第1章:紫髪の『名無し』(4)
湿った廊下に、点々と金貨や宝石類が零れ落ちている。それが自分の逃走経路を表す道標になる事も脳裏から吹き飛んで、ザリッジは一人、金目の物の入った袋を背負って地下通路を走っていた。焦りのあまり足元はおぼつかず、目は恐怖に血走っている。
こんなはずではなかったのだ。
名無しを地下牢に押し込めて知らぬ存ぜぬを通し、あの元騎士を上手く言いくるめて始末するつもりだった。細っこい少年など、食人鬼をぶつければ一発で、頭から喰われて終わるはずだった。観衆も大喜びで金をばらまいてくれるはずだった。
それが何という事か。少年は『地雷律』の魔力を感知し逆利用して、魔物を倒し、更には自身が変身するという奥の手まで隠し持っていた。観衆は恐慌し、怒り、その矛先は今、自分に向けられている。
こうなればもう、金が云々などどうでも良い。自分が生き残る事が最優先だ。ベルカでの繁栄を捨てるのは惜しいが、ザリッジとて人並に命が惜しい。どこかの街に潜んで、ほとぼりが冷めた頃にまたコロシアムを造れば良い。
「そうだ、名無しさえいればな」
そう、名無しさえ連れてゆけば、あの娘を使ってまたがっぽり稼げる。地下牢に向かう通路の途中で、一人ほくそ笑んだ時。
「あの子がいれば、何だと?」
背後から絶対零度の声が耳を刺し、ごり、と、後頭部に硬いものが押し当てられる感触がして、ザリッジは「ひっ」と情けない悲鳴と共にびくりと硬直した。
のろのろと振り返り、彼は更に息を呑む。あの銀髪の元騎士が、青い瞳を冷淡に細めて、こちらに銃口を突きつけていた。
「エクリュをどこへやった」
「知らねえ! 知らねえよおお! 部下が勝手にやった事だ!」
氷のような声での問いかけにも、ザリッジは髭面を歪ませてぶんぶんと首を横に振る。途端、ミサクが
「お、奥だ! この地下牢の奥だ! あんたが諦めるまでやり過ごすつもりだったんだ!」
「……成程」ミサクが心底呆れ果てた様子で息を吐きながら、銃口をこちらから逸らす。「金の亡者が考えそうな事だ」
その隙を、ザリッジは見逃さなかった。にたりと笑い、腰に帯びた短剣を抜き放つ。
だが。
ごつ、と鈍い音と共にのけぞったのは、自分の方だった。
「あへ?」
折れて飛ぶ歯を視界に収め、鼻血を噴きながら、じめじめした廊下にひっくり返って頭を強く打ち、財宝がばらまかれる。肘鉄を叩き込んだ体勢のままのミサクの姿に気づいたのは、ぐらぐらする世界が律を取り戻してからだった。
「もういい」
元騎士が再度深く溜息をつく。そうして、冷酷な視線と共に、
「お前は救いようの無い下種だ。消えろ」
それが、混乱渦巻くザリッジがこの世で聞いた、最期の音だった。
血のにおいと、何かがどさりと倒れる音、そして金属を砕くような高い音が、名無しの五感に滑り込んだ。かと思うと、足音が確実にこちらを目指して近づいてくる。
牢の前に立った人物を見て、少女は言葉こそ出せなかったが、目を見開きくぐもった声を洩らした。
「エクリュ」青の瞳に安堵を乗せて、ミサクがほっと息を吐く。「無事だったか」
長時間拘束された手足が痛み始めて、あまり無事とも言いがたいのだが、それでも、自分が生きている、それだけでミサクを安心させるには充分な材料だったらしい。彼は牢の鍵に銃を押し当てると、引鉄を引く。かきん、と甲高い音を立てて、鍵は壊れた。
牢の中に入ってきたミサクは、少女を縛っていた鎖も銃で砕くと、銃をホルスターに戻してから猿轡を解く。数時間ぶりに自由を得て、大きく息をつく少女に、彼は手を差し伸べた。
「ザリッジは死んだ。行こう。このままここにいては、我々も暴徒化した観衆に巻き込まれかねない」
今、外がどうなっているのか、少女に察する事は出来ない。だが、ザリッジが死んだ、という言葉に、彼の支配していた世界が終わりを告げた事だけは理解する。
「あいつは?」
メイヴィスというミサクの連れの少年が、アリーナで戦っていたはずだ。その姿が見えないという事は、彼は今も別行動を取っているのだろう。あるいは、魔物にやられてしまっているかも知れない。だが。
「大丈夫だ」ミサクはまるで他人事のように淡々と答えた。「あの子は大丈夫だ、外で合流出来る」
それは声色だけ聞けばそっけないものだったが、決して、心配をしていない無関心ではなく、むしろ信用しているからこその平坦さに思えた。それを信じて、今はミサクと共にここを脱出しようと決意する。
拘束されていた身体はあちこちが痛んで悲鳴をあげたが、名無しとして、これ以上の怪我などいくらでもしてきた。跳ねるように立ち上がり、ミサクの後を追って牢を出る。鉄格子越しに魔物がうろつき、時折餌を求めてがんがんとぶつかってくるのを後目に見ながら、二人は廊下を駆ける。
この手の施設には、こういう場所に街の外への脱出路が隠されているものだ。ザリッジが敢えてここを通ろうとしていた事から、ミサクもその可能性に思い至ったのだろう。牢の奥の壁に隠されていた通路を辿って、どれくらい歩いただろうか。光が差し込み、やがて、少女の眼前に、景色が開けた。
物心ついてから初めて見るベルカの外は、未知の世界だった。
生い茂った緑の草が潮風になびき、その向こうには、少女の瞳と同じ碧色をした、大きな水たまりが広がっている。海だ。話には聞いた事があるが、彼方まで続く水平線に、目を奪われて立ち尽くしてしまう。
その時、背後から跳躍の音が聞こえて、少女ははっと我に返り、身に染みついた反射行動で腰を低めて構えた。二人の前に降り立ったのは、見事な体躯をした虎だ。だが、警戒心を露わにする少女とは対照的に、ミサクは武器を構える事もせず、平然と虎を見つめている。
すると、虎が小さく唸ってうずくまった。その姿があっという間に、亜麻色の髪に橙色の瞳を持った、二日前に見た少年に変わってゆく。一糸まとわぬ素っ裸の人間に戻ったメイヴィスは、少女の視線に気づくと、さっと顔を赤くして両手で股間を隠す。そんな少年に、ミサクが荷物袋から取り出した服一式を黙って放り投げると、「ちょっと待ってて」とメイヴィスは赤い顔のまま、近くの木陰へ身を隠した。
「別に、服を着るくらい、ここですれば良いのに」
少女がきょとんとしながら洩らすと、「それは無い!!」と、少年が初めて大きな声を木の向こうから返し、ミサクも目をみはった後、「ああ……」と額に手を当てた。「そういう所から教えないといけないのか」
やがて、服を着終えたメイヴィスが姿を現すと、
「行こう、エクリュ」
ミサクが神妙な顔で少女に向き直る。
「君はもう自由だ。これからは、『名無し』ではなく、『エクリュ』として生きるんだ」
エクリュ。
一昨日は全く知らない単語のように聞こえたその名が、今は強い力を伴って響いてくる。
勇者と魔王の娘、というのは正直まだ実感が全然わかない。だが、その名だけは、親である彼女達が遺してくれた、大事なものなのだろうというのはわかる。
生きよう、これからは、その名を抱いて。
「わかった」
少女――エクリュは、力強くうなずき返すのであった。
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