王立義援公社「姫のお国を助けます。でも、できないこともあります」
黒井 創人
第1話「透明な空の国」
Ⅰ
目が覚めたときもう夜は明けていて、窓の外はまばらに樹木が生えた草原になっていた。列車は夜通し走っていたのだが、俺は今までほぼ全行程を眠って過ごしていた。
こんなに緑を目にするのは久しぶりだった。ばさばさの土と砂、後は岩場だけの土地で四か月も過ごしてきたのだ。ここにいる間は何とも思わなかった風景が目にしみた。
背中を伸ばすと背中の筋肉がバリバリ音をたてたような気がした。俺は寝台席から立ってトイレに行き、それから後部にある専用給湯所に入って加温タンクからカップにお茶を注いだ。色からしてたぶん渋くなっているので、お湯を足して黒砂糖の小さな固まりを入れた。
何か食い物はないかと探したが、配食トレイに残っているのはビスクル(甘い味付けの乾パン)だけだった。何もないよりマシなので、ふたつ手にとって寝台に戻ろうとした。
「おい、シド」
一番広い専用寝台席にいたダーシム隊長が声をかけてきた。目をつぶったままだったが起きていたようだ。
「はい」
「お前、また突っ込みやらかしやがったな」
「あ、いえ……あの……」
『突っ込み』は、火杖(ライフル)隊の制圧射撃が終わらないうちに敵中に切り込むことで、危険な上に射撃の妨害になるので基本的に禁止されている。だがそうでもしないと剣士隊が斬り込む前に敵が壊滅してしまうこともあるのだ。
剣で戦うのはもう時代遅れになってきていた。いずれ魔道士の呪法みたいに、役に立たない物になるのかも知れない。
「おめえを前に出すなって班長が凄い剣幕だ。やったのかやってねぇのか、どっちだ」
「済みません……出ました。でも火線潜ってです」
「バカ野郎! 射手にそんなことわかるはずないだろ」
「済みません」
班長は隊員の予定表を取り上げて、俺の用紙をのぞき込んだ。
「お前この後の予定、出してないな」
「休暇の後、任務待ちです」
「休暇はどう過ごす気だ?」
「いや……どうって、何も決めていません」
「斬り合いをやりたきゃ、思いっきりやれる任務があるぞ。ただし休暇は後回しだ」
「はい。行きます」
俺は考えもしないで答えてしまった、悪い癖だ。隊長が体を起して、横に置いた大きな封筒から書類を抜き出した。
「任地リンツ・リンドラ。居住地における脅威の駆除、復興作業に携わる技法士を支援警護、予定期間二か月。最大六か月。特別手当が二種出るぞ」
「リンドラ?」
「お前、全地域の特別講習受けているな。できるだけ若い剣振りを一人回せと言っているから、お前が適役だ」
隊長は書類の端を指で弾いて言った。リンドラと聞いてかなり憂鬱になったが、もう行くと答えてしまった以上退けなかった。
「俺一人ですか?」
「各部隊から若いの引っこ抜くんだろうよ」
隊長は書類にサインして、俺に渡した。
「隊長、リンドラで脅威って言うことは……アレですか?」
「何が出るのかはわからないが、人間じゃないモノ相手にする覚悟はしておけ」
「……わかりました」
「本部に着いたら事業室に行って指示を貰え、そのままでいい」
隊長は『行っていい』と手を動かしてまた目を閉じた。
列車はハーンソンブル中央駅に到着して、一般の乗客が全て降りるまで俺たちはしばらく待たされた。それから物騒な一行は、一般客からの奇異の視線を浴びながら専用車両から降りてホームの端で待っているトラックに乗り込んだ。
ハンマ国王都ハーンソンブルに戻るのは実に一年ぶりで、街中は変わっていなかったが路面電車は新型になっていた。市民の服装も何となく変わっているような気がした。なのに俺たち剣士隊は半世紀前とあまり変わらない姿だ。変わったのは装備の材質くらいだ。
ハンマ王宮近くにある公社の事務局に顔を出すのも1年ぶりだった、ずっと任地から任地への渡り歩きだったのだ。どうやら今回もそうなりそうだった。
みんな『公社』としか呼ばれないけど、正式な社名は『五王並立五国公益義援公社』だ。
長すぎるから『王立義援公社』とか、他に公社と呼ばれるものはないから単に『公社』と呼ばれることが多い。
その名が示すとおり、公社はハンマ・マラサダ・マローメサバル・ハルムシトラ・リンドラの五王国連合で、王様たちが資金を出し合ってできあがった組織だ。
最初は5国のどこかが連合外部からの侵攻を受けた場合に、援軍として駆けつけるための『レジム』って傭兵隊だった。
幸いなことにレジムが組織されて以降は対外戦争が起こらなかった。だからレジムは災害救助や盗賊団の討伐とか、およそ何にでも駆り出される便利な集団になってしまった。
だったらいっそ傭兵隊じゃなくて国家間の互助組織にしたほうが良いってんで、いろいろな技術者を雇い入れて地域開発を主目的にした公社になった。
それで良かったと思う。本当に戦争がおっ始まったときに、金で雇われただけの傭兵が期待通りに戦うはずがない。絶対どこかで手を抜くか、前線で勝手に敵と手打ちして事態を一層ややこしくすることだってやるから。
それはともかく、レジムの名残は公社の中に今でも残っている。公社から派遣される人間は土木技術者だろうが医療技術者だろうが何でも『レジメンダー(義援士)』と呼ばれる。当然俺のような戦闘専門の人間もそうだ。
「シド・ヨギュルバスです、ダーシム隊長の指示で出頭しました」
俺は戦地の土埃にまみれた戦闘服姿のまま事業室を訪れた。もしかしたらどこかに血も付いていたかも知れない。受付の女性事務員が一瞬ぎょっとした表情で俺を見て、差し出した書類を持って奥に消えた。
「ああ……お疲れ様」
入れかわりに出てきた男も、俺の出で立ちを見て戸惑っている様子だった。
それは無理もないことで、いま街中で剣を吊っているのは王室警護官ぐらいだ。その警護官の制服だって現代風に洗練されている。なのに今の俺ときたら、どこかの辺境からさまよい出てきた大昔の剣士みたいな格好だ。
普通はバックヤードで着替えてから事務棟へ来るのだが、隊長が『そのままでいい』と言ったので剣まで差した状態で来たのだ。もしかしたら今頃みんなが裏で笑っているのかも知れない。
「主管がおいでになるから、待っていてくれ」
装備と剣を事業室に預けて、廊下の端にあるベンチで待たされた。
「絶対……隊長にはめられたんだ……」
俺は土埃にまみれたままのブーツを見つめながら苦々しくつぶやいた。非常に決まりの悪いことになってしまった。公社で『主管』と言えば、王女マリリエル三世のことだ。隊長も、まさか俺が王女様の前に引き出されるとは思っていなかったに違いない。
やがて館内が少しの間ばたばたとざわめいて、それからしんと静まりかえった。主管がご登庁あそばされたのだろう。
「こちらへ……」
さっきの男は事業室長で、俺を主管の部屋まで導いた。事業室前の廊下を進むといきなり石の床に厚いカーペットが敷かれた区画になる。その先にあるのは『謁見の間』と呼ばれている会議室と『お部屋』と呼ばれる主管室だ。俺は今まで入ったことはないし、こんな格好で入ることになるとは夢にも思わなかった。
事業室長は主管室のドアをノックして、ノブに手をかけずに声を上げた。
「メイーデ(高貴な女性)。剣士シド・ヨギュルバスを案内いたしました」
それだけで俺は逃げ出したくなった。ドアが開き、古風な制服を身につけた女性がドアを開けた。若すぎるからこれは女王様ではないだろう。室長が手で部屋に入るよう促した。
「俺だけ?」
聞いてみたが、室長は顔を強張らせて首を振った。できたら俺もそうしたかった。俺はそこで秘書だか侍女だか呼び方を知らない女性に引き渡された。
そこは部屋の隅に机があるだけで、奥にもうひとつドアがある。やはりこの女性は秘書で、奥に主管が鎮座しているのだろう。秘書が主管のドアに向かって恭しく一例して、それから優雅な仕草でノックした。
「メイーデ。剣士シド様、お見えです」
「レジメンダー・シド、お入りなさい」
秘書が再び恭しくドアに向かって一礼して、開けてからもっと恭しく膝を折って頭を下げた。俺は恭しく動くことができないので、普通に一礼して主管の部屋に入った。
主管は書類から顔を上げ、持ち手付きの眼鏡を机に置いた。
「レジメンダー・シド。五国の市民のために日々お骨折りをいただき、感謝にたえません」
俺は黙って頭を下げた。薄汚れた俺をどう思ったか知らないが、主管は眉ひとつ動かさなかった。
「すみません……こんな、格好で」
「私が許可しましたのでお気になさらず。どうぞ、おかけなさい」
そう言われて俺はうろたえた。ハンマ国王女の前で座ることが許されていいのだろうか。俺の困惑を見越したように王女は言った。
「私は、ここでは王女ではありませんから」
「はあ……」
俺は間抜けな返事をして、机の前に一脚だけ置かれた椅子に腰を下ろした。幸いなことに遠慮したくなるほど豪華な物ではなく、公社のどこにでもある普通の椅子だった。
「先日まで……マラサダ・サンテで武装盗賊団の鎮圧に赴いていたのですね?」
主管は机から書類を取り上げ、不自然に顔から離した状態で見ながら言った。もうすぐ六十四歳だったはずだ、たぶん老眼なのだろう。
「サルバンタ方面から侵入した百人近い集団でしたが、半分ほどに減らして追い払いました。自警団を組織させましたので、後は自分たちで防衛できるはずです」
実際には半分どころではない、サルバンタ側に逃げ戻ることができたのは10人いたかどうかだろう。五国連合所属国を荒らしたら生きて帰れないと思い知らせるためだ。
だがそんな血なまぐさいことを、王女である主管に話すことは気が引けた。
「郡単位や州単位でいいからレジムのような防衛組織を整えないと、国の負担はいつまでも軽くなりません」
「頼もしいお考えです」
主管が頷いてそう言ったときに、秘書がお茶のワゴンを押して部屋に入ってきた。これは公社ではなく王宮から持ってきたのだろう、一式全部に王室紋章が染め付けてある。俺はお茶より酒が欲しい気分だった。
「まだ義援士に正式就任なさって一年と七か月、見事なお働きですね」
主管が見ているのは俺の実績表なのだろう。俺は中等学校卒の十九歳で、世間的にはまだヒヨッコ扱いされても仕方がない年齢だ。だが戦闘専門義援士でこれまでに盗賊や害物退治で五回の派遣をこなして第七号殊勲三級章を受けているのだ、これだけは自慢できる。
「お戻りになったばかりで申し訳ないと思います」
自慢はできるが、それは酷使されるって裏面もあるのだ。いまのように。
薬草の香りと不思議な甘さのお茶をひと口味わって、主管は本題に入った。受け皿と一緒にカップを持つなど、俺には初めての経験だ。
「リンドラ国に関して、どれほどご存じですか?」
『世界有数の貧乏国でいまだに鉄道もないし自動車もない』と言いたかったが、そんな身もフタもない言い方は王女様の前でははばかられた。
「まだ派遣されたことはありませんが、リンツ・リンドラの特殊事情に関して特別講習を受けています。土着信仰が強く、いまだに機械文化を拒否、それによる農業をはじめとする生産性の低さ、リンツ家による専制体制。それから最も厄介なものが風土病。それらが、国の発展を妨げていると聞いています」
義援士資格を取得するために点数稼ぎで受けたのだが、そのとき初めてリンドラを詳しく知って正直たまげた。リンドラ国が自分で総生産高を計算しているかどうか知らないが、ハンマで計算したところではリンドラ全部でもハンマの中級都市ひとつの生産高に及ばない。五国連合の足を引っ張る超貧乏国なのだ。
主管はゆっくり頷いた。
「非常に特殊な……外国の宗教も機械科学も拒否して、数百年前の状態で国が止まっています。開祖スドル王がリンドラ国の基礎を定めたときに、魔道士を国政に重用したことが始まりでしょう」
「政治に、魔道士……ですか?」
「このハンマにも、二十年ほど前までは商業魔道士がいたのですよ。今はもうただの占い師でしかありませんが」
『商業魔道士』という呼びかたがあるのだから、工業魔道士や農業魔道士がいるのかと思った。そう言えば雨乞いの儀式で怪しげな格好をした奴らが祈祷をしているのを見たことがあるが、それが農業魔道士なのだろうか。
「祈祷や護符売りで生活している分にはそれほど害はありませんが、魔道士が国政に口を出すようになると好ましい結果にはなりません。なのにリンドラでは、それが二百年も続いてしまいました」
歴史の授業で五王国連合それぞれのことも習ったが、確かリンドラは建国されてまだ三百年経っていないはずだった。そのうち二百年が、いま主管が言った魔道士が国を動かしていた『暗黒時代』。その魔道士一族が滅ぼされて豪族による内戦状態が四十年も続いた。
リンツ一世が何とか統一を果たしてリンツ・リンドラとなったのが今からたった五十年前だったはず。ただ統一後にもかつての公国が離反してまた内紛が繰り返されて、リンツ5世になってようやく完全に平定された。
新しい国なのか古い国なのかよくわからないが、内戦ばっかりやっていたために何から何まで立ち後れていることだけは間違いなかった。
「公社ではリンツ・リンドラが連合に加盟してより度々医療や土木技術の援助を申し入れているのですが、あの国ではいまだに魔術と科学技術の区別ができていません。王の下で専横を極めた魔術者を憎むあまり、魔術に見える技術すら受け入れることができないのです。医療衛生の改善を行うには一度に大量の技術者を送り込まなくてはならないのですが、今のところ年に一人二人しか受け入れてくれません」
主管はそこで小さくため息をついてお茶をひと口飲んだ。
「何十年じゃなくて。何百年前の状態って……本当ですか?」
ひどい緊張に襲われながら俺は主管に質問した。俺が知っているのは講義資料の、ほんの概要レベルだった。
「リンツ家の姫がお一方こちらの大学に来て学んでいますが、話しを伺うと確かに百年以上も前の世界としか思えません。女性の社会的地位も低く、権利もほとんど認められていません。まあ……ハンマの二百年前の姿と言っても大げさではありませんね」
百年前でもハンマの都市にはガス灯と上下水道ぐらいは整備されていた。それすらないなら、国全体が先日までいたサンテのど僻地並と言うことになる。
「あなたの仕事は保安ですが、なぜ剣士を送るのかはおわかりですね?」
主管がカップとソーサーを机に置いて聞いた。
「脅威の排除が目的と聞いていますが、確かリンドラには銃器が持ち込めない」
「そうです。それに、その……脅威と呼んでいる相手は、簡単に排除して良いものではありません。武装盗賊などとは違うので、積極的な排除ではなく危険と判断した時のみ排除を行うように心がけてください」
主管はさらに何枚かの書類に目を通した。
「ああ……まだリンドラ用防疫接種を受けていませんね。医局へ行って接種を受けてください、でも特殊疾病の接種薬は開発されていません。その説明と予防に関する資料を渡されるでしょうから必ず読んでくださいね」
主管はメモ紙にペンを走らせ、俺の書類に挟み込んだ。『リンドラの特殊疾病』という言場が俺の気持ちを重くした。
「『鬼病』ですね」
俺がそう聞くと、主管は目を閉じて頷いた。目を閉じるとやはり相応の年齢が顔に浮き出てくる。
「ハンマではそうです。しかし向こうでは『ガー』、化け物と呼ばれています。あなたにお願いする任務がまさにそれに関係するものです。今回はリンドラからの依頼ではなく、公社が独断で非公式に実施する作業です」
主管は眼鏡を取り上げて、書類をめくった。
「まず医療士一名、工技士一名、保安担当二名で構成される調査班がふたつ、ばらばらでリンドラに入ります」
「あの……なぜ非公式なのですか? それに、どうして一度に入らないんですか?」
「公式に実施できない理由は……リンドラが病気を認めないためです」
主管は別のファイルを開き、指先で頁の一部を押さえた。
「これは先月。公社からの医療班派遣の提案について、リンドラの宰相が回答してきた書簡の内容です。『貴方が指摘する弊国の一地方において発生する“疫病”なる事象に関わる調査の要望につき、その指摘する疫病に該当する事象は確認されず、ただ魑魅魍魎の現れたるを奇と見たる煩慮ゆえの誤り。よっていかなる調査視察も一切無用』と」
俺は足りない国語の知識を総動員して、主管が読み上げた内容を解きほぐす努力をした。
「えーと……つまり。あんたらが病気って言ってるのは、何て言うか……お化けだよってことですか?」
「そのように、宰相様はおっしゃっていますね」
眼鏡を下ろし、口の端に苦笑を浮かべながら主管が言った。
「まあ……こんな返事が来るだろうと予想はしていました。ですから要請は儀礼的なもので、回答は待たずに準備は進めていました。医療士や技術士は持って行く器材が多いので陸路になります。剣士は二人以上が同時に入国すると無用な警戒を招きます、ですから先ほど言ったように半月ほどかけて現地の商館に集合するしかありません」
何から何まで不正規な動きになるのだ。
「現地での指揮は誰が執るのですか?」
「どのように行動するかは現地商館の主人マイテザールと技術士が相談して決めることになるでしょう。すでに先発の剣士がリンドラに入国していて、現地の視察と情報収集を始めているはずです。それに医療士と技術士がひと組、すでに陸路で向かっています。あちらでの受け入れには何ら問題はありません」
「ヤー。マール、メイーデ(レディ、畏まってございます)」
主管は笑わなかったし表情も変えなかった。それだけではなく、何か憂鬱そうな気配を漂わせている。
「他に……何か?」
「私の杞憂であればいいのですが……」
主管は眼鏡を置いてカップを取り上げ、しばらく考え事をして再びカップを置いた。
「かの国は一夫多妻です、そして裕福ではありません。五国間の交易に供する産物も非常に少ない」
置いたカップに視線をやったまま、主管が言った。
「それなのに王子同士、后同士が地位を争い、いまだ国には安寧の時がありません。現リンツ王はご高齢で、このところ健康も優れないとか……だからこそ疫病に関わっている余裕などないのかも知れません」
主管はカップから俺に視線を向けて、ちょっと目を細めた。
「あなたがリンドラに到着して任務にかかっている間にも、彼の国の事情がどのように変化するのかわかりません。マイテザールに詳しい事情をよく聞いて行動してください。これは今回に限ったことではありませんが、現地で急な状況変化があった場合はその場で判断してください。あなたが任地において国民の利益と権利を第一に考えて行動する限り、私が責任を問うことはありません」
そこで王女様は言葉を切り、心持ち声を強めた。
「義に従って、行動なさってください」
Ⅱ
リンドラ国、正式にはリンツ・リンドラ王国へは三日に一往復の航空便しかない。それも骨董品と言うより産業遺跡と呼んだ方がふさわしい、十八年も前に製造された十四人乗りの『ブルヘミール2型』旅客機だ。現役も何も、世界に残っているのはこの一機だけ。
何でそんなものがヨタヨタ飛んでいるかと言えば、こいつの機体は合板で、翼は金属骨組の上に羽布張りだからだ。
リンツ・リンドラ国は機械を嫌うそうで、特に金属でできた機械は病原菌のように嫌われるらしい。それなのに三日に一回とは言え飛行機が飛んでいるのは、たぶん王族や役人が楽をしたいからだ。
そんな事情は俺にはどうでもよかった。本当は俺だってこんな高度一千五百フィート(約四百五十メートル)を這うように、しかもぎしぎしと分解しそうな音をたてて飛ぶ飛行機なんて乗りたくなかった。
しかしこの空飛ぶ骨董品に乗るのが嫌なら、いま医療と技士が移動しているように徒歩か馬車でハンマ国境から三日から四日もかけて行くしかなくなる。自動車はリンツ・リンドラ国に入ることが禁じられているし、そもそも車が走れるような道路がない。
俺は眼下に広がる国境地帯の森林にぼんやり目をやった。高度を上げられないのには理由があって、目的地のリンドラ飛行場は九千フィート(二千七百メートル)の高地なのだ。着陸前には千フィートを下回る超低空飛行にしないと、リンドラの人間は平気でも普段平地に住んでいる乗客は薄い空気で失神する。
離陸してものの数分で、布の手袋を透して冷気が刺さり混んできた。エンジンの廃熱で暖房されているはずだが全然効いていない。こんなことなら冬期屋外行動用の革手袋にしておけばよかった。
今日のリンドラ行きの乗客はたった二名。俺と、もう一人はかなり若い女性だった。浅黒い肌の色と艶のある長い黒髪は、彼女がリンドラの人間であることを物語っている。そして彼女が座っているのは操縦席の後方にしつらえてある特別席だった。
王女様から聞かされた、留学に来ているリンツ家のお姫様かも知れない。だがそれにしては変だった、お付きの者たちがいないのだ。
リンツは一夫多妻だから姫様は何人もいそうだが、何番目であろうが姫様のお出かけには警護や随行がいるはずだ。ハンマの空港にも見送りらしい集団がいたが、どう見てもあれはハンマの一般人で学生くらいの若い男女がほとんどだった。
それに、彼女はお姫様にしては服装が地味すぎた。ハンマの大学生そのままなのだ、つまり平民の格好だ。
「ご無礼申し上げます、姫様」
俺はたまりかねて声をかけてしまった。この先二時間、黙って彼女を観察して妄想をたくましくしているだけなんて苦痛だった。
彼女はちょっと体を動かして、上半身を少しひねって顔をこちらに向けた。
「義援士のシド・ヨギュルバスと申します」
大声にならない程度で、それでいてエンジン音にかき消されないように二座席分離れたところに話しかけるのは難しい。
彼女はその姿勢で数秒俺を見つめた。アーモンド型の大きな眼。ちょっと目尻がつり上がり、瞳は明るい茶色。リンドラ人の特徴だった。その強い視線に射られて、俺は心地の悪さと高揚を同時に感じた。
彼女は優雅に手を動かして特別席の脇にある、たぶん随行員用の座席を指した。そこへ移れと言うことだろう。何しろエンジン音がうるさくて、隣の席と会話するのがようやくなのだ。
息絶え絶えで飛んでいるこの飛行機の中を動き回るのは飛行の安定に良くない。良くないどころか致命的な不安定を招きかねない行為だが、俺はそろそろと座席二つ分機首の方に移動して彼女の隣に座った。
「タァンドルシア・フィム・イッスリマ・シシル・ターリアム・リンツです。義援士とおっしゃいましたか?」
姫様が名乗ったが、どこからどこまでが名前なのかわからなかった。しかし彼女が普通にハンマ語を使ったので俺は正直ほっとした。もし純粋なリンドラ語で話されたら半分くらいしか理解できない。
リンツと名乗ったので、彼女は間違いなくリンドラのお姫様だ。今日の俺は王族づいているらしい。
「はい。五王並立五国公益義援公社から派遣された者です」
タァンドルシア姫は、また俺が居心地の悪さを感じるほどじっと見つめた。たぶん説明しろと無言で要求しているのだろう。
「義援士は要請を受けて五王公社から派遣されます。姫様のお国で起こった困りごとを解決する、その手伝いに向かうところです。済みません……お名前を、もう一度お聞かせ願えますか?」
彼女は、やけに長い名前の『タァンドルシア』が彼女の名前で、フィムはその名を受け継いだ五代目の女性を意味する。ただし独特の数え方で教えられても覚えられなかった。
イッスリマは家系、つまり母親の姓。そしてその後はリンツ王の正式な七番目の娘だと説明してくれた。
ひどくややこしいが、リンドラは一夫多妻だからこうなるのだ。確か現リンツ王にはお妃が五人もいたはずだ。
「リンツ・リンドラの王族に対する作法を存じませんので、ご気分を損なうこともあると思います。あらかじめお詫びいたします」
俺が言うと彼女は微かに表情を緩めた。
「構いませんよ。今ここでは、私はハンマ王立大学の学生です。この飛行機がリンドラの地面に降りるまでは」
ブルミールの車輪がリンドラの地面に触れた瞬間から、彼女は姫様の振る舞いを強いられるのだろう。
「ですから……地面に降りたら、もうあなたとは直接のお話しはできません。お詫びしておきますね」
今度は俺がにっこり微笑む番だった。
「直答を賜り、光栄に存じます」
「ですから、そんな言い方はやめてください」
彼女は睨んで言ったが、目は怒ってはいなかった。一昨年からハンマに留学しているのだが、突然呼び戻されたそうだ。
「お付きの方はなし、ですか?」
「ええ、第五以下ですから好き勝手ができる身ですし。リンドラからハンマまで迎えをよこしてなんてやっていたら、すぐに十日も経ってしまいます」
一番目と二番目の姫はもう結婚していて、リンツ家の中で彼女は事実上第五姫に繰り上っている。それでもまだ勝手気ままができるが、姉姫たちは不自由なんて生ぬるい表現では追い付かない状態らしい。寝ている間も侍女ふたりに見守られているそうだ。
「それでも最後は王様が決めた相手と結婚しなくてはいけませんから、自由なのは今だけです」
世界のあちこちで男女の権利平等が叫ばれているのに、まだリンツ家やリンドラ国では女性の権利はないに等しい。
「ところで」
彼女はもう一度、俺を値踏みでもするかのように見た。結局俺は前任地からの戦闘服に外套をはおっただけの姿だ。
「私の国に何か問題でも起こっているのですか?」
俺は小さく首を振った。
「義援士の仕事はいろいろです、昔は盗賊退治とか害獣退治のような仕事がほとんどでしたけど、今は医療技術の普及とか町の生活基盤整備とか……俺は、警備を兼ねた助手の交代で入ります」
俺は意図して曖昧な返事をした。何しろ今回は隠密の任務だ。
「そうですか……」
彼女はちょっと憂鬱そうな表情になった。
「もっと医療や、生活の基礎になる技術者が派遣していただくことを望んでいるのですが、機械技術を嫌う者が多くいるので難しいようです……その恩恵をたくさんの国民が受けられるのに」
「マリリエル王女様もご心配されて、何とか一人でも多くの技術者を送り込みたいとおっしゃっていました」
彼女はちょっと意外な表情になった。
「あなたはマリリエル様にお会いしたことがあるのですか?」
「はい。これに乗るつい三時間前まで、姫様の国について直に説明を受けていました」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「ああ……今も王女様はリンドラをお気にかけてくださっているのですね。お忙しいのでしばらくお目にかかっていませんけど、まだ教えていただきたいことがたくさんあるのです」
彼女は義援士の仕事と、俺がこれまでに行った外国のことを知りたがった。王様の許可がない限り彼女はリンドラとハンマ以外の国には行けないそうだ。勝手気ままと彼女は言ったが、あくまで王様の手の中でのことなのだ。
俺はと言ったら、見習い義援士として一年。三つの現場に補助員としてひきずり回されて、その間に剣振りの素養があると判定されたらしい。鍛練所に放り込まれてほぼ半年の間、毎日毎日走らされて鉄の棒を振らされた。
入った当初は輸送隊を希望していたのだ。楽をしてタダであっちこっちに行けると甘い考えで義援士に応募したのだが、気がつくと剣を振り回して武装盗賊や有害動物をぶった斬っていた。
そんな話を、彼女は大きな目を輝かせて真剣に聞いてくれた。そして気がつくともうリンドラの飛行場が見えていた。
「ハンマに戻られるのはいつですか? できることならハンマでお会いして、もっと話しを聞かせて欲しいです」
彼女はそう聞いてくれたが、まだリンドラでの仕事にはとりかかってもいないのだ。
「任務は二か月の予定です。あなたは?」
つい聞いてしまったが、お姫様のスケジュールを尋ねるなんて非常に失礼なことだったしれないと気がついた。
「全くわかりません、急に呼び戻された理由もわからないのです。悪いことでなければいいのですけど」
彼女はため息をつき、優雅に首を振った。これから向かう彼女の国が心配になった。
三日に一往復、この危なっかしい旅客機が来るだけのリンドラ国際空港に無事着陸した。機体が滑走路と呼んで良いのかわからない芝の地面を進んで、どう考えても空港施設とは呼べない石積の小屋に近づくと彼女の顔が強張ったのがわかった。
小さな建物の左右からぞろぞろと人が出てきて、飛行機が施設の前に止まると一斉に深々と頭を下げたのだ。
彼女が何か言ったが、リンドラ語らしくて意味はわからなかった。俺は機が止まる前に彼女に断りを言って自分の座席に戻った。
タラップが取り付けられると真っ先に乗り込んできたのはリンドラの民族衣装を着た女性たちで、タァンドルシアと俺を見るなり固まった。
「あ……姫様?」
リンドラ語だったが、それくらいなら俺でもわかった。
「タラーシェン、何なのこの騒ぎは?」
タァンドルシアがちょっと不機嫌そうに言うと、女性たちは狭い機内であたふたと膝をついて頭を下げた。先頭の女性が何か言ったが、聞き慣れない言葉だらけで意味がわからない。
「いいからそんなこと」
女性がまだ何か言っている途中でタァンドルシア姫が遮った。この女性たちは侍女か女官と呼ぶのか、姫様のお世話係なのだろう。
女性たちの手から手へ何かが運ばれてきて、タァンドルシア姫に差し出された。それは金銀の細工が施された小箱で、彼女はそれを開けて腕輪と大きな指輪を取り出して身につけた。
「あの……姫様、お召し物は……」
「家に着いてから着替えればいいでしょ?」
女性たちが何か小声で相談を始めた。国のお姫様が帰ってきたというのに何となく対応がおかしい。
「タラーシェン」
「はい、姫様」
「あちらのお方はお仕事でいらしたのよ。時間がかかるなら先に降りていただいて」
「あっ……あっ、はい。姫様」
タラーシェンと呼ばれていた女性が俺の所へ来て膝をついた。
「大変恐れ入りますが、お先に降りていただけますでしょうか?」
そう共用語で言った。何だか事情はわからないが、お召し物がどうのこうのと言っていたから彼女が機内で着替えるのかも知れない。
機内の通路は一本だけなので、女性たちは姫様の後ろの座席に入って俺を通してくれた。荷物を引きずって、王族座席と随行席のために余計に狭くなっている通路を抜けた。
「ご迷惑をおかけしました」
タァンドルシアがそう言って小さく頭を下げた。
「またお会いできたら光栄です、姫様」
何とか彼女と女性たちに荷物をぶつけずに乗降ドアに向かった。そこで、乗降口を塞ぐようにして立っている女性に気がついた。
その女は機内に入ってきた女性たちとは違った。ヴェールも飾り物も一切付けていなくて、男のような白っぽい上下の服に黒い革のベストを着けている。女官の一人だと思って気にもとめなかったのだが、女性が振り返って向き合う格好になった瞬間に、俺は身構えそうになった。
女性が一瞬だけ向けてきた視線で、俺は全身に無数の針が刺さったように感じたのだ。こいつは護衛だ、しかも半端な腕じゃない。
「失礼いたしました」
女はそう言って頭を下げ、素早い動きでタラップを降りて行った。動きに隙がない。
タラップの下にはお出迎えなのか、左右にずらりと男女が並んでいる。タラップを降りる間、そこにいる全員の視線がうるさかった。あの女も一番前に立っていたが、再び何の気配も感じない存在になっていた。
お出迎え列を通り抜けたところで、俺は足を止めて骨董品旅客機を振り返った。予想していた通り、機からの荷物積み下ろしは始まっていない。ハンマで乗るときに積み込み作業を見たのだが、あの機の貨物室は通路の下だった。
通路の床板を上げないと出し入れができないから、お姫様が降りてくるまでは貨物の搬出は始まらないだろう。俺の剣や装備の受け取りはしばらく後になりそうだ。
揃いの民族衣装を纏っている女性は、全部王宮付きの女官なのだろうか。警護の男たちは俺とあまり代わり映えしない昔の剣士スタイルだ、さすがに俺よりは身ぎれいだが。
ざっと見て三十人ほどが並んでいるのに、あたりは恐ろしく静かだった。ブルヘミール旅客機のエンジンが冷えて軋む音まで聞こえていた。
俺はお迎え列の端から少し離れたところで待つことにして、地面に荷物を下ろした。静まりかえった中でそれがやけに大きな音に聞こえたのだろう、警護の男たちが一斉にこちらを見た。
迎えの車がぎしぎしと軋み音をたててやって来た、ハンマの市街地ではもう見かけることも少なくなった馬車だ。二頭だてで王室専用らしく綺麗な塗装が施されているが、当然のことにゴムタイヤではなく木製の大型車輪でサスペンションなんて機構も付いていない。
ここから見える限りでは、道路は土の剥き出しだ。乗り心地は最悪に違いない。分解済寸前の骨董飛行機からガタゴト馬車なんて、全行程を歩いた方がまだ快適じゃないだろうか。
車室の扉が開けられ、警備の男がステップを持ってきて扉の下に置いた。馬が糞を落とした。
煤煙でくすんだハンマの空、土埃で黄色いマラサダの空と違って、リンドラの空はもの凄く透明だった。こんなのどかで美しい空の下で、俺は何をさせられるのだろう。
やがてタラップの上が騒がしくなり、女官に手を引かれてタァンドルシア姫が現れた。彼女がタラップから地面に足を下ろした瞬間に、女官たちが纏っていたヴェールを高く掲げて彼女の姿を隠した。
出迎えの男性たちは立ったまま一斉に深々と頭を下げ、並んでいる女官たちは腰を屈めて頭を下げた。
末娘で七番目のお姫様のお迎えですらこれなのだから、王子様だとどんなことになるのだろうか。いや、きっと王子様は飛行機なんて危なっかしいものには乗らないだろう。
女官とヴェールに包まれた姫様の斜め後ろには、あの女が付き従っていた。気配は消しながらも周囲に油断なく目を配っている。
姫様のお手荷物はひとつだけ、ハンマ王室御用達の旅行鞄だ。たぶんあれひとつが俺の給料半月分くらいだろう。
姫を乗せた馬車が走り去ると、お出迎えの連中はぞろぞろと移動を始めた。遠くに見える王宮までは歩きらしい。俺はブルへミール旅客機の傍まで戻り、荷物が出てくるのを待った。
草を踏む音が耳に入る前に、わずかな気配で誰かが近づいてくるのがわかっていた。どんな挨拶をしてくるのかそのまま待ってみた。
「ヤーンス・グリッグゼルだ。軍隊式の挨拶はなしだ」
すぐ近くで声がした。そいつは俺が予想していたのよりかなり早く傍まで来たのだ。走っていた足音ではなかったのにどんな歩き方をしてきたのだろう。
「シド・ヨギュルバスです。よろしくお願いいたします」
言われていたのに、つい手が敬礼しそうに動いた。
「その格好は渡り(前任地からの直接移動)か? 階級は?」
「二等兵曹です。一応公社には寄りましたけど、そのまんま移動でした」
彼は俺とそれほど年は変わらないように見えた。だが髪は雪のように白い。
「俺は曹長だがヤーンスでいい。一緒においでなすった、あれは誰だったんだ?」
去って行くお出迎え列に目をやりながらヤーンスが聞いた。
「タァンドルシア……フィム、イッスリマって、七番目の姫様でした」
「ああ……ハンマに留学で行っていた人か」
「急に呼び戻されたらしいですよ」
「葬式だろうな、お姉さんが亡くなった」
「ああ……」
やはり、悪いことだった。
「ただどうにも普通の死に方じゃなかったらしい」
ヤーンスが声をひそめて言った。
「何です?」
「マイテザール商館のご主人は、毒殺かも知れないと言っている」
「え?」
そこでようやく俺の剣と持ち込み装備が機から降ろされてきた。受け取って小屋の中にある管理所でスタンプを押してもらって、手続きは終わりだ。義援公社の身分証明書に記された王女様のサインはどこでも威力がある。
「リンツ7世はお后が五人に王子が三人。姫は七人いたけど上の二人は嫁に行って、いま残っているのは一昨日死んだのを除くと三人かな? 他にお妾さんもいてそっちにも子供がいる」
市街へ向かいながらヤーンスが教えてくれた。
「ここはとんでもない国だぞ、覚悟はできてるだろうな?」
「来る前に、王女様にたっぷり脅されましたよ」
ヤーンスは咳をするような笑い声を上げた。俺たちの歩みは早い、お迎え列に追いついてしまった。
「実際には、思ってるよりも何段も上……いや下だな」
「何がですか?」
「何から何までさ」
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