第4章:誰も世界を救えない(4)

 ずず、ずずっと。カップの中身が空になった音がする。

『ごみはごみ箱に! これ常識! ですわ!!』

 この十日間ほどでリビエラに叩き込まれた世間の常識に則り、これはしかるべき場所に捨てるのが正しいだろうと、こうべをめぐらせる。ごみ箱は、ベンチからほど近い場所に設置されていた。

 すたすたと近づき、空のカップを放り込んだ時、誰かのすすり泣く声が聞こえて、エクリュはそちらを向いた。青いワンピースを着た、エクリュの半分ほどの背丈しか無い幼女が、すんすんと泣いている。

「どうした?」

 彼女の前まで行って、顔を覗き込むと、幼女はいきなり話しかけられた事に驚いたのか、びくっと肩をすくめた後、のろのろとエクリュを見上げ、泣きはらした赤い目をしたまま、「ふうせん」と一点を指差す。その指先を追えば、白い風船が、近くの柱に引っかかってふわふわ揺れているのが目に入った。恐らく、熊の着ぐるみが配っていた風船をもらってはしゃいでいたところ、うっかり手放してしまったのだろう。

「待ってろ」

 エクリュは幼女の頭をぽんぽんと軽く叩くと、振り返るや否や助走をつけて床を蹴り、たあん、と、木の板を叩くような音と共に『跳躍律』を発動させ、普通の人間より遙かに高く飛び跳ねて、見事風船を手に取り、着地した。

「ほら」

 驚きのあまり目を真ん丸くする幼女に、風船を差し出す。だが、彼女はやがてこわごわながらも手を伸ばし、「ありがとう、おねえちゃん」とはにかみながら、風船を受け取った。

 成程、『ありがとう』と言われるのは、嬉しいけれど、何となくくすぐったい。リビエラがお礼を言われるとすぐに照れる理由を知った気がして、エクリュも破顔した時。


 きん、と。


 突然、頭を太い針で刺すような、痛いほどの強烈な気配を感じて、エクリュは頭をおさえながらも、気配の方向を振り返り、そして、硬直した。

 ついさっきまで誰もいなかった背後十歩ほどの位置に、女性が立っていた。いや、女性と呼ぶには若すぎる。エクリュとそう歳も背丈も変わらないだろう。肩の位置より短い黄金色の髪が、にわかに吹き始めた風になびいている。

 頭が痛い。全身の血管がちりちりする。息が苦しい。どっと、嫌な汗が噴き出して、こめかみを、背中を、伝ってゆく。目の前の少女からは、殺意も敵意も感じない。だが、コロシアムで敵に対峙した時にも感じなかった、異様なまでのこの威圧感プレッシャーは何だ。

 エクリュが困惑している間に、少女が伏せがちだった顔を上げた。その面を見て、驚きは更に高まる。

 春の海のごとき碧の瞳。端正な顔立ち。それは、まるで鏡で見た自分のようだ。そんなはずは無い、と思いながらも、一つの確率を、唇が弾き出す。

「……かあさん?」

 彼女はすぐには答えなかった。何ら感情の乗らない顔で、エクリュをまじまじと見つめている。

 だが、ある瞬間に、彼女の唇が上弦の弧を描くと、

「――エクリュ」

 と、エクリュより少しだけ高い声がその薄い唇から発せられた。

 ただそれだけなのに、動けなくなる。まるで自分の名前が、枷となって絡みついてくるようだ。意志とは関係無く身体が震え出す。

 そんなエクリュのもとに、少女が歩み寄ってきて、頬に手を添える。

「子は、親のもとに。神の子は、神のもとに」

 その瞬間、エクリュの脳内に、自分のものではない記憶が、すさまじい勢いで流れ込んできた。赤ん坊の泣き声。慟哭の叫び。咲き誇る血の花。下劣な笑みに対する恐怖。裏切りへの怒り。もう動かない、紫髪の誰か。生と死、喪失、絶望。そういったものがエクリュを支配する。

「目覚めよ、魔王の子。そして、神のもとへ」

 蠱惑的に響く声が、身体の奥底に眠っていた獰猛な何者かを、激しく揺さぶる。それがエクリュの意志を超えて、表出しようと這い出てくる。

「――あああああっ!!」

 痛みを増す頭を抱え、目を見開いて、エクリュは天を仰ぐ。

 直後、ぱん、と破裂音が屋上に響いて、べっとりと赤い何かがへばりついた、元は白い風船が、寄る辺を失くして空へ浮かんでゆく。その空が、あっという間に紫に染まってゆく。

 そうして。

 轟音、激震と共に、シャンテルクの屋上は炎に包まれた。


 ずん、と。

 突き上げるような揺れに、魔律晶店に陳列してあった様々な商品が転げ落ち、人々が悲鳴をあげて慌てる。

「地震!?」

 リビエラが思わずロジカの肩にすがりつくと、「いや」と少年は首を横に振り、紫の目を細めた。

「非常に強い魔力を察知。敵襲と判断する」

「敵襲って、まさか貴方が呼びやがったんじゃないでしょうね」

「今のロジカに、同胞に連絡するだけの知識と力は無い」

 半眼で睨みつけても、ロジカは淡々と返すばかり。そうだ、この数日間共にいて、この少年に、何か事を起こすだけの実力が無くなったのは、よくわかっている。

 ここで、信用を見極めるべきなのだろう。リビエラは決意する。

「敵襲なら、きっとエクリュ達が危険ですわ。一緒に来ますわよね?」

「ロジカは姉上の助けになりたいと願う」

 リビエラの言葉に、ロジカは手に入れたばかりの『混合律』を握り締めて、神妙な顔で深くうなずく。今は、この表情を信じるしかない。

「行きますわよ!」

「了解した」

 少年少女は店を飛び出し、上層への道を駆けた。


 調整を終えた銃を受け取っている最中に訪れた揺れに、ミサクは表情を険しくした。この衝撃は屋上からだ。

 エクリュに何かあったのか。いくら安全な街の中だからといって、やはり一瞬でも一人にすべきではなかった。己の失態に舌打ちする。

「隊長」

 カウンター上の自分の得物をひったくるように手にし、即座に踵を返そうとしたところで、ギルに呼び止められた。

「お節介とは思いましたが、『静音律』と一緒に、『加速律』をつけておきました」

 言われて銃をあらためる。青色の『静音律』と並列して、緑の魔律晶が取り付けられている。『加速律』を銃に装着すれば、一発の速度を上げ、ひいては威力を上げる事が可能だろう。

「ありがとう」

「お安い御用ですよ」

 礼を述べれば、元部下は隻眼を細める。

「俺はこんな身体ですから、ここまでしか出来ないのが心苦しいですが、どうか、ご武運を」

「ああ」

 彼の気遣いに感謝し、姪の無事を祈りながら、ミサクは店を飛び出した。


「――ッ!」

 揺れと同時に突然訪れた強い胸の痛みに、メイヴィスは顔をしかめ、その場にうずくまった。買い物袋から、野菜や果物、チーズに、エクリュに約束したラム肉までもが床に転がって、周囲から胡乱げな視線を浴びるが、それを気にする余裕も無い。

 ぜえぜえと、喘ぐような呼吸を繰り返す。

『化身律』は、彼に虎へ変化する能力を与えただけではない。他人や世界に遍在する魔力を感知する力をもたらしたのだ。そしてその力は、受け取る魔力が強ければ強いほど、より大きな反動となって『化身律』に響く。

 この強さは未知の力だ。だが、その中に僅かに漂う、この数日間で身近になった気配を感じる。

「エクリュ……?」

 答えは無い。この場にいない人間の応えが返るはずが無い。だがそれでも、助けを求める彼女の声を聞いた気がして、メイヴィスは歯を食いしばり、顔を上げた。

 彼女を救わねばならない。そうでなくては、彼女に作ったごはんを「美味しい」と言ってもらえる時が二度と訪れないと、『化身律』は告げている。

 行かねば。その一念で、心臓を打つ激痛を駆逐する。震える膝を叱咤して立ち上がると、まだ続く揺れに不安そうに囁き交わす人目を避けて、物陰に身を隠す。数秒後、立派な体躯を持つ虎が少年の代わりに飛び出し、いきなりの猛獣の出現に驚きの声をあげる人々の間を縫って、駆けていった。

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