第6章:彷徨える海域(1)
浜辺に打ち寄せる波はエクリュの瞳の碧だったが、大洋に乗り出すにつれて、海の青は濃くなっていった。ミサクの瞳の色だ、と思う。海の色という繋がり、そう考えると、彼と母に血の繋がりがある事を実感出来る。『ミサクの青は、空の青だよ』とユージンは笑っていたが。
システがやってきてから十日。エクリュ達はシュレンダイン大陸を離れ、南海諸島へ向かう船上にいた。誰もが、この旅路にエクリュが聖剣『フォルティス』を持ってゆく事を勧めたが、エクリュ自身は固辞した。ロジカは「助けとなる最強の武器を敢えて手にしない事は不可解だ」と首を傾げたが、似たような思考回路をもって造られた存在でも、システの方が若干寛容なのか、「万が一南方の蛮族に『フォルティス』をも奪われた場合、取り返しが利きません。離れた場所に置いておく事は、理にかなっているでしょう」とさも当然のように告げた。
だが、エクリュの抱いた思いは、システのような理詰めではない。聖剣を腰に帯びていたら、それを見下ろす度に、ミサクの事を思い出す。手にして振るう度に、自分の落ち度で彼を死なせてしまった事を思い知る。それが怖いから嫌だという、我儘に近い感情であった。
他の者達はそれを理解してくれたのだろう。メイヴィスとリビエラは特に口を出さず、ユージンは「じゃあ、デウス・エクス・マキナに気取られないようにうちで保管しておくよ」と、ギルからもらったという『阻害律』を持った手をひらひら振ってみせた。『阻害律』は、魔律晶の純度が高ければ、神の『透過律』をも阻む事が出来る。「ベルカにいるエクリュの存在を十七年見出せなかった事が、何よりの証拠です」とは、システの弁だ。
そんな事があって、ユージンに『フォルティス』の保管を頼み、エクリュはシステに導かれ、メイヴィス、リビエラ、ロジカと共に、『オディウム』を取り戻す為の旅に出たのである。
大陸南方の、外の大陸と交易を行っている港町ヴェレーユで待っていた立派な帆船に乗り込むと、額に紫の『信仰律』を取り付けた乗組員があくせくと出港準備をしていて、
「ちょっと、貴女!」
と、リビエラが『混合律』の杖を握り締めながらシステに詰め寄った。
「デウス・エクス・マキナの下僕ばっかりじゃないですの! 嵌めやがりましたわね!?」
しかしシステは、胸倉をつかまれても平然とした態を崩さず、
「大陸を出てしまえば、神の支配は『信仰律』を持つ者にも届きません。代わりに、『複製律』で造られた近い存在の簡単な命令にならば従います。わたしがいる限り、彼らはわたし達の手足として働いてくれますし、貴女方に害をなさないように言い含めてあります。また、わたしよりロジカの方が、能力が高く造られているので、ロジカがその気になれば、わたしの権限を通り越して、彼らに言う事を聞かせるのは可能です」
淡々とそう告げた後、銀製の短剣を取り出して、リビエラの手に握らせた。
「それでも、どうしても許せない事態が起きた場合は、これでわたしを刺し殺してください。元は敵対関係である相手を、貴女が信用出来ない心情は、理解に値します」
リビエラはぎょっと目をみはった後、「……ばっかじゃねえですの」とひとりごちりながらも短剣を受け取り、「その時は、遠慮無くグサリといきますからね。覚悟していなさいな」とシステを見すえて、システも「はい。どうぞ遠慮無く」と相変わらず感情の動かない顔で応えた。
船はヴェレーユを出発した後、順調に航海を続けている。システの言った通り、『信仰律』を埋め込まれた乗組員は、黙々と己に課せられた仕事をこなすばかりで、エクリュ達に襲いかかってくる様子は一切無い。しかも、大陸を離れればデウス・エクス・マキナの支配を抜けるという話も本当だったのか、声をかけてみると、最低限の会話には普通に応じてくれた。
「南海諸島へは、潮の流れに乗れば、最速で二週間。この海域を抜けます」
『信仰律』で操られているのが嘘のように、船員はエクリュ達の目の前で海図を広げ、これから通るルートを滑らかに指し示した。
「君達は、デウス・エクス・マキナに従って、自分の意志を奪われて、何とも思わないの?」
試しにメイヴィスが挑発的に質問を投げかけてみたが、それについては、船員は顔を上げて首を傾げ、
「質問の意図を理解しかねます」
と、機械的に答えるばかりだったが。
海鳥が鳴く晴れた空の下、船縁に寄りかかって、思いを馳せる。かつて父アルダが握っていたという魔剣『オディウム』。聖剣と同じ造りをしたその剣は、持ち手の感情を反映して、静なら青に、動なら赤に輝くという。
自分がそれを手にした時、果たして剣は何色に光るだろうか。いやそもそも、勇者と魔王の娘でありながら、勇者としても魔王としても中途半端な、どちらにもなれない自分に、そんな剣を手にする資格はあるのだろうか。ぼんやりと己の両手を見つめていると。
「エクリュ」
メイヴィスの声が聞こえて、エクリュは逡巡を打ち切り、顔を上げた。
「昼ごはん、できたよ」
少年が手を振りながら歩み寄ってくる。船の上でも彼は食事係だ。出航した当初は、船員が料理をしていたのだが、固いパンと具の少ないスープがメインという淡泊すぎる食事に、主にエクリュが閉口し、「美味しいごはんが食べたい」と駄々をこねたので、メイヴィスが呆れ半分ながら、「……やるよ」と役目を引き受けたのである。
彼は朝早く起きて、船員と共に甲板で釣り糸を垂らして魚を釣り上げ、新鮮な内にさばき、煮たり焼いたり、調味料も変えてみたりと工夫を凝らし、日々異なる魚料理を出してくれた。パンは卵と砂糖を混ぜたミルクに浸して蓋をした鍋を『加温律』の上に置いて蒸し、口当たり良く。スープには食材の保存に適した缶詰の中から、豆と人参ととうもろこしを詰めた物を見つけ出して、惜しみなく投入し、魚と一緒に釣り上がった海老や蟹を、豪快に切り分け殻ごと放り込んで、出汁を取った。
大陸を離れても、メイヴィスの手料理を食べられるのは、素直に嬉しい。浮き立つ心を抑えられないまま船縁を離れようとしたエクリュの隣に、少年がふっと並んで、時折白い波を立てる海に視線を馳せた。
しばし、無言の時間が過ぎる。
「オレも大陸の外へ出るのは初めてなんだ」
やがて、ぽつりとメイヴィスが口を開いた。
「小さい頃、海へ泳ぎにいった事はあるけれど。その時の海は碧色で、色とりどりの魚がいたり、珊瑚礁が広がったりしていて、とても楽しかった」
そして、ふっと朝焼け色の瞳がエクリュの方を向いて、まぶしそうに細められる。ベルカの娼館にいた頃、上級娼婦の宝石箱の中に入っていた、大粒な
「君の瞳の色だったよ。凄く綺麗だった」
「お前の瞳も綺麗だぞ?」
メイヴィスの言葉に、間髪入れず思ったままを返すと、途端に彼が目を見開き、その頬が朱に染まった。
「……は? あ、そ、それはどうも」
何だかやたら狼狽え、視線を宙に彷徨わせながら、ぽりぽり頭をかきつつ礼を言う。
彼は普段は冷静さを保って平然としているくせに、時折こちらのかけた言葉に赤面する事がある。人の事を言えた身ではないが、あまり感情を動かさない相手だと思っていたのに、ミサクが死んだ晩に本音を爆発させたように、心の内に抱えているものが色々とあるのだろう。
とにかく、折角彼が作ってくれた昼食を食いっぱぐれたくはない。
「行こう」
何気無く少年の手を握ると、彼は殊更赤い顔になって、「う、うん」としどもど答える。一体何なのか。エクリュにははかり知る事がかなわなかった。
「どうして黙っていましたの」
「内容の説明を要求する」
エクリュとメイヴィスが語り合っている反対側の船縁では、リビエラがロジカをじとりと睨み上げて、ロジカは彼女の不機嫌の理由がわからないとばかりに、目を瞬かせた。
「貴方の寿命の事。『信仰律』と一緒にそこんとこの記憶まで失くしやがりました訳?」
先日システが投下した言葉の『爆裂律』にも等しい、『魔王の下位互換の寿命は、魔王より更に短い』という発言を聞いて以来、リビエラは非常に機嫌が悪い。それは隣に立つ少年にも伝わっているようだが、何故彼女が気色を損じているのかまでは、全くわかっていないようだ。事実。
「記憶にはあったが、説明の必要を感じなかった」
相も変わらずの無感情で、ロジカは返してきたのだから、リビエラの苛立ちは頂点に達し、「貴方が!」と相手の胸倉をつかんで怒鳴りつけた。
「貴方が必要無いと切り捨てた事でも、わたくしにとっては大問題だって言ってるんですのよ! わかりやがりなさいな、このへっぽこ!」
「へっぽこ」
浴びせかけられた事の無い罵倒に、ロジカがぱちくり瞬きをして、反芻する。目の端に涙をためながら、リビエラは低い声で問いかけた。
「で、あと何年ですの」
「主語を要求する」
「貴方の耐用年数」
魔王の寿命は三十年、下位互換の
「覚えている記憶によれば、ロジカは造られてから五年生きた。システは後発なので二ヶ月ほど生まれが違う。だが、ロジカは魔法の威力に特化して造られた分、器の損耗もシステより激しい。恐らく、残りおよそ五年ほどと推測する」
「五年って……」
自分の身体の事なのに、他人事のように話す彼の心理が理解出来ない。何故、たった十年しか生きられない身体を『器』と切り捨てて、そんな風に平然としていられるのか、推し量る事が出来ない。
「もう、嫌なんですのよ」
ロジカの胸倉をつかんだままの手に力を込めて、リビエラは洩らす。
「お父様も、お母様も、先生も、ミサク様も。皆いなくなって、これ以上誰かを」
言いさして、「いえ」と首を横に振り、顔を真っ赤にしながら告げる。
「貴方までを失うのは」
だが、ロジカはリビエラの言葉の裏に隠された意味を感じ取れるほどには、人間の心情に寄り添える存在ではなかったようだ。
「リビエラがロジカの喪失を恐れる理由を推測出来ない」
首を傾げ、そう淡泊に返したものだから、リビエラの堪忍袋の緒は遂に切れた。
「わかりやがれってんですのよ、このポンコツ!」
ぱあん! と。青空の下、乾いた音を立てて少女の張り手が炸裂する。リビエラは、
「……ぽんこつ」
ぶたれて赤くなった頬をさすりながら、ロジカはその単語を反芻し、また頭を傾けた。
「成功作ではないという点において、ロジカが『ぽんこつ』である事は認める」
リビエラが聞いていたら、『そうじゃないっつってんですのよ!』と更なる一撃が炸裂しただろうが、少年にはそれも想像が及ばない範囲であった。
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