エピローグ

 シュレンダイン大陸がデウス・エクス・マキナの支配下にあった期間は、十七年。公式の史書にはそう残されている。だが、実際には千年間、狂気に取り憑かれた一人の女の意図によって、世界が振り回されていた事を知る者は少ない。だから、大陸を焼き尽くそうとしていた要塞が天空にあって、それが崩壊した事を知る者はもっと少ない。ごく少数の人間が、暁前の空に赤い星が瞬いて消えたのを見ただけだ。

「知る必要は無い」

 地上に帰り着いた一行を出迎えた、ギルを初めとする元アナスタシア騎士達にそう告げたのは、ミサクだった。

「神は死んだ。それだけで良い」

 そうして、真相はごく一部の人間の胸に秘され、ただ『機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ』は滅びた、という事実だけが人々の間に広まった。

『信仰律』を額に埋め込まれていた者達は正気を取り戻し、摘出を求めて、ユージンの医療所はしばらく賑わった。魔物は人里離れた場所へ身を隠して、なかなか姿を見せなくなり、前時代文明の生き残りである魔族は、ユージンのように人々の間に降りて、己の知る技術を伝え、勇者と魔王が『フォルティス』と『オディウム』を手に相争っていた頃のように敵対する事は、ほとんど無くなった。

 大陸は、旧王国時代の領地を治めていた貴族が兵を雇い、無法の蛮族を駆逐したり、配下に組み込んだりする事で、徐々に秩序を取り戻し、やがていくつかの小国が興って、大きな戦の無い穏やかな時代を迎える事になるのだが、それはもう少し先の話になる。


 その間に、七年の歳月が、ゆっくりと流れていった。


「せんせー!」

「メイヴィスせんせー!」

「チカがころんだー!」

 外から子供達の甲高い声が聞こえてきたので、台所に立っていたメイヴィスは、鍋をかき回していたお玉を握る手を止め、『火炎律』の火を消すと、エプロンを脱ぎながら早足で裏庭へと向かった。その顔から少年期の幼さは消え、柔らかみは残るがしっかりとした青年としての精悍さを備えている。

 鬼ごっこをしていたのだろう。十歳にも満たない子供が四人。内一人の少女は地面に突っ伏してわんわん泣き喚き、残る少年三人が不安そうにこちらを見上げている。メイヴィスは、首からさげた赤い牙の形をした魔律晶を右手で握ると、泣いている少女チカの傍らにしゃがみ込み、すりむけた膝に左手をかざした。りん、りん、と、鈴が鳴るような音がして、『回復律』の青い光が発せられ、傷口に吸い込まれる。たちまち少女の傷は塞がり、痕すら残さなかった。

「頭は打ってないね?」

 痛みが消えた事にきょとんと不思議顔をしている少女に、小首を傾げて問いかけると、チカはおずおずとうなずき、「ありがと、せんせー」と、小さい花がほころぶような笑みを見せた。

「ほら、皆、お遊びはこれまで。手を洗ってうがいして、お昼ごはんにしよう」

 チカを立たせて服についた土をはたき落とし、子供達を促す。少年少女は、怪我などもう忘れたように、「おひるー!」「ごはんごはん!」とはしゃぎ声をあげながら、メイヴィスを追い越していった。

神光律じんこうりつ』からの帰還後、仲間達はそれぞれの道を進んだ。

 キラはシステを妻に迎え、オルハ族の長として、ダヌ族や他の敵対勢力とも和解の道を模索して、南海諸島全体の平安の為に力を尽くしている。常々口にしていた『あったかい家族』作りにも余念が無い。

 リビエラはロジカと共に故郷へ帰り、正式に新たな領主として立った。ロジカが、耐用年数の限界と言っていた五年を過ぎてもまだ生きているのは、ユージンが『人間の血を混ぜたらどうなる?』と提案した結果だ。キラの血をシステに、リビエラの血をロジカに、お互いの血が混じり合う程に輸血したところ、ロジカは目に見えて回復し、体力が尽きて倒れる事は無くなった。まだ、完全な成功かはわからないが、摂理人形テーゼドールである彼らも人並みの幸せを得、新領主夫妻は薄緑の髪と翠緑の瞳を持つ男の子を授かって、晴れた日には、親子三人で亡き人の墓参りへ赴いている。

 ミサクとユージンは、相変わらずあの家に住んでいる。折角ユージンが医師として儲かるようになってきたのだから、シャンテルクの近くなど、もっと交通の便の良い場所へ引っ越せば良いのに、と言ったのだが、『患者はたまにしか来ないくらいが丁度良いんだよ』とユージンはあっけらかんと言い放ち、ミサクも何も口を挟まなかった。常ならぬ人生を送った男と、『変人医師』である女が暮らすには、それが一番幸せなのかも知れないと思い、メイヴィスもその一回だけで、二人をせっつく事をやめた。

 そしてメイヴィスは、再建を始めたベルカに向かい、デウス・エクス・マキナによって親を亡くした子供達を引き取って、街の郊外につつましい孤児院を開いた。当初は本当に立ちゆくか不安だったが、ユージンやリビエラ、キラが資金援助をしてくれた事もあり、運営は軌道に乗った。子供達もメイヴィスをよく慕い、メイヴィスの作る料理をおいしいおいしいとにこにこ顔で食べて、たまに派手にすっ転んでこちらをひやひやさせたりもするが、おおむね平穏な暮らしを送っている。

 だが、そこに彼女はいない。

 一番、メイヴィスの料理を待っていてくれて、「美味しい」と言ってくれる彼女は、いない。

 嫁を迎えろとは、ミサクは言わない。メイヴィスの心を知っているから。

 墓も無い。彼女の死を確認した訳ではないから。

 あの日、『神光律』を脱出する時に無意識の内に握り締めていた『化身律』は、その役目を終え、今は『混合律』として、青年の胸元で光っている。もう、虎に化身する事も、彼女の存在を感知する事も出来なくなった。

 それでも、奇跡を信じたくて、子供達が昼寝に落ちた時間を見計らっては、海を臨む丘へと足を運んでしまう。

 春の海は鮮やかな碧。彼女の瞳の色だ。

『お前の瞳も綺麗だぞ?』

 恋の何たるかも知らない彼女が、無自覚に放ってきた声は、今も鮮やかに耳元で囁かれる。

「……エクリュ」

 白いリボンで結わいた、この七年で再び伸びた髪を風になびかせ、雲一つ無い青い空を見上げて、メイヴィスは唇からその音を爪弾く。

「会いたいよ、君に」

 祈っても、聞き届ける神などこの世界にはいない。だからこれは、祈りなどではない。願いだ。

 その願いに応えなど無い。それを今日も確認して、踵を返そうとしたメイヴィスの視界を、白い光が横切った。はっとそちらを向けば、光はきらきら瞬いて、丘の向こうの草原へと落ちてゆく。

 胸元の『化身律』が、熱を持って脈打ったような気がした。心臓が逸り、メイヴィスは、光の落ちた方向へ全力で走り出していた。

 走って、走って。辿り着いた先は、ガーベラが咲き乱れる花園だった。そこに、半分身体が透けた男女が立っている。その姿に見覚えがあって、メイヴィスは驚きに目をみはった。

 金髪の女性と、紫髪の男性が振り返る。それぞれが、碧の瞳と、紫の瞳を細める。

『メイヴィスさん』『この子を、よろしくな』

 柔らかい笑みを印象に残して、二人の姿がかき消える。どくどくと、心拍数が上がるのを自覚しながら、メイヴィスは、彼らが消えた場所へゆっくりと歩み寄り、見下ろした。

 黄色い花の褥で眠っている、紫髪の少女。いつか渡した、古い白のリボンで髪を結わいたままだ。

 傍らに膝をつき、細かく震える手で、頬に触れる。温かい。口元に当てれば、きちんと呼吸が返る。

 喉に何かがつかえているようで、なかなか名前を呼べずにいると、紫の睫毛が震えて、その下から、碧の瞳が覗いた。

 まだ状況を把握出来ていないのか、ぼんやりとこちらを見つめる彼女に、涙声で問いかける。

「今夜のごはん、何がいい?」

「……肉」

子羊ラムならあるよ」

 そこまで言ったところで、耐えきれずに両目から水分が流れ落ちる。

 抱き起こし、万感の思いを込めて「おかえり」と囁けば、「……ただいま」と、抱擁が返る。

 お互いに笑顔で涙を流しながら。

 七年越しの口づけを交わした。


 太陽の光は、四季の差はあれど、変わらぬ輝きで地上を照らし続ける。

 どんな道を歩んできた者にも等しく。

 どんな時代も変わらずに。

 この世界の、果てまで。

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