第6章:彷徨える海域(2)

 三食は、エクリュ達五人だけで食堂で摂り、その間、他の乗組員が関与してくる事は無い。いつもならば、邪魔が入らずに今後の事を語り合いながら食事をするのだが、何だか今日は空気が違うな、とエクリュは感じた。

 向かいに座ったメイヴィスがやたら落ち着かない様子で、時折こちらをちらちら見てはそそくさと視線を逸らし、ミルク漬けのパンを口に運ぶ。その隣のロジカは頬に手形を作っているが、何という事は無しに黙々と、焼いた白身魚をナイフとフォークで綺麗に切り分けて口に運んでいる。エクリュの傍らに座るリビエラは、むっつり顔をしたままスープをかき込む。元々四人用のテーブルなので、システの席は椅子を運んできて、エクリュの左斜めに配置した。

「かつて『通信律』で怪物の映像を送ってきた船の、連絡が途絶えた海域に、そろそろ近づきます」

 柑橘類の香りがする温かい紅茶をすすって、彼女は言う。皆の様子がいつもとはどこか違っても、彼女が淡々とした態度を崩す事は無い。

「いざという時には、エクリュ、貴女を頼ります」

 その言葉にエクリュは軽くうなずき返したが、実際のところ、小山ほどあるという魔物に出くわした場合、どう対応すれば良いかなど、本当はわかっていない。奴隷剣闘士時代には、目の前に現れた敵はことごとく、全力をもって倒すばかりだった。命を奪う事無く戦闘を終わらせるにはどうすればいいかなど、誰も教えてくれなかったのだ。

 一抹の不安を感じつつも、「ごちそうさま」を言って空になった食器を手にして立ち上がり、厨房の流しに持ってゆく。自分が使った食器は自分で洗うのが暗黙の了解になっているので、流しにあるスポンジを手に取り、『流水律』を発動させて、汚れを落とすと、隣にあった乾燥用の篭に突っ込んだ。

 それから、食堂を出て再び甲板に上がる。空には白い雲が流れ、順風に帆がはためいている。世界には、シュレンダインの他にも幾つかの大陸があって、北へ行くほど寒く、南へ向かうほど暑くなるという。それでも、旧アナスタシア王国が作っていた地図は未完成で、まだまだ外の世界が広がっているのだと、ユージンが教えてくれた。

 この果てしない海を見ていると、その説も荒唐無稽ではない気がしてくる。自分達は、シュレンダインという一見大きな、しかし実際にはとても狭い場所の上で、勇者と魔王がどうだとか、神がどうだとかいう話を繰り広げている。他所から見たら、あまりにも滑稽に映るのかもしれない。

 それでも、エクリュにとっては、自分の身に降りかかった運命は重たくて、自分のせいで命を失った人々の名前は絶え間無く脳裏をよぎり、神に取り憑かれた母の顔を思い出す度に、胸のあたりがじくじくと痛む。

 世界全体から見たらどんなにちっぽけな存在でも、大した事が無いと笑い飛ばされる悩みでも、それを背負った当人にとってはあまりにも大きく辛い事なのだ。それはエクリュ一人ではなく、メイヴィス達も、誰もが抱えているものなのだ。そもそも行動理念が違うらしいロジカとシステがどう思っているかは、よくわからないが。

 世界を救うなどという、大義名分でなくて良い。ただ、母を救い出して、父やミサクの仇を討ち、この胸の痛みを消したい。その為の手段として、『オディウム』を取り戻す事が必要なだけだ。システは己の目的の為にエクリュ達を利用すると言ったが、目的を果たす為に味方を頼るという点では、エクリュも結局同じ穴の狢なのだろう。

 船縁に組んだ腕を置き、その上に顎を乗せて、たなびく風に紫髪を遊ばせながら、溜息ひとつついた時。

 きん、と。

 額を貫く針のような痛みを感じて、エクリュは咄嗟に半身を起こした。これが、魔王の血を引くが故の、魔物との共鳴だというのは、いい加減わかるようになった。そして、この感覚をもたらす者は、必ず敵意を抱いているのだとも。

『滅茶苦茶に良すぎるね』とユージンに笑われた視力で、水平線の彼方を見すえる。自然の波ではない白い泡が立ち、それが迷う事無く凄まじい速度でこちらへ近づいてくるのがわかる。ざばん、と横殴りの大波が船体を打って、船を大きく揺らしたかと思うと、水中から、波の主が姿を現した。

 帆船をまるごと喰らいそうな、蒼い鱗に覆われた巨体。金色に光る八つの眼球がついた、蛇のような顔。システは、魔族がその魔物を何と名付けたと言ったか。

「リヴァイアサン!」

 メイヴィス達が慌てて甲板に飛び出してきて、リビエラが叫ぶ。神話時代の海竜の名を戴いた魔物は、複数の眼球にエクリュ達を映すと、剣呑な牙の並んだ口を大きく開いて、空気を震わせるほどの咆哮を放った。ただそれだけで衝撃波が発生し、びりびりと、船体を、帆柱を、エクリュ達の身を叩く。他の乗組員達は、『信仰律』で恐怖を消されている影響か、きょろきょろと周囲を見渡すばかりで、混乱に陥る事は無かったが。

「本当に、こんなのを治められるわけ!?」メイヴィスが短剣を構え、

「対話による説得は不可能と判断出来る」ロジカは何という事の無いように告げて、

「そんなのわかりきってやがるんですわよ!」とリビエラに後頭部を叩かれる。

「エクリュ」

 そんな中、システがつっとエクリュの方を向いた。

理屈ロジカは不可能と判じましたが、秩序わたしは試行を諦めない事を推奨します。鎮圧を、お願い出来ますか」

 そうだ、とエクリュは納得する。何もしない内から「無理だ」と言っては、システを失望させる。彼女だけではない、怖じ気づいた姿を見せたら、メイヴィス達にも不安を与えるだろう。ならば、自分が今取る行動は一つだ。

 システにうなずき返し、リヴァイアサンと向かい合う。金の目にぎょろりと見つめられても、怯む事無く、碧の瞳で見すえ返す。

 もし、真の魔王なら。父アルダなら、この魔物とどう相対しただろうか。想像しながら、右手をかざす。ぶうん、と虫が飛ぶような音を立てて、エクリュの手から青黒い魔法陣が展開される。『束縛律』の魔力の鎖が飛び出して、海竜の巨体に絡みついた。

「暴れるな!」エクリュは声を張り上げる。「大人しく海底に帰れ!」

 瞬間、海竜がびくりと巨体を硬直させた。言葉は通じるのだろうか。ほっと息をつきかけたが、直後、リヴァイアサンは低く唸ったかと思うと、大口を開けて自分にまとわりつく鎖を次々と噛み千切った。

 手を出した事が、魔物の逆鱗に触れたらしい。海竜は首を振り回し、水中の巨体を揺るがせる。太い尻尾が振るわれる度に、船板に穴が空き、帆柱が折れ、大波が次々と船を襲って、エクリュ達に容赦無く降りかかる。

「つかまって!」

 柱に短剣を突き立て、波にさらわれないようにしたメイヴィスが伸ばした手に、無我夢中で取りすがる。ロジカとシステは『束縛律』を自分に向け発動させて近くの柱に自分の身体を固定し、二人がかりでリビエラの手を握る。それで五人は揺れと波をしのいだが、指示をもらえず呆然と突っ立っていた乗組員達は、次々と海に放り出されていった。恐らく何が起きたのかも自覚していないのだろう、悲鳴すらあげないままだったのが、かえって恐怖をエクリュ達の心に残した。

 ひとしきり暴れまくったリヴァイアサンは、腹の虫が治まったのか、不意に顔を背けると、来た時と同じように白い泡を立てながら、海の向こうへと遠ざかった。

 大きな脅威が去った事で気が抜けて、エクリュは長い息を吐き出す。心臓はまだばくばく速く脈打って、耳の奥で鼓動が聞こえる。それに、決して安堵出来る状況ではないのだ。船体はぼろぼろになり、乗組員も皆、海に投げ出されて行方が知れず、最早思い通りに船を動かす事もかなわない。

 また、失敗してしまった。その思いが、エクリュの胸に鉛となって重たく落ちてくる。波をかぶって冷えたせいだけではなく、身体が細かく震える。

「大丈夫」

 そんなエクリュの肩に腕が回され、ぎゅっと引き寄せられる。メイヴィスは、自身も髪から服までべっとりと海水まみれになりながら、勇気づけるように少女の背中をとんとんと叩いた。

「エクリュのせいじゃない。戦っていたら、もっとひどい結果になっていたかも知れないんだ」

「申し訳ありません」

 こちらもしとどに濡れたシステが歩み寄ってきて、深々と頭を下げる。

「怒り狂った海竜の実力というものを全く考慮に入れていなかった、わたしの落ち度です。謝罪いたします」

「未知の敵相手にしろって言っておいて、そんな事で謝られても、どうしようもないってんですのよ」

 リビエラが毒を吐くが、彼女も心底からシステに怒っている訳ではなさそうだ。

「流されている」

 水平線の向こうへ沈み始めた太陽を見つめながら、ロジカがぽつりと呟いた。

「このまま潮の流れに任せれば、どこかへ漂着する可能性が存在する。それまで、下手に下船等の行動を起こさない事を提案する」

 誰も自分を責めない。それが逆に申し訳無い気持ちを煽り、エクリュは小さく嘆息する。

 日が暮れる。夕焼けの茜から宵の藍色へと空の色が変わってゆくように、エクリュの胸の内も暗い闇に沈んでゆく。

 波の音だけがその場を支配する。誰もが夕食を摂ろうとも言わずに甲板にへたり込んで、ただ無為に時間が過ぎる。だが、やがて。

「複数の船を視認出来る」

 夜目の利くロジカが立ち上がって、前方を指し示した。つられて他の四人も見やれば、夜闇の中に、より黒く浮かび上がる影をみとめる事が出来る。助かったのか、と一様に安堵の息をつくが、誰もがすぐに、それが間違いである事を悟った。

 見えてくる船は、大穴が空いて半分海に沈みかけているもの、船体が真っ二つに割れているもの、どれだけの歳月を経たのかわからないほどに朽ちているもの、とにかくいずれもこちらの船より損傷が激しい。

「これって……」

 リビエラが呆然と洩らす後を、メイヴィスが苦々しく引き受けた。

「船の墓場みたいなところに、来ちゃったみたいだね」

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