第9話 『溝』

 見慣れない天井で目が覚めた。

「いやそりゃそうだ」

 今日でこの家に引っ越してきてから二回目の朝になる。いまだに新しい天井には見なれず、体を起こすと家のその全てが見渡せるのもまた、慣れられていない。

 少し広めの台所に、六畳の生活スペース。風呂とトイレは別、というのは蓮のこだわりだった。

 家具は余計なものはほぼほぼない。独り暮らしならこれ以上ものを増やすこともないだろうということで、あるものは布団にテレビ、安かった卓袱台くらいのもの。何やら愛生の母から譲り受けた座椅子以外、これといって目立ったものはない。

 なんて部屋を改めて見回してから伸びをひとつ。背中から聞こえてくる小気味の良い音に小さくため息を吐き出して、のそのそと布団から抜け出した。

 いくら非日常に足を踏み入れたといっても、学校を休むわけにはいかない。将来のことがあるし、留年は流石にマズいと大きく溜息を吐く蓮だ。

 食パンをトースターにかけて、あくびを噛み締めながらフライパンに油を敷く。

 冷蔵庫から取り出した卵をフライパンに落とすと、芳しい匂いが朝を自覚させた。


「……ねむ」


 朝食を自分で用意するようになった手前、蓮の朝は急激に早くなった。

 簡単なものしか作らないものの、それなりに早く起きなければ間に合わないし。今まで朝食を作ってくれていた叔母には感謝しかない。


 朝食を食べて、だらだらと準備して、学校に向かう。


 何も変わらない。普段の生活と変わらないのだ。

 叔母叔父が殺されて、目の前で大翔が殺されて、馬鹿げた力傷力に目覚めて────。

 確かな非日常が広がっているのに、根本的な生活は何も変わりはしないのだ。


 酷く気持ち悪い。自分だけが何か、夢でも見ていたような。狐に化かされたような。


 けれど、それか夢じゃないと、焼け落ちた家の残骸が語っている。

 毎日のように足が向くその先が。毎日夢に見る、叔母叔父の死に際が。


「……嘘でも、夢でもない」


 苦味と一緒にトーストを噛みしめる。殺意と一緒に吞み下す。

 忘れてはいけない。この殺意も、悲しみも。


 前向きな考えを持たなければいけない。けれど、この殺意も哀しみもまた、忘れてしまってはいけないもの。

 隠と陽のバランスが難しい。気を抜けば、大事なものが壊れてしまいそうだった。

 朝食を平らげ長く息を吐き出すと、静かに両手のひらを合わせる。

 今はそんなことを考えてる暇はない。いつも通り、日常を歩いていかなければ。

 食器を洗い場に出し、水につけたところでインターホンの無機質な音が響いた。


「はいはい、今出ますよー」


 あまり遠くない距離を小走りで駆け抜けて。鍵とチェーンを外して扉を押し開いてやると、見覚えのある顔と目があった。


「おはよ、蓮」

「ん、おはよう」


 そうだ、変わったことと言えば。

 前に比べて、愛生がよく笑うようになった気がする。


 ◇◆◇


「そういえばさ、蓮」

 歩き慣れた通学路。じわじわと周りに蓮たちと同じ制服を身に纏った面々が増え始めた中での愛生の言葉だ。

 蓮は突然の投げかけに首をかしげるだけで反応を返し、あえて無言で会話の続きを待つ。

「ニュース、見た? 今朝のやつとか」

「いや、見てねーな。色々と忙しくて」

 それもそうか、と小声で呟き頷く愛生。

 今までとは違う生活に慣れるので必死で、正直今の蓮には娯楽に割く時間はあまりない。残念なことだが。

 ここ数日の生活に想いを馳せ、小さくため息を吐き出す蓮に、愛生はささ、と歩み寄り。何やら口の横に手を当てると、声を小さく潜めて、

「なんかここのところ、殺人事件が起きてるらしくて。その死体が、なかなか奇妙なんだよ」

「……奇妙な死体?」

 不気味なワードを口にした。

 そもそも蓮たちが住んでいるこの区域は、平和なホームタウン、というのが売りの区域だ。

 犯罪の件数も神奈川イチ少なく、市民全員が何も怯えることなく暮らしていける。

 というのも、数年前に導入した防犯システムがその要因だと言う。

 この区域にはそこそこ有名なレジャー施設があり、他所から訪れる人も多い。

 ともなれば犯罪件数もうなぎ登りというわけで、最新の防犯システムを導入したんだとか。

「……そう、奇妙な死体。といってもこの辺じゃなくて、横浜付近での事件らしいんだけど」

「なんだ、横浜か……」

 自分たちに深く関係があるとは思いづらい距離の話だった。

 ここから横浜までは、電車に乗って20分ほど。近いような、遠いようなという表現が合うような微妙な距離だ。蓮もよっぽどの用事がないとあっちの方には行かないし。

「で、その横浜で何があったって?」

「なんかね……ガルバリズム? みたいな」

「……人肉喰カニバリズムって言いたいのか?」

「そう、それ!」

 何やら奇妙な間違え方をするものだ。

 蓮の眉間にしわを寄せながらの訂正に、愛生は笑顔を咲かせると蓮の顔に指先を向ける。いや、そんなに満面の笑みを咲かせるような話題でもなかろうに。

「見つかった死体はあちこちが噛みちぎられてて……ひどい時は頭しか残ってなかったりするんだって。それでその数キロ離れた先に、その体と思われる吐瀉物が吐き出されてるとか」

「……確かに奇妙だな」

 朝からするにはなかなかにヘヴィな話であった。朝食に胃袋に放り込んだトーストがせり上がってくるような気がして、思わず眉間に皺を寄せる蓮。

 対して愛生はハッとすると、何やら申し訳なさそうに苦笑をひとつ。

「ごめんね、食後にする話じゃなかったや。参加者の情報が得られたー、って少し舞い上がってて……」

「いや、良い。大丈夫だ、気にするな」

 これは明らかに傷力しょうりょく絡みの案件だろうし、早いとこ共有しておこう、というのは大正解だ。

 こちらから叩きに行くにしろ、行かないにしろ────後者を取るのなら危険な場所くらいは把握しておいたほうがいい。といっても、

「……でも向かいうちに行くのか行かないのかは仲間が増えてからだろうな。俺たちだけじゃどうにもできないだろ」

「だよね……」

 蓮は傷力を自覚してから間もないし、どうやら愛生も乱発できるほど軽い傷力でもないらしいし。二人で倒しきれるのかは微妙なところだ。

 あの炎使いの一件は、相手が油断していたからこそだろう。蓮の能力は相手の心の隙間をついてこそ真価を発揮する。毎度ああやってうまく行くとは思いづらい。

「……私が、もっと上手く力を使いこなせてたら」

 未だ連絡がないらしいケータイを見つめながら、愛生が憂鬱げに溜息を吐き出す。


 そして、視線は何処か遠くに。


 ────またこれだ。


 愛生は何故か昔から、唐突に物思いに耽るように遠くを見つめる癖がある。

 まるでここではない何処かを見つめているような。決まって口元は固く結ばれ、ひどい時には奥歯を噛みしめる音まで聞こえてくる。

「……それは俺もだろ? そんなに気にすることねーよ」

「ああいや、そうなんだけどね?」

 こうやっていつも決まって、蓮の言葉に笑顔で返すのだ。

 昔から誤魔化すのが致命的に下手くそで。何か隠してるなあ、なんて思いつつも、問い詰められないのが蓮の自覚している欠点で。

 正義感が強いくせに、いまいち相手に一歩近づけない。

 何故か長いこと付き合ってるはずなのに、二人の間には溝ができている。

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