第6章:彷徨える海域(3)

 漂着したのは、座礁船が複雑にくっつき合って、一つの巨大な建造物を形成しているような場所だった。上手くやれば乗り移ってゆく事は可能そうだが、見るからに床板が腐り、足を置けば簡単に踏み抜いて、その下の水底へ真っ逆さま、の運命を簡単に想像出来る箇所が、あちこちに見受けられる。そこで、メイヴィスが身軽な虎に化身して、通れる道があるかどうか、偵察に出ていった。

 それを待っていると、今更ながら腹が減ってくる。エクリュ達は、まだ水浸しになっていない各々の自室から荷物を引き上げ、厨房で無事な食材を救出して、甲板に再び集まると、システの『温暖律』で身体を温めながら、保存用のショートブレッドをぼりぼりとかじりつつ、メイヴィスの帰りを待った。

 やがて、たん、と軽い足音がして、宙を跳ねる虎の影が月明かりに照らし出される。メイヴィスは甲板に降り立つと、リビエラが差し出した着替え一式をくわえて物陰に隠れ、ごそごそと服を身にまとう気配がした後、皆の元へ戻ってきた。

「何とか、奥へ進めそうな道はあるね」

 エクリュがショートブレッドを一本突き出すと、メイヴィスは「ありがとう」と軽く頭を下げて受け取り、袋を開けながら話を続ける。

「ただ、どうしても濡れずに行く事は出来なさそうだ。途中で少し泳がないといけないかも知れない。それに、周りが暗くて、この先に進んでも、陸地に辿り着ける保証は無いよ」

「だからって、このままここでこうしていたって、助かる方法なんて無いじゃありませんの」

 リビエラが唇を突き出すと、「リビエラに同意する」とロジカがうなずく。

「動く気力体力のある内に移動を開始した方が、切羽詰まって判断力が低下してから足掻くより、危険性が低いと考える」

「その思考は理にかなっていると判じます」

 システも後を引き受けて、「エクリュ」とメイヴィスがこちらを向いた。

「決めるのは君だ。どうする、今すぐここから移動する?」

 何故自分に最終判断を任せるのだろう。エクリュの戸惑いを見取ったのか、リビエラが半眼になって告げた。

「何、訳がわかんないみたいな顔してやがりますの。勇者一行で、勇者がリーダーとしての決定権を持たないで、どうするんですのよ」

 リーダー。その単語に、心臓がぎゅっと締め付けられるような気持ちになる。

 ベルカの奴隷剣闘士だった頃、エクリュはその戦闘能力の突出ぶりから、当然のごとく矢面に立って戦わされた。

『頼むぜ、リーダー』『俺達が生き残れるかどうかは、リーダーの活躍にかかってるんだ』

 奴隷仲間――いや、今思えば、彼らに仲間意識など最初から無かったのかも知れない――は、舌先三寸でエクリュをおだて、形ばかり剣を構えて背中に隠れた。そして運悪くエクリュが討ち漏らした魔物に飛びかかられ、怪我をしたり、命を落としたりした者が出れば、ころりと掌を返した。

『リーダー様が不甲斐無いせいでこんな事になっちまった』『期待して損したぜ』

 エクリュの無意識の魔法による反撃が怖いし、何よりザリッジに殺されかねないので、彼らがエクリュに手を出す事は決して無かったが、ねちねちと嫌味を言い、唾を吐きかけた。

 あの頃に、戻りたくない。思い出したくもない。あの記憶に触れるあらゆるものから遠ざかりたい。

「エクリュ?」

 リビエラが眉をひそめて呼びかける声すら遠く聞こえる。『温暖律』で温まったはずの身体がまた冷え始めて、だのにどっと汗をかく。自分で自分を抱き締めても震えは止まらず、歯の根が合わなくてがちがち言う。舌の上に残ったショートブレッドの欠片にむせこみそうになり、身を屈めた時。

「エクリュ」

 ふっと、温かい手が額に触れ、汗を拭ってくれたかと思うと、頬を辿り、首筋に指を当てて、「深呼吸して」と告げられた。

 言われるままに大きく息を吸い込んで、長くゆっくりと吐き出す。指が触れた箇所の血管がとくん、とくん、と脈打つ感覚がして、次第にその拍が鎮まってゆくのが、自分でもわかる。

「落ち着いた?」

 再び声をかけられたので面を上げれば、橙の瞳が至近距離にあった。メイヴィスは心底案じるような表情で、エクリュの顔をのぞき込んでいる。

「ミサクに教えてもらったやり方。ユージン先生は『医学的根拠なんか一切無いよ』って言ってたけど、効果あった?」

「……ああ」

 ミサクの名前を聞くのは、正直まだ胸がちりりと小さな痛みを覚える。だが、その名を音にする事に、エクリュ以上の痛みを感じているだろうメイヴィスが、自分を心配して、敢えて記憶の底に踏み込んでくれた。その事には、素直に感謝の念が溢れる。

「ありがとう」

 まっすぐに彼の顔を見つめて礼を言うと、メイヴィスは、今更ながらぼっと顔を赤くして、「い、いや、どうも」と手を離し、顔も遠ざけた。

 何故この少年は、いちいちこちらの言う事に、恥じらったり動揺したりするのだろう。わからなくて首を傾げると。

「ああ、エクリュはこの手の事には鈍感でしょうねえ」リビエラが溜息をつき、

「ロジカにも理解不能だが」ロジカが真顔で言い切って、

「人間の行動は時に理にかないません」システも淡々と後を請け負った。

 ともかく、メイヴィスのおかげで気分は落ち着いた。決断を下さなくてはならない。

「移動しよう」

 皆の顔を見回しながら、エクリュは告げる。

「ここでぼーっとしてても、食べ物が尽きる。なら、留まる理由が無い」

「食べ物」リビエラが呆れたように洩らした。「基準はそこなんですの」

「だが、姉上の言う事は正しい。ここでは食料を得られない」

 ロジカがまたも大真面目にうなずくので、「そんな事わかってるってんですのよ」と、リビエラが彼の後頭部を平手で軽くはたいた。

「じゃあ、早速行こうか」

 メイヴィスが荷物を持って腰を浮かせる。

「泳がなくちゃいけない箇所では、荷物だけでも魔法を使って防水出来るかな?」

「『大気律』で空気の泡を作れば可能でしょう」

 彼がシステに問いかけると、彼女は淡々と首肯した。

 少年少女はめいめいに立ち上がり、「こっち」と指差すメイヴィスの後について歩き出す。『燈火律』だけが辺りを照らす暗がりの中、歩みに従ってぎいぎいと床板が軋んだ音を立て、船板に寄せて当たる波が、ぴちゃん、ぴちゃんと小さな音を立てるのが、少々不気味に聞こえた。

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