第5話 初めてのお泊りと男子高校生

第5話 初めてのお泊りと男子高校生

 夏休みに入ると、学校全体がどこか浮き足立っているように感じた。夏休みに入ってからも補講という名の授業はあるけれど、それも午前中で終わる。


 体育祭実行委員の蓬さんは、夏休み明けにすぐにある体育祭に向けて忙しそうだけれど、僕は何か部活に入っているわけではないから、のんびりしたものだ。


「千尋と蓬って夏休みはどっか行くの?」


 学校が終わって一臣くんがうちに遊びに来ているときに、おもむろにそんな質問を受けた。


 確かに、高校生カップルが付き合っているとなれば、夏休みはどこかに出かけるのが一般的かもしれない。そんな話をそういえば蓬さんとできていなかったと、一臣くんの質問で気づいた。


「いや、予定はしていないけど……。」

「まあ、千尋たちは家が隣だから、いつでも会えるもんな。でも、夏休みはチャンスじゃん?」

「なんの?」

「なんのって……。それ天然?それともわざと?」

「え?なにが?」

「なにがって……。お泊りのチャンスだろ。お泊りって言ったらそういう……。」

「え、あっ!」


 一臣くんのその濁し方で分かった。そういうことか。確かに、少女漫画でも夏休みはそういうチャンスだっていう描写がある。


 それに僕だって健全な高校生男子だから、そういうことを考えないわけでもない。


「千尋たちって、“まだ”だろ。そういう話、出ないの?付き合ってもう3ヶ月くらいなるだろ?そうなってくると、この夏休みにそういうことになってもおかしくないんじゃねぇの?」

「……そう、だけど……。」


 僕には“その”経験がない。だから、付き合って何ヶ月でするという目安みたいなものもなくて。


「付き合って3ヶ月でするものなの……?」


 経験豊富そうな一臣くんに聞くことでしか、情報をえられない。僕的には、付き合って3ヶ月は、まだ早いような気がするのですが……!


「まあ、半々くらいじゃない?でも、半年付き合ったら大体がやってるっしょ。俺だったら3ヶ月待てねえもん。」

「3ヶ月待てない……?!」

「いや、だって想像してみ。好きなやつと2人きりだろ?なんもしないって方が無理じゃね?」


 ……吃驚した。僕にとっては、何もしない方が普通だったから。


「……なにかする方が普通なのか。」

「まあ、童貞と処女だったら思い至らないのが普通かもしんないけどなあ。」

「え……?処女?」

「蓬は処女だろ。なに?そんな話もしたことなかった?」

「うん……。」


 蓬さんが処女だなんて知らなかった。キラキラしたグループにいるし、蓬さん自身も圧倒的に可愛いし、彼氏が今までいたことも風の噂で聞いたことあるしで、絶対に経験済みだと思っていた。


 だから余計に、蓬さんに聞くことができなかった。これはちょっとした男の見栄だ。


「そんな話もしたことないなら、そういう空気になりづらいかあ。ま、でも夏休みはチャンスだろ。千尋の健闘を祈るっつーことでこれやるよ。」


 一臣くんがニコニコしながら、バックから取り出してくれたのは、未開封の“アレ”の箱だった。


「持ってて損はないだろ。」

「これって高いんじゃ……!」


 童貞の僕でも、入っている量は少ないのにちょっとお高めの“ソレ”であることは、すぐに分かった。一応、そのレベルの知識はある。


「餞別だよ。ってかこういうのって、どうせ使うなら、高くてもいいやつの方がいいぞ。エッチって実は繊細だし。ちょっとしたことで不快な思いをすると、嫌なイメージついちゃうんだよ。」

「そうなんだ……。さすが、経験豊富な一臣くんは違うね。」

「そこまで豊富ってわけでもないけどな。紳士の配慮のうちだろ。」

「紳士の配慮……。」

「だってどう考えても、受け入れる側の方が辛いんだし。できるだけ痛い思いさせたくないし、一緒に気持ちよくて幸せな気持ちになりたいじゃん。」


 確かに。女の子はすごく痛いって聞くし、もし妊娠とかなれば、体に負担がかかるのは女の子の方だ。


 そうであるならば、最大に配慮していかなきゃいけないのは、僕の方だ。蓬さんには、いつも笑っていてほしいし。


「なんか、一臣くんって顔だけじゃなくて心もイケメンなんだね。」

「俺に惚れると火傷するぜ。」


 その言葉が似合ってしまうのも羨ましい。


「一臣くんと付き合う女の子は、幸せなんだろうなあ。」


 僕がそう言うと、一臣くんはちょっとだけ困った笑みをもらした。


「……さあ、どうだろうねぇ。そうだといいけど。それより、夏休み。焦らなくていいけど、チャンスはものにしろよ!女子の方が待ってるって場合もあるんだからな!」


 一臣くんはそう言うと、ばんっと僕の背中を叩いた。


 チャンスはものに、か。いつかは蓬さんとそうなれればいいなって思っているけれど。それが近いうちにきたらいいような、そうでもないような少し複雑な気持ちになった。






 補講のために学校へ行くと、僕の前の席にばんっと野久保くんがこちらを向いて座った。なにか、僕に話があるらしい。


 僕と蓬さんが付き合っていることをカミングアウトしてからというものの、キラキラのグループの人たちに話しかけられることが多くなった。


 そのなかでも一際、野久保くんはよく話しかけてくれるようになったし、今では温かく僕と蓬さんのことを見守ってくれている。体育祭実行委員会では、蓬さんに悪い虫がつかないように、彼が壁になってくれているくらいだ。


「ど、どうしたの……?」


 しかし今日は、いつもより真剣なまなざしに、なんの話かと僕も身構えてしまう。


「夏休み。蓬と予定立ててないって本当か?」

「え……。」


 野久保くんの真剣なまなざしとは反して、「なんだそんなことか」と思うような話に、肩透かしをくらったような気持になる。


「昨日。体育祭の準備のときに蓬から聞いたんだよ。この夏休み、特にどこにも行く予定じゃないって。なにしてんだよ、誘えよ男なら!」

「そう言われても……。」


 そう言われても、デートなら僕たちのペースでやってるし、夏休みだからって特別なことをしようという話にもならなかった。


「蓬、ちょっと寂しそうだったぞ。」

「え……。」

「せっかくの夏休みなんだし、どっか遠出したらいいじゃんか。海とかバーベキューとかさ!」


 そんなこと言われても、どちらも僕の苦手なものだ。蓬さんは好きそうだけど、僕なんかとやっても楽しくないかもしれないし。


「それにさ。」


 野久保くんは僕の耳に唇を寄せて言った。


「お前たち、“まだ”なんだろ?夏休みがチャンスだろ。」


 ……高校生男子って、みんな同じこと考えてるのかな?


「そ、それは……。……っていうか、野久保くんは嫌じゃないの?僕と蓬さんがそういう関係になるの。」


 仮にも、蓬さんは野久保くんの好きな女の子のはずだ。好きな女の子が他の男の子とそういう関係になるって、僕だったらすごく嫌だ。


「何言ってんだ、恩田。付き合ってんならそういうことするの、当たり前だろ?俺がお前たちの付き合いを認めたっていうことは、そういうことも含めて認めたってことだよ。っていうか、俺もう他に好きな子できたしな。実行委員会の1年生にさ、めっちゃ可愛い子がいるんだよ。」

「そ、そうなんだ。」


 野久保くんって、器がでかくて真っ直ぐな人なんだなって思った。それと同時に、もう他に好きな女の子ができちゃうなんて、なんて早い人なんだとも思った。


 でも、野久保くんレベルになると、寄ってくる女の子の数も僕とは比べ物にならないだろうし。そう考えると、いつまでもうじうじ考えている僕の方が損しているのかもしれない。


「これ、お前にやるからさ。ちゃんと使えるように、蓬のこと誘えよ。」


 野久保くんはそう言うと、黒い袋に包んだものを、野久保くんの鞄から僕の鞄にこそっと移した。


「なに?」

「なにって、アレだよ。近藤さん。」

「!!!」


 ……みんな、どうやって手に入れてるんだろう。いや、ドラッグストアに行けば普通に買えるってことは分かるけれど、よくこんなものを恥ずかし気もなく持ち歩けると思う。


 先日、一臣くんに貰ったモノは家族に見つからないように、机の引き出しの奥という厳重な場所にしまったきりだ。


「い、いいよ。」

「いいってお前、生でやるつもりか?恩田のことだから、買いに行くのすら躊躇してるだろ。」


 図星だ。一度だけ、持つだけ持っといた方がいいかなと思って、ドラッグストアに行ったことがある。そして、売り場にも行ったことがある。


 だけど、横目で見流すだけで、それを手に取ることはできなかったし、なんなら立ち止まることさえできなかった。


「……持ってるから大丈夫。」


 だから、コレの値段がどれくらいするのかは知っている。高校生の僕たちには少々お高い値段だ。そんなものを、こんな箱ごともらうなんて、気が引ける。


「あ、持ってんの?なんだよ、準備万端じゃねえか。でも、1回したら猿みたいに止まんなくなるから。持っとけよ。お前にって買ってきたんだし。」


 準備万端と言われるとなんだか心外だけれど、僕のために買ってきたと言われると受け取らないわけにもいかない。


「……ありがとう。じゃあ、ありがたく受け取るよ。今度、何か御礼させてね。」


 まったく持っていないのも心もとなかったけれど、こんなに持ちすぎるのもどうかと思う。早く家に帰って、このブツを引き出しの奥にしまいたい。






 今日のすべての補講の授業が終わると、僕はそそくさと帰る準備をした。早く、家に帰って隠さないと気が気じゃない。


「千尋。」


 教室から出ようとしたとき、蓬さんがこちらへとかけてきた。


どうしたんだろう。今日は体育祭の準備で一緒に帰れない日だったはずだ。


「今日、実行委員会なくなっちゃったから一緒に帰ろう。」

「え、そうなの?」

「うん。なんか、先生たちの職員会議で学校が使えないんだって。部活生も今日は休みになったらしいよ。」

「そ、そっか。じゃあ、一緒に帰ろう。」

「うん。久しぶりに千尋の家に遊びに行ってもいい?この間借りた漫画、持ってきたんだ。返すがてらに、一緒に夏休みの宿題しようよ。」


 NANTEKOTO……!こんな日に限って、遊びにくるという蓬さん。しかも蓬さんは、今日僕にバイトがないことを知っている。それなのに、いつも僕の家で遊ぶときの流れを変えるのは、非常に不自然だ。


「うん、いいよ。」


 仕方がない。蓬さんが僕の家から帰るまで、鞄を厳重に取り扱いしなければならない。幸いなことに、野久保くんは気を利かせて黒の袋に入れてくれているから、鞄の中が見られたとしても、大事には至らないはずだ。


「よかった。最近、2人で会える時間少ないもんね。せっかくの夏休みなのにさ。」


 ……これは、蓬さんからのアシストなんだろうか。暗に、「夏休みどこかに行きたいね」っていう意思表示をしているのだろうか。


「友達とはさ、バーベキューする約束してるけど、実は私、そこまでバーベキュー好きじゃないんだよね。最近、千尋と本を読んだり喫茶店に行ったりするようになって、そういう癒しの時間もいいなと思っててさ。」


 ……ん?これは、どっちだ?話の展開から察するに、どうやら「どこかに連れて行け」っていうことではないらしい。


「なんか千尋となら、他愛ないことで笑ってられるだけで、すごく楽しいんだよね。」


 僕の彼女は、なんて可愛い子なんだろうか。一臣くんや野久保くんの勘繰りがゲスく感じるほどに、蓬さんは可愛い。


「僕だって。蓬さんと一緒にいられるだけで、すごく楽しいよ。」


 きっと僕たちは、同じ時間の中で同じことを考えていたんだね。


 そんな話をしながら歩いていると、あっという間に僕の家に着いた。一緒に帰るだけの日だと遠回りして帰るけれど、家で遊ぶときはまっすぐ帰るのが、僕たちの帰り道だ。


「お昼、どうする?私実はお弁当持ってるから、千尋さえ良ければ千尋の家で食べてもいいかな?」

「いいよ。僕もお昼は母さんの弁当があるんだ。」


 夏休みの間も、母さんは家族の分の弁当を作ってくれる。だから、夏休みに入ってからも、僕はお昼ご飯に困らない。


「お邪魔します。」

「どうぞ。」


 我が家に蓬さんを招き入れて、まずはお昼ご飯を食べるために、ダイニングへと通す。いつもなら姉さんがいるはずだけど、今日は出かけているのか、家にはいないみたいだ。


「今日、まーちゃん居ないんだね。」


 蓬さんは僕の2つ年上の姉・真知子まちこのことを、“まーちゃん”と呼ぶ。幼馴染ゆえに、幼い頃からの呼び方なのだ。


「学校みたいだね。」


 8月から夏休みに入るらしい大学生は、その直前に前期試験なるものがあるらしい。最近の姉さんは部屋にこもって勉強をしていた。だから、今日この時間に居ないということは、学校に行って試験を受けているのだろう。


「大学生も大変だね。私らも来年は受験生だしさ。」


 蓬さんはそんなことを言いながら、自分の鞄からお弁当を取り出した。女の子らしい黄色のチェックスカーフに包まれたお弁当。


 蓬さんって、持ち物も全部可愛いんだよなあ。


「お茶どうぞ。」

「ありがとう。」


 よく冷えた麦茶を蓬さんに出して、自分も冷蔵庫に用意してあった弁当を広げる。


「いただきます。」

「いただきます。」


 僕の家で、蓬さんと一緒に弁当を食べるなんて、なんだか変な感じだ。でも、こういうのも夏休みならではの特別な時間かもしれない。


 お昼を食べ終わると、お茶とお菓子を持って2階にある僕の部屋へと場所を移動した。勉強をしたり漫画を読んだりするときは、いつも僕の部屋でやっているからだ。


 いつもやっていることなのに、今日は鞄の中が気になって仕方ない。蓬さんに中身を見られないように細心の注意を払えば払うほど、変な態度になってしまっていないか気になる。


「千尋はどこまで終わった?」


 僕の部屋にある丸いローテーブルに勉強道具をひろげて宿題をする。そんな中で、蓬さんはぐいっと僕に体を寄せながら、僕の宿題を覗き込んでくる。


 なんだか、今日の蓬さんは多少、無防備な気がするのは、気のせいだろうか。いや、いつもの蓬さんとなんら変わりないといえば変わりない。


 ……おそらく、いつもと違うのは僕だ。完全に、蓬さんの身体を意識してしまっている。蓬さんが嫌がることは絶対にしたくないと思いつつも、その体に触れてしまいたいと思っている。


 それもこれも、鞄の中に潜んでいる“アレ”のせいだ。もちろん今までも、そういうイケナイことを考えなかったわけじゃないけれど、こんなにも意識したことはなかった。


「やっぱり千尋は結構進んでるね。私なんてまだ全然だよ。」


 蓬さんはそう言うと、唇を尖らせた。


「蓬さんは体育祭の準備で忙しいから仕方ないよ。その分、今日できるところまでやっちゃおうよ。」


 その唇にだって、今すぐ吸い付きたい。


「そうだけどさ。そもそも千尋は勉強できるしさ。」


 カランとグラスの中の氷を鳴らしながら、蓬さんは麦茶を喉に流しいれる。


「そんなことないよ。」


 その首筋にだって、唇を這わせたい。


「そんなことあるよ。私、千尋と同じ学校に行きたくて、受験勉強は必死にやったんだから。」

「え?」

「……中学の時から、千尋のこと好きだったの。だから、同じ高校に行きたかったの。」


 頬を赤らめながらそう言う蓬さん。なにそれ。なんでそんなに可愛いの?でも、中学の時とか、僕の他に彼氏が居たはずだ。


「でも蓬さん、他に彼氏居たじゃない。」

「居たけど……。もちろん、好きだなって思って付き合い始めたけど、なんか違うなって思って。余計に千尋のことが好きだなって思わされただけだったよ。」


 愛おしいって、このことを言うのだろう。僕は思わず、蓬さんの頭を優しく撫でた。


「蓬さん、こんな僕のことを好きになってくれてありがとう。僕も蓬さんのこと、大好きだよ。」


 僕はそう言うと、目を細めた。可愛くて、可愛くて仕方がない。今すぐにでも、僕の腕の中に閉じこめてしまいたい。


「私も大好きだよ。」


 その一言で僕はたまらなくなり、蓬さんの肩を抱いて引き寄せると、彼女の身体を抱きしめた。


 制服越しに感じる彼女の体温が、僕の胸の鼓動を早める。


 蓬さんって、こんなに小さいんだ。そして、こんなに柔らかくて、こんなに温かいんだ。いつまででも抱きしめていたい。


 蓬さんは僕の背中に腕を回して、ぎゅうっとしがみついてくれる。そんな彼女の仕草もたまらない。


 心臓が今までにないくらい、早打ちしている。蓬さんに聞こえてしまうんじゃないかってくらい、大きく鳴り響いている。


 ……この後、どうしよう。これが逃してはいけないチャンスってやつ……?!


 僕の頭の中で、一臣くんと野久保くんの顔がぐるぐると浮かぶ。2人にチャンスをつかむためのノウハウを聞いておくんだった……!


 どれくらいの時間そうしていたのか分からない。長い時間のようにも思えたし、あっという間だったようにも思えた。


 ゆっくりと彼女の両肩を握って僕の胸の中から解き、蓬さんの顔を見ると、わずかに上気した紅い唇がそこにあった。心なしか、彼女の瞳は潤んでいる。


「……蓬さん、キス。してもいい?」


 遠慮がちに蓬さんの頬に触れながらそう聞くと、「うん。」と小さな声を漏らして彼女は頷いた。


 軽く唇を重ね合わせると、なんとも言えない高揚感に支配される。蓬さんの唇って、こんなに気持ちいいものだったっけ……。


 何度も何度も角度を変えながら重ね合うごとに、お互いの唇は濡れ、水音が混じった吐息が蓬さんから漏れる。


 クーラーが効いて涼しいはずの僕の部屋なのに、体温はどんどんあがるのが分かる。体の中心から熱を帯びてくる。息が少しずつあがってくる。


 ……このまま、押し倒してしまおうか。幸いなことに蓬さんの背中には僕のベッドがあるし、“アレ”だって準備万端だ。僕は念のため、鞄の位置を横目で確かめる。


 唇を離して蓬さんの目を見つめると、潤んだ瞳が僕をじっと見つめる。困っているような、期待しているような、恥ずかしそうな複雑な彼女の表情に、より欲情してしまう。


 もう一度、唇を重ねようとしているときだった。


「ただいまー!あ、よっちゃん来てんのー?」


 ……1階から大きな声を発したのは、真知子だった。どうやら、帰ってきたらしい。玄関に並べられた靴で分かったのだろう。


蓬さんが姉さんのことをまーちゃんと呼ぶように、姉さんは蓬さんをよっちゃんと呼ぶ。


 僕と蓬さんは慌てて体を離して、身なりを整える。姉さんと仲の良い蓬さんが声をかけられて顔を見せないのも不自然なので、僕は慌てて部屋のドアを開けて姉さんに呼びかける。


「おかえりー。2階で一緒に勉強してるよー!」

「お邪魔してまーす。」

「いらっしゃーい。後でお菓子持って行ってあげるねー!」

「ありがとうー!」


 姉さんがリビングへと入って行った音を聞いて、僕と蓬さんはふうっと胸をなでおろす。そして、2人で顔を見合わせて、照れ笑いをした。






「ちーくん、ちょっといい?」


 お風呂からあがって自分の部屋で漫画を読んでいると、姉さんが訪ねてきた。取り立てて珍しいことでもないため、「どうぞー。」と言って、姉さんを自室へと招き入れる。


 姉さんはまだお風呂に入っていないのか、部屋着で化粧をしたままだ。僕と姉さんは対面でローテーブルを挟んで座る。


 すると、姉さんは見覚えのある黒い袋に包まれたそれを、すっとローテーブルの上を滑らせて僕に差し出した。僕はその黒い袋を見た瞬間、今までにないくらいに目を大きく見開いた。


「ちーくん、これ。あなたの鞄から出てきたものだけど……。ごめんね。さっき、ちーくんがお風呂に入っている間に、漫画を借りようと思ってお邪魔したら、鞄を蹴ってしまって。その拍子にこれが出てきたの……。」


 姉さんは言葉を探しているようだった。お風呂からあがってさっぱりしてきたはずなのに、僕の背中はじっとりと汗が噴き出てくる。


 そうなりながらも僕はとりあえず、姉さんの言葉を待つしかない。チッチッチッチッと時計の針の音だけが部屋に響く。僕の心臓はその音に合わせて、ドッドッドッドッと鼓を打つ。


「……そういうことっていうのは、悪いことじゃないし、自然なことだからお姉ちゃんは何も言わないけれど。それに、正直な話をすると、これを持ってるってことが分かって、お姉ちゃん安心したし。」


怒られるのか、心配されるのか、どちらにしろ高校生の間はやめなさいって言われるのかと思っていたため、姉さんのその言葉は拍子抜けした。


「でも……。ちーくんは分かってると思うけど、こういうことってやっぱり、傷ついちゃうのは女の子の方なのね。」


姉さんは眉毛をハの字にして、言葉を紡いだ。


「付き合ってるからって絶対にしなきゃいけないわけじゃない。それに、もしかしたら、よっちゃんだけじゃなくて、ちーくんの将来も大きく変わってしまうかもしれない。それが不幸なわけではないけれど、今のちーくんとよっちゃんにそれを抱えていけるだけの力はあるかなあ?」

「……。」

「だから、よく考えてから行動してほしいと思うの。大切なことだからね。少しでも不安があるのであれば、それを解消してからでもいいと思うし。あとね、知ってると思うけど、こういうのって、女の子の方って、初めてのときはすっごく怖いし痛いんだよ。」

「え……。」

「多分、ちーくんが思ってるよりずっと。だから、よっちゃんの心と体のことを一番に考えてほしいの。」

「……うん。」


 僕が思っているよりもずっと怖くて痛いなら、蓬さんはどうなってしまうんだろうか。蓬さんの身体は僕よりずっと小さい。それに耐えられるんだろうか。


「それにさ。これから先、どうなるか分からないけど、よっちゃんもちーくんも別れるつもりで付き合ってないでしょ?」

「うん。」


 それはもちろんだ。


「だからもし、死ぬまでずっと別れなかったとしたら、あと70年以上は一緒にいるじゃない?」

「うん。」

「今はまだ、70年一緒にいるうちの今はまだ最初の方のたった数ヶ月でしょ。周りの声とかに流されずに、ちーくんとよっちゃんのペースで歩いたらいいと私は思うの。それで、2人の気持ちが固まったときに、愛を確かめ合ったらいいんじゃないかな。」


 70年一緒にいるうちのまだ最初の数ヶ月かあ。そう考えたら、別に焦る必要性もなく思えてきた。


「なんにしても、2人でちゃんと話し合うことが大切だよ。ちゃんとよっちゃんとこのこと、話せてる?」

「……実はまだ……。」

「じゃあまずは、話すことから始めた方がいいよ。何も恥ずかしい事じゃないんだし。ちーくんがどう思ってるか話すことも大事だし、よっちゃんがどう思ってるか聞いてあげることも大切だよ。」


 姉さんは一貫して、優しく諭すように、そして僕が話を聞けるような喋り方で話をしてくれた。おっちょこちょいなところもある人だけど、こういうときは芯の通った姉さんには敵わない。


 それに、姉さんが今日、あのタイミングで帰って来なかったら、僕と蓬さんはどうしていたのだろうとずっと考えていた。もちろん、「くっそー。」という下心もある反面、蓬さんを傷つける結果になっていなかったか不安も感じた。


 だから、姉さんにこうやって話をしてもらえてよかった。行動に移す前に、蓬さんとちゃんと話をしようと思えて、よかった。


「姉さん、ありがとう。」

「ごめんね、お節介みたいになったけど。大事なことだと思って。想い合ってる2人が、そういう関係になるのは良いことだけど、だからこそ2人のことを大事にしてほしいと思ったからさ。」

「ううん。これ実は友達にもらったものなんだけど、思うところもあったからさ。恥ずかしがらずに、蓬さんとちゃんと話をするよ。どう考えてるって、僕も話ができたらいいと思う。」

「それがいいよ。ちーくんとよっちゃんなら大丈夫だから。」






 数日後、僕は蓬さんの家に遊びに来ていた。一緒にお菓子作りをしようという話になり、蓬さん家の台所を借りることになったのだ。


「じゃあ、始めますか。」

「そうだね。じゃあ、スコーンから作っていこうか。」


 僕と蓬さんは、優雅にもアフタヌーンティーのセットをしようとしていた。以前、お姫様系の乙女ゲームをしたときに、お茶会のシーンでアフタヌーンティーのマナーの描写があった。


 それを一度やってみたいという話を蓬さんにしたら、2人でやってみようということになったのだ。事前にケーキスタンドは準備して持ってきたし、紅茶の茶葉も姉さんおすすめのお店で買ってきた。


 どうせなら美味しいケーキを食べたいなと思い、ケーキもお気に入りのお店でいくつか買ってきた。それからジャムとクロテッドクリームも、蓬さんに食べさせたいおすすめのものを持ってきた。


「千尋はスコーン、作ったことあるの?」

「うん。割と簡単だから、覚えておくとちょっとお菓子を食べたいときに良いよ。バナナチョコクレープを作るのに材料を揃えるより簡単だよ。」

「そうなんだ。またクレープは作ってあげるからね。」

「楽しみにしてる。じゃあ、作っていこうか。」

「うん。」


 今日の蓬さんが一段と可愛く見えるのは、エプロンのせいなのだろうか。Tシャツにショートパンツというラフな格好をしているけれど、その上から赤色ストライプのエプロンを着ている。


 髪の毛は調理をするからなのか、巻いた髪の毛をポニーテールにしていて、うなじがはっきりと見える。そこはかとなく可愛い。


「材料は、ホットケーキミックス、マーガリン、牛乳。これだけです。混ぜ合わせて焼くだけ!簡単でしょ?」

「クッキーより簡単じゃん。」

「そうなんだよ。それじゃあ、やっていこう。」


 まずはホットケーキミックスとマーガリンを切るようによく混ぜ合わせていく。全体的にぽろぽろしてマーガリンの塊がなくなってきたら、牛乳を入れて生地をひとまとめにする。まとまったら成形をしてオーブンシートの上に並べる。


「形をつくるのが楽しいよね。ハート作っちゃお。」


 蓬さんはやっぱり女の子だなあとしみじみと思った。ハートとか星とか猫とかあひるとか、可愛い形をどんどん作っていく。僕にはない発想だ。


 成形ができたら、それを170℃に余熱したオーブンで、15分くらい焼く。


「この間に、サンドイッチを作ろうか。」

「オッケー。サンドイッチの具はね、何がいいかと思って色々準備したんだよ。」


 僕がデザート系を準備するから、蓬さんにはサンドイッチの具とパンの準備をお願いしていた。準備してくれていた具材を、テーブルの上に並べて見せてくれる。


「レタス、ハム、チーズ、エビ、サラダチキン、アボカド、ウインナー、タルタルソース。あと、ドレッシングは和風と胡麻ドレッシングがあるよ。」


 思った以上に準備してくれていて、色々なサンドイッチができそうだ。多分、蓬さんの家の冷蔵庫にはマヨネーズとケチャップもあるだろうから、オーロラソースだってくわえてもいい。


「ありがとう。すごく豪華だね。」

「何言ってんの。千尋が持ってきてくれたケーキに比べたら全然だよ。好きなの挟んじゃおう。」


 僕と蓬さんは、各々好きなものをサンドイッチにした。そうしている間に、オーブンから電子音が発せられて、スコーンが焼きあがった。


 できあがったものをケーキスタンドに並べていく。僕が準備したケーキスタンドは、3段タイプなので本格的なものだ。


 下段にサンドイッチ、中段にスコーン、冗談にケーキを彩り豊かに並べる。


「こうしてみると、これだけで少女漫画チックだね。なんか、千尋がすきそうなの分かるかも。」


 できあがったケーキスタンドをしげしげと眺めながら、蓬さんはそう言った。


 ダイニングのテーブルにケーキスタンドと、クロテッドクリームとジャムとティーセットを準備すると、写真に映えるできあがりだ。


「え、まず写真に撮っていい?」

「いいよ。」


 蓬さんが写真を撮っている間に、紅茶を淹れる。今日準備したのはアッサムで、ミルクティーにしようと思っている。


 定番のダージリンにしても良かったのだけれど、ミルクティーの方が本格的なアフタヌーンティーが楽しめるのと、熱々の紅茶よりもミルクで丁度良い温度になった方が食べやすいと思ったのだ。


 ただ、ケーキを食べるときはミルクティーだと甘ったるくなってしまうかと思うから、もう1種類別の茶葉も持ってきた。


「蓬さん、紅茶が入ったから食べようか。」

「うん。」


 蓬さんと対面でダイニングテーブルに座る。ケーキスタンド越しに見える蓬さんもすごく可愛い。


「わあ。どれから食べたらいいの?」

「そうだね。本当ならサンドイッチから食べるところだけど、スコーンが焼き立てだから、スコーンから食べようか。温かいスコーンにクロテッドクリームとジャムを塗るのが最高なんだよ。」

「そうなんだ。じゃあ、スコーンいただきます。」


 2人で中段のスコーンに手を付ける。取り皿にスコーンを置いて、それをナイフでハンバーガーのように半分に割る。僕がそうやっているのに倣って、蓬さんもスコーンを割った。


「ジャムはどれがいい?」


 今日僕が持ってきたジャムは3種類。リンゴ、ブルーベリー、オレンジだ。個人的には、リンゴジャムが好きだけど、どれもおすすめだ。


「えー。全部試してみたいけど、まずはブルーベリーからいこうかな。」

「じゃあ僕はオレンジいくね。」


 バターナイフでクロテッドクリームとジャムを温かいスコーンにつける。スコーンの温かさで、クロテッドクリームとジャムはとろっとした独特の柔らかさに変化する。それを口に運ぶ。


 口の中に広がる甘さと香ばしさに、僕は思わずほうっという溜息をもらした。それは蓬さんも同じだったようで、ほっぺたが落ちそうな表情をしている。


「めっちゃ美味しいんだけど!」

「そうでしょ。冷えたスコーンもいいんだけど、この出来立て感を味わえるのは焼き立てだけなんだよ。」

「えー!スコーン、簡単だったから、今度やってみようかな。」

「うん。おすすめだよ。」


 その後も「ジャムの組み合わせはこれが美味しい」だとか、サンドイッチにも手を伸ばしながら、アフタヌーンティーを楽しんだ。ケーキに差し掛かる頃にはティーカップの紅茶が少なくなっていたから、今度はオレンジペコを淹れて、紅茶を楽しみながらケーキも頂いた。


「今日って、千尋のお父さんとお母さんもお家にいないよね?」


 美味しいケーキを食べながら談笑していると、ふと蓬さんがその話題を持ち出した。


「そうそう。蓬さん家もでしょ?うちは今日、姉さんも友達との旅行でいないから、今夜は1人なんだよね。」


 実は今日は、町内会恒例の旅行に、うちの両親も蓬さんの両親も出かけている。1泊2日だから、明日のお昼すぎには帰ってくると言っていた。姉さんに至っては、3泊4日で友達と旅行に出かけている。


「え、まーちゃんもいないの?夜ご飯はどうするの?」

「なんか家にあるものを適当に食べようかと思って。」

「1人じゃ寂しいじゃない。うち今日カレーするから、私と千尋と棗の3人で食べようよ。」


 思ってもみない蓬さんからのお誘いに、ちょっとだけ胸が跳ねた。しかも、蓬さんの手料理が食べられるなんて、嬉しい限りだ。


「じゃあ、そうさせてもらおうかな。そういえば今日、棗くんは?」

「遊びに行ってるよ。あいつ、夏休みに入ってから友達のとこばっかり行っててさ。宿題ちゃんとやってんのか心配なんだよね。」


 蓬さんの弟の棗くん。未だに顔を合わせれば棗くんの方から声をかけてくれるけど、中学生なのに見た目がいかつくて怖いから、僕からは話しかけられない。


 一度、コンビニの前で友達と屯している棗くんから声をかけられたときは、肝を冷やしたものだ。棗くんも蓬さんと同じようにキラキラのグループだということは、一目見れば分かる。


「棗のやつ、この夏休みの間に髪の毛派手な色に染めて、ピアスも新しく開けてんのよ。信じられなくない?まったく誰に似たんだかって感じよ。」


 僕は蓬さんのその言葉に何も言わず、笑顔で返事をした。誰に似たかなんて一目瞭然だけれど、それを僕が口にしたらどうなるか分かったもんじゃない。


「……そんなことより、今日は本当に天気が悪いね。ずっと雨が窓に打ち付けてるよ。」


 話題を変えるために、天気の話を振った。夏になると夕立ちで雨が降りやすくはなるのだが、今日は一段と雨が降りしきっていた。


「まだ雷が鳴っていないだけマシだけどね。夜まで雨なのかな。」

「天気予報では、夜にかけて雨脚が強くなるって言っていたよ。」


 父さんたちの旅行は大丈夫なのか心配になる。ただ、別府温泉に行くと言っていたから、あまり雨は関係ないかもしれないが。


「そうだ。僕、母さんに電話を入れておくよ。蓬さんに夜ご飯御呼ばれするって。」


 こういうのはちゃんと親に言っておかないと、後で叱られる。


「そうね。それがいいかも。棗は何時に帰ってくるんだろう。雨が強くなるなら、できるだけ早く帰ってきてほしいんだけどな。今日は誰も車で迎えに行けないし。私も棗に連絡入れとこ。」


 僕と蓬さんはその場でスマホに手を伸ばして、それぞれ電話をかけた。


 母さんに電話をしたら、「その方が安心だからお邪魔させてもらいなさい」と言われた。母さんは母さんで、一緒にいる蓬さんの両親に御礼を伝えるとのことだった。


 蓬さんは棗くんと連絡がとれたらしく、18時には帰ってくる約束を取り付けたそうだ。棗くんが帰ってきたらすぐに夜ご飯を食べられるように、僕と蓬さんはアフタヌーンティーを片付けたら夜ご飯の準備に取り掛かることにした。






 彼女と一緒にする料理って、なんでこんなにも楽しいのだろうか。カレーの具材を切るだけでも「うちでは切り方はこうだ」とか話したり、牛肉と鶏肉のカレーはどちらがいいかなんて話したり。


 なんかこれって、少女漫画でよくあるシーンだな、なんて思いながらすごく楽しめた。幼馴染がどちらかの家で料理をするのは、定番のような気がする。


 なんだかんだで、少女漫画みたいな経験はたくさんさせてもらってるんだなあとしみじみと思う。


 カレーの他には、ポテトサラダと、たことサーモンのマリネを作った。たことサーモンのマリネは、僕が今日の夜ご飯に食べようと思っていたもので、アフタヌーンティーセットを一度、自分家に持って帰った際に持ってきたものだ。


「そろそろ17時かあ。それにしても、天気予報通りに雨が強くなってきたね。」


 蓬さんはリビングの窓から外を眺めながらそう言った。お昼ごろよりもさらに雨脚は強くなり、時折雷の音も響いている。こんな中で帰ってくる棗くんは、きっとびしょ濡れだろう。


「棗くんのために、お風呂の準備してあげてた方がいいんじゃない?」


 僕がそう言った瞬間だった。


 窓の外に大きな閃光が走ったかと思うと、地面を切り裂くような轟音が鳴り響いた。僕と蓬さんは驚いて、思わず「わっ。」と声を漏らす。


 その後、ふっと付いていたはずの電気が消えた。


「え、停電?」

「そうみたいだね。」


 そんな話をしたのも束の間、また稲妻が走って大きな雷鳴が響く。


「きゃあっ。」


 蓬さんの悲鳴とともに、リビングの床を打ち付ける音がした。吃驚しすぎたのか、蓬さんが転んでしまったのだ。


「蓬さん、大丈夫?!」


 僕はすぐさま、蓬さんに駆け寄った。彼女は「あいたた……」と言いながら、お尻をさすっている。


「大丈夫。でも、こんな雷雨の中で、棗は帰ってこれるのかな。」

「通り雨みたいにすぐ止んだらいいんだけどね。」


 そんな話をしているうちにも、外は何度も稲妻が走り雷鳴が止まない。こんな中で移動をする方がびしょ濡れになるだけでなく、危険かもしれない。


「とりあえず、ガスは使えるはずだから、お風呂の準備をしてくるね。」

「うん。」


 お尻の痛みはだいぶ収まったのか、蓬さんは床から立ち上がると、お風呂へと行った。僕はその間に、スマホで天気予報を調べる。


 うわぁ。見事に夜中まで大雨の予報だ。幸いなことに、このへんは土砂災害や洪水の心配はないけれど、この雨の強さを見るとそうなってもおかしくない地域もあるだろう。


 そんなことを考えていると、蓬さんのスマホが着信を知らせた。僕はそれに気づいて、「蓬さん、電話鳴ってるよー!」とお風呂の方へと呼びかける。


 僕の呼びかけに気付いた蓬さんは「はーい!ありがとう!」と言いながらバタバタとやってきて、電話に出た。


「もしもし?お母さん?」


 電話の相手は、蓬さんのお母さんらしい。


「うん。私と千尋はうちの家に居るから大丈夫だよ。え。棗から連絡あったの?」


 どうやら、棗くんの話らしい。


「ええっ?!」


 すると、蓬さんは一際大きな声を上げて、僕の方をちらりと見た。


 ん……?なんだろう。なにか言いたげな顔だけれど、蓬さんの嬉しそうなでも困っているような表情からは、何の話なのかがよく読み取れない。


「うん。分かった。はい。じゃあ、お母さんたちも気を付けてね。じゃあね。」


 電話が終わると、蓬さんは「はあー。」と溜息を漏らした。そして、僕の方に向き直って、「急な話なんだけど。」と前置きして話を始めた。


「今日、うちに泊まっていきなさいって。」


 ……ん?一体なんの話か分からず、僕は蓬さんに「Pardon?」と聞き返す。すると蓬さんはもう一度盛大な溜息をはいて言った。


「今日、こんな天気でしょ。それで、棗からお母さんに連絡があったらしいんだけど、家に帰るのも危ないから泊まっていきなさいって今日遊びに行っている友達のご両親から言われたらしくてね。それで、棗はそこに泊まらせてもらうことにしたんだって。それで、私が家に1人になっちゃうわけなんだけど、それも心配だから千尋にうちに泊まってほしいって。千尋のご両親も了承済みなんだって。」


 ……え?


「えっ!!!」


 自分でも思ってみなかったほどの大きな声が出た。蓬さんが言ったことは聞き取れるけれど、理解が追い付かない。


「……私は千尋が居てくれた方が安心できるなって思うんだけど……。」


 唇を少しだけ尖らせて、上目遣いで言われたら、ここで断れる男なんているんだろうか。


「……分かったよ。」


 いつかは蓬さんと2人きりでお泊りの旅行なんか出かけられたらいいな、なんて思っていた。でもまさか、こんな形で2人きりの夜を過ごすことになるとは。


 そこで、停電した電気が通電したのか、パッと電気がついた。






 その後は終始ふわふわして、蓬さんとした会話もどこか上の空だったような気がする。蓬さんが作ってくれた美味しいカレーも、とても美味しかったという記憶はあるものの、それが厳密にどんな味だったか覚えていない。


 自分でも緊張しすぎるほどに緊張していたのだろう。いつもよりついつい饒舌になってしまった。でもそれは蓬さんも同じであるように思えた。


 お風呂は、自分の家で入ると言ったけれど、「この土砂降りじゃせっかくお風呂に入っても意味ないでしょ。」と蓬さんが言うので、着替えだけとって来て蓬さん家で入らせてもらった。


 着替えを取りに行くだけでもびしょ濡れになったため、蓬さん家で入らせてもらえてありがたかった。でも、彼女の家のお風呂を使うのは、非常に緊張した。


 そして、ついにその時がきてしまった。


「……そろそろ、寝る?」

「……そうだね。」


 なんとなく気まずい空気感で、2人で2階へとあがる。棗くんの部屋にお客さん用の布団を蓬さんが準備してくれたので、僕はそこで寝ることになった。


「じゃあ、おやすみ。」

「……おやすみ。」


 僕も蓬さんもそれぞれの部屋へと入っていく。部屋のドアを閉めると、「ふーっ。」と大きく息を吐いた。


 ……ああ、緊張した。なんとかそういう空気にならないように肩肘張ったのがいけなかった。色々と空回りしてしまったような気がする。


 いそいそと布団にもぐると、蓬さん家の匂いがした。自分の家じゃあまり匂いって感じないのに、なんで人の家ってこんなにすぐ感じるんだろう。


 布団に入ってどれくらい経ったのだろう。全然眠れる気配がしない。スマホで時間を確認すると、もうすぐ日付を越えるくらいだった。


 ……蓬さん、まだ起きてるかな。


 別々の部屋で安心する反面、蓬さんを抱きしめたい衝動にかられる。僕ってこんなに邪だったのかと自分でも驚いているが、念のためどうなってもいいように、着替えを取りに家に帰ったときに、ゴムも一緒に持ってきた。


 自分の部屋でならまだしも、蓬さんの家でなんて気が引けるなんて思うものの、「ゴム持ってきてないからできない」っていうのは嫌だなあなんて思ってしまった。


「はあ。」


 溜息をはいて寝返りを打つと、スマホに蓬さんからメッセージが届いた。「まだ起きてる?」と。


 僕はそのメッセージに対して、「起きてるよ。そっち行ってもいい?」と送った。するとすぐに返信がきた。「いいよ。」だそうだ。……これは、覚悟を決めよう。


 枕元に置いている僕の荷物から、ゴムを1個だけ取り出して、それをズボンのポケットに忍ばせて、棗くんの部屋を出た。


 蓬さんの部屋をノックすると、「どうぞ」と声がしたので、そっとドアを開ける。部屋は真っ暗で、雨が窓に打ち付ける音だけが響いている。蓬さんは、ベッドの上にいるらしい。


「電気つける?」

「……恥ずかしいからいいよ。」


 恥ずかしがっている蓬さんを見たいような気もしたけれど、幾分僕も緊張しているからほっとした。


「そっち行ってもいい?」

「うん。」


 蓬さんの了承をえて、蓬さんのベッドに入り込む。壁際に置いてあるベッドの壁に寄っかかって彼女は座っていたので、それに倣ってその隣にそうやって座る。蓬さんのベッドの上に乗るなんて、これが初めてだ。


「なんか、眠れないね。」

「そうだね。」


 何か話があったわけでもないから、紡ぐ言葉はどうでもいいような内容だ。きっと、お互い緊張しているのだろう。


 そっと蓬さんの手に触れてみた。すると、ぎゅっと握り返されて、恋人繋ぎの状態になる。蓬さんの手は小さい。体のどこかしこも、僕より小さい人なんだなあと思う。


「……キス、してもいい?」


 心臓が口から出てしまいそうだ。声が上ずらないように注意しながら、その言葉を口にした。


「……いいよ。」


 目が慣れてきた暗闇の中で蓬さんと目を合わせ、彼女の頬に手を添えると、少しだけ瞳が潤んでいるように見える。そんな蓬さんにゆっくりと近づき、僕は触れるくらいのキスを彼女の唇に落とした。


 ああ、なんて柔らかくて気持ちがいいのだろうか。


 蓬さんの唇から離れると、僕は彼女の両肩を掴んで見据えた。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……怖い?」


 僕の真剣な視線に、一瞬だけ彼女の揺らぎが見て取れる。


「……千尋となら、怖くないよ。」


 一生懸命にそう答えてくれる蓬さんが愛おしい。壊してしまいたい衝動に駆られるけれども、いつも健気な彼女に対して、どうして僕にそれができようか。


 僕は蓬さんの後頭部に手をまわして、もう一度キスをする。今度は、さっきよりも深くて長いキスだ。お互いの顔の角度を変えて、何度も何度も口づけをする。


 その間に、僕は優しく蓬さんの身体をベッドに沈めて、その上から覆いかぶさるようにして、彼女にキスを繰り返す。


「触ってもいい?」


 蓬さんの耳元でそう囁くと、彼女は黙って1つ頷いた。


 僕は彼女の首に唇を這わせながら、彼女の膨らみへと手を伸ばす。薄いTシャツの上からではあるけれど、僕にはない柔らかに膨らみに、感動を覚える。


 首元から唇を離して体を起こし、蓬さんの表情を確認しようと、見下ろしてみる。


「な、なに……?」


 するとそこには、恐れを抱いているような不安そうな蓬さんの顔があった。それは、今までに一度も見たことがない表情だった。


「ふふっ。」


 僕は笑みをこぼして、蓬さんの隣に倒れこみ、彼女を力強く抱きしめる。


「えっ。なに?」


 蓬さんは僕の腕の中にすっぽりと入りながらも、僕の胸を叩いて抗議の意を示す。僕がどういうつもりなのか、まったく分からないというような目をする。


「今日はしないよ。」

「え?」


 僕は蓬さんの額に、自分の額をくっつける。


「……多分だけど、蓬さん、初めてだよね?」

「う、うん。」

「僕ももちろん初めてなんだ。そんで、無性に蓬さんのことを抱きたいと思ってる。」

「じゃあ、なんで……?」

「蓬さんのことが好きだから。だから、蓬さんに少しでも不安があるなら、それを解消してからにしたいんだ。蓬さんは、なんで僕のこと受け入れようって思ったの?」

「……。」

「誰かに、夏休みの間に女になれって言われた?」

「……。」


 蓬さんは何も言わなかったけれど、僕の質問に少しだけ体が反応した。


「僕はね、言われた。チャンス逃すなって。でもなんか、それに流されるのってなんか違うなあと思って。」


 姉さんが話をしてくれてから、僕はずっと考えていた。蓬さんと僕にとって大事なことはなんだろうって。でもそれって、僕だけが考えて答えを出すことじゃない。姉さんが蓬さんと話をしなさいって言ってくれたように、2人で決めることなんだ。


「蓬さんは、どう思う?」

「……。」


 僕は、蓬さんがどう思っているかを知りたかった。怖いなら、怖くなくなるまで待ちたいと思うし、もし僕を受け入れてくれるとしても、その意志を聞いておきたいと思うんだ。


「……本当のところを言うとね。」

「うん?」


 蓬さんはぽつり、ぽつりと言葉を零すように、話を始めた。


「私も千尋と一緒で、友達に言われたの。“付き合って3ヶ月になるなら、そろそろじゃないの”って。私も、みんなの付き合い方を見てると、それが普通なんだろうなって。」

「うん。」

「それに、千尋のこと好きだから。信じてるから。怖いけど、嫌じゃないっていうか。……それに、体の関係も築ければもっともっと千尋に近づけるのかなって……思って……。」


 さらりと、蓬さんの髪の毛を梳く。いつもは巻いていてふわふわだけど、真っ直ぐな髪の毛も良く似合っている。すっぴんの蓬さんは幼さがあって、それも可愛い。


「……だけど、“みんなしてるから”って焦ってる部分も正直に言うとあるの。エッチしていないと、本当のカップルじゃないんじゃないかとか。私だけ大人の階段を登れてないんじゃないかなって。」


 男には男の焦りがあったけど、女の子には女の子の焦りがあるんだなあ。でもこういうのって、早い方が良いとか遅いからダメだとか、本当はそういうのってないはずだよね。


「エッチしてなかったら、僕と蓬さんが付き合ってるってことは、なかったことになるのかな?」

「……そんなことはないと思うけど……。」

「そうだよね?多分だけど、僕たちがそれでいいって思えさえすれば、正解なんだと思うよ。それに、僕は1番に蓬さんの心と身体を大切にしたい。」

「うん……。」

「それからね。多分、エッチするような関係になったとしても、もっと近づけるなんてことはないと思うよ。それよりもきっと、こうやってお互いの考えとか気持ちを話し合って、2人で決めていくってことの方が大事だと僕は思うんだ。」


 エッチしたからって大人になれるわけじゃない。もちろん、それは素敵なことだし、大事なことだけど、それは僕たちのペースでやっていきたい。


「……エッチを素敵なこととして、大事なこととしていけるかは、僕と蓬さん次第だと思う。」


 僕たちの心がけ次第で、色んな意味に変わってしまうと思うから。


「僕は、蓬さんのことが世界で一番大好きで、大切だからエッチしたいし、しなくたって大丈夫だよ。……こんな僕が、蓬さんの初めての相手で大丈夫かな?」

「千尋じゃないと嫌。」

「ありがとう。」


 僕はふっとほほ笑んで、蓬さんの頬にキスを落とした。


「こんな言い方したら、少女漫画チックって言われるかもしれないけどさ。」

「なに?少女漫画チックなのは、いつものことでしょ?」

「ふふっ。」

「なによ、教えてよ。」

「僕は、制服の時にしかできない恋愛を、蓬さんとしたいって思うよ。」


 どうせ大人になればできることなんかしなくていい。今しかできない僕と蓬さんだけの恋愛をしたい。


「なにそれ。」

「姉さんが言ってたんだけど、もし僕と蓬さんがずーっと一緒に居るなら、あと70年間くらい一緒に居れることになるじゃない?」

「うん。」

「そう考えると、今はまだ最初の数ヶ月なんだから、ゆっくり歩いてもいいんじゃないかって言ってくれたんだ。まだ、蓬さんの身体の奥を知らない時間を、楽しんでもいいような気がするんだよね。」

「なにそれ。むっつりっぽい。」

「そうかな?」

「そうだよ。でも、素敵。きっと、プラトニックだからこそ、どきどきできることとかあるかもしれないね。今だってすごくどきどきしてる。」

「そうだね。僕もどきどきしてるよ。」


 どちらからともなく、2人で体を寄せ合う。これは、蓬さんの心臓の音だろうか。それとも、僕の心臓の音だろうか。緊張しているはずなのに、心地いい。


「きっと、今日のことを大人になってもずっと、私は忘れないと思う。」

「僕もだよ。」


 こうやってきっと、僕たちはずっと、「あの時はこんな話をしたね」とか、「あの時はこうだったね」とか時間を共有しながら、一緒に歩いていくんだろう。


 使われなかった“例のアレ”はずぼんのポケットから出さないまま、僕達は初めて2人だけの夜を過ごした。



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