番外編2――失われて、取り戻す――
01:運命の子
「アルダの馬鹿!!」
木の枝に止まっていた鳥達が慌てて飛び立つほどの怒鳴り声の後、わんわんと泣き喚く声が、鬱蒼とした森の中に響き渡った。
「ご、ごめん……」
「ごめんで済んだら、喧嘩なんてこの世から無くなるわよ!」
紫の瞳を伏せがちにして萎縮する少年を、濡れた碧の瞳で少女はぎんと睨み、また泣き声をあげる。
ほんの度胸試しのつもりだったのだ。少年――アルダは思い返す。
大人達に『踏み込んではいけないよ』と常々言われていた、村の裏手の森。先日、こっそり一人で入口まで行った時、森の中へ続く獣の足跡と、近くの木々に生っていた、村では育てていない甘い木の実を見つけた。
十三歳の少年は、初めて出くわす未知の世界への興味を抑えきれず、また、誰よりも親しい存在とこの冒険を一緒にしたくて、二つ年下の幼馴染みである少女シズナを連れ出して、弓矢を手に森の中へと踏み込んだ。
背の高い木々、どこかで流れる小川の音、村では採れない茸、どこかから聴こえる獣の声。何もかもが新鮮で、二人は夢中になって、つい奥へ奥へと進み、結果、道を見失ってしまったのだ。
上を向けば、重なり合う枝葉の間から差し込む光量は少なくなってきている。日暮れが近いのだろう。こんな場所で夜が訪れれば、歩き回る方が危険だ。
「と、とにかく」
気を取り直して、弓を仕舞い、短剣を取り出すと、近くの木の幹に疵を刻んで、
「今まで来た道をわかるようにしておこう。それで日が暮れたら」
シズナが持っているバスケットに入った、木の実や茸を指し示す。
「それでご飯を作って、夜をしのごう」
その言葉に、少女はまだしゃくりあげながらも、再びこちらに視線を向ける。癇癪はいささかおさまったようだ。
「行こう」
短剣を持っていない左手を差し出すと、一回り小さな手が添えられる。それをしっかりと握り締めると、
(シズナは、俺が守らなくちゃ)
アルダは決意を固めて、しっかりと歩を踏み出した。
シズナは大事な幼馴染みだ。山奥の村に来たばかりでまだ何もわからず、祖母ユホが頑なに村人達との交流を拒むせいで孤立していたアルダに、最初に声をかけてくれた女の子。一緒に草原へ繰り出して遊び回り、唯一無二の友人になった。
そしてその想いは、年齢を重ねると、恋愛感情へと昇華した。
黄金色の髪。宝石のように綺麗な碧の瞳。意志の強さを感じさせるきりっとした眉。初めて触れた時、とても柔らかいと思った薄い唇。これから女性へと成長する階段を昇りつつある、無駄な肉の無い身体。そして、ひたむきにアルダの想いに応えてくれる、まっすぐな人柄。
全てが好ましく、今よりも小さい頃、『おおきくなったら、おれのおよめさんになって!』と告白して、『ぜったいなる! だいすき!』と飛びつかれた。
だが今、アルダの胸には、いくばくかの懸念がある。シズナに失望されたのではないか、と。いい歳をして、子供じみた好奇心に少女を巻き込んで失態を見せつけて、泣かせてしまったのだ。村に帰ったら、シズナは両親のエルシとイーリエに文句をぶちまけて、アルダに絶交を叩きつけるかも知れない。
(あっ、それだけは嫌だな)
一人で勝手に落ち込みつつも、時折木の幹に、短剣で通った痕を刻んでゆく。
だが。
「……ねえ」
それまで黙って、手を引かれるままに歩いていたシズナが、おののきを込めてわずかに震える声を発した。
「同じ所を回ってない?」
言われて、はっと周囲を見渡す。元より慣れぬ森の中。風景など気にしていなかったが、たしかに、今まで聞こえていた鳥の声も、小川の音も、耳に届かない。ふと思い至って近くの木を見やれば、さっきつけたはずの短剣の痕が確認出来た。
シズナが身を寄せてきて、握っていない方の手で、アルダの服の袖をつかむ。その手も細かく震えている。大丈夫だ、と肩を抱こうとした時。
『へっ、へへえ!』
こちらを嘲るような、ふざけきった笑い声が辺りに響いて、アルダはシズナと共にきょろきょろと周囲を見回した。
『久々の人間の子供だ。さぞかし美味かろうなあ! どっちから喰らってやろうかなあ!?』
直後、ざざざっと大きな葉ずれの音を立てて、頭上から人影が降ってきた。いや、人と言って良いのかわからず、アルダは目をみはってしまう。傍らのシズナも身を固くするのが伝わってくる。
頭があって、四肢があるのは、人間と同じだ。だが、その特徴があまりにも違う。肌はアルダ達と違って赤色が強いし、顔は長くて、尖った耳まで裂けた口には、ぞろりと牙が覗く。手足は妙に長くて、二本足で立つのではなく、地面に這いつくばる格好をしている。
『この世界の外には、魔物っていう、こわーい種族がいるからね』
そう、それはもっと幼い冬の日、暖炉の前で、シズナの母イーリエが子供達に語ってくれた物語に出てくる、魔物そのものであった。
「男の方は、喰ったら精力がつきそうだ。でも、女も肉が柔らかくてたまらねえだろうなあ!」
口から溢れるよだれもそのままに、魔物はじりじりと距離を詰めてくる。アルダはシズナを守るように前に進み出ると、短剣を構え直した。剣の師匠であるガンツに、戦い方は教わっている。退散させるくらいは、自分にも出来るだろう。そう判断して、ぎんと魔物を睨みつける。
その時、木々の合間から、輝き始めた月光が差し込み、アルダの姿を魔物に良く見えるように照らし出した。彼の、瞳と同じ色をした紫の髪が、森の中では無いはずの微風に吹かれてなびく。
その途端。
「……え」
魔物がぎょろりとした目を更にみはり、唖然とした表情を見せた。
「その髪と瞳の色……、お前、いや、貴方様は……!」
魔物の身体が目に見えてぶるぶる震え始めたかと思うと、「お、お許しを!」地面に這いつくばっていたその身体を更に低くして、アルダに向けて平伏したのである。
「ご無礼をお許しください! 腹が空いて、見境が無くなっていたのです!」
アルダはぽかんと口を開けて、短剣を中途な位置で止めてしまった。傍らのシズナも呆然としているのがわかる。が、気を取り直して、
「だ、騙されないからな!」
と、切っ先を再び魔物に向ける。
「俺達を油断させて、取って喰おうって魂胆だろう」
「いいえ、いいえ!」
アルダの詰問にも、魔物はおびえながら激しく首を横に振った。
「貴方様に害を為すくらいならば、この首かき切ってお詫びいたします故!」
その畏れぶりは、とても演技とは思えない。アルダはシズナと顔を見合わせてしまう。すると、シズナがアルダから手を離し、魔物の元へ近づいていったかと思うと、バスケットから、森の中で手に入れた大きな木の実を取り出し、魔物に差し伸べた。
「お腹が空いているなら、これを食べればどう?」
魔物はきょとんと目をまたたかせて、シズナの顔と木の実に視線を交互させていたが、爪の長い手で、恐る恐る木の実を受け取ると、しゃくりと牙を立ててかじりつき、もしゃもしゃと咀嚼して、飲み込んだ。
「……美味い」
「なら良かった」
シズナがほっと息をつく間にも、魔物はしゃくしゃくと木の実をかじり、あっという間に食べ尽くしてしまった。
「本当に、本当に申し訳ありませんでした」
魔物は改めてアルダの方を向き、また、地面に額をこすりつけそうな程に低頭する。
「貴方様の事は、我が
「人違いじゃあ、ないのか?」
相変わらず相手の言っている意味がわからなくて、アルダが首を傾げると、「いいえ、いいえ」魔物はやはり首を横に振る。
「我らが貴方様を間違えるはずがありません。ですが今はどうか、お待ちくださいませ」
そう言うと、魔物は顔を上げ、一方向を指差した。
「この獣道をまっすぐ行くと、小川があります。その流れに沿ってゆけば、お帰りになれるでしょう」
その表情からは、先程までの
信じてみても、良いのだろうか。
「シズナ」
短剣を鞘に収め、幼馴染みの名を呼ぶと、少女は振り返り、こちらへ駆け寄ってくる。その手を、先程以上に強く握り締め、魔物に背を向ける。
追ってくる様子は無かった。一度だけ、肩越しに振り返ると、視線に気づいた魔物は、胸に手を当て低頭し、
「……の血族に、栄光を」
と言う、小さな囁きが聞こえた気がした。
その後、獣道を踏み締めて進めば、本当に小川があった。その流れに沿って、下流へと向かう。すると、日の暮れた暗闇の中を揺れる、いくつもの松明の明かりが見えてきた。
「母さん!」
二人を探しにきてくれたのだろう、松明を掲げた村人達の中に母の姿を見つけたシズナが、アルダの手を振りほどいて、そのふくよかな胸に飛び込んでゆく。
「シズナ、ああ、無事で良かったよ」
イーリエも心底安堵した様子で、娘を抱き締める。
「イーリエ、ごめんなさい」
アルダはシズナの母親の元へ歩み寄ると、張り手を食らう事も覚悟で、深々と頭を下げた。
「俺が馬鹿な真似をしたせいで、シズナを危険な目に遭わせてしまった」
「アルダは悪くないわ!」
しかし、イーリエが何か口を開く前に、シズナがそれを遮るように声を張り上げた。
「アルダは私を守ってくれたのよ。とっても格好良かった。ええと……」
少女は視線を彷徨わせ、不思議そうに小首を傾げると、アルダの方を振り向く。
「アルダ、私達、どうして助かったんだっけ?」
言われて、アルダも記憶の糸を手繰り寄せようとする。しかし、ついさっきまで憶えていたはずの記憶は曖昧で、あの森の中で何があったのかは、夢でも見ていたかのようにぼんやりとして、思い出す事が出来ない。
「とにかく!」シズナが弾んだ声を発して、碧の瞳をきらきら輝かせた。
「アルダは私の勇者様だもの! 怖い事なんて何にも無かったわ!」
イーリエが「勇者様、ねえ」と呆れ半分の笑いを洩らし、
「とにかく、お前達が何事も無くて良かった。早く村へ帰ろう」
ガンツが皆を促す。アルダは松明を持つ人達を見渡して、その中に、一番自分を案じるだろう人物の姿が無い事に気づいた。
「ユホは?」
問いを投げかければ、村人達は一様に、困り顔を見合わせる。
「家に行ったが、いなかったんだよ。てっきり一人であんたを探しにいったものかと」
イーリエが気まずそうに苦笑しながら教えてくれたので、やはり、とアルダは納得する。
祖母は村人達と協力する気などさらさら無いだろうし、何より、シズナを目の上のたんこぶ扱いする。ここにいない事は、薄々予測が出来る事だ。
まあ、その内帰ってくるだろう。そう納得したアルダの手に、シズナが指を絡ませてくる。
「アルダ」
少女は照れ臭そうにはにかみながら、耳元で囁いた。
「怒っちゃってごめんね」
「俺こそ」きゅっと、手を握り返して、彼女の手の温もりを確かめる。「もう君を危険な目に遭わせたりしない」
「頼りにしてるわ、私の勇者様」
少女が笑み崩れて、顔を上げ目を閉じる。アルダも顔を伏せる。
村人達から少し遅れたところで。
まだ若い恋人達は、短く密やかな口づけを交わした。
それより少し前。
アルダとシズナに邂逅した魔物は、荒い息を立てて、山の中をひた走っていた。
「知らせなくては」
その目は、ぎらぎらとした使命感に燃えていた。こういう時、『転移律』の魔法を使えない下級魔族であるこの身がもどかしい。
「皆に知らせなくては。あの方は、ここにいると」
彼らが自分と出会った事は、去り際に『忘却律』をかけた。今頃は、森の奥で迷った、くらいの記憶しか残っていないだろう。忘れた方がいいのだ。
「そう、我々があの方を迎えにあがるまでは」
「誰をだって?」
突然、真横からしわがれた声が聴こえて、魔物はぎょっとして足を止めた。
いや、自分の意志で止めたのではない。進まなくなったのだ。気がつけば、手足を氷の刃が貫いて、地面に縫い止めている。
「ぎゃああああ!」
今更ながら痛みが襲いきて、魔物は悲鳴をあげた。その喉すら、氷の槍で貫かれる。
「渡さないよ」
暗闇の中でも光る金色の双眸が、にたり、と細められてこちらを見ている。
「渡さないよ、アルダは。あの子は、アタシの、このユホ様のものだ!」
夜闇を破る高笑いを最後に、魔物の意識は深淵に落ちてゆく。
(ああ、どうか)
永遠の静寂に閉ざされる寸前、魔物は祈った。
(我らが魔王様が復活を果たし、魔族に久遠の繁栄を)
その祈りが神に届いたかどうか。そもそも神はいるのかどうか。
答えはまだ、誰も知らない。
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