第1章:紫髪の『名無し』(3)

 二日後。

 コロシアムには、普段『名無し』の試合を見に来る以上の人間がつめかけていた。

 名無しを引き取りたいと望んだミサクの噂は一晩で広まり、そんな怖いもの知らずの申し出をする人間の連れがどんな戦いを繰り広げるのか、観衆は興味津々だ。

「メイヴィス」

 アリーナへの控室で、ミサクは少年に声をかける。

「こちらは任せた」

 少年は、革の胸当てと籠手を身につけ、武器は腰に携えた短剣とチャクラム、その程度しか無い。だが、少年には怖気づいた様子も緊張も見えず、ミサクから渡された水筒を受け取って、喉を鳴らしながら水を飲み、

「大丈夫、やれる」

 端的に返答しながら口元を拳で拭い、水筒をミサクの手に戻す。主従にしては対等で、親子にしてはそっけない。そんな二人を怪訝そうに衛兵が見ていたが、当の本人達は気に留めた様子も無かった。

「時間だ」

 ザリッジの部下が、試合開始を告げにくる。メイヴィスは軽くうなずき、アリーナへ向けて歩み出す。本日の主役の登場に、観客がわあああっと歓声をあげる。それを最後まで見届ける事無く、ミサクは踵を返した。

「おい、兄さん、どこへ行く?」

「観客席へ行かせてもらう。ここから見ていても迫力が無いからな」

 部下が胡乱げな表情で呼び止めると、ミサクはふっと肩越しに振り返り、青い瞳を細めて、すたすたと歩き去る。

「自分の連れ子も娯楽の道具か」「元騎士様のご趣味も大したもんだなあ」

 下卑た嘲笑を背中に浴びながら、何とでも言え、とミサクは口の中でごちる。ザリッジの部下達は気づかない。彼の左手が既に、ホルスターから銃を抜き放っていた事を。


 観衆の声が遠くに聞こえる。試合が始まるようだ。

 だが、少女はそれを確認するどころか、アリーナへ様子を見に行く事もかなわなかった。

 早朝、具の無いスープと固いパンだけの食事を摂っていたところ、やってきたザリッジの部下に引き連れられて、両手足を鎖できつく拘束され、猿轡もかまされたかと思うと、地下牢の一角に放り込まれた。

 この地下牢は、普段は捕らえてきた魔物を閉じ込めておく為のもので、入口には鉄格子の扉が二重にそびえている。いくら『無敵の名無し』でも、頑丈な鎖を解き、牢の鍵を開けて、魔物が解き放たれる危険性と背中合わせになりながら脱出する芸当をこなす事は難しい。

 そして悟る。ザリッジは初めから、ミサクに名無しを渡す気など無かったのだ。彼が少女を探す事を諦めて帰るまで、こうして自分を見つかりにくい場所へ押し込めて、やり過ごすつもりなのだ。

 それがわかっていても、少女には現状を打破する術が無い。これだけ入念に動きを封じられては、得意の魔律晶無しの魔法を使って逃げ出す事もかなわない。

 歓声が、一際大きくなった。試合が始まったのだろう。あの細身の少年は大丈夫だろうか。

 ぎりぎりと噛み締めても、歯は口を塞いだ布に突き立てられるばかりで、呻き声しか洩れなかった。


 鼓膜を破らんばかりの大音声に、メイヴィスは一瞬、顔をしかめて両手で耳を塞いだ。しかし、そんな真似をしていては、これから出てくる敵の相手をする事もかなわない。嘆息と共に覚悟を決めて、手を離す。

 すると、真正面の扉が開いて、そこから、のっそりとした巨体が姿を現した。少年は目をみはり、観衆はますます手を叩いて口笛を吹く。

 毒々しい緑色をした、メイヴィスより遙かに縦も横も大きな魔物。しゅうしゅうと臭い息を吐き、身体に比して短いが丸太より太い手足を揺らしながら、こちらへと迫ってくる。

 食人鬼オーガ

 そう呼ばれる魔物は、メイヴィスを視界に捉えると、耳まで裂けた口を笑いの形に象る。ぞろりと牙の並んだ口が、唾液の糸を引いたかと思うと、その寸胴な体躯で可能なのかという速度で、少年目がけて走り込んできた。

 メイヴィスは紅玉随カーネリアンのごとき濃い橙色の瞳をすっと細め、腰の短剣を抜き放つ。湾曲した片刃のダガーが、太陽の光を受けて煌めいたかと思うと、少年は、向かってくる魔物に向けて地を蹴った。

 予想外の軽やかな跳躍に、魔物の振り回した腕は空を切り、観衆がどよめく。少年はその腕を踏み台にして更に跳ぶと、食人鬼の背後に回り込み、うなじに短剣を叩き込んだ。

 かきん、と、甲高い音を立てて刃は跳ね返される。食人鬼の皮膚の硬さは、鉄の鎧にも匹敵するという。舌打ちしながら着地しようとし、しかし直前で、少年は空中で身を捻って、少し離れた地点に降り立った。

 直後、ぼうん、と爆発音を立てて、本来着地しようとしていた場所から爆炎が立ちのぼる。

(『地雷律』か)

 魔律晶の改良は、アナスタシア王国が存在していた十七年前より遙かに進み、当時世間には無かった代物も大衆に出回っている。『地雷律』もその一つで、生物は少なからず魔力を有している事に着目し、地中に埋め、魔力に反応して爆発を起こすように仕掛ける、殺傷力の高い罠だ。

『地雷律』、そして倒せる可能性の低い魔物を寄越した事。メイヴィスはミサクが事前に言っていた言葉を思い出した。

『恐らく向こうは、全力を挙げてこちらの妨害をしてくるだろう。それこそ、死んでも構わないくらいの気概で。だから、お前も全力を出して対抗しろ』

「言われなくても」

 ぺろりと唇を舐めて湿すと、メイヴィスは己の感覚を研ぎ澄まし、アリーナ全体へ意識を走らせる。ここから近くと、対角線上、そして食人鬼が出て来た扉から少し離れた場所に、『地雷律』の反応を感じ取る事が出来た。

 普通の人間には出来ない芸当を、この少年がこなせる理由を知っている者は、少ない。生まれた時、いや、生まれる前から仕込まれていたこの体質を制御出来るように、十六年の人生でひたすら努力してきた。最初は自制など利かなかったが、今は、己の手足を動かすかのように、この力を使いこなす事が出来る。

「――来い!」

 挑発的に一声をあげて、メイヴィスはチャクラムを放り投げる。小鬼ゴブリン程度の首なら一撃で飛ばすだけの鋭い刃を有した投擲武器は、食人鬼の皮膚の前には甲高い音を立てるだけであったが、こちらに気を向けるには充分であったようだ。魔物が苛立たしげな唸りをあげながら、向き直り、突っ込んでくる。

 あらぬ方角へ飛び去りそうだったチャクラムをつかみ止め、軽い足捌きフットワークで魔物の攻撃をかわしながら、メイヴィスはアリーナ内を走り回る。

「逃げてんじゃねえよ!」「戦えー!」

 観衆から好き勝手に野次が飛んでも、少年は意に介した様子も無い。ずしん、ずしんと重い足音を立てて迫る食人鬼の腕をかいくぐり、またも地を蹴って、一際大きく跳躍する。それを追って踏み出した食人鬼の足元で、仕掛けられていた『地雷律』が反応した。

 鼓膜を叩く大音声と共に、食人鬼の右足が吹き飛んで、血と肉片をまき散らす。己の体重を支え切れなくなって、魔物はその場に膝をつき、それでも自重に耐えられなかったか、無様に地面に倒れ込んだ。

 それを見て、メイヴィスが冷たく目を細める。その表情は、ミサクが軽蔑すべき相手を見下す時と全く同じだ。生まれた時から一緒にいた影響は、確実に男から少年へと受け継がれていた。

 観衆がざわざわとさざめき合う。戦う力を失った魔物には、後はとどめを刺すだけだ。しかし、刃の通らない相手に、俊敏ではあるが非力そうな少年がどうするつもりなのか。彼らが見守る中で、メイヴィスは短剣とチャクラムを放り出し、胸当てと籠手すら外して、シャツを脱ぎ捨てた。

 疑念の声が大きくなる。攻撃も防御も捨てるとは、遂に自棄になったのだろうか。戸惑う観衆の前で、少年は前屈みになって、薄く笑う。

 その途端、信じがたい現象が起きた。

 少年の両眼が光ったかと思うと、その身体が黄金の毛に包まれ変貌してゆく。体格は一回り大きくなって服が破け、鋸のような牙が口から覗き、鋭い爪を有した手足に変わり、髪はリボンを結ったままの亜麻色のたてがみと化し、長い尻尾が地面を打つ。

 そこに線の細い少年はもういなかった。逞しい体躯を持つ、虎に似た獣が地を踏み締めて立ち、一声、空に向けて吼えたかと思うと、食人鬼に躍りかかり、鉄の短剣さえ通らなかった皮膚に牙を立てて、喉笛を引き裂いたのである。

 魔物は血を吐き、震える手を挙げて虎を叩き潰そうと振り下ろしたが、虎は優雅に身を翻し、あっけなく攻撃をかわす。それを最期にして、食人鬼は白目をむいて動かなくなった。

 しん、と。コロシアムが静まり返る。この異様な沈黙は、二日前、ミサクが名無しを狙った魔物を撃ち殺した時と同じだ。

「……化け物」

 ある瞬間に、誰かが洩らした。

「獣に変身するなんて。魔物の子じゃないか」

「名無しと一緒じゃないか」

 恐怖はコロシアム中にさざ波のように伝播し、やがて恐慌に変わる。

「おい、ここにいたら俺達も殺されるぞ」

「命がいくつあっても足りねえ、逃げろ!」

 その後はもう、阿鼻叫喚だった。出口を求めて人々が殺到し、押し合いへし合いになる。殴り合いになり、力の弱い者が押し倒され、踏みつけられ、潰されて、人同士のもみ合いで死人が出るほどになった。

「ザリッジはどこだ!?」

「あの詐欺師、俺達を殺す気だ!」

「殺られる前に殺れ!」

 人々の感情は、この催しの発足人を元凶として昂ってゆく。あちこちに見張りに立っていたザリッジの部下達は、押し寄せる人々によって殴られ蹴られ、帯びていた剣を奪われたかと思うと、その武器で首を落とされた。

「ザリッジを殺せ!」

「名無しも片付けろ!」

 それまで娯楽の提供に興じていた自分達の悪趣味さも忘れ、彼らは口々に叫び、支配人を追い求めて散ってゆく。

 虎はその様子をアリーナからじっと見つめていたが、ついっと狂騒から目を逸らすと、ひとつ、軽く跳ねて、人々が向かう方向とは反対側へと消えた。

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