第5章:理性の秩序《システ》(1)

 三日月は憎い。空から地上の人間を矮小なものと嘲笑っているように見えるから。両親が死んだ日の事を思い出すから。

 そして、またひとつ、忌まわしい思い出が加わった。

 ベッドに腰掛け、睨むように窓の外の月を見つめて、どれだけの時間が過ぎただろうか。静かに部屋の扉を叩く音があって、リビエラははっと視線をそちらへ向けた。

「エクリュ?」

 さんざん血を浴びた彼女は、汚れを落とす為に風呂へ行っている。戻ってきたのだろうか。いや、エクリュならばわざわざ自室の扉を叩いたりはしない。というか、彼女はどこに行ってもノックなどせずにずかずかと部屋に踏み込むだろう。リビエラが怪訝に思っている間に扉は開かれ、薄緑の髪が室内のランプの灯に照らされて、少しだけ赤く染まった。

「……何しにきやがりましたの」

 理屈理屈うるさい割には、夜更けに女性の部屋を訪ねるなど、無礼千万だ。胡乱げに見すえたが、相手――ロジカは怯む様子も見せず、平然と室内に入ってきて、手にしていた盆に載った二つのカップのうち一つを、リビエラに差し出した。

「気が昂っている時には、温かいミルクを飲むと落ち着く、というのは、過去から積み重ねられた家庭の知恵だという。今のリビエラに必要だと思い、メイヴィスに頼んだ」

 思わずきょとんと目をみはってしまう。彼なりに気を遣ってくれた、という事だろうか。

「それはご丁寧に、どうも」

 両手を伸ばし、カップを受け取る。メイヴィスはミルクを温める腕前もさるもので、カップから伝わるじんわりとした熱が、冷えた指先を温めてくれるが、その表面に乳製品を加熱すると張られる膜は一切無い。普段ならば、この程度の事も自分は出来ない、という劣等感コンプレックスが刺激されるが、今は温かい飲み物が素直にありがたかった。

 ふうふう冷ましつつ口をつけようとして、リビエラは訪問者の存在を思い出す。ロジカはもう一つのカップを載せた盆を持ったまま、唇を引き結んで直立している。真正面から見つめられたままで、非常に居心地が悪い。

「貴方も飲んだらどうですの」

 半眼になって告げると、意外だったのか、ロジカは紫の瞳を軽い驚きにみはった。

「ロジカは姉上とリビエラの分を受け取ってきた。ロジカにこれを飲む権利は無いと判断する」

「エクリュなんて、放っとけば勝手にメイヴィスのところへ行きますわよ。『何かくれ』って」

 相変わらずの理屈屋だ。だが、これをいなす方法も大分覚えた。事実で返せば、この少年は割と簡単に納得するのだ。

「ほら、突っ立ってないで、ここにかけなさいな。わたくしが許可します」

 自分の隣をぽんぽんと片手で叩く。同じベッドに隣同士で並んでも、彼はリビエラを襲ったりしないだろう。それこそ「必要性を見出せない」などとのたまって。女性として意識されないのは少々癪だが、万一ロジカが自分を押し倒そうとするような事態になれば、『混合律』の杖で思い切りぶん殴る事に躊躇は無い。

 そしてリビエラの思った通り、少年は素直に従った。盆をサイドテーブルに置き、カップだけを持って、「失礼する」とリビエラの隣に静かに座る。ミルクに息を吹きかけて少しずつ冷ましながら、ちまちまと飲む。それを横目で見やりながら、リビエラも温かい液体を口に含んだ。たちまち、口内にまろやかな甘味が広がる。メイヴィスはホットミルクを作る時、砂糖を少しだけ加えるのだ。心身共に疲弊した今は、その甘さがいつも以上に沁みるようだった。

 しばし、ランプの火がちりちりと燃える音だけが聞こえる、沈黙の時間が落ちる。リビエラは中身が半分になったカップをふっと膝の上に下ろし、揺れる表面を見つめながら一、二回躊躇って、口を開いた。

「……思い出しますの」

 ロジカがカップから口を離してこちらを向く気配がする。彼の顔を見ないまま、リビエラは続けた。

「両親が死んだ時の事を」

 リビエラの実家は、アナスタシアの地方領主だった。地位はさほど高くなく、領地も狭かったが、当主である祖父は領民の良き暮らしの為に心を砕き、両親も気さくに民の間に降りていって、積極的な交流をはかる事で、皆に慕われていた。

「あのクソババアのせいで、全部、全部無くなりましたわ」

 幸せな暮らしが変転したのは、祖父が肺の病でこの世を去った後だった。数十年前に使用人の男と不義を為して行方をくらませていた、祖母が戻ってきたのである。彼女は当たり前のように祖父の相続権を主張して遺産を受け取ったかと思うと、ごろつきに等しい護衛を領主の館に出入りさせて、我が物顔で統治に口出しを始めた。リビエラはまだ幼かったが、館の中がぴりぴりと張り詰めた環境に変わった事だけは、はっきりとわかった。

 そして、三日月が空に笑う夜だった。少しだけ遠出をした両親を待つリビエラの元に、悲痛な面持ちをした世話役がやってきて、告げたのだ。

『旦那様と奥様が亡くなられました』

 帰り道、馬車を盗賊に襲われたのだという。

 棺桶に入って帰ってきた両親の顔を見る事は出来なかった。『お嬢様には惨すぎます』と、世話役に止められたのだ。

 葬儀の日、喪主を務めた祖母は、あたかも最愛の夫に続いて息子夫婦を失った悲劇の未亡人を装いながらも、悼みの口上を述べるその唇は、三日月のように嬉しそうに持ち上がっていた。

「お母様が聞かせてくれた御伽話に出てくる、悪魔のようだと思いましたわよ」

 ぎり、と歯ぎしりして、カップを持つ手に力を込める。温まったはずの指先が再び冷えてゆくのを自覚しながら、リビエラは己の過去を吐露し続けた。

 両親の葬儀の後、父の遺言だとして、祖母が遺言書を持ち出した。曰く、領地の統治権、所有する財産の全てを、誰よりも愛する母に託すと。勿論彼女が偽造した真っ赤な偽物だと、今ならわかる。両親を襲った盗賊さえ、祖母が雇った輩に違い無かった。だが、当時のリビエラには、反論するだけの言葉も味方も足りなかった。全ては強欲で卑怯極まり無い女狐の物となり、明らかに邪魔者だった自分は、『健やかな成長の為』という呆れるような建前の元、修道院を兼ねた孤児院に入れられたのだ。

「……まあ、あのまま家にいたら、その内わたくしも殺されていたでしょうから、あのクソババアと別れられてせいせいしましたけど」

 それでも。と、少女は洩らして、唇をきゅっと噛む。

「それでも、やっぱり悔しかったですわよ。お祖父じい様や、お父様やお母様との思い出が詰まった場所を、全部横からかっさらわれたのですから。孤児院で魔法を習ったのも、最初は、いつかあの女に復讐する術を身につけたかったからですわ」

 隣の少年からの反応は無い。いや、話の続きを待っているのだろう。聞いてくれる相手がいる事に感謝しながら、「でも」とリビエラは言葉を紡いだ。

「孤児院で一番お世話になった先生は、絶対にわたくしに攻撃魔法を教えませんでしたわ。『不当な手段に暴力という不当な手段を返せば、また別の不当な手段が貴女の命を奪います』って」

 復讐に燃えるその時の少女には、恩師の言葉は心に響かなかった。だが、今なら理解出来る。奪われたから、と力ずくで奪い返せば、また誰かが横から欲を出し、奪い合いの連鎖が起きる。その虚しさを、彼女はリビエラに説きたかったのだろう。

 結局、故郷は後に蛮族の侵攻を受け、領主の館は火を放たれて、そこにいた人間は一人残らず逃げる事もかなわないまま惨殺されたと伝え聞いた。あの女が死んだ、とわかっただけでも、幾分か報われた気分になった。

「だけど、その先生も二年前に亡くなって。そこにデウス・エクス・マキナの信奉者が新しい世話役としてやってきて、『信仰律』をつけて真の神を崇めれば救われる、ってぬかしやがりましたの。先生が生きていらしたら、何が何でも止めたでしょうに」

 優しい恩師を失って悲しみに暮れる子供達は、甘い誘いに簡単に寄り添った。紫の『信仰律』を額に埋め込まれ、陶酔したようにへらりと笑う友人達を見て、リビエラは恐怖に駆られ、恩師がくれた『混合律』の杖だけを持って、孤児院を飛び出した。

「あても無く逃げて、逃げて。どこともわからない街の路地裏で死にかけていたところを、ミサク様に救っていただきましたわ」

『俺達はいつかデウス・エクス・マキナを打倒する。その為の戦力として君を利用する。それでもいいなら、ついてこい』

 彼は余計な憐憫の情も挟まず、青い瞳でリビエラを見下ろし、まっすぐに本音を投げつけてきた。だがその率直さがかえって、彼を信用しようという気にさせてくれた。この人は嘘をつかない。祖母のように、偽りの笑顔など浮かべない。差し伸べられた左手を、迷わず握り締めた。

 だが、その手を握る事はもう出来ない。もう、この世に存在しない。

「全部、奪われましたわ。デウス・エクス・マキナに」

 ぽたり、ぽたり、と、水分がミルクに落ちる。自分の涙だと気づくには、少し時間が必要だった。そして気づいてしまえば、溢れるものは後から後から続いて、止まってはくれない。

 声を殺してしゃくりあげるリビエラの髪に、そっと絡む指があった。頭が引き寄せられ、隣の少年の肩にもたれかかる形になる。

「……何ですの」

「人間の男性は、泣いている女性を慰める時にこうする、と学んだ記憶が蘇った」

 淡々と返される言葉に、思わず涙は引っ込んだ。一体この少年は本当に、どこでどういう学習をしたのか、疑問に思う瞬間だ。

「……馬鹿じゃねえの、ってんですのよ」

 薄く笑って目を閉じれば、また頬を熱いものが伝い落ちる。

 三日月が雲に隠れる。ミルクが冷めるまで、少女は少年の肩に頭を預け、少年は無言で少女の髪を梳き続けた。

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