棍棒や短剣で武装している。鎧を着ている奴までいる、この間やって来た軍兵から奪ったものだろう。

「お前たち、村に戻れ。そこにいれば敵対行為と見なして斬る!」

 ヤーンスが大声で警告した。このレベルの鬼病患者はまだ言葉を理解できるはずだった。だが凶暴性が強いと理解はできても攻撃を押しとどめる役には立たない、五人は一斉にそれぞれの武器を構えて向かってきた。

 俺は横に走って長剣を持った奴を狙った、追いすがってきたウザい短剣野郎の腕を狙ったが届かなかった。長剣、振りかぶって斬り下ろしてきた。受けて、横に流す。まともに受けたら力を消耗する。

 姿勢を崩した敵の胴を薙ぐ、入ったが浅い。真横に薙いで来た切っ先を、体を反らして外した。から振りした相手の腕を下からすくい上げた。刃が敵の腕に食い込んだが鎧の金具で止まった。ヤーンスが短槍の野郎と向き合っている。

 俺に腕を斬られた奴が臭い息と共に絶叫を吐き出した。刃を引くのと同時に蹴りつけ、転がした。

 後ろ、引いた剣をその勢いのまま横に薙いだ。短剣を持った奴が血を吹いてよろよろ後じさる。そいつと、立ち上がろうとしている長剣野郎の首を一撃ずつで切り落とした。

 吐ききって止めていた息をむさぼるように吸った。目の前が一瞬白くなった、ヤーンスの援護に行きたいが足が動かない。

 ヤーンスと短槍野郎が向かい合ったまま横に動いた。短槍野郎は明らかに腰が引けている。何かを小脇に抱えていて、たぶん逃げようとしているのだ。あんな姿になっても物欲は残っているらしい。

 俺は荒い息をつきながら周囲を見回した、もう敵は短槍野郎だけだ。他は向こうで斜面に散らばった物に群がっている、すぐの脅威はない。

細い木を挟んで敵と向かい合うヤーンスの腕前を見てやろうと思った。

 ヤーンスは目の前にある木に向かって無造作に一歩踏み出した。あれでは動きが取れなくなるだけだし、短槍の間合いに入り込んでしまう。

 案の定、機会と見て敵は短槍を突き入れてきた。ヤーンスが、そこに木などないように剣を横に薙いだ。

 短槍が二つに切り離されて、体から離れた腕と一緒に地面に落ちた。敵が腕から血を噴き出しながらよろよろと数歩後じさった。それから木がゆっくりと倒れて、そいつを下敷きにした。

「……すげえ」

 俺は呆然と、そうつぶやくしかなかった。細いとは言っても両手がようやく回るような木の幹を一撃だった。とんでもなく切れる剣だ。

 木の下敷きになってもがく敵に、ヤーンスがとどめの突きを入れようとしてやめた。木をひきずるようにして敵は這って逃げ、やがて木の下から逃れてよろよろと村へ向かって行った。

「怪我はないか?」

そう聞きながら、ヤーンスは澄んだ金属音をたてて剣を鞘に収めた。

「ああ……何とか。それ……いま、どうやった?」

「気を溜める。躊躇しないで切る。それだけだ」

 そう言いながらヤーンスは、敵が持っていた小箱を拾い上げた。

「何だ、それは?」

「これはたぶん、首飾りとかをしまっておく箱だな。あいつは惜しんで逃げ損ねた」

 地味ではあるが、細かな彫りが施されたものだった。片手で何とか持てるほどの大きさなので、中に入れる物は指輪などではないのだろう。

 木立の奥、斜面の下で何か音がした。木の間を逃げていく人影がちらちらと見え隠れする、着衣の色や感じからして普通の人間だろう。

「おい!」

 俺は声をかけたが、人影は止まらずに木の葉に限れて見えなくなった。

「あれは、誰だろう?」

「わからないが、もう撤退だ。奴らが来る」

 ようやく馬車から飛び散った荷物を拾い終わったのだろう、言語とは聞こえないような声が近づいてくる。俺とヤーンスは音を立てずに、できるだけ急いでそこから離れた。

 ひたすら林を縫って移動して、斜面を這い上って街道に出た。

たぶん例の村への道から分かれてリンツヒラーとバイトンメイロを繋ぐ道のはずだ。だが間の悪いことに、灌木を掻き分けて道に出てきたところを見られてしまった。

 俺たちに気がついた男が声を上げると、その後ろから三人が走ってきた。全員が剣を差している、そして何だか雰囲気が悪い。

 最初に俺たちを見つけた男が何か言った。完全なリンドラ語な上に訛りがひどいらしくて、何を言っているのか俺にはよくわからない。

「旅の者だ、こいつと出会って勝負したが決着が付かなかった。道の上では迷惑だから下でやっていた」

 ヤーンスのリンドラ語はわかりやすい。男がヤーンスに早口で何か言ったがやっぱりわからない。

「ああ、馬車なら向こうの道で転がっていたぞ」

先頭の男が何か言うと四人が一斉に剣を抜いた、これなら説明はいらない。

「これも」

 ヤーンスが、敵から取り上げた箱を男たちの前に差し出した。

「馬車の近くに落ちていた」

 ヤーンスの視線を追って男たちが林の中を向いた。

「やるよ」

 ヤーンスがそう言って箱を放り上げた。男たちが林から箱に視線を移したそのとき、ヤーンスは剣を抜き払っていた。声も上げずに二人が血を吹いて倒れ、ヤーンスは箱を空中で受け止めていた。残った二人は何歩か後じさって構え直した。

「やめた。欲しかったら俺を斬れ」

 一人が変な声を出しながらヤーンスに斬りかかった。ヤーンスは男の剣を受け止めることをしないで斬撃を全てかわし、切り下げて姿勢を崩した男の首筋を跳ね斬った。

 生き残った最後の一人が数歩退がって、振り返って走りだした。

「逃げるんじゃねぇ!」

 理由はわからないが、連中は殺した方が良いとヤーンスが判断したのだ。俺は先乗りのソロに従う立場だ。

 逃げた奴を背後から斬ることもできたが、逃げられないとわからせるために横並びで少し走ってやった。男も息が苦しそうだった、リンドラの人間ではないのかも知れない。

 男はものの数秒で走るのをやめて、俺と向き合って剣を構えた。

「お前……どこの、者だ……」

 苦しそうに男が声を出した。リンドラ語だが、そうわかった。

「盗賊退治だ」

 共用語でそう答えて、まずかったと思った。自分がよそ者だと教えるようなものだ。

「盗賊……お前!」

 斬りかかってきた。二度打ち合ったがたいした腕ではなかった。首の横を突きかすめると、男は構えを取ったまま血をまき散らしてそのまま前のめりに倒れた。

 男が持っていた剣を見て、なぜヤーンスが斬ろうと思ったのかがわかった。刀身に血曇りがあったのだ。こいつは俺たちと出会う前に人を斬っている、しかも一人二人ではない。

 男の服で刃についた血を拭ってから鞘に納めた。ヤーンスは倒れた男たちの持ち物を改めているようだ。

「こいつら隠すか?」

「このまま、離れる」

 街道だからいつ人が通るかわからない、死体はこのまま放置して誰かが発見するに任せるつもりだ。俺たちは再び森の中を移動するはめになった。

「あいつら人を斬っていたな」

「ああ」

 ヤーンスが答えて何かを俺に渡した。金貨ほどの大きさがある銅の板で、模様と文字が刻印してある。

「何だ、これは?」

「最初に話していた男が持っていた。リンツの紋章が圧してある」

「え? それじゃ軍か?」

「違うな、あのなりは。軍人なら身分があるから名乗るはずだ、こっちが剣に手もかけていないのにいきなり抜くことはしない」

「それじゃ何だ?」

 俺はメダユーをヤーンスに返して聞いた。

「わからん」

 偵察のはずだったのに、ひどいことになってしまった。

「止まれ」

 ヤーンスが小声で言って、俺たちはその場で体を屈めた。街道をまた馬がやって来る。今度は早足程度の音だ。息を殺して見ていると馬に乗った身なりの良い男が一人、四人の男を従えてやって来た。

「さっきの馬車の、連れかな?」

 俺が小声で言うと、ヤーンスが少し首を傾げた。

「あいつら、村に行くはずがないからあの死体に出くわすな」

「ああ、そうなるな……ここで様子見るか?」

 ヤーンスは少し考えて頷いた。

「戻ってくるかも知れない」

 しばらくして、ヤーンスの予想通りに馬と四人が戻ってきた。慌てた様子はないが足早になっている。後に付いている男のうち二人は死体を触ったのだろうか、さかんに手を拭っている。

「何か……おかしいな」

 ヤーンスがつぶやいた。

「何が?」

「奴らの様子だ。何となく、ひっかかる」





 暗くなるのを待って違う方向から町に入りマイテザール商館に戻った。まず何はともあれ、センテルバスに事の顛末を報告した。

「これは……王宮の通行メダユーだ。私も持っている」

 センテルバスは呻くように言った。

「名乗りもしないで剣を抜いたのか?」

「奴ら、人を斬った後でした。馬車を見なかったかと聞いてきたので、向こうの道でひっくり返っていると教えてやりました。たぶん馬車を見た人間を生かしておきたくなかったのでしょう」

 ヤーンスが落ち着き払って言った。

「一人は、俺たちを盗賊だと言っていたようです」

「そうか……しかし、君たちは今でも簡単に人を斬るんだな」

 センテルバスが大きなため息をついて、ヤーンスが拾ってきた箱を開けた。ヤーンスが言った通り、中には玉石でできたネックレスや髪飾りらしいものが入っている。

「どう考えても……この持ち主は、王族の女性だ」

「すると、やっぱり王宮の馬車だったのかな?」

 俺が聞くと、少し考えてセンテルバスは頷いた。

「この箱が出てきたのならそうだろう。后か姫か……」

「王族の馬車を、王宮に出入りする奴らが誰かを斬ってまで追っていた。何が考えられますか?」

 ヤーンスがセンテルバスに質問したが、センテルバスは首を振った。

「今のところ全くわからない、明日になれば何か情報が入るかも知れない。しかし……これをどうしたものか……」

 箱を閉じて、センテルバスは片手で額を押さえた。

「とりあえず、部屋に湯を運ばせるから体を拭いて食事にしよう。話はその後だ、もう医療士と技術士も到着しているよ」

 ヤーンスと二人、部屋に桶で運ばれてきた湯で体を拭いて服を替えた。

ヤーンスの体にはいくつもの傷痕があった。特に背中にある特別大きな痕は、よく死ななかったと思うほどだ。だがそれはかなり昔に受けたもののようだった。


 食堂では若い女性が二人テーブルに着いていた。俺とヤーンスはちょっと顔を見合わせた。どっちが医療義援士なのかはすぐにわかった、衛生救護隊では良い意味でも悪い意味でも有名な女性だった。だがものすごく若い技術義援士とは初めてだ。

「医療衛生担当のイシュル・アーミハスです」

 イシュルは白っぽい金髪と緑の瞳で、誰もがひと目見て惹かれる美女だ。その上身長が六フィート(百八十センチ)もあるので一度見たら絶対に忘れない。

「去年、ハルムのダンデにあったキャンプにいただろ」

 俺が言うとイシュルは頷いた。

「俺も一昨年ぐらいに世話になったぞ」

 ヤーンスが言うとイシュルが笑った。

「また斬られたら縫いますよ」

「俺は二度とご免だ、お前にやられるくらいなら自分で縫う」

「そんなにひでーのか?」

「この女、俺の胸の上に座ってベッドに押さえつけやがったんだ! 俺は平気だから動かないって言ったのに。傷はたいしたことなかったのに、座られて死ぬかと思った」

 このデカ女に乗られたら息ができなくなるだろう。

「皆さんの手癖が悪いからですよ。縫われてる最中に触ってくる人もいますから」

 俺も何度か前線キャンプで傷を縫われたことがあったが、イシュルでなくて良かったと思った。だがちょっとだけ、やられてみたい気もした。

「技術士のぉ、タナデュール・シュトダですぅ。よろしくお願いいたしますぅ」

 小柄で黒髪黒目のタナデュールは、どう見てもリンドラ人だ。

「先乗りのヤーンス・グリックゼルだ。あんた、リンドラ出身か?」

 タナデュールは小さく首を振った。

「両親はリンドラ人ですけどぉ、別々にハルムシトラへ出稼ぎに出てきました。そこで結婚して定住して、私が産まれたんですぅ」

 戸籍はハルムシトラ王国だが、血はリンドラなのだ。

「シド・ヨギュルバスだ。君、いくつ?」

「この間十八になりましたぁ」

 一瞬、全員がタナデュールの顔を見直した。作戦が終わったらすぐ引上げる剣士と違って、医療や技術の義援士は年単位で任地に留まることが多いのだ。

「よく……親御さんが許したね」

「自分たちの代わりに、リンドラに返す覚悟でいるみたいですぅ。でも私はひと任期終わったらハンマの大学で土木建築の勉強をしてぇ、もう一度リンドラに赴任させてもらうつもりですぅ」

 その場合学費は公社が負担してくれるし、いくらかの助成金も貰える。医療や技術の義援士はそのようにして自分の技術を高めて、もっと世の中の役にたつことができるのだ。

 だが剣士にはそれができない、いくら剣の技を磨いても撃たれたら死ぬのだ。遠からず消えていく職種でしかない。

「現駐している建築義援技士のワズアールさんは、もう赴任してきて6年になるな。こっちの女性と結婚して子供もできているんだ、もう帰る気はないようだ」

 食事をしながらセンテルバスが話した。完全に赴任先の人間となって終生そこで働く技術系義援士も珍しくない。そんな人まで含めて、五王公社の中庭には亡くなった義援士数百人の名を刻んだ石碑が建てられている。

 新しいぶどう酒の瓶を持ってきた使用人が、瓶と一緒にセンテルバスに紙片を渡した。それを見たセンテルバスの表情が少し曇った。

「たぶん君たちが見た馬車の件だと思う。今朝、王宮別荘がある牧場が賊に襲われて死者が出ている。そこに三姫のタフルハームと妾后王子のヤザーニがいて、二人は二台の馬車でそこから逃げた」

 俺とヤーンスは一瞬考えて顔を見合わせた。姫がご逗留なさっているのに警備隊は何をやっていたのか。

「警護隊の手に負えない数の集団だったのですか?」

 ヤーンスの質問にセンテルバスは首を振った。

「そこまではわからない。農場にいた使用人は盗賊だったと話しているが、盗まれた物はないらしい。盗賊なら家畜まで奪っていくはずなのに」

「あそこでひっくり返った馬車が三姫さんのだったら。王宮に戻らないで、どこへ行くつもりだったんでしょうね?」

「さあ……」

 俺が聞くとマイテザールは首をひねった。聞けば聞くほど奇妙な事件だ。

「そしてそれを……王宮メダユーを持って人を斬った奴らが追っていた。わけがわかりませんね」

 ヤーンスが言ってぶどう酒を一口飲んだ。たぶんその一味を俺とヤーンスが斬って捨てたのだ、事態はもっと複雑なことになったかも知れない。

「もし……」

 ヤーンスがゴブレットを置いて、そこでちょっと考えた。

「ああ、センテルバスさん。この二人に、この件の説明は?」

「いや、まだだ……」

 センテルバスが王位の継承者問題と、王族間での暗殺疑惑が起こっていることを簡単に説明した。

「恐らく、そちらの任務に差し障ることはないと思うが……知っておいたほうがいい」

 ヤーンスが言うと、イシュルとタナデュールが強張った表情で頷いた。

「農場を襲ったと思われる連中が王宮に出入りを許されていたとしたら、そいつらは何でしょう?」

「一番考えられるのは、三人いる王子の私兵だ」

 ヤーンスの質問に答えて、センテルバスは目を閉じて答えた。

「王子の私的な外出の場合は王宮兵士が付かないで自分で雇った者を護衛に付ける事が多い、王宮兵士だと王や宰相に監視されているようなものだからね。特に第一王子は百人以上の私兵を抱えていて、身元が確かじゃない者も混ざっているようだ」

 食事が運ばれてきた。肉を細かくして野菜や穀物と混ぜて固めて焼いたもの、細かく切った野菜と豆を和えたもの、骨付きのまま焼いた肉。

「三姫たちはそいつらに追われていた……暗殺されそうになっていたとか?」

 ヤーンスがフォークを取り上げながらセンテルバスに聞いた。

「まるっきりないとは言えないが、やることが派手すぎる。ただの暗殺とは思えないな。もっと大きな事情が絡んでいると思う……王子同士なら内戦に近い騒ぎになるかも知れないが」

「え? そんなに仲が悪いんですか?」

 センテルバスは渋い表情で頷いた。

「第一王子のヴェルドーツは宰相と仲が悪い。王子は、国庫が苦しいのは宰相と行政府の怠慢と贈収賄が原因だと思っているようだ。だが宰相と行政府からすれば、国庫が苦しいのは王宮が経費を使いすぎるのが原因だと言うだろう」

「実際は?」

「まあどっちもどっちだ。行政府は手が足りなくて地方行政は州に丸投げの格好だ、だから租税は下級役人から上級まで抜き取り放題になっている。第一王子は軍を増強して地方の締め付けを考えているが、増強しようにも財源がない。それでまた宰相と行政府を怒鳴りつける」

 ひどく馬鹿げた堂々巡りだ。

「それは、第二第三の王子でも同じ?」

 俺が聞くと、センテルバスは口を引き結んで首を振った。

「もっと厄介だ」

「なぜ?」

 センテルバスは食堂の壁にかけられた地図に目をやった。

「あれは統一前の古い地図なのだが。東側……ヴェルミエという大きな湖の周辺、今あそこはハイデン州と呼ばれている。だがリンツ5世がリンドラに組み入れるまでは、ハインスドラ公国だった」

「ああ……あの地図には、そう書いてありますね」

「ハインスドラは、リンツ2世の時代に統一リンドラに賛同した。だがリンツ家の横暴に怒ってたった四年で離反してしまった。他の元公国も次々と離反して、そこから長い内戦だ」

 センテルバスはぶどう酒をひと口飲んで首を振り、話を続けた。

「結局……ハインスドラはもう一度リンドラに統合されて、ハイデン州に格下げされてしまった。それでもリンドラからの再分離を求める声は続いていて、そのハイデン分離独立派が第二王子を持ち上げている」

「そんなに独立がいいなら、最初から統合しなきゃよかったのに」

 俺がつぶやくと、センテルバスは小さく首を振った。

「それを断れないほどに、リンツは武力と謀略で攻めたてたのだろうね。何しろリンドラで消費される穀物は半分近くがハイデンの一帯で生産されているから、外から購入するより国内生産にしたいだろう」

「穀物のために、リンドラが無理やり併合した……とか、ですか?」

 イシュルが口をはさむと、センテルバスが頷いた。

「そうだ。『後ハイデン動乱』と呼ばれている併合戦争では、ハイデン側に何千人も犠牲者が出てしまった。リンツ家に対する恨みは今でも消えていないだろう」

 センテルバスは沈痛な声で言った。

「ハイデン分離独立派は第二王子を迎えることで公国の形態に戻ってまず自治権を要求して、いずれ完全な分離独立まで持って行く計画だろう。そして同時にリンドラ王室を混乱させようとしているようだ。何としてもリンツ家を衰退させたいのだな」

「そこまでわかっているのに、潰せないのですか?」

 俺の頭では理解できなかった。

「わかっていても簡単には潰せない、潰されることが目的の謀略もある。いまハイデン側は第二王子が女にだらしがないところを衝いてきている、妃のハリンアーネは間違いなく連中が送り込んだ女狐だ。それを知っていたからリンツ王は公妃として認めなかった」

「それは、わざと……情報を漏らしているのでしょうか?」

 イシュルがちょっと首を傾げて聞いた。

「それも、謀略のうちだな」

 センテルバスが頷いて言った。

「それで混乱……しますか?」

 俺が聞くと、センテルバスは沈痛な表情で頷いた。

「今でも十分混乱しているのだよ。第二王子のヴァルヴァンデはもうハイデン分離独立賛成派だと見られていて、王宮にも行政府にも信用されていない。これでリンツ家にひとつヒビが入ってしまったことになる」

 聞けば聞くほど、関わり合いになりたくない話しだった。そのとき俺は、ヤーンスがゴブレットを顔の前で止めたまま固まっていることに気がついた。

「おいヤーンス、どうした?」

「あっ……いや、ちょっと。考えてごと……していた」

 ヤーンスが明らかにうろたえていた、何があったのか。

「第一王子が動こうとすると宰相ともめる、第二だと国が……割れる?」

「まあ……そうなる恐れもある」

 俺の独り言にセンテルバスは返事をした。

「第三は、これもダメですか?」

「だめだ」

 俺が聞くと、センテルバスがため息をつきながら言った。俺もため息をつきたくなった、ひどい状況だ。

「第三王子は病気がちの第五姫の兄でね……悪く言いたくはないが無能だ。妹の病気快癒を願って僧院に寄付をして祈祷を繰り返して、今は僧院の言いなりだ。僧院長の戯言ひとつで何をやりだすかわからない」

 センテルバスがまた大きく息をついて、ぶどう酒をひと口飲んだ。

「弟王子が揃いもそろってそんな有様だから、もし弟王子が動こうとすれば必ず第一王子が邪魔をする」

「ひでえ……」

 ヤーンスが呻いた。確かにひどい、明日どころか今にでも国がぶっ壊れそうな状態だ。

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