第3話 初キスと男子高校生

第3話 初キスと男子高校生

 蓬さんと付き合い始めてから、1週間が経った。


 僕には、男子高校生らしいある悩みがあった。


 人が聞いたら、実にくだらないかもしれない。しかし、僕にとっては切実な悩みなのだ。


 しかもこの悩みを誰かに打ち明けるわけにもいかない。


 僕は悶々としながら、今日もベランダで少女漫画を読む。初夏の日差しは暑く、来週には夏服への衣替えだ。


「千尋。今日は何を読んでるの。」


 昼ご飯を食べ終えたらしい蓬さんが、いつものようにベランダにやってきて僕の隣に座った。


「今日はこれ。」


 僕はブックカバーを外して、単行本の表紙を蓬さんに見せた。馬瀬あずさ先生の『まいりました、先輩』の1巻だ。


 最近僕は、理想のキスのシチュエーションが入っている漫画を読みふけっている。


 昨日は、小畑友紀先生の『僕等がいた』の2巻を読んだし、その前は高須賀由江先生の『グッドモーニング・コール』の5巻を読んだ。


 とどのつまり、僕の最近の悩みは「キス」についてだ。


「へえ、面白いの?」

「面白いよ。今度、蓬さんにも貸すよ。」

「ほんと?楽しみにしてる。」


 こんな風に他愛もない会話をしている間も、僕は蓬さんの可愛い唇が気になって仕方がない。


 ……素敵なキスって、どんなタイミングでしたらいいのだろうか。


 少女漫画を読み漁ると「こんなキスいいな!」と思うシーンに出会うけれど、それを実行するには難易度が高い。


 実際にやると、歯がぶつかりそうだなあなんて思うものも、少なくない。


 蓬さんに協力してもらえれば簡単にできるかもしれないけれど、それじゃあ意味がない。予告しておいてキュンとしてもらえる自信はない。


 僕にとっても難しくなく、かつ少女漫画チックなキスって、どんなキスだろう。


 そんなことを考えながら蓬さんの顔を見つめていたら、蓬さんは小首を傾げて「なあに?」と言った。


 最近、思う。


 蓬さんって世界で一番可愛いんじゃないか。


「なにもないよ。」

「そう?」

「うん。」


 少女漫画で憧れるキスといえば、ふいうちのキスだ。ふいうちのキスほど、難易度が高いものはないと思う。


 へたすれば完全に歯がぶつかって流血事件になる。


 世の中のカップルは、一体どんなタイミングでキスをしているのだろうか。そして、少女漫画みたいなキスを成功させている男子はいるのか。


 考えれば考えるほど、実行に移すのが難しくなる。


「……なにか、悩んでることがあったら何でも言ってね。」

「うん。」


 蓬さん、ごめん。この悩みばかりは話せそうにないよ。






「今日は体育祭と文化祭の実行委員を決めるぞー。」


 6限目の本鈴とともに担任の西野先生はそんなことを言いながら教室に入ってきた。今日の6限目はHRだ。


担任の西野先生は、27歳独身の数学の先生だ。テニス部の顧問をしている。


 うちの学校の体育祭と文化祭はそれぞれ、体育祭が9月に、文化祭が11月にある。本番まで時間はあるけれど、この時期に決めて動き始めるのが、例年の慣わしだ。


「女子と男子それぞれ1名ずつだからな。自薦、他薦問いません。とりあえず、やりたいやついるかー。」


 西野先生は、語尾を間延びしたような話し方をするのが特徴だ。


 20代の男性高校教師といえば、女子からモテる印象があるけれど、西野先生はそこまでモテない。すね毛と腕毛が濃くて、それが気持ち悪いと言われている。


 僕からしたら、男らしくてカッコイイなって思うけれど。


「やりたいやつ、いないかー。」


 正直、体育祭実行委員と文化祭実行委員なんて、やりたいやつはいないと思う。夏休みから打ち合わせに出なきゃいけないし、体育祭実行委員にいたっては、夏休み前から忙しくなる。


「じゃあ、多数決だなー。紙、配るからこいつがやればいいんじゃねってやつの名前を書いて、提出しろー。」


 西野先生は、こういう決めごとをして決まらないとき、必ず全員に専用の用紙を配って、誰がやったらいいかを書かせて多数決をとる。


 つまり、全員で推薦者を出すというものだ。


「すでに委員会をやってるやつは除外するからなー。あと、運動部も除外ー。」


 そんなにたくさん除外されたら、推薦できる人の人数は必然と少なくなる。


 こういうとき、大体はグループ同士で忖度されるため、地味なグループに所属しているやつか、1人で過ごしているやつの名前が書かれる。


 すなわち、僕の名前が書かれる可能性は高くなるのだ。


 きっと、体育祭実行委員は盛り上げ役の人の名前が書かれるだろうから、僕の名前が書かれるとしたら文化祭実行委員の方だろう。


「書いたかー。後ろから集めるぞー。」


 後ろから回ってきた用紙の束に自分の用紙を乗せて、前の席の吉永よしながさんへと回す。


「じゃあ、発表していくぞー。」


 西野先生が結果を読み上げるたびに、イケてるグループの人たちが盛り上がる。蓬さんもそのうちの1人だ。


 最終的に、体育祭実行委員は野久保のくぼくんと蓬さん、文化祭実行委員は僕と吉永さんになった。


 その結果を受けて、蓬さんが「えー!大地だいちとしなきゃいけないのー!」と言い、野久保くんは「なんで嫌そうなんだよ!」と言って教室を騒がした。


 野久保くんと蓬さんは普段から仲が良い。イケてるグループは男女仲が良いのだ。


 蓬さんは野久保くんのことを「大地」と呼ぶし、野久保くんも蓬さんのことを「蓬」と呼ぶ。僕よりも野久保くんの方が、今の蓬さんのことをよく知っているだろう。


「じゃあ、早速。体育祭実行委員は、今日の放課後に委員会があるからなー。野久保も山崎もサボるなよー。」


 体育祭実行委員は、今日から始動をするらしい。


 野久保くんと蓬さんはそのことに対して「聞いてない」と文句を垂れていたけれど、西野先生は聞く耳持たずに英語検定と漢字検定の小テストを配った。






 HRが終わり、放課後になると蓬さんはこちらに目配せをした。僕は今日、バイトだから一緒に帰れない。そのことは、昨日の夜に蓬さんに連絡済みだ。


 僕がバイトの時、蓬さんは僕が教室でパンを食べるのに付き合ってくれる。


 でも、今日の蓬さんは急きょ委員会が入ったため、きっとそれができないことを伝えようとしてくれているのだろう。


 蓬さんが僕の方にやってこようとしたその時だった。


「蓬、ほら行くぞ。ぼけっとしてんなよ。」


 野久保くんが蓬さんの肩を抱いて、蓬さんの動きを遮った。


 蓬さんはその間、「ちょっと、やめてよ。」「重いんだって。」と野久保くんの腕を避けようとしながらこちらをチラチラと見ていたけれど、野久保くんの力に勝てるわけもなく、廊下へと連れて行かれた。


 ……なんか、嫌だな。


 野久保くんは、クラスでも元気のよい男の子だ。鍛えているのか、部活生でもないのに体ががっしりしていて背が高く、肌が浅黒い。


 どんぐりの眼で見つめられたら男の僕でもドキドキするし、茶髪のソフトモヒカンは野久保くんによく似合っている。


 男として、僕が野久保くんに勝てる要素は1つもない。


「恩田くん。」


 自分の席に座ったまま、ぼけっとしているとまだ帰っていなかったらしい吉永さんが、僕に声をかけてきた。


 吉永さんは、どちらかというと地味なグループに所属している。気の合いそうな女の子3人と4人のグループをつくっている。


 いつも眼鏡をかけていて化粧っ気はないけれど、黒くて長い髪の毛はツヤツヤしていて、どこか女性らしい雰囲気を持っている女の子だ。


いわゆる委員長タイプの女の子。成績もクラスで上位のはずだ。


「よかったら、連絡先を交換しておかない?委員会が始まったら、なにかと連絡をとらなきゃいけないかもしれないし。」


 吉永さんは鞄からスマホを取り出して、僕にそう言った。


「ああ、うん。そうだね。」


 僕も鞄から自分のスマホを取り出した。そして、吉永さんと連絡先の交換をした。


「じゃあ、これからよろしくね。」

「こちらこそ。」

「また明日ね。」

「うん。」


 そんな会話をすると、吉永さんは教室から出て行った。


 一人残された教室で、僕は鞄からパンを2つ取り出し、それを食べ始めた。






「千尋、本当にごめん。」


 次の日の昼休み、蓬さんはベランダで僕に頭を下げていた。


「いいよ。仕方ないじゃない。」


 蓬さんと一緒に帰る約束をしていた今日の放課後、蓬さんは体育祭実行委員会のみんなとの打ち合わせが入ってしまった。


 つまり、一緒に帰ることができなくなったのだ。


「こんなに突然忙しくなるなんて聞いていないよ。」


 蓬さんは顔を上げて僕と同じように壁によりかかると、「ふう」と小さな溜息をもらした。


 その横顔はどこか元気がなかったから、僕は少女漫画を読むのを止めて、蓬さんの方を向いた。


「なにかあったの?」

「なんでもないけど。千尋と一緒に過ごす時間が少なくなるのが寂しい。」


 唇を尖らせて、少しすねた様子の蓬さんが可愛い。


 ……もしやこれは、素敵なキスのフラグなのでは……?


 いや、ダメだ。できることなら、蓬さんが元気なときにロマンチックなキスをしたい。


 僕は蓬さんを抱きしめたい気持ちをグッとこらえて、床に置いている蓬さんの右手の甲に、そっと自分の左手の手のひらを重ねた。


 恥ずかしくて、僕は蓬さんから目をそらす。でも、蓬さんの手はしっかりと握る。


 蓬さんが僕の顔に穴が開くほどこちらを見ているのが分かった。


「……僕も寂しいから充電。」

「ふふっ、なにそれ。じゃあ、私も充電。」


 蓬さんは、手のひらをひっくり返して僕の手を握った。


 その瞬間、僕の心は蓬さんの気持ちをたくさんもらえた気持ちになった。


 好きな人と触れ合うって、こんなに気持ちが満たされる行為なんだな。


 僕と蓬さんだけの優しい時間が流れて、これってちょっと少女漫画っぽいな、なんて思った。


「明日は一緒に帰れる?」

「ごめん。明日は僕がバイトだ。」

「そっかぁ。」


 蓬さんは、すごく残念そうな声色を漏らした。


 僕が寂しいって思うように、蓬さんも寂しいって思ってくれることが嬉しい。


「じゃあ、今度の日曜日にはデートに行こうよ。喫茶店デート。」

「この間、千尋が行きたいって言っていたところ?」

「うん。」

「デート、楽しみ。」

「僕も。」


 僕の言葉1つで、蓬さんは表情に花が咲いた。蓬さんが喜んでくれるなら、なんでもしてあげたい気持ちになる。


「おめかししていくね。」

「可愛い蓬さん、楽しみにしてる。」

「それじゃあ、今が可愛くないみたい。」

「今だって可愛いよ。」


 そう言うと、蓬さんは口を金魚のようにパクパクさせた。


「……千尋って、そんな甘い言葉使うキャラだっけ?」

「どうだろう。よくしゃべるのは蓬さんだけだから、自分でも分からない。」


 それに、「彼女」とこうやって色々なことを話すのも初めてだから、何を喋ったら甘い言葉なのかが、正直よく分かっていない。


 1つだけ分かるのは、全部蓬さんが喜びそうな言葉を紡いでいることだ。


「他の女の子には言わないでね。」

「大丈夫だよ。」


 僕が可愛いと思うのは、蓬さんだけだから。






 僕と蓬さんは、付き合い始めてから一緒に登校するようになった。


 しかし、みんなに知られると怖いと思っている僕の気持ちを蓬さんが汲んでくれて、コメダ珈琲のところまで一緒に歩いて、そこから先は僕が少しだけ早く歩いて先に学校に到着する。


 だから今日、その光景を目にしたのは、僕の方が早かった。


 いつもと変わらない日常が始まるはずだったのに、思いもよらなかったところで僕の心は乱される。


「な、なによこれ!!!」


 僕より遅れて教室に到着した蓬さんは、大声をあげた。


「なんで私と大地が付き合ってることになってるのよ!!!」


 教室の黒板には、「スクープ!」との見出しが躍って野久保くんと蓬さんが付き合っていると書かれていた。


「これ書いたの誰よ!!!」

「俺、俺ぇ~。」


 チャラくさく返事をしたのは、駒田こまだくんだった。駒田くんは、クラスの男子の中で最もチャラく、野久保くんとも仲が良い。


 剃りこみを入れた坊主頭がトレードマークで、いつもふざけたことしかやっていない。


雄一ゆういちのばか!なんてことしてんのよ!」


 蓬さんは、駒田くんに詰め寄った。今にも駒田くんの襟首をつかみそうな勢いだ。


「なんてことって、お前ら昨日の夜、仲良さそうにデートしてたじゃん。」

「あれは実行委員会の打ち合わせの帰り!てか、昨日もちゃんと説明したよね?」


 どうやら、昨日の打ち合わせの帰りに、蓬さんと野久保くんは一緒だったらしい。それを駒田くんが見かけて声をかけたのだろう。


「それにしちゃ仲良すぎるだろ~。2人でコメダ珈琲に入って2時間くらい喋ってたんだろ?」

「それはクラスの打ち合わせのためでしょ!変なこと言わないでよ!」


 蓬さんと駒田くんがそんなやりとりをしていると、もう1人の張本人が教室へと入ってきた。


「なんじゃこりゃ。」

「雄一がやったのよ!大地からも何とか言ってよ!」

「ごめんって。そんな怒るなよ。」

「事実無根なんだから怒るでしょ!」

「雄一、こんな小学生みたいなことやるなって。」

「だってお前らやっと付き合ったのかと思って。」

「付き合い始めたら、報告するから。な、蓬?」


 野久保くんはそう言うと、蓬さんの肩に腕を回して蓬さんのからだを野久保くんの方へと引き寄せた。

 蓬さんのからだは、野久保くんに抱きしめられるような形になっている。イケてるグループの子たちはその様子を見て、「ひゅー。」なんて色めきだっている。


 僕はその光景を見てられなくて、机に上体を突っ伏した。


 ……自分の中で嫌な気持ちが沸き上がる。でも、蓬さんが悪いわけじゃないから、誰に怒ることもできない。


 もし僕が自分に自信のある男だったら、ここで「俺の女に触るな!」とかの一言でも言えたのかな。


「私と大地が付き合うとかありえないから!てか私、彼氏いるから!」

「え!お前、彼氏できたの!」

「誰だよ!」

「教えない!」


 そんな会話が聞こえてきたけど、自分が惨めで顔をあげられなかった。







 その日の昼休みは、蓬さんはベランダに来なかった。朝から蓬さんの彼氏が誰なのかという話でイケてるグループが騒いでいるから、その話でもちきりだったのだろう。


 そんな話を抜け出して、蓬さんがベランダに来るのは難しい。蓬さんの彼氏は僕だって言っているようなものになるからだ。


 それも全部分かっているけれど、僕の心は寂しかった。


 自分の彼女が他の人と付き合っている噂を流されると、こんなに嫌なものなんだな。胸の奥がモヤモヤして気持ち悪い。


 しかも、今日はバイトが入っているから、蓬さんと一緒には帰れない。


 さらに追い打ちをかけるように、蓬さんも友達と一緒に帰る約束が入ってしまったらしい。またもや放課後は一緒に過ごせない旨の蓬さんからのメッセージが僕のスマホに届いていた。


 おそらく、蓬さんの彼氏が誰なのかという尋問をされるのだろう。


 HRが終わって放課後になり、友達と一緒にいる蓬さんの方に目をやると、蓬さんもこちらを見ていた。


 だから僕は口パクで、「また明日」と言った。


 蓬さんは僕の口パクが分かったらしく、頷いて友達と一緒に教室を出て行った。


 みんなが帰った教室で、僕は1人で机の上にサンドイッチとコッペパンを並べる。だけど、なんとなく食欲が湧かない。


 ……昨日の昼休みは、あんなに幸せな気持ちになれたのに。


 蓬さんと付き合い始めるまで、僕の気持ちがこんなにもかき乱されたことはなかった。


 蓬さんは、どんな気持ちでいるんだろうか。


「……バイト行こ。」


 僕はパンには口をつけずに、いつもバイトに行くときよりも早めに教室を出た。


 しんと静まり返った廊下に出ると、サックスやトロンボーンなどの音色が聞こえてくる。音楽室で吹奏楽部が練習をしているのが響いているのだろう。


 誰もいない廊下には、僕の足音だけが響く。


 こんなに蓬さんとの時間がとれないんじゃキスどころじゃないなあ。






「お疲れ様でした。」

「お疲れ様、気を付けて帰れよ。」

「ありがとうございます。」


 バイトが終わると、店長に挨拶をして店を出る。少し前まで夜は少し肌寒かったのに、あっという間にそんな季節も過ぎた。


 自転車をぐんと漕ぐと、生ぬるい風が肌をかすめる。


 蓬さん、大丈夫だったかな。


 今日のバイト中は、蓬さんのことが気になって仕方がなかった。友達にイジメられていないだろうか。


 蓬さんのことだから、きっと彼氏が僕だっていうことは死守しただろう。だけどそのことによって、友達との仲が変になってしまわないか心配だったのだ。


 自転車を飛ばして家の前に着くと、うちの玄関の前に小さな人影があった。


「蓬さん?」


 うちの門の前で、しゃがみこんでいる。僕が呼んでもこっちを向いてくれない。


 心配になった僕は自転車から降りて門の前に自転車を停めると、蓬さんと目線を合わせるために僕もしゃがみこんだ。


「蓬さん?」


 もう一度、僕の恋人の名前を呼ぶ。


 すると突然、蓬さんの両腕がにゅっと飛び出てきて、僕の襟首をつかんだ。


 からだごと蓬さんの方に引き寄せられ、バランスを崩した。僕は自分のからだで蓬さんを押しつぶしてしまわないように、蓬さんの背中を支えている家の門に手をついた。


 ガシャンと大きな音が、静かな住宅街に響く。


すると、僕が慌てる間もなく唇に柔らかいものが押し当てられた。


 それがキスだと分かったときには唇は離されて、ただかっこ悪い壁ドンをしている僕を見つめる蓬さんの瞳が目の前にあった。


 蓬さんの息遣いが僕の唇をかすめる。


 僕の心臓はバクハツしそうなぐらい痛い。だから、一刻も早くこの体勢をどうにかしたいけれど、蓬さんが襟首を離してくれないからどうにもできない。


「……ど、どうしたの?」


 僕が紡げる言葉は、それが精いっぱいだ。対する蓬さんは、微動だにしていない。


「千尋は嫌じゃなかったの?今日のこと。私はすごく嫌だったのに、千尋ったらなんでもないような顔してるんだもん。やっぱり私のこと、好きになれない?」


 淡々と言葉を発する蓬さんは、まっすぐな視線で僕の瞳をとらえて離さない。


 僕はハッとした。


 蓬さんと付き合い始めてから、僕はとっくに蓬さんのことが好きになっていた。だけど思い返してみれば、僕はそれを蓬さんにきちんと伝えていなかった。


 聞かれないとそのことに気づけないなんて、僕はなんてダメな恋人なんだろう。


「……嫌だったに決まってるでしょ。むしろ、昨日の放課後に蓬さんのからだを野久保くんに触られたのだって嫌だったよ。だけど、それでもなんでもないような顔をしてられるのは、蓬さんのことを信じてるからだよ。」


 一瞬口をつぐんで、蓬さんの瞳を見つめる。


大丈夫。蓬さんは待ってくれている。


「僕、ちゃんと蓬さんのこと好きだよ。」


 そう言葉にした瞬間、周囲は真っ暗で蓬さんの顔色なんて見えないはずなのに、蓬さんの頬に赤い花がほころんだのが分かった。


「なによ、ちゃんとって。」

「僕の気持ち、ちゃんと信じて欲しくて。僕、蓬さんに恋してるよ。」

「……分かった。ちゃんと信じる。」

「ありがとう。」

「うん。」


 僕と蓬さんはどちらからともなく、ほほ笑みを交わした。


 柔らかい空気が僕たちの頬を撫でる。


「もう1回ちゃんとキスしてもいい?」


 その流れに便乗して、僕はおねだりをした。


 憧れたのは、蓬さんをキュンとさせるキスだったけれど、僕のファーストキスは蓬さんに一本とられてしまった。やり直しとはいかなくても、実感を残しておきたい。


「……。」


 蓬さんは、返事の代わりに少しだけ顎を上に向けた。僕はその瞬間を見逃さずに、優しく唇を重ねた。


 すると、襟首にあったはずの蓬さんの両手は、いつの間にか僕の背中に回されていた。


 蓬さんの手が、軽く僕の背中を撫でる。


 それだけで僕はもう限界だ。顔も耳も、きっと全身が真っ赤だ。


 ……ずるいなあ。結局、僕がキュンキュンさせられるのか。






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