第12話 元カノと男子高校生

第12話 元カノと男子高校生

 高校2年生の春休みは、とても貴重だからと蓬さんと一緒に過ごす時間を増やした。来年の今頃は次の進路に向けて準備をしていると思うと、高校生活ももうそんなに長くないのかと切なくなる。


「今日は図書館に行こうか。」

「うん。」


 図書館でのんびりと読書をしてから、喫茶店に行くのが僕たちの定番のデートだ。春休み中は他に、映画館にも行ったし、ピクニックデートもした。


 もちろん、お互いの友達ともそれなりに遊んでいるし、僕はバイトだってしている。そんな中でもたくさん蓬さんと会えるのは、家が隣という利点を最大に活かしている結果だと思う。


 図書館に行くと、僕たちのような高校生もたくさんいる。家で勉強がはかどらない人たちが自習室などを使って勉強をしているのだろう。


「何読もうかな。今日の千尋のおすすめはある?」

「そうだなあ。せっかくだから近代文学系を読んでみたらどうかなあ。意味が分からなくてもとりあえず読み進めてみると、分かるようになるから面白いんだよね。」

「近代文学ってあれでしょ。夏目漱石とかでしょ。」

「まあ、そうだね。でも読みやすいのとかでいうと、僕は宮沢賢治とか好きだなあ。」


 夏目漱石の『吾輩は猫である』なんかも新感覚で面白いけれど、宮沢賢治はファンタジー要素というか、ちょっと異世界に入ったような感覚があって、僕はとても面白いと思っている。


「宮沢賢治って『雨にも負けず』の人よね。」

「よく覚えてるね。」

「だって小学校のとき、暗記したじゃない。そっか。千尋のおすすめなら、読んでみようかな。」


 図書館なので、そんなことを小声で話しながら、近代文学の本棚へと向かう。


ファンタジーであれば、『ハリーポッター』とか『ロードオブザリング』とかそういう有名どころもありなんだけれど、来年受験生であることを考えると、今から近代文学に触れるのも悪くないと思う。


「あった。『銀河鉄道の夜』だ。」

「蓬さんはそれにするの?」

「うん。千尋は?」

「僕は『老人と海』とかにしようかな。ヘミングウェイの。」

「それなら、外国文学のところよね。じゃあ私、先に2人分の席を確保しに行ってくるね。千尋はゆっくり本選んできて。」

「ありがとう。」


 蓬さんと一旦別れてから、外国文学のコーナーへと進む。図書館の良いなあと思うところは、聳え立つ本に囲まれていられることだ。


 本棚が所狭しと並んでいて、その中に入るとまるで僕だけの世界が広がっているようだ。誰にも邪魔されることのない空間。


 ずっとこの間に居られたらいいのにな、と思うほどうっとりしてしまう。


 外国文学のコーナーは、世界広しというだけあって世界各国の有名作家の本が整列している。ヘミングウェイはその中でも有名中の有名であるからか、作家名のポップが立てられている。


 あ、あった。『老人と海』だ。その本を手に取ろうとしたときだった。


「恩田くん?」


 突然自分のことを呼ばれたことにびっくりし、声の主の方を見るとさらに目を見開くことになった。


「……春日かすがさん……?」


 久しぶりに口にしたその名前に、心がざわざわと動き出す。


詰襟のチェック柄のワンピースはきちんと上まで止められており、膝小僧は見えない。長くて綺麗なストレートヘアは、あの頃よりも長くなっており、大人っぽくなったなと思う。


天井まで届きそうな本棚の間で、すっと涼やかに僕を見つめる瞳は懐かしい。


「久しぶりだね。こんなところで会うなんて……。驚いちゃった。」


 長い髪の毛を耳にかける仕草をする春日さん。ぎこちなさそうに口元を緩ませる笑顔は、あの頃と変わっていない。


「……僕もびっくりしたよ。」

「友達と学校の課題をやっちゃおうと思って図書館の自習室にきたの。せっかく図書館に来たから何か借りようと思ったら恩田くんが居るんだもん。恩田くんは?」

「僕は読書をしに。」

「そうなんだ。一人?」

「いや……。」

「……そっか。でも、元気そうでよかった。卒業以来だもんね。」

「そうだね。」


 なんでもないように話す彼女に、僕は相槌を打つだけのような返事しかできない。だって、春日さんと何を喋ったらいいのか、まったく分からない。


「じゃあ私、行くね。」

「うん。」

「またね。」

「……うん。」


 髪の毛を翻しながら、春日さんは颯爽と自習室の方へと向かって行った。彼女の腕の中には太宰治の『人間失格』があった。今でも太宰が好きなのか、と思った。


 蓬さんが席をとってくれているだろうと読書スペースに行くと、蓬さんは僕をすぐに見つけてくれて、手をあげてこちらにアピールしてくれている。


 ……なんて可愛い人なんだろうか。今にも大声を出して、僕の彼女ですって周りの人に言いたくなる。


「ごめんね、時間かかちゃった。」

「ううん。そういえばさっき、同じ中学だった春日早苗さなえちゃんに会ったよ。千尋、覚えてる?」


 蓬さんから思いがけない名前を耳にして、胸の奥にひゅっと冷たい風が送り込まれたような感覚になる。


「え?あ、うん。同じクラスだったからね。」

「そうだったんだ。私、あんまり覚えてなくてさ。さっき話しかけられて思い出せなくて、悪いことしちゃったなあ。」

「……そっか。でも蓬さんはクラスが離れてたから仕方ないんじゃない?」

「でも向こうは覚えてくれてたわけでしょ?」

「それは、蓬さんは目立ってたから。」


 僕たちと同じ中学校出身で、同じ学年だった人なら、蓬さんのことを知らない人は居ないと思う。なんなら、先輩や後輩だって蓬さんと関わりがなくても、知っている人は多いと思う。


「……そうかなあ。せっかく3年間同じ校舎で過ごしたのに、ちょっと申し訳なかった。それにしても、綺麗な子だね。中学の時も綺麗だった?」


 蓬さんはきっと知らない。いや、蓬さんでなくても知るはずはない。


「そうだね。あんまり変わらない感じだったよ。」

「ふうん。千尋がそんな風に言うなら、綺麗だったんだろうね。」


 蓬さんのその言い草に、僕はふっと笑みをこぼしてしまう。だって彼女の唇が少しだけ尖っている。分かりやすくて可愛い。


「でも、僕にとっての一番は蓬さんしかいないけどね。」


 僕が蓬さんの耳元でそう囁くと。


「な……!」


 顔を真っ赤にさせて耳を抑えている彼女がいる。こんな蓬さんより可愛い人なんて、他に存在するはずがないじゃないか。


「さ、本読もっか。」

「な……!」


 余計なことを蓬さんに伝えるつもりはない。だって、今僕が大好きでずっと一緒に居たいと思っているのは、蓬さんしかいないのだから。






 4月に入り、来週からはもう学校も始まるという春休みのある日、春日さんから連絡が入った。もう連絡がくることなんてないと思っていたから、それはそれは、驚いた。


 春日さんからのメッセージは、進路についての話だった。どの大学のオープンキャンパスに行こうか迷っているらしく、僕の意見を参考にしたいらしい。


「……こういうのってどうしたらいいんだろう……。」


 さすがに、快く返信する気にはなれなかった。春日さんはただ、久しぶりに僕と会ったから、ちょっと聞いてみようと思っただけかもしれない。


 彼女にそういうところがあるのは、よく分かっている。何の屈託もなくマイペースに人との距離を詰めるタイプだ。そういうところが少しだけ好きだったというか、惹かれた。


 だけど、今は春日さんのペースに乗せられるわけにはいかない。


「……とりあえず、まだ決めてないって返信するか。」


 本当はどの大学のオープンキャンパスに行こうかなんて、目星はつけている。だけどそれを、わざわざ春日さんに教えようとは思わない。


 春日さんは、何も気にしていないのかもしれない。付き合っていたのはたった少しだし、付き合っていたといっても恋人らしいことは何一つしていない。


 だから、僕と付き合っていたということは、春日さんにとっては取るに足りないことで、以前のような友達の感覚があるのかもしれない。


 だけど、僕は春日さんに対してそういう感情は持てない。彼女への情は1ミリもないけれど、仲良くしようとも思えないし、できれば関わりたくない。


 スマホをぎりぎりと握りしめていると、僕の部屋のドアがノックされた。「はーい」と返事をすると、「入るわよ。」と姉さんの声。


「よっちゃんが来てるんだけど。」

「えっ。蓬さんが?」


 今日は特に約束してなかったはずだ。急に会うことになったとしても、メッセージでやりとりしてから会っているから、こんなに急に訪ねてくることはない。


「そう。野菜のおすそ分けに来てくれたんだけど、ちーくんにも会わせといた方がいいかなあと思って。」

「え?」


 姉さんの口ぶりに何かが言い含まれているような気がして、なにかがもやっとする。


「……とりあえず、降りるよ。蓬さんは玄関?」

「うん。」


 部屋を出て階段を降りると、すぐに玄関がある。僕の家の玄関と階段は吹き抜けのらせん階段になっているから、上からすぐに蓬さんの姿を発見した。


 でも、なんだかいつもと様子が違う。


「よ、蓬さん?!」


 僕は蓬さんの変化に戸惑って、慌てて彼女の前に飛び出た。


「千尋。やっほ。似合う?」


 に、似合うも何も!


「ど、どうしたの!?!?」


 蓬さんはいつも、ロングで綺麗な髪の毛を、これまた綺麗に巻き髪にしていた。それを下ろしているときもあったし、1つや2つに結っているときもあった。


 それが蓬さんのチャームポイントでもあった。


 それなのに。


 僕は徐に、蓬さんの髪の毛を梳く。何度も何度も梳く。何度確認しても結果は同じだ。


「もう、千尋ったらどうしたのよ。似合う?似合わない?」


 上目遣いで僕を見上げる蓬さん。少し唇を尖らせている彼女は、可愛い。可愛い以外の言葉が見つからない。可愛くないわけがない。


 だけど、だけど……!


「な、なんでショートカット?!」

「なんでって……。……もしかして、嫌?」

「嫌じゃない!めっちゃ似合う!めっちゃ可愛い!だけど、女の子が髪の毛をばっさり切るなんて、なんかあったかと思うじゃない!」


 今どきは失恋で髪の毛を切ることもないと言うけれど、それでもロングヘアーの女の子が急にショートカットにするのにはそれなりに理由がないとしない。


「……千尋に可愛いって言ってもらいたくて。」

「僕に?」

「……うん。」


 急にショートカットにした理由が僕……。でも僕は、ショートヘアーが好きだなんて一言も言ったことはないし、僕は蓬さんがしたい髪型をしていて欲しいと思っている。


 だから、蓬さんが急にこんなことをしたのは、もっと理由があるはずだ。


「……ちょっと、僕の部屋で話そうか。飲み物持ってくるから、先に僕の部屋に行っててくれる?」

「うん。」


 リビングに寄って両親に蓬さんが来たことを伝えて、茶菓子とハーブティーを準備してから、僕は部屋にあがった。


「それで。どうしてショートカットにしたの?」


 もう一度、まじまじと蓬さんの髪の毛を見る。茶髪でつやつやの髪の毛は、毛先が重ためのショートボブになっている。


「……だって、千尋が好きなんじゃないの?ショートカット。」


 少し不安そうに言う蓬さん。……やっぱり何かがかみ合わない。


「僕、ショートカットが好きだなんて、言ったことないと思うんだけど。」


 そう言うと、蓬さんはじっと僕の顔を見つめた。これは誰かに吹き込まれた系で確定して間違いなさそうだ。


「……春日さんに聞いたの。」


 蓬さんがその名前を口にした瞬間、僕の胸の奥は嫌な音が騒ぎ立てる。


「春日さん……?なんで?」

「この間、図書館で会ったって言ったでしょ。その時に連絡先交換したの。昨日、お茶したのよ。そしたらその時に、春日さんから“千尋の好みはショートカットの女の子だ”って聞いたの。……千尋、中学の時に春日さんと付き合ってたんでしょ?なんで教えてくれなかったの?」


 彼女の瞳は揺れていた。蓬さんにこんな顔をさせているのが自分なんだと思うと、情けなくなる。


 まさか、連絡先交換までしていると思わなかった。蓬さんと春日さんには何の接点もないから、特に伝える必要もないと思っていたのに。


 こんなことなら、最初から伝えていればよかった。


「……言わなかったのは、ごめん。謝るよ。でも、やましい気持ちがあったとかではないんだ。春日さんと付き合ってたって言っても……友達付き合いの延長という感じだったんだ。ましてや恋人らしいことは何もしていないし。それに僕が今付き合ってるのは蓬さんだから。なんかそこに、春日さんのことを持ち込むのは嫌だったんだ。」

「私が知らなければいいと思ったの?」


 蓬さんの問いかけに、胸の奥が詰まったような気持になる。確かに、蓬さんの立場に立ってみれば、なぜ教えてくれなかったのかという気持ちになる。


「……ごめん。そういう気持ちもあった。でも、知らなければというか、知らなくていいことだと思ったんだ。」


 真っ直ぐ僕を見つめる蓬さんの視線が痛い。悪いことをしたわけでもないのに。


「……ごめん、千尋を責めるみたいになってしまって。千尋は別に、悪いことをしたわけじゃないのにね。元カノがいることも、驚きはしたけれど私だって元カレ居るし、それ自体はいいんだと思うけれど……。でも、1つだけ約束してほしいことがあるの。」

「……なあに?」

「全部は話さなくてもいいから、気になったことはちゃんと話してほしい。」

「気になったこと……。」

「うん。今回、図書館で春日さんと再会したこと、ちょっと気になったんでしょ?」

「……うん。」

「そういうときは教えてほしい。だって、私たちがちゃんと話ができていないと、悪いことじゃなかったとしても知らないうちに亀裂が入ることだってあるんだよ。現に、春日さんはつけ込もうとしてきた。私の髪の毛だって、千尋がちゃんと私に春日さんのことを話してくれていれば、守れたものだって思わない?」

「……っ!」


 蓬さんに一言、「実は春日さんと中学の時に少しだけ付き合っていた」と言えていたら、どうだっただろうか。


 きっと、蓬さんが春日さんに会いに行くこともなかったし、春日さんから「ショートカットが好き」というデマを聞くこともなかっただろう。


「別に、全部は話さなくていい。私だって、千尋に元彼のことを全部話してるわけじゃないし、全部を話すつもりもない。それは、千尋が言ってくれたように、私たちのことに前に付き合ってた人のことなんて、持ち込みたくないから。でも、気になったことは話すようにしようよ。ちょっと知ってるだけで守れるものもたくさんあるんだから。私たちの関係が他人の手のひらで踊らされるなんて、絶対に嫌だもん。」


 蓬さんがそう言ったところで、僕は彼女の小さな体を抱きしめた。体を張って僕に大切なことを教えてくれる蓬さん。


「うん。僕だって嫌だ。ごめん。」

「……分かってくれればいいの。」

「うん。ありがとう。」

「……それより、髪の毛切った私、どう?」

「世界一可愛いに決まってるじゃない。大好きだよ。」


 長い髪の毛でも短い髪の毛でも蓬さんは、蓬さんだ。可愛い以外にありえない。


「やっと心から言ってくれたね。」

「ごめん。さっきは動揺しちゃって。」

「いいの。動揺させようと思ってたんだから。」


 僕の腕の中で、クスクスと笑う彼女。なんかもう、敵わないなあと思う。


「それより。春日さんのこと、どうする?」

「……こうなった限りは、きっちりと話をしなきゃいけないよね。連絡するの、嫌だなあ。」

「しゃんとしてよ、千尋。そんなに嫌な別れ方したの?」

「ううん。普通に自然消滅。なんとなく気まずくなって。」

「……なんか気まずいやつだね。告白したのはどっちからだったの?」

「えー。それ言うの?」

「千尋が嫌ならいいけど。」

「……告白は、してない。なんか、なんとなく。図書室で一緒に居るようになって、一緒に帰るようになって、みたいな。付き合い始めてからの方が、なんか会話できなくなって、その空気がなんとなく耐えられなくなって、そのまま……みたいな。」

「なんか、中学生っぽいね。」

「中学生の頃の話だもん。」


 中学生っぽいと言われて、本当にそうだなって自分でも思う。でも結局、その程度の気持ちだったのかなとも思う。


 春日さんのことを可愛いな、好きだなとは思っていたけれど、繋ぎとめる努力をするほど好きではなかったのかもしれないと、今では思う。


 だってもし、今、蓬さんと同じような状況になったとしたら、ちゃんと話をしたいと思うから。


「とりあえず、春日さんとちゃんと話をするよ。」

「うん。私も一緒の方がいいかな?」

「うーん。蓬さんが一緒だと、話ができない可能性もあるから……。待っててくれる?」

「分かった。」

「ちゃんと、春日さんと会う日が決まったら教えるから。」

「うん。」


 蓬さんの頭を撫でて彼女の額に唇を落とす。すると彼女は、「どうしたの?」とでも言いたげな瞳で僕を見上げる。


「蓬さんって、なにしても可愛いんだね。ショートカットすごく好きかも。」

「……ありがとう。」


 ちょっと照れくさそうに笑う彼女の笑顔が大好きだ。






 それから数日後、僕と春日さんは近くの喫茶店で対面した。珈琲が運ばれてきてから、5分くらい経っただろうか。未だに僕たちの間には沈黙が続く。


「……。」

「……。」


 本人を目の前にすると、なんと話していいのか分からない。いつも、僕が話しやすいように蓬さんやみんなが気を使ってくれているんだと、殊更気づく。


「……。」

「……。」


 しかし、僕の方から話があると言ったのだ。そうであるならば、僕の方から話をするというものが筋であるだろう。


「……どうして、蓬さんにあんなこと言ったの?」


 彼女を責めるつもりはないのに、なぜか僕の口からは彼女を責める言葉が出ていた。


 僕の言葉に春日さんは、少しだけ眉を動かして眉間に軽く皺を寄せる。


「……あんなことって?」


 そりゃあそうだろう。喧嘩腰に言われたならば、喧嘩腰で返すしかない。……失敗した。


「……僕がショートカットの方が好きだって。蓬さん、ショートカットにしちゃったんだけど。」

「え。山崎さん、本気でショートカットにしたの?」

「うん。」


 すると、春日さんは下を向いて肩を震わせた。そして、「くっ。」と声を漏らしたかと思った次の瞬間、「ふはっ。」と笑い声を漏らした。


「山崎さんって、見た目によらず純粋なのね。」


 ひとしきり笑った後、春日さんはそう言った。僕は今までに感じたことのない嫌悪を春日さんに感じていた。


「……どういう意味?」

「だって覚えてもいなかった中学の同級生の言葉を信じて、ショートカットにしたんでしょ。ほんと、面白い人ね。私が恩田くんと付き合ってたって話をしたときも、大きな目をさらに大きくさせて、本当に驚いていたもの。どうして私と付き合ってたこと、山崎さんに言わなかったの?」


 春日さんはテーブルに肘をつけて身を乗り出し、僕の欲情をかきたてるように目線を流した。


「蓬さんに話すまでもないと思ったんだよ。春日さんとはもう、接点すらないし。」


 僕がそう言うと、春日さんは少しだけ右の眉毛をぴくりと動かした。


「……私とのことは取るに足らないことだったって言うの?」

「……春日さんには感謝してるよ。だけど、僕が今大事にしたいのは、蓬さんなんだ。」


 春日さんとのことが取るに足りないことなわけじゃない。要らない思い出だって思ったことはない。だからこそ、蓬さんを大切にしたいって思うんだ。


 春日さんは手を膝の上において、それを見つめた。僕からはあまり表情が見えない。泣いているようにも、考え込んでいるようにも見える。


「……今でも恩田くんのことが好きなの。」


 耳を疑った。


「え?」


 あまりに驚きすぎて、僕は聞き返すことしかできない。


「私、後悔してるの。恩田くんのこと、とっても好きだったくせに、ちゃんと付き合えなかったから。本当は別れたくだってなかった。何度も恩田くんに連絡しようと思ったの。でも、あと少しの勇気がなくて、できなかった。」


 彼女はぽつり、ぽつりと話し始めた。


「……卒業式も、告白しようと思った。考えてみたら、恩田くんにちゃんと好きって言ったことがなかったから。だけど別の事に時間をとられていたら恩田くんは帰ってしまっていて。何度も校舎の中を行ったり来たりして、恩田くんを探したの。でも、居なかった。」


 卒業式の放課後、春日さんが自分を探してくれていたなんて、思いもよらなかった。あの日、クラス会をしようなんて話があっていたけれど、僕はクラスメイトに特段仲の良い人なんていなかったから、真っ直ぐ家に帰ってきていた。


「何度も後悔したの。高校生になってからも、恩田くんの連絡先を開いてメッセージを打っては消して、送信ボタンが押せなかった。……そんな時に、山崎さんと付き合ってる噂を聞いたの。」

「えっ。」

「知らないの?うちの高校でもすごく話題になったんだよ。」


 春日さんは同じ市内の高校に通っている。僕たちと同じ中学出身の人も多いから、聞いていたとしても不思議じゃないかもしれない。


「そうだったんだ……。」

「はじめは全然信じられなかったの。だけど何度か、2人が一緒に居るところを見かけたことがあって。だから、“ああ付き合ってるんだ”って。」


 そんなに何度も目撃されていたなんて、全然知らなかった。


「それからはすごく、自分の気持ちをどうしたらいいか分からなくて。ただ、少しずつ忘れようと思って。でもこの間、図書館で二人を見かけて。……少し意地悪をしたくなったの。山崎さんがあまりにも無邪気だったし、声をかけても私のことを知らない風だったから。山崎さんが私のことを知らなくても当たり前なのに……。でも、存在を知って欲しかった。恩田くんと私のことをなかったことにしてほしくなかったの。」


 春日さんは声を震わせながら言った。


 こんな風に彼女が思っていたことを、僕は何も知らなかった。中学の時だって、彼女は何も言わなかったから、知らなかった。


 でも、付き合っていた時のことを思い返すと、春日さんばかりを責められない。彼女は言わなかったけれど、僕も聞こうとしなかった。


「……春日さん。僕がちゃんとしなかったからいけなかったね。ごめん。でも春日さんとのことを、なかったことにしたいなんて一度も思ったこともないよ。春日さんと付き合っているとき、僕は君に恋してた。」


 ほんの少しだったけれど。


「僕も、楽しかったよ。春日さんと図書室で過ごす時間。」


 付き合う前は、色んな話をした。どんな本が好きか、今読んでいる本は何か。その時間は僕にとってとても新鮮で、とても楽しい時間だった。


 今、思い出しても、懐かしい香りがする。夕暮れの木漏れ日、本棚に並んだ本の匂い、春日さんの横顔。


 肩を震わせながら頭を上げない春日さんを真っ直ぐ見据えて、僕は言葉を紡ぐ。


「こんな僕のことを、好きになってくれてありがとう。……だけど、ごめん。今はもう大好きな人が居るから、春日さんの気持ちには応えられない。」


 そう言った僕の言葉に、春日さんは大きく頭を縦に動かした。


「……っ、うん……。」


 声を震わす彼女を見たのは、これが初めてだ。好きだったくせに、春日さんのことを何も知らなかった。


「……私、もう少し珈琲飲んでいくから。恩田くんは先に帰っていていいよ。」


 振り絞るような声だった。


 春日さんが零す雫を見ては、申し訳ないなと思うけれど、それを僕が拭うことはできない。だから僕は、願うしかない。春日さんが笑顔である日々を送れますようにと。


「……うん。僕の代金はここに置いていくから。」

「うん。」

「春日さん、元気で。」


 ずっと鼻水をすすって、春日さんはやっと顔を上げてくれた。最後はちゃんと顔を見てというのは、彼女なりの意地なのかもしれない。


「うん。恩田くんも。」


 濡れた瞳をこらえながら、精一杯の笑顔を向ける春日さん。ああきっと、彼女は大丈夫だろう。


 僕は軽く彼女に会釈をしてから、席を立って店を出た。薄暗い喫茶店から出ると、外は幾分か眩しい。


 家の方に向かおうとそちらの方に体を向けると、見知った顔が唇を尖らせてそこに立っていた。


「……どうしたの、蓬さん。」

「……迎えに来たの。」


 なんだか変な顔をしているから、心配で仕方がなかったのかもしれない。


 僕の彼女は、なんて愛おしいんだろう。


 “千尋が少女漫画みたいな恋をするときは、相手が私であってほしい”


 そう言ってくれたときの蓬さんの顔が、頭の中で再生される。


 人のことを知ろうともしなかった僕が、今こうやってたくさんの友達に囲まれているのは、蓬さんがいつも体当たりでぶつかってきてくれたおかげなんだと、改めて感謝する。


「ありがとう。」


 僕は嬉しくなって蓬さんの手をとる。


「わ。なに、なんでそんな嬉しそうなの。」

「蓬さんが大好きだからだよ。」

「なにそれっ。」


 蓬さんは楽しそうに笑った。その顔を見て、僕も笑う。ずっと君の隣に居て、ずっと君に恋をしていたいと思いながら。


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