第7章:南方の戦士(2)
波の音が聴こえる。
子供の頃、ミサクに連れられて海へ遊びにいった思い出が脳裏に蘇る。一面の碧を前に、きらっきらに目を輝かせ、入っていいかと訊くと、彼は『危険な場所までは行くなよ』と、苦笑しながら返してくれたので、歓声をあげながら、春先のまだ冷たい水に身を浸したものだ。
そう、あの頃の自分達はまだ、仲の良い父子のように過ごしていたではないか。その関係がぎくしゃくし始めたのはいつからだったか。
ぼんやりと思考しながら、メイヴィスの意識はゆるゆると現実に引き戻されてきた。
ぱちくりと瞬きし、そして、ぎょっと目をみはる。
至近距離に、エクリュの顔があった。その目は閉じられ、海水に濡れた紫髪が頬に張りつき、唇は半開きになっている。更には、自分が彼女に抱き締められる形になっている事に気づき、一気に首から上の温度が上がった。一体全体、これはどういう事か。
「エクリュ」
細腕に似合わぬ強い力で拘束されているので、小さく身じろぎしながら、少女の名を呼ぶ。
「エクリュ、起きて」
幾度か呼びかけると、「ん……」と少女が顔をしかめ、ゆるりとまぶたを持ち上げて、碧の瞳にメイヴィスの姿を映した。
「朝ごはん……?」
「エクリュ、お願い」まだ寝ぼけ気味の彼女に、真っ赤になりながら頼み込む。「腕を離して」
「ん、ああ……」
少女が腕をほどく。高鳴る鼓動に気づかないふりをしながら、メイヴィスは身を離し、上半身を起こした。
手をついた途端、砂の感触が指の間に入り込んでくる。周囲を見渡せば、どこまでも砂浜が続き、波が穏やかに打ち寄せ、太陽の光がまぶしく降り注いでいる。
シュレンダイン大陸とは明らかに違う光景に、ひとつの可能性へと思い至る。
「ここが、南海諸島なのかな」
ぽつりと呟けば、エクリュがいまだ眠そうに目をこすりながら首を傾げる。そして、ぐうう……と、何とも間抜けな音が彼女の腹から洩れた。
「お腹すいた」
思い切り脱力して、がっくりと肩を落とす。だが、最後に物を口にしたのは、体感時間にして夜中前だ。それに、充分な量を収めた訳ではない。そろそろまともな食事が欲しい。メイヴィスは砂の上で気怠そうにしている少女に声をかけた。
「ちょっと、周囲の様子を見てくるよ。食べられそうな物があったら、取ってくる」
途端、「食べられそうな物」に反応して、エクリュの瞳がきらりと光を取り戻す。そんな正直すぎる反応が微笑ましくて、メイヴィスの口元も不謹慎ながら緩んだが、状況を思い出し、すぐに引き締める。
ここが本当に南海諸島とは限らないのだ。どこかとんでもない場所に辿り着いた可能性もある。それに、リビエラ、ロジカ、システの行方も知れない。これから先、エクリュと二人で行動しなくてはいけないかも知れないのだ。その為にも、今は少しでも情報が欲しいし、未知の場所にエクリュを一人にするのは不安もあるが、腹が減っては戦も出来ない。
「エクリュはどこかに隠れてて」
だから、万一の事を考えて、今出来る最大限の配慮を、少女に告げる。
「昼を過ぎてもオレが帰ってこなかったら、行動していいよ」
それは自分を見捨てても構わないという宣告だ。エクリュは軽く目をみはったが、こちらの意図を受け取ってくれたのだろう、神妙な顔でこくりとうなずいた。
「じゃあ」
少女に手を振り、メイヴィスは砂を蹴って走り出した。
水に濡れて乾ききっていない服はごわごわと身体にまとわりついて、手足を動かすのに少々邪魔だが、『化身律』によって生まれつき常人より身軽な少年には、さしたる問題にならない。それよりも、巨大烏賊もどきとの戦いの中で、荷物を失くしてしまった事が悔やまれる。今、自分の身を守る手段は、素手での体術と、虎に化身する能力だけだ。
砂浜は思った以上に遠くまで続いている。右手には白い波が穏やかに打ち寄せ、左手には、大きな茶色い実の生った、見た事の無い高木が防風林としてそびえている。
食べられそうな物を取ってくる、とエクリュに約束した。まずはあまり遠くまで行かず、海に入って貝や魚を捕るか、防風林を越えて人里が無いか探すべきか。そう思案し始めたメイヴィスの視界に、人影がふたつ映り込んで、彼ははっと息を呑んだ。
黒ローブに、解けかけた薄緑の三つ編み。システだ。彼女の手をつかんでどこかへ行こうとしているのは、日に焼けた背の高い、見知らぬ男。
「システ!」
どういう状況かはわからないが、ここまで同道した仲間を、勝手に連れていかせる訳にはいかない。名前を呼ぶと、二人が同時に振り返り、システはきょとんと目をまたたき、男は不思議そうに小首を傾げた。
「システを離せ!」
体格差を鑑みて、体術で男に上手を取ろうとするのは無謀だと判断したメイヴィスは、即座に自分の中の『化身律』に呼びかける。埋め込まれた魔律晶は即座に反応し、化身によって服を破き、少年を、たてがみ持つ虎に変化せしめた。
たん、と跳躍し、男に向けて飛びかかる。
「うおっ!?」
男は黒の目を見開いて
「えーと、この人間離れした兄ちゃんも、あんたの仲間?」
男がシステに問いかける声が聞こえる。押さえつけられた手足をばたつかせようとしたが、虎の膂力を持ってしても、男の体重を乗せた腕力は強くて、反撃に転じる事が出来ない。
ここは一刻も早く、システが男を説得して、解放してもらうしか無い。ところが。
「仲間……」
少女は何を思っているのか、顎に手を当てしばし考えた後。
「仲間という呼び方が適切な関係なのか、わたしには判断しかねます」
こんな時に彼女の『
「まいったなあ」
男ががりがりと髪をかき回し、その手で再び拳を作ったかと思うと、容赦無く振り下ろす。
(システ、ひどい)
がつん、と。
急所を思い切り殴られた記憶を最後に、メイヴィスの意識は途切れた。
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