第2章:『信仰律』の支配(2)

 それから更に二時間ほど馬車で駆けただろうか。鬱蒼とした森の近くに、煉瓦組みの三階建てが見えてきた。

 ミサクが馬の速度を落として、その建物の前に馬車を止める。と、車輪の音を聴きつけたのだろう、建物の中から、桃色の髪を結い上げた小柄な少女が飛び出してきて、

「ミサク様、メイヴィス! ご無事だったのですわね!」

 緑の瞳を細め胸に手を当て、小さめの唇から安堵の吐息をついてみせた。

 ミサクが御者台を降り、メイヴィスに促されてエクリュも幌の外へと飛び出すように降りる。すると、少女の視線が胡乱げにこちらを向いた。

「では、その小汚いのがエクリュ?」

 半眼になってじろじろと値踏みするように見つめる少女だが、歓迎されていないというよりは、自分と価値観の異なる文化に出くわした戸惑いを含んでいるように思える。それが証拠に。

「リビエラ、まずは風呂に入れてやってくれ。諸々の話はそれからだ」

「かしこまりましたわ」

 ミサクの指示を、リビエラと呼ばれた少女は素直に受け入れてうなずいた。そしてつかつかとエクリュの元へ歩み寄ってくると、

「なに、ぼさっと突っ立ってますの。行きますわよ」

 少しばかり怒った態をして、しかし強引にではなくエクリュの腕を引く。彼女に従って良いのか、ミサクの方を振り向くと、彼は苦笑いを見せた。

「大丈夫。リビエラは態度に少々難があるが、悪いじゃあない。彼女に任せていれば心配無いさ」

 本人の前で臆面も無く明言するとは、彼もかなり肝が据わった男なのかも知れない。いや、ベルカのコロシアムを牛耳っていたザリッジに堂々と挑んだのだから、そうであると気づいておくべきであった。

 外の世界に出て、色んな人物に出会って戸惑うばかりのエクリュは、最早リビエラに引かれるまま、建物の中へ入ってゆく事しか出来なかった。


「ほら、早くしなさいな」

 リビエラに叱咤されながら脱衣所でぼろきれのような服を脱がされて、連れ込まれたのは、温かい湯気ののぼり立つ、湿度の高い風呂場だった。

 湯を浴びる経験など娼館でも許されず、冬でも水浴びで身体を清めるしか無かった。あとは、位の高い娼婦達が湯船に浸かって一日の汚れを取るのを手伝って背中を洗い、うっかり爪で肌をひっかこうものなら、たちまち機嫌を損ねた彼女らに熱湯をふっかけられて、一ヶ月赤みが引かない火傷を負ったりしたものだ。

 そんな経験があるから、風呂に入る、という行為自体がエクリュにとっては未知の体験でしかない。怖いもの無しの『名無し』であった数時間前までが嘘のように怯むエクリュを、豊かな胸にタオルを巻いて隠したリビエラが木製の椅子に座らせ、頭から湯をかぶせる。湯は熱すぎず冷たすぎず適度に温かく、子供時代の恐怖をあっという間に拭い去ってくれる。ぽかんとしてしまうエクリュの髪に、身体に、リビエラは香りよい石鹸を泡立たせて、念入りに洗ってくれる。数年間たまりにたまった垢が、気持ち悪いくらいにごっそり落ちていったが、少女は、

「まったくまあ、よくもこれだけ溜め込んで、病気にならなかったものですわね」

 とひとりごちたものの、嫌な顔ひとつせずに、清潔な布でごしごしとエクリュの身体をこすってくれた。

 長年の汚れが落ちて、垢臭さの代わりに石鹸の爽やかな香りが漂うようになると、エクリュはリビエラと共に湯船に入る。肩まで浸かれば、底知れぬ安堵感が胸に広がり、思わず溜息が洩れた。

 それを、リビエラが呆れた表情で見ているので、一体何だろうかと小首を傾げると。

「ありがとう、くらい言えませんの?」

 相手は、蒸気で火照った赤い頬をぷくりと膨らませ、半眼でこちらを見すえてきた。

「ありがとう、って、何だ?」

 本当に意味がわからず、更に斜めに首を傾ければ、リビエラは驚きに目をみはり、「ああ……」と吐息を零した。

「世間から隔絶されている、とミサク様が聞いていた情報は、嘘ではなかったのですわね」

 それでは仕方ありませんね、と呟いて、リビエラはエクリュに真摯な視線を向ける。

「人に何かをしていただいたら、『ありがとう』とお礼を言う。これだけで、円滑な人間関係が築けますわ」

「そうなのか?」

「そうですわ」

 では、ここで自分が返すべき言葉は一つだろう。エクリュはふっと口元をゆるめた。

「教えてくれてありがとう、リビエラ」

 するとたちまち、ただでさえ赤いリビエラの頬が、ますます朱に染まる。

「わ、わかればよろしいのですのよ」

 少しどもりながら、彼女は気恥ずかしそうに視線を逸らした。

「貴女は世間知らずではありますけれど、わたくしが、お友達になってさしあげても良くってよ」

「ともだち」

 またわからない単語が出てきた。エクリュが不思議そうに瞬きをすると、「本当に色々と知らないのですわね」とリビエラは目を真ん丸くして、言を継いだ。

「特別親しい、仲良しの相手、ですわ。好きなものを話し合ったり、悩みごとの相談をしたり」

 だから、と緑の瞳が、明らかに親しみを込めて細められる。

「わたくしが、貴女の最初のお友達。わからない事があったら、どんどんお訊きなさい。わたくしに答えられる事ならお答えするし、わからなければ、一緒に悩みますわ」

 先程の初対面時には、どこかつっけんどんにも見えた彼女だが、どうやら心根は、ベルカにいたどんな人間達よりも優しいらしい。接したのはこの入浴時間だけだが、エクリュの本能にも近い判断力は、リビエラの事は頼っても良さそうだ、と納得するに至った。

「温かいな」

 両手で湯をすくって、頬を濡らし、しみじみと呟けば。

「ええ、本当に」

 また紅潮してそっぽを向きながらも、リビエラは応えを返してくれるのであった。

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