第4章:誰も世界を救えない(6)

 聖剣『フォルティス』が静かに青い光を放ったその途端、身体の一部を起点として、全身に激痛が走った。埋め込まれた『呪詛律』は、その呪いを即座に発動せしめたのだ。

 踏み出す一歩がひどく重い。柄を握る手が焼けるように熱い。『呪詛律』を身に抱いてから、小さな刃物ひとつすら手にした事は無かったので、どんな反動があるかなど、知る術は無かった。

 だが、まだだ。まだ、倒れる訳にはいかない。限界リミットは心臓が止まるその時まで、と心を定め、ミサクは『フォルティス』をシズナめがけて振り上げる。

 シズナは動じなかった。

「転換」

 ただ一言を紡いだそれだけで、彼女の姿がそこからかき消え、代わりにぎょっとした顔のユホが迫る。振り下ろす勢いは殺せず、聖剣は鋼鉄の魔女の身体を叩き折った。

「ぎゃあああああ!!」

 ユホが白目をむきながらのけぞる。そこまでを見届けたところで、心臓が一際大きく脈打つのを感じる。

 全身から、血を噴き出して。

 ミサクは『フォルティス』を左手に握ったまま、その場に崩れ落ち、意識を手放した。


 エクリュは、そこまでの一連の流れを、唖然として見つめているしか出来なかった。

 母の姿をしたデウス・エクス・マキナが現れて、自分が暴走して、この惨劇をもたらした事は、記憶に焼き付いている。メイヴィスが来てくれなかったら、自分は、リビエラもロジカもミサクも殺していただろう。

 そして今、ミサクは禁じ手にしていた剣を握った事によって、『呪詛律』が発動し、血の海に沈んで微動だにしない。メイヴィスは虎の姿のままでもエクリュを守ってくれたが、打ちどころが悪かったらしく、ぐったりと気絶している。リビエラとロジカも床に倒れ込んでいる。

 このままでは、デウス・エクス・マキナの前に、誰もが死ぬ。まず初めに、ミサクの命が危ない。

「反撃の余地ありと判断」母の声で、母の顔をしたデウス・エクス・マキナが淡々と言い放つ。「殲滅を開始する」

 逃げねば。だが、どうやって。メイヴィスの身体を抱き締めたまま、感じた事の無い恐怖に苛まれて、かたかた震えるエクリュの耳に。

『エクリュ』

 聞き覚えの無い、しかし、ひどく胸を締めつける懐かしさを帯びた、男性の声が、どこからともなく滑り込んだ。

『大丈夫だ、お前なら出来る。自分を信じろ』

 その声が去ると同時に、身の内に新たな魔力が湧いてくるのを感じる。その力を、どう振るえばいいのかも、わかる。

「――『転移律』」

 左手をかざせば、紫の魔法陣が複数出現し、エクリュの味方だけを包み込んで、その場から消えた。

 だから、エクリュは知らない。

 紫の空が晴れてゆく中、残されたデウス・エクス・マキナが平坦な瞳をして惨劇の跡を見渡し、

「……帰還」

 と、やはり『転移律』を用いて、ユホと共にシャンテルクを去った事は。


「エクリュ!?」

 無我夢中で『転移律』を使って、ぐらりと視界が歪んだ後に、耳に飛び込んできたのは、ユージンの驚き声だった。顔を上げれば、琥珀色の瞳が唖然とこちらを見下ろしている。

「ここ……?」

「ここって、うちだよ! どうしたの!? シャンテルクに行ったんじゃなかったのかい!?」

 言われて周囲に視線を巡らせる。洗濯物のなびく見慣れた庭が視界に入って、無意識のうちにこの家を目指していたのだとほっと息をつきかけ、そしてすぐに、それどころではない事を思い出した。

「ミサク、ミサクが!」

 懇願するように切羽詰まったエクリュの剣幕に、ユージンは一瞬怯んだが、エクリュの傍らに視線をやって、すぐに状況を察してくれたようだ。真顔でミサクに取りつき、彼の手に握られた聖剣『フォルティス』を引きはがそうと試みたが、ミサクはあまりにも強い力で聖剣を握り込んでいるらしく、それはかなわない。

「『呪詛律』を摘出する」

 ユージンが、今までに見た事の無い真剣な表情で告げた。

「アタシに出来るかわかんないけど、こいつを救う方法は、それ以外にもう無い」

「ロジカが運ぶのを手伝う」

 母と慕った存在に否定された事で、精神に衝撃を受けているのではないかと思われたロジカが、意外にも一番しっかりしていて、ぐったりと脱力したミサクの身体を引きずりながら、ユージンの指示を受けて彼女の診察室へと運んでゆく。それを呆然と見つめていると。

「エクリュ」

 リビエラが、静かに声をかけてくる。

「今は、ユージン先生に全てをお任せしましょう。わたくし達に出来るのは、ミサク様のご無事を祈って待つ事だけ」

 その声は、震えを伴っている。無力を噛み締めるかのように、彼女は唇を引き結び、それから、虎の姿のまま気絶しっぱなしのメイヴィスに視線を移した。

「とりあえず、メイヴィスを回復させますわ。元に戻ったら服が必要だから、彼の部屋に運んであげて」


 外が暗くなって、三日月が空に昇った。

 エクリュ達は、何時間が過ぎたのかもはっきりとはわからないまま、閉ざされた扉を見つめていた。

 元の姿になって意識も取り戻したメイヴィスは、服を着て、腕組みし壁にもたれかかっている。リビエラは『混合律』の杖を手の中でもてあそび、ユージンに診察室から追い出されたロジカは直立不動。そしてエクリュは、乱れた髪も、血塗れの服もそのままに、『灯火律』がひとつだけ灯る廊下に膝を抱えて座り込んでいた。

 誰もが、食事すら摂らないで、扉が開くのを待っている。ユージンが、ほっとした表情で出てきて笑顔を見せてくれるのを待っている。

 気の遠くなるような時間が流れただろうか。それとも、ほんの少しの経過だったのだろうか。

 がちゃり、と鍵の外れる音がして、扉が開き、手術用の白衣に身を包んだままのユージンが姿を現した。あちこちが、赤い血で汚れている。

「先生」メイヴィスが急くように訊ねる。「ミサクは」

 ユージンはすぐには応えを返さなかった。もどかしいほどの沈黙が流れた後に、彼女は静かに、一振りの剣を差し出した。

 赤く染まった、聖剣『フォルティス』。本来の持ち主を失った剣は、今は輝きを失っている。

 それを見下ろしたメイヴィスが、目を見開き絶句した。のろのろと、ユージンに視線を向ける。彼女は面を伏せ、ゆるゆると首を横に振る。それが、全ての答えだ。

 爆発するように。メイヴィスが言葉にならない叫びをあげる。杖を取り落としてその場にくずおれるリビエラに、ロジカがいつになく戸惑った表情で寄り添う。ユージンの頬を、一筋伝うものがある。

 エクリュは、泣かなかった。泣けなかった。

 自分のせいで、取り返しのつかない事になってしまった。全ては自分が招いた事態だ。それに対して、自分が声をあげて泣く事は許されない気がして、唇を引き結び、瞬きすらせず、主の無い聖剣『フォルティス』を見つめていた。

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