第2章:『信仰律』の支配(3)

 風呂をあがったエクリュの為に用意されていた新しい服は、カーキ色のシャツと色の濃いキュロットであった。年齢の割に細身のエクリュにはややだぼついているが、動きの妨げになるほどではない。

「これをお使いなさいな」

 リビエラが差し出した、エクリュの瞳の色と同じ碧のリボンで髪を結い上げ、新品の革靴を履く。

 そうして彼女に連れられて、また建物内を歩く。やがて、一つの木製の扉の前で二人は足を止め、リビエラが扉を二回、ノックした。

「ユージン先生、いらして?」

「いるよー」

 中からやや間延びした、男か女か判別しかねる声が返る。それに応じてリビエラが開いた扉の先を見て、エクリュはまたもぽかんと口を開ける羽目になってしまった。

 ベルカでは見た事の無い、金属製の装置が置かれている。明らかに、ランプや魔律晶による灯りではないのに、光を放つ球体や、何に使うのか全く見当のつかない物体が、そこら中にあった。

 その中に埋もれるように置かれた回転椅子に座っていた人物が、こちらを向く。

「やあ、あんたがエクリュか」

 そう言って朗らかに笑ってみせる相手は、女性だった。歳の頃はミサクより若いくらいだろうか。ベルカが快晴の時にはアリーナ上空に見える青と同じ色の髪をし、瞳は琥珀色だ。

「アタシはユージン。人呼んで『変人医師』」

 八重歯を見せて、彼女が笑う。医師、という職種の人間は、エクリュもコロシアムで目にした事がある。飛び込みで戦った外界の戦士が怪我を負った時に、慣れた手つきで血を拭い、傷口を縫う、鮮やかな手際を見せた。ただし、余計な金の流出を嫌うザリッジは、奴隷剣闘士達が怪我をしても、決して医師に診せる事は無かった。結果、傷口が膿を持ち高熱が出て、病気にかかって死んだり、ふらふらのまま戦いに駆り出され、無惨に魔物に食われたりする奴隷は何人もいた。

 なので、エクリュの中では、医師は金のある人間しか診ない、という認識がある。奴隷だったのだ、持ち合わせなど一切無いエクリュに、医師に診てもらう権利は無い。明らかに気後れしてみせると、ユージンは「あ、もしかして遠慮してる?」と口元をつり上げた。

「大丈夫。アタシはミサクの旧友でね。あんたを連れてきたら一度ちゃんと診てくれって、ずっと頼まれてたんだ」

 そうして彼女は椅子を回し、机に向き直って、指先で文字列や画像が移り変わる不思議な画面に手を滑らせる。

「それにアタシは、人間だろうが魔族だろうが、興味ある子は片っ端から診させてもらうのが趣味でもあってね。おかげで『変わり者』だの『変人』だの呼ばわり」

 何をどうしているのか、エクリュにはわからない操作をユージンは行いつつ、「そこに座って」と、自分の傍らの椅子を指し示す。何をされるのかわからない恐れに尻込みしていると、「何を今更恐がってますの」とリビエラに小突かれ、恐る恐る椅子に座る。

 するとユージンはこちらに向き直り、吸盤みたいなものをエクリュの胸に当てて目を細めたり、先の光るペンでエクリュの口内や目をじっくり照らしてみたり、左手首を取って、脈を測ったりする。腕に針を刺して血を採られた時には、これ以上の痛みにも慣れているはずなのに、つい顔をしかめてしまった。

 それからユージンは、

「ここ、入って。じっとしてて」

 と、人一人ゆうに潜り込める大きさの筒の中に、寝そべるように指示を下す。あおむけになってしばらくすると、がんがん叩くような音が聞こえてきて、不安になったが。

「大丈夫大丈夫ー。何にも心配いらないよー」

「ユージン先生を信じなさいな」

 ユージンのやたら呑気な声と、リビエラの叱咤が、不協和音の中、耳に届いたので、大人しく我慢する事に決めた。

 やがて、音が止み、「はい、もういいよ」とユージンの許可が下りたので、這いつくばるように筒の中から脱出する。『無敵の名無し』も形無しのエクリュの様子を、ユージンはころころ笑いながら見ていたが、やがて、先程の指を滑らせる画面に向き直って操作をしながら、呑気に告げた。

「そろそろお腹が減っただろう? メイヴィスが夕飯を用意しているはずだから、食堂兼台所ダイニングキッチンへ行っといで」

 それを聞いた途端、待ってましたとばかりに、エクリュの腹がぐうと音を立てる。初めての事づくしで張りつめていた緊張の糸が、今更切れたらしい。ユージンがころころ笑い、リビエラは呆れたように肩をすくめた。

 食堂兼台所は、部屋を出て階段を降りた先にあった。日が暮れかけているらしく、赤い光が窓の外から差し込んでくる。それと同時に、食欲を刺激する野菜スープのにおいが、鼻腔に滑り込んできた。

「ああ、ユージン先生の診察、終わったの?」

 火にかけた鍋と向き合っていたメイヴィスが、エクリュとリビエラの気配に気づいて、肩越しに視線をこちらへ投げかける。

「もうすぐ出来るから。そこ座って、待ってて」

 言われた通り、六人分の椅子が用意されたテーブルへ、エクリュとリビエラは隣同士になるように座る。すると、根菜を惜しみなく使ったコンソメスープと、鶏肉のデミグラスソース煮、胡桃を混ぜ込んで焼いたパンという、娼館でもコロシアムでもお目にかかった事の無い食事が出されて、エクリュの腹の虫が更に鳴いた。

 メイヴィスが、エクリュとリビエラの前だけでなく、向かいの二席にも同じ物を置いて、自らも席に着く。「いただきます」と手を合わせる少年少女を見て、恐らくそれが、外界での食前の合図なのだろうと気づいたエクリュは、見よう見まねで両手を合わせて頭を下げる。

 それから、スープにスプーンを使うのはまだましだが、出てきたナイフとフォークをどう扱うものかわからずに、ちらちらとリビエラとメイヴィスの様子を窺うと、二人は器用に鶏肉を一口大に切り分けて食べていた。なので、やはり倣って、何とか口に運ぶ。

 初めてのまともな食事に四苦八苦していると、ミサクが食堂に姿を現した。

「先生は?」

「後で俺が持っていく」

 メイヴィスと短い会話を交わした後、ミサクは主を待っていた食事の席に着いて、左手だけで器用に食べ始めた。

 めいめいが黙々と食べ続ける時間が過ぎる。エクリュは、この妙な沈黙は何だろうと思いつつも、これがいつもの彼らの姿なのかも知れない、と考えて、あまり気にしない事に決めた。それよりも、冷めていない食事がこんなにも美味しいものなのかという満足感が、今のエクリュの胸いっぱいに広がり、疑念など一気に払拭してしまっていた。

 食事が終わると、メイヴィスとリビエラが空になった食器を下げ、代わりにそれぞれの席にカップを置いて、茶を注ぐ。柑橘類の香りがふわっと漂い、含めばほのかな甘みが広がって、口内を存分にすすいでくれた。

「エクリュ」

 温かい茶に、身も心も温まる感触をかみしめていると、向かいのミサクが声をかけてきた。

「何から話したものか……」

 彼の口ぶりから、二日前に聞いた、自身に関わる話が出てくるのだと気づいて、背筋をただす。

「ミサク。オレ達は」

「外した方がよろしくて?」

 メイヴィスとリビエラが揃って腰を浮かせかけて訊ねると、「いや」とミサクはゆるゆると首を横に振った。

「俺一人だと感情的になって取りこぼす話もあるだろう。お前達が補足してくれるとありがたい」

 その言葉に、二人はもう一度着席する。そんな少年少女を横目で見やり、茶を口に含んで飲み下すと、ミサクはカップをテーブルに置き、再度口を開いた。

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