第1章:紫髪の『名無し』(2)

 少女は物心ついた時にはベルカにいた。呼び名も無かった。

 娼館で給金も無く下働きをさせられ、売れっ子のアクセサリが入った小箱をひっくり返してたれ、冬の凍えそうな水で洗濯をして指はひび割れ、残飯のような食事を摂って、冷たい木の床に毛布一枚包まって眠った。

 そして七年前、子供を無理矢理抱くのが趣味の中年男を、初めての客として迎えろと部屋に押し込められた。開けてと泣き叫びながら扉を叩く声に応える者は無く、だらしない笑みを浮かべて背後からにじり寄ってくる男の、汗臭い腕に囲い込まれて引き裂くように服をはだけられた時、少女は『その力』を発した。

 扉を吹き飛ばす勢いで轟と空気が唸り、男の身体は一瞬にして炎に包まれた。周囲の何物も燃やす事無く、対象だけを焼き尽くす『魔法』。魔族が作り出した魔律晶が無ければ人間には使えないはずのそれを、少女は発動せしめたのである。

 もがき苦しみながら黒焦げの炭と化した男を見て、娼館の人間達は恐怖した。こんな得体の知れない子供をこのまま置いていたら、次に燃えかすとなるのは自分かもしれない。そう思うのも当然だろう。彼女らは手痛いしっぺ返しを食らっても文句を言えないほどの虐待を、少女に行ってきたのだから。

 近くにいれば危険極まりない。だが処分するのは反撃が恐ろしい。そんな手に余る少女を破格の値段で引き取ると言い出したのは、コロシアムを経営するザリッジであった。すぐに壊れてしまう奴隷剣闘士の補充に常に頭を悩ませていたこの男にとって、華奢な見た目とは裏腹に未知の力を秘めた少女は、どんな宝石よりも価値のある、使い回しの利く金づるに見えたのだろう。

 ザリッジは少女に剣を教え、体術を教え、ひたすらに鍛え上げた。そしてコロシアムで魔物の群の中へと放り込み、年端もゆかぬ少女が、仕込まれた剣の腕と、勘だけの魔法で敵を圧倒する姿を観衆に見せつけ、度肝を抜いた。

『名無し』の噂は瞬く間にベルカ中に広まり、ただびとを超えた力持つ少女の戦いを見ようと、人々は見物料を落とし、今日こそ敵が『名無し』を負かすのではと一獲千金を夢見て、高い賭け札を買う者は後を絶たない。

 かくして、名無しは彼らの期待に沿い、あるいは裏切って、今日まで生き永らえてきたのである。


 奴隷剣闘士は、試合が終われば雑魚寝の部屋へと戻される。男女こそ別々といえど、風呂も無く、衛生面に問題があるのは一目瞭然だ。

 しかしその日は、名無しはザリッジの小間使いに呼ばれ、彼の部屋へと連れてゆかれた。

 扉を開けば、部屋中に染みついた煙草臭さが鼻の奥を突く。

 そしてぷかぷかと煙草をふかす、黒髪髭面に筋肉隆々とした体躯を持つザリッジは、少女がやってきたのを見ると、「座れ」と野太い声で自分の隣の丸椅子を指し示した。

 少々がたついた椅子に腰掛けて初めてテーブルの向かいを見、彼女は、この部屋に先客がいる事にようやく気づいた。

 席に着いてはいるが、出された薄い珈琲に手を出さずにいるのは、先程コロシアムで音の無い銃を使い魔物を撃った男と、少女とさほど歳の変わらないだろう、肩より長い亜麻色の髪を白いリボンでひとつにまとめた、朝焼けのような赤みを帯びる橙色の瞳を持つ少年だった。親子、という訳ではなさそうだ。持つ色が全然違うし、男の隙の無さに対して、少年はどこか頼り無い危うさを覚える。

「こいつが、お前を引き取らせろと言ってきやがった」

 ザリッジが忌々しげに舌打ちをして、顎で銀髪の男を示す。ぞんざいな扱いを受けても、男は何ら動じる事無く、

「エクリュ」

 と少女に向き直った。

「それ、あたしの名前か?」

 今まで名を呼ばれた事も無く、唯一の呼称は『名無し』だった。自分の名前を意識した事など無い。だが、男は絶対的な自信を持って、「そうだ」と力強くうなずいてみせるのだ。

「俺の名はミサク。元アナスタシア特務騎士隊長……という肩書きは、今はもう意味を成さないな」

 自嘲気味に苦笑して、ミサクと名乗った男は続ける。

「君の母親シズナは、俺の双子の姉だ。つまり俺は、君の叔父にあたる」

「おいおい兄さん、笑い話はよしとくれよ」

 ぶばあっと煙草の煙を吐いて、ザリッジが肩を揺らした。

「シズナっていやあ、十七年前に死んだアナスタシアの勇者様の名前じゃねえか!」

 勇者。

 幼い日に娼婦達が語り合っていた記憶が、脳裏に蘇る。

『勇者が魔王を倒すのに失敗してくれちゃったおかげで、ベルカは大繁盛だねえ』

『アナスタシアなんて余計な壁を壊してくれて、勇者様様だわ』

 彼女らはきらきらしく塗りたくった長い爪の手を、べっとりと紅を引いた口に当てて、けらけらと笑いを洩らしていたものだ。

 その、世界を今の姿に変えてしまった、少女を『名無し』に貶めた存在が、勇者シズナで、更には自分の母だというのか。

「冗談」

「冗談じゃあない」

 引きつった笑いを浮かべてみせるが、ミサクの真剣な表情の前に、笑みは立ち消えた。

「君にはシズナの面影がある。碧の瞳はシズナと同じだ。それに」

 青の視線が、こちらのぼさぼさ頭に向けられる。

「紫の髪は魔王たる者しか持てない色だ。君の紫の髪と、魔律晶無しで魔法を使える才能は、間違い無く、君の父親である魔王アルゼスト、アルダの血によるものだ」

 ザリッジが再びぶはあっと煙を噴いた。

「勇者が母親で魔王が父親!? この名無しが!? 今日最高の冗句ジョークを聞いたぜ!」

 ザリッジの物言いは完全にミサクを侮っているし、少女に対しても失礼だ。だが、勇者と魔王、御伽話のような肩書きの者達が自分の両親だと言われても、全く実感が湧かない。

「それにだな」

 ザリッジがにやっと笑って、所有権を示すかのように名無しの腕を強く引いた。

「俺はこいつを買う時に、かなりの身銭を切った。今も大事な客寄せの道具だ。持つもの持たずに引き取らせろ、は無いよなあ?」

 買う。道具。自分がザリッジにとってどういう価値の『物』なのか、端的にわかる単語だ。だが、それもそうだ。少女は人間らしい扱いを受けずに育った。そもそも、「人間らしい扱い」というものが何なのか、正しく知りすらしない。

 ミサクはザリッジの言葉を受けて、不快感を覚えたようだ。眉間に深い皺を寄せる。それでも彼は左手で懐を探ると、

「何も、そちらばかりに損をさせると言っている訳じゃない」

 そう言うと同時、テーブルの上に革袋を放り出した。じゃらり、と重たい音を立てたそれの口がほどけ、イージュ金貨が数枚零れ落ちる。

 アナスタシアが滅びて、かの国の通貨は貨幣としての意味を失った。だが、純金を惜しみなく使って作られたこの硬貨には、かねとしてではなくきんとしての価値が十二分に存在する。たちまちザリッジの目の色が変わるのを、少女は傍らでしっかりと見届けた。

 だが、ザリッジもそう簡単に大事な手駒を手放す気は無いようだ。伸びた鼻の下をはっと取り繕って、しかし視線は金貨から逸らさぬまま、わざとらしく咳払いをする。

「そ、そうは言われてもなあ。この先の収入を考えると、これだけ積まれてもトントンになるかどうか」

 あくまで名無しを手放すまいとする態度が見え見えの男に、ミサクは一瞬、ひどく冷めた視線を送る。完全に、下種を見下す冷徹さを帯びた眼差しだった。

「何が望みだ」

 ザリッジから目線を外さぬまま、ミサクが問いかける。コロシアムの主は髭面にねばついた笑みを張り付かせて、「いや、何」と肩をすくめた。

「あんた達の実力のほどを見せてもらいたいね。知っての通り、この業界は力が全てだ。こいつを引き取ってもすぐに死なせちまうような貧弱さだったら、安心して任せられねえだろ」

「成程」ミサクが顎に手をやり、皮肉気に呟く。「これだけの人殺し劇場を営んでいる男に相応しい考えだな。まあ、良いだろう」

「そう来なくちゃあな」

 ザリッジの笑みが深くなる。奴隷剣闘士を使い捨てる事も、一獲千金を望んで飛び込んできた戦士が夢砕かれて絶望のうちに死ぬ事も、へらへら笑って見ているような男だ。今回も、無理難題をふっかけるつもりだろう。

「あんたの腕前は、さっき見せてもらったからな、そっちの」

 ザリッジが煙草で示した先には、それまで一言も発さずに黙っていた少年がいた。いきなり水を向けられて、きょとんと目を瞬かせる。

「坊やに戦ってもらおう。明後日朝一だ。相手は、そうだな、魔物で良いか。騎士様の従者には物足りねえかも知れないがな」

「……良いだろう」

 少年ではなく、ミサクが、叩きつけられた挑戦状を静かに受け止めて、青の瞳に炎を燃やす。

「やれるな、メイヴィス」

「……いつも通りでいいの?」

「ああ」

 メイヴィスと呼ばれた少年が初めて口を開く。細身に違わぬ高めの声に少女が目をみはると、視線に気づいた少年はこちらを向き、何故か顔を赤くして、ふっと目を逸らした。

「決まりだな」

 ザリッジが煙草を灰皿に押し付けて、大きく膝を叩く。

「じゃあ、うちでもてなそう。酒と食事ならいくらでも出すぜ」

「いや」

 ミサクが眉根を寄せて、ザリッジを睨みつける。

「その食事に毒を盛られる可能性があるからな。そちらの息がかかっている宿は、全て遠慮させてもらう」

 その途端、ザリッジが顔を歪めて小さく舌打ちした。図星だったのだろう。

「エクリュ」

 ミサクが少女に視線を向ける。

「必ず君を解放してみせる。もうしばらく辛抱してくれ」

 そうして、「行くぞ、メイヴィス」と、少年に声をかけて、席を立つ。

 その時、少女は初めて気づいた。立ち上がったミサクの右腕は、服の袖が揺れている。まるで、肘から先が存在しないかのように。

 いや、「ように」ではない。実際に無いのだ、右腕が。

 それまで、銃を撃つ時も、金貨を放り出した時も、不自然に左手を使っていたのは、本来あるべきものが無かったからなのだ。

 一体どういう経緯があって、そうなったのか。そもそも、自分の叔父だという彼が、十数年間自分を探し続ける羽目になったのは何故なのか。

 疑念が胸の内で渦巻く間に、ミサクは少年を連れて部屋を出てゆくのだった。

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