第4章:誰も世界を救えない(5)

 地獄絵図、とはこういう事を言うのか。

 屋上に辿り着いたミサクが目にした光景は、それほどまでに悲惨なものだった。さっきまで平穏の中にあった、ベンチや広場の木馬が燃えている。屋台は爆発して、恐らくそこにいた人間も炎にまかれて死んだだろう。

 暗い空の下、黒煙が目を刺す中、エクリュの姿を求めて視線を巡らせれば、姪は、残してきたベンチからほど近い場所にいた。

「エクリュ!」

 声を張り上げれば、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その髪は『彩色律』が解除されて紫に戻っており、まとめていたリボンも解けて、たてがみのように揺れている。買ったばかりの服は真っ赤に染まり、足元に、人としての原形をとどめていない血だまりが広がっている。

 そして、その瞳は今、碧ではなく紫に光り、同じ色の炎を全身にまとって、まるで魔王そのもののような様相を呈していた。

 魔法を使えないミサクでもわかる。これは、エクリュがもたらした惨状だ。だが、何故突然、こんな暴走を彼女がしたのか。炎の中、姪に近づこうとしたミサクの視界に、ふっと、金色の輝きが横切って、彼は一度逸らした視線を再度そちらに戻し、瞠目する羽目になった。

 まさか。彼女がここにいるはずが無い。この姿で、生きているはずが無い。頭は冷静にそう判断するが、感情は正直で、心臓がばくばくと逸る。

「……シズナ」

 呆然と名を呼べば、エクリュの傍らに立ち、平坦な態度でその様子を見つめていた碧の瞳が、こちらを向いた。見間違えるはずが無い。十七年、脳裏から少しも霞む事の無かった顔だ。

「シズナ。僕だ、ミサクだ。わからないか」

 まるで知らない他人を見つめるかのごとき目を向ける彼女に、よろめくように歩み寄りながら、ミサクは訴える。

「……ミサク」彼女の声が、やはり淡々とこちらを呼ぶ。

「この身体の記憶データベースに照会」

 もしミサクが、普段の冷静さを保っていたら、この時点で、いやそれ以前から、全てが異常事態である事に気づいて、武器を抜いていただろう。だが、誰よりも大切な女性の姿を十七年ぶりに目の当たりにした衝撃は、彼をして動揺の渦に叩き落とし、思考を奪っていたのだ。

「照会完了。該当する人物への対応を抽出」

 意味のわからない言葉を発し終えた彼女が、不意に微笑む。それは昔、彼女が見せてくれた笑み方と全く同じだ。

「ミサク、久しぶりね」

 彼女が名前を呼んでくれた。魔王城で別れてそれきりだったあの日と、少しも変わらない声だ。

「エクリュを助けてくれて、ありがとう」

 炎の中、彼女は熱さなど微塵も感じていない様子で歩み寄ってくる。あと一歩を踏み出せば抱き締められる距離で、彼女は笑顔のまま、こちらを見上げる。

「でも、もういいのよ」

 衝動のまま、彼女をかき抱きたいと伸ばした左腕は、彼女から一歩を踏み込んできた事で、中途に止まった。同時に訪れた衝撃と共に。

 かつて彼女が手にしていた、聖剣『フォルティス』。それが紫に光って、自分の胸に突き立てられている。気づいた瞬間に痛みが全身を支配し、口の中に血がこみ上げて溢れ出す。

「貴方の役目は、もうおしまい。終わりにして、いいの」

 ずるりと、刃が引き抜かれる。力が抜ける。立っている事がかなわなくなって、ミサクはその場に膝をついて倒れ込み、強く頭を打った。

「あっはははははははァ!!」

 ひどい耳鳴りの中、シズナのものではない甲高い笑い声が響き渡る。狂気すら帯びたその声に、しかし聞き覚えがあって、ミサクは激痛に耐えながら顔を上げた。

「特務騎士様が、大したざまだねえ!?」

 他者を見下す態度は、あの頃と同じだ。だが、その姿が違う。魔族ながらも他人を魅了する為に生まれた性質そのままに、妖艶な雰囲気を帯びていた身体の面影は無く、鋼鉄の鎧のような体躯の上に、服だけは当時のままの赤い露出度の高いものをまとい、頭から顔の半分も、仮面のごとき金属で覆われて、残された右の金色の瞳が、嘲りを込めて見下ろしている。たしか、名前は。

「ユホ……!」

「気安く呼ぶんじゃあないよ、アナスタシアの残党ごときが」

 血と共にその名を吐き出せば、魔族――ユホは焼けただれた顔を憎々しげに歪めて、金属の爪先でミサクの顔を蹴り飛ばした。見た目以上の重量があるようで、脳が揺さぶられる。

「何故……」

「何故? 何故、何故、何故?」

 たしかにあの日、自分は彼女の脳天に三発、撃ち込んだ。何故生きているのか。声を絞り出すと、ユホはきょとんと目をみはった後に、にたりと唇をめくりあげて、くるくる、くるくる、その場で回転し始めた。

「魔族の生命力をなめるんじゃあないよ、人間。機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナのおかげで、あたしは生き永らえた」

 そうして、ぴたりと回転を止め、聖剣を握ってその場に立ち尽くす、シズナを指し示す。

「世界を救えなかった勇者様の身体を依代にして、現存する神として地上に降り立った、デウス・エクス・マキナのおかげでねェ!!」

 剣で胸を貫かれた時よりも、ユホに顔を蹴られた時よりも、重たい衝撃がミサクの脳を殴りつけた。

 わかっていたはずだ。シズナが帰ってこなくて、デウス・エクス・マキナの名が大陸に轟いた時点で、彼女が神を倒すのに失敗した事は。だがまさか、彼女自身がデウス・エクス・マキナに乗っ取られているとまでは、考えが回らなかった。いや、各地で神の名の下に蛮族に天罰を下す少女の噂を聞いた時点で、潔く認めておくべきだったのだ。

「ミサク様! エクリュ!」

 リビエラの声が聴こえる。ロジカも一緒だろう。それが証拠に、

「……母上」

 と呆然と呟く少年の声が、炎に混じって聞こえたのだから。やはり薄々わかってはいたが、ロジカはデウス・エクス・マキナに造られた存在なのだろう。ならば、シズナの姿を取っているデウス・エクス・マキナを母と呼び、その子供であるエクリュを姉と慕うのにも、納得がゆく。

「ロジカ」

 シズナがロジカの名を呼ぶ。子を慈しむような優しい声で、しかし彼女は残酷に言い放った。

「貴方はもう要らない子。親の言いつけも守れないような役立たずは、帰ってこなくていいの」

 ロジカが絶句する気配がした。世界の全てである創造主から要らぬと宣告された子は、いかほどの絶望にとらわれるだろうか。かつて親元から無理矢理引き離された時、

『お前は、お前の姉が万一死んだ時の為の保険だ。生かしも殺しもしない』

 と、物を見るような目で見下ろしていた、性根の腐った老王の顔が、今更脳裏に浮かぶ。

「そういう訳で」

 調子っぱずれな高さの声で、ユホが嗤う。

「お前ら全員用済み。ここでくたばりな。エクリュだけはもらってゆくよ」

 その言葉に応えるかのように、虚ろな瞳をしたエクリュが右手をかざした。紫の炎がそこに集中してゆく。今それを放たれたら、放心しているロジカに、『障壁律』は完全には修得していないリビエラ、そしてまともに動けないミサクは、一瞬で灰塵に帰すだろう。何とかならないか、痛みに支配される中、必死に考えを巡らせたその時、獣の咆哮が場に飛び込んできた。

 幻聴ではなかった。視線を向ければ、たてがみを持つ虎が、炎にも煙にも怯まず、朝焼け色の瞳をより赤く輝かせ、まっすぐにエクリュめがけて飛びかかってゆく。そして、決して腕を噛み千切らない程度に牙を立てた。

「痛っ!!」エクリュが悲鳴をあげて暴れるが、虎はくわえた腕を離さないまま、彼女を引き倒す。すると、にわかには信じがたい事が起きた。

「メイヴィス! 痛い! 痛……っ!」

 エクリュが少年の名を呼ぶ。そこに正気はある。彼女を取り巻いていた炎が消えてゆく。

「ハァ!?」

 ユホがあっけに取られたように間の抜けた声を放ち、シズナ――いや、デウス・エクス・マキナの瞳に、興味深そうな色が宿った。

「……メイヴィス」

 碧の瞳に戻ったエクリュが、身を起こして目の前の虎をぽかんと見つめる。虎はそっと牙を放し、少し血のにじんだ少女の腕を、優しく舌で拭ってやった。エクリュはそれから周囲を見渡し、愕然とする。

「あた、あたし、は」

 この惨状をもたらした者が誰であるか、彼女は気づいただろう。両手を見つめて震える彼女に、虎はそっと寄り添い、エクリュも、温もりを確かめるかのように、その首にしっかりと腕を回してもたれかかった。

 だが。

「暗示の解除。その原因を興味の対象と判断」

 シズナの声がしたかと思うと、ごう、と烈風が吹き荒れた。風は更なる炎を呼び、熱がじりじりと身を焼く。デウス・エクス・マキナの至近距離にいたエクリュとメイヴィスが一緒に吹き飛ばされ、床に叩きつけられる。一緒に巻き込まれたユホが「ぎひいいいい!!」と変な悲鳴を出していたのに気を払う余裕は無かった。

「危機が及ぶ時、人間は通常以上の力を出すものと推測。再試行する」

 紫に輝く聖剣『フォルティス』を手にしたシズナが、痛みに動けないだろうエクリュとメイヴィスのもとへ近づいてゆく。デウス・エクス・マキナに支配された今の彼女は、迷い無く自分の娘に聖剣を振り下ろすに違いない。

 それだけは、止めなければいけない。十七年前、彼女を守り切れなかった分まで、これ以上、彼女に罪を重ねさせる訳にはいかない。

 這いずるように身を起こす。血は流れ出し、全身が悲鳴をあげているが、まだ動け、と叱咤して立ち上がる。生命力の全てを燃やし尽くしても構わないとばかりに、床を蹴って駆け出す。

「シズナ!!」

 怒鳴るように名を呼べば、彼女が胡乱げに振り返る。心の中で詫びながら銃を抜き、その腕目がけて一撃を放つ。『加速律』で威力を強化された銃弾は、彼女の手から武器を弾いて、持ち主を失くした聖剣はくるくると宙を舞う。


 落ちてくるそれの柄を。

 残された左手で。

 ミサクは、握り締めた。

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