第2章:『信仰律』の支配(6)

 異臭が鼻を突く。何かの薬品を染み込ませていたのだろう、たちまち痺れが手足の指先まで広がって、身体から力が抜ける。意識ははっきりしているのに、自分の身が言う事を聞かない。

「魔王の、子。神の、もとへ」

 かすむ視線を巡らせれば、最初に倒したはずの男や老婆まで立ち上がって、呪詛のように繰り返しながらエクリュのもとへと近づいてくる。彼らが何を思ってその言葉を発しているのかわからない。相手の意図が読めない。

 自分はこのまま、この一団に、神――ミサクやメイヴィスの言葉を借りるなら、デウス・エクス・マキナ――のところへ連れ去られるのか。そこでどんな目に遭うのか。それは、今まで魔物と対峙しても感じなかった、得体の知れない恐怖となって、エクリュの背中を這い上がる。

「エクリュ!!」

 少年の高い声が耳に突き刺さったのは、その時だった。「ぐふう」と呻き声が聞こえたかと思うと、エクリュを抑え込んでいた腕の力が緩み、どさりと背後で重そうな何かがくずおれる音がする。全身が麻痺したエクリュも自分で立っている事がかなわなくて、その場に受け身無しで倒れ込んで、したたかに肩を打った。

 視線を動かす。闇の中でも光を帯びているように見える橙色の瞳が闘志に燃えて、手にしたダガーが敵の急所を抜かり無く突き、切り裂く。メイヴィスは、虎に化身するまでもない俊敏な動きで、次々と黒ローブの一団を倒してゆく。

 その背後に、ぎらりと剣呑な刃の輝きが迫る。危ない、という警告の声も出せずに目を見開いたが、刃がメイヴィスの背中を捉える直前、黒ローブがこめかみから血を噴いて、声すらあげられずに崩れ落ちて絶命した。

 攻撃が来たと思しき方向に目をやる。青い瞳を極限まで不機嫌に細めたミサクが、まだ硝煙のぼり立つ銃を構えている。メイヴィスの取りこぼした敵を、咆哮の無い銃弾が撃ち抜き、やがて黒ローブをまとった人間で息をしている者は、一人もいなくなった。

「大丈夫?」

「……じゃあないな」

 メイヴィスが心配顔でエクリュの傍らに膝をつき、近くにやってきたミサクが深々と溜息をつく。即効性の麻痺毒は持続性も高いらしく、唇も震えて、助けてもらった感謝の言葉ひとつ出てこない。

「エクリュ!」

 リビエラの声が耳に届き、ぱたぱたと駆ける足音が近づいてくる。

「リビエラ、治療を頼む」

「かしこまりましたわ」

 ミサクの言葉に少女はうなずき、『混合律』の杖をエクリュに向けてかざす。たちまち、青い光が発せられて、温かくエクリュに降り注いだかと思うと、全身を支配していた痺れが、波が引くように消えてゆくのがわかった。

「まったく。自分の力を過信しすぎてよ」

 よろよろと起き上がれば、リビエラが少し怒ったふうな口調で頬を膨らませる。

「……ごめん」

 確かに、これは自分が考え無しで飛び出してしまったせいで招いた危機だ。肩をすくめてぼそりと洩らせば、リビエラも、メイヴィスも、ミサクも、軽く目をみはった。一体何が彼らを動揺させたのか。わからずにまばたきをすると。

「貴女」リビエラが呆然と呟いた。「『ありがとう』は知らないのに、『ごめんなさい』は言えるのですわね」

 反対側を向けば、メイヴィスも、「ちょっと驚いた」とこぼし、ミサクは「これは、何をどこから教えればいいんだ?」と額に手を当てて悩んでいる。が、元騎士はその手を離すと、血を流して倒れている襲撃者の一人の死体に近づき、黒いフードを引きはがした。かっとまなこを見開いたまま絶命する様は凄絶だったが、その額に存在する物に、思わず息を呑む。

 まだ年若い、そばかす顔の少女の額には、昼間見た紫の魔律晶『信仰律』が埋め込まれ、その周囲の皮膚が醜く引きつれていた。

「エクリュ」

 他の全員も額を露わにして、『信仰律』がそこにある事を確認したミサクが、真剣な表情で振り返る。

「こいつらの襲撃の目的からして、君は完全に、デウス・エクス・マキナに狙われている」

 それはエクリュも身に染みてわかった。神の目的などはかり知れないが、何か良からぬ事を企んでいるだろう事だけは、世間を知らなかったエクリュでも想像がつく。自分を『名無し』として利用し続けたザリッジがそうだったように。

「俺達も全力で君を守るが、今後は一人で突っ走らないでくれ。手の届かない場所でこんな目に遭われたら、いくら我々でも助けられない」

 その言葉の意味もわかる。今回はたまたま間に合ったが、これからエクリュの身に何か危険が及んだ時、いつでもミサク達が助けてくれるとは限らないだろう。自分一人の力で生きてきたエクリュでも、それは今さっき身をもって知った。

 おずおずとうなずくのを見届けたミサクが、「メイヴィス、肩を貸してやれ」と指示を送ると、少年がエクリュの腕を肩に回し、背中に手を添えて立たせてくれた。麻痺は消えたとはいえ、まだ足腰に力が入らない。

「念の為、ユージンに診てもらってくれ」

 また、あのがんがん音が鳴る筒の中に入らなければならないのだろうか。委縮するエクリュに。

「だから、なにを今更怖がってやがりますの。一人で飛び出していくだけの度胸がありながら」

 リビエラが口元をつり上げて意地悪げに笑ってみせる。だが、悪意は微塵も感じられない。それが証拠に、「ほら、行きますわよ」と、メイヴィスの肩に回していない方のエクリュの手を取って、ぽん、ぽん、と軽く叩いてくれる。

 その温度が心地良くて、戦いに昂り、連れ去られるのではないかという恐怖に震えていた心が、静かに凪いでゆく。それをエクリュは実感して、ひとつ、深い息をつくのであった。


 死体の片付けに残った男に背を向け、煉瓦造りの家の中へと入ってゆく少年少女の姿が、両手で支えられる大きさの魔律晶『透過律』に映し出されている。紫髪の少女が扉の向こうに消えるのを見届けたところで、映像は暗転し、無色透明な魔律晶へと戻った。

『透過律』に添えられていた手が、すうっと離れる。

「エクリュ」

 噛み締めるように、若い女声が暗闇の中に発された。

「やっと、見つけた」

 まるで有名人に出会えたかのように。暗い場所にしては不釣り合いな、浮き立つ声が響く。

 大人が二人分手を広げた間隔で『燈火律』が赤く周囲を照らし出す広間の中、魔律晶の前から離れた人影は、紫のドレスの長い裾を引きずりながら、靴音高く歩き、ひとつの円筒の前へ辿り着くと、ドレスと同じ色の液体に満たされた円筒にしなだれかかり、「ねえ」と甘える少女のような声を紡ぎ出した。

「見つかったわ、あの子が」

 円筒の中で、紫の髪を持つ人型が揺蕩っている。その目は固く閉じられ、開かれる事は無い。それでも、彼女はうっとりとした声色で続けるのだ。

「ねえ。これでやっと私達、みんな一緒に幸せになれるのね」

 ころころと。

 無邪気な笑い声に、応える者は、いない。

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