第2章:『信仰律』の支配(1)
ベルカを脱出したエクリュは、ミサクに導かれて、舗装の砕けた街道を往く。そして数時間ほど歩いたところで、ベルカより遙かに閑静な集落へと辿り着いた。
「宿場町は、アナスタシアが滅びた後、どこもかしこも廃れているからな」
ミサクはそう淡々と言い置くと、「ここで待っていてくれ」と、馬を彫った金属製の看板が揺れている軒下をくぐって姿を消す。後に残されたのは、エクリュと、メイヴィスと呼ばれていた少年の二人であった。
特に話す事も無く、エクリュはきょろきょろと辺りを見回していたのだが、不意に、異様な光景が視界に入ってきて、過ぎ去った視線をそちらに戻した。
黒いローブをまとった一団が、広場に集まっている。噴水があったと思しき場所に水は無く、代わりに、巨大な銅の球体が据えられている。球体には、男とも女ともつかぬ顔が刻まれ、不気味な雰囲気を醸し出しており、黒ローブの人々は、地面に膝をつき、ひたすらその球体に向けて頭を上げ下げして祈りを捧げていた。
垣間見えた彼らの額には一様に、紫に光る円形の石――のような物――が張り付いていて、誰も彼もが虚ろな目をして、呻くような声をあげながら、お辞儀を続けている。
「『
まじまじと見入ってしまうエクリュの背後から声がかけられたので、振り返る。メイヴィスが、橙色の瞳に赤を帯びた炎を燃やしながら、球体を崇め奉る人間達を見つめていた。
「『信仰律』を埋め込まれた人間は、デウス・エクス・マキナの下僕になる。神を崇めるだけの人形になる」
怒りを灯しているのだと、エクリュは気づいた。理由はわからないが、この少年は、デウス・エクス・マキナとやらを憎んでいて、それを信奉する人間達を、唾棄すべき思いで見下している事だけはわかる。
「この世界は、デウス・エクス・マキナによって壊れたんだ」
それきり少年は、黒ローブの人間達から視線を逸らす。瞳の炎も、勢いを減じた。それから彼は荷物袋を漁って、フード付きの生成色のコートを取り出し、エクリュに差し伸べた。
「これを着てなよ。寒さ除けになるし、君の紫の髪は目立ちすぎる」
エクリュは小首を傾げながら、コートを受け取る。今の自分の格好はたしかに、ぼろの上下一枚だが、数年間ずっと、じめじめした薄暗い部屋に閉じ込められるか、アリーナで生命のやり取りに全体力を燃やすかの生活だったので、暑い寒いの感覚はすっかり麻痺していた。
それに、髪色が目立つとはどういう事だろうか。眉間に皺を寄せると、メイヴィスが目を伏せ嘆息した。
「君は、君自身が思っているより特殊なんだよ」
そうして、少年の視線がついとこちらを向く。
「勇者と魔王の伝承が御伽話になった今でも、魔王が紫の髪と瞳を持って、魔律晶無しで魔法を使う事は、知ってる奴は知ってる。魔族に見つかったら、君を新たな魔王として擁立しようとするだろう。そうでなくとも、ザリッジのように、君の力を欲の為に利用しようとする奴は、少なくないはずだ」
また、魔王。
自分の父親だというその人物に、何ら特別な感情はわかないが、彼の遺した自分の特徴が悪しき意志の目に留まれば、良からぬ思いをするだろう事だけは、何となく理解が出来る。エクリュは素直にコートを羽織り、フードを深々とかぶった。
それから、メイヴィスをじいっと見つめて、「な、何?」とたじろぐ少年に、静かに問いかける。
「お前も特別じゃあないのか?」
彼が目の前で、逞しい虎からやや線の細い人間の姿に変貌してみせた事を思い出す。この少年は一体、人の姿と虎の姿、どちらが真なのだろうか。ベルカの外には、この少年のように、人でなきものに姿を変える人間が、他にもいるのだろうか。
疑念はしっかり顔に出ていたらしい。メイヴィスは、ふっと寂しそうに目を細めて、
「オレも、君とは少し違うけど、異端だから」
ぽつり、呟くように洩らした後、諦観を込めて視線を空に馳せた。
「だから、ミサクもきっとオレを嫌ってる。オレが母さんを殺したから」
嫌ってる。殺した。どうしてそうなったのか全く見当がつかず、エクリュが更なる質問を重ねようと口を開きかけた時、蹄と車輪の音がして、少年少女の前に、少しぼろい幌馬車が止まった。
「乗れ」御者台のミサクが視線で促す。「これで一気に駆ける」
エクリュとメイヴィスが幌の中に飛び込み、それぞれに腰を落ち着けると、ミサクは左手だけで器用に手綱を操り、馬車を走り出させる。
広場が遠ざかり、黒ローブの一団も視界から消えてゆく。得体の知れない不安も一緒に霧散してゆくようで、エクリュは知らず知らずの内につめていた息を、ほっと吐き出すのであった。
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