第2章:『信仰律』の支配(5)

 空になった食器の上を煙草の煙が揺蕩う。

 エクリュを診て以降、診察室にこもりきりだったユージンの元へミサクが食事を持ってゆくと、彼女は凄まじい勢いでそれをかき込んだ後、煙草をふかしながら画面に見入りっぱなしになった。医者の不養生、と思いながら、ミサクも一本をくわえ、火種を求めて辺りを見回したが、見つからない。それに気づいたユージンがつとこちらを向き、「ん」と煙草をくわえた口を突き出したので、ミサクも顔を近づけ、火を移す。彼の煙草が小さな音を立てて燃え始めたところで、ユージンは画面に向き直り、しみじみと洩らした。

「すごいね」

 この画面にどういう結果が出ているか。機械に疎いミサクに読み取る事は出来ないので、彼女の言葉の続きを待つ。

「ちょっと痩せてる以外は、どこからどう見ても健康体。何年も幽閉されてたとは思えない。これって魔王の血?」

 ユージンは煙草を口に挟んだまま器用にまくし立てるが、不意に真顔になると、「ただ……」と言い澱んだ。

「何でもいい。言ってくれ」

 魔族でありながら一族から離れ、過去の機械文明の遺産を自己流で使いこなしながら、人間も魔族も問わずに診療し、死に至る病でも遠慮会釈無く患者に告知する『変人医師』が言葉を濁すとは、ミサクが薄々予想していた事が当たっているのだろう。促せば、ユージンは溜息と共に告げた。

「やっぱり、はらをいじられてるね」

 やはり、とミサクは天井を仰いで長く紫煙を吐く。エクリュは、次代の勇者を遺せない身体にされていたのだ。間違い無くザリッジが、戦士として戦えない期間が無いように、医師を雇ってやったのだろう。もう二、三発撃ち込んでおいてやれば良かった、と怒りが湧く。

「あんたのせいじゃあないよ」

 不意に肩に手を置かれ、ミサクの意識はこの場に立ち返る。琥珀色の瞳が、いたわりを込めてこちらを見つめていた。

『あんたのせいじゃあないよ』

 同じ言葉を、かつても言われた。

 十七年前、魔王城を脱出した後、噂を頼りに彼女を訪ね、失われた片腕を診てもらった。それが縁で、メイヴィスの母親の出産も任せ、その後も何くれと面倒を見てもらった。

 そして、『化身律』を制御できなかった幼いメイヴィスが、初めて化身して、母親の喉笛を引き裂いた時、反射でメイヴィスを撃ってしまい、血塗れの子供を抱きながら、何とかしてくれ、と彼女のところへ駆け込んだ。

 彼女は淡々とメイヴィスの身体から銃弾を取り去り、命に別状が無い事を告げると、母親の遺体を埋葬し、半ば以上呆けてしまっていたミサクに、やはり琥珀の瞳をまっすぐに向けて、言ったのである。

『あんたのせいじゃあないよ。この世には、アタシらの力じゃあどうしようもない因果がある』

 まだ二十歳にもなっていなかった若造の心に、見た目より年齢を重ねている魔族の言葉は、その時は響かなかった。シズナも、エクリュも、メイヴィスの母親も。自分は誰も救えなかった。その絶望感が、ミサクの心を支配した。

 見かねたユージンに、「一緒に暮らそう」と言われ、メイヴィスと三人での同居生活が始まったのは、それからすぐだった。精神的にも不安定だった事を見抜かれていたのだろう。彼女に身も心も支えてもらっていなかったならば、自分はいつかメイヴィスを本当に殺してしまって、己のこめかみも撃ち抜いていたかも知れない。

 彼女の存在と、誰よりも愛しい女性の忘れ形見を見つけ出すという使命感。それだけが、ミサクをこの世界に繋ぎ止めた。

 そして、その使命を果たした今、神を倒すなどという無謀な計画は捨て、皆でデウス・エクス・マキナの支配が届かない外の大陸へ渡って、全てを忘れて穏やかに暮らすのが、最良の選択なのかも知れない。

 だが、心残りがあるのだ。

 シズナを、見つけたい。

 あの日戻らなかった彼女の遺体は、唯一王都の上に墜ちたままそびえる魔王城の中に、取り残されているかも知れない。彼女とアルダを見つけ出し、せめて形見の一つでも持ち出して、隣同士の墓に眠らせてやりたい。

 魔王城の周りには、魔物や、デウス・エクス・マキナの下僕がうろついて、迂闊に近づく事がかなわなかった。しかし、エクリュを取り戻した今なら、彼女の力を借りれば、その壁を打ち破る事も可能かも知れない。

 結局自分も、エクリュを利用するのか。彼女の能力を楽しむ為だけに使っていたベルカの人間達を責められない、と、またひとつ、煙を吐いた時。

 ふと、この家に近づく何者かの気配を感じ取って、ミサクは咄嗟に煙草を灰皿に押しつけた。

「何人だ」

「五ってとこだね」

 魔族のユージンはこの手合いの気に更に聡い。訊ねれば、こちらを向いて目を細める。

 ミサクの左手が、ホルスターから銃を抜き放った。


 温かい布団に入った途端にすうっと寝落ちていた意識が、即座に覚醒し、跳ね起きた。奴隷剣闘士としての生活は、異変を敏感に感じ取る力をエクリュに身につけさせていたのだ。

 何者かが、この家に近づいている。それも一人や二人ではない。

 隣で眠るリビエラを見やる。『ともだち』の仲としては、彼女も起こして注意喚起をすべきか。逡巡していると、ふっと寝息が途切れ、少女はゆるゆると目を覚ました。

「……何かありまして?」

「近づいてる奴らがいる」

 まだしょぼしょぼしている目をこすりながらも身を起こすリビエラに告げれば、彼女はすっと緑の目を細めて、掛け布団をはいだ。エクリュも飛び出すようにベッドから降りる。

 寝間着のままだが致し方ない。武器は無いから、体術と自前の魔法で戦うしか無いだろう。こきぽき拳を鳴らせば、リビエラがベッドの脇に立てかけてあった杖を手に取った。何の装飾もない金属製の杖だが、先端に虹色の鉱石のようなものが取り付けられている。

「『混合律』の杖ですわ」

 じいっと見つめていると、リビエラは得意気に微笑んで、杖を手元でくるりと回転させてみせた。

「どうせ貴女は、攻撃ばかり覚えて、回復や補助なんておろそかにしていたのでしょう? 背中は守りますから、思う存分暴れなさいな」

 そう言うが早いか、りん、と鈴が鳴るような音と共に、魔律晶が碧の光を放ち、光はエクリュの身に吸い込まれる。途端、身が軽くなる感覚が訪れ、いつもより速く、強く拳を繰り出せるような気概が体内に満ちた。

「『勇猛律』を貴女にかけましてよ。これで戦いやすくなるでしょう」

「成程」

 ぶんぶんと、軽くなった拳を宙に振り回す。コロシアムでは、生き残る為に、直接敵を叩きのめせる攻撃魔法しか使ってこなかった。魔法にはこんな使い方もあるのか。エクリュは感心した後で、

「ありがとう、リビエラ」

 ふっと笑みを向けると、部屋の窓を勢いよく開け放ち、窓枠に足をかけて、身を躍らせた。

「ちょっと、貴女正気!? ここは三階でしょうに!」

 リビエラの焦りきった声を背中に浴びながら、エクリュは猫のように軽い足音だけで、何事も無く地面に降り立つ。元々の身体能力に加えて、『勇猛律』で高まった敏捷性が、凡人を超えた力を自分に与えてくれているのが、身に染みてわかった。

 闇の中をも見通す事の出来る碧の瞳で、先方を見すえる。すると、ゆらゆらと身体を左右に揺らしながら、緩慢な動きで近づいてくる一団が視界に映った。夜に溶ける黒ローブは、昼間、町の広場で神の像に延々と祈りを捧げていた連中と同じだ。

「魔王の、御子」

「魔王の子を、我らが神の、もとへ」

 エクリュの聴覚は、あー、とか、うー、とばかりの呻き声の合間に、うわごとのように彼らが繰り返す言葉を、耳聡く拾い上げた。そしてそれが誰を指しているかを、即座に理解する。

 狙われているのは、自分だ。そこにリビエラ達他人を巻き込む訳にはいかない。エクリュが咄嗟に地面に両手をつくと、どん、どん、どん、と、太鼓を叩くかのごとき音と共に地面が隆起して、鋭い土の槍となって、近づいてくる一団目がけて飛びかかった。

 だが、それまでゆるゆると歩んでいた敵は、ここに来て意外な動きを見せた。フードの下の額が怪しい紫に光ったかと思うと、緩慢な動作が嘘のように、ぱっと左右に散開して地槍をかわし、両側からエクリュに襲いかかってきたのである。

 右から飛びかかってくる青年の振りかざす短剣を受け流し、鳩尾に膝蹴りを一発。身体をくの字に折って地面に転がるのを見届けもせずに振り向きざま、迫っていた老婆の棍棒を受け止め、押し返す勢いに任せて額を殴りつければ、老婆は泡を噴きながら昏倒した。

 しかし、どれだけ『勇猛律』で身体能力を高めても、多勢に無勢。真正面から向かってきた、まだ幼い少年の鼻面に肘鉄を叩き込んでふっ飛ばしたところで、がっちりとした腕に後ろから首を抱え込まれ、振りほどこうと身をよじる間もあらばこそ、口を布で塞がれた。

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