第6話 『終わり、始まる』
教師の催眠術じみた声と、チョークが黒板を走る音。眠気を堪えたあくびの吐息を聞きながら、蓮はぼぅっと時計を眺めていた。
『黙って見てろってのかよ!』
あの日、あの時。蓮は愛生と口論になって……泣き出しそうなその表情に、罪悪感と自分への嫌悪感を覚えて。教室に愛生をひとり残して、その場から逃げ帰った。
だからって素直に家に帰る気にもなれず、ただただブラブラと。時間を浪費するために街を歩き回って、確か日が沈み始めた頃。
なんか生臭い匂いを感じて、嫌な予感がして。匂いを辿って歩いていけば、気づけば路地裏に蓮は立っていた。
『……これ、』
より一層強くなる生臭さ。そこらの地面は真っ赤に染まっていて、その中央にひとりの中年男性が倒れていた。
どく、どく、どどく、と。思えば、あの二つの鼓動はあの時にも感じていたんだ。
あの時、あの瞬間。本能で自分は普通じゃないと気がついて、長年薄々感じていた疑問が、ついに確信に変わった瞬間だった。
『俺はやっぱり、普通の人間じゃ────』
……そこから先の記憶はない。愛生は記憶の停止の後遺症だと言っていた。
仕方がないことだとは思うけれど、あまりの気持ち悪さに今でも鳥肌が立つ。
そこから記憶が飛んで、その次にあるまともな記憶は一年後だ。そりゃあ気味が悪いし、寒気もする。
「……俺、一年間何してたんだろ」
自分が自分じゃないくらいに、無気力に過ごしていたことは覚えている。
────停止している世界に、何かが降り注ぎ、積もることはない。
記憶にない一年間。無駄にして来た一年間は、かなり大きな物だと思う。無論巻き込まないために、と考慮してもらえたのは嬉しくないわけじゃない。
けれど、
『……ダメだ、わからねぇ』
誰かのコトを忘れてしまうのはすごく悲しく、もう味わいたくないことだ。
「…………結局、藤崎に一度も謝れなかったな」
こうして、取り返しのつかないことになってしまうこともあるのだから。
思考の海に沈む蓮を引っ張り出すように、チャイムの音が教室に響いた。
いつのまにか全ての授業を消化してしまったらしく、真っ白なノートにため息を吐いて。
「……はぁ、明日から頑張らねーと」
そんな蓮の気だるげな声の後ろで、けたたましい程のサイレンが外では鳴り響いていた。
◇◆◇
愛生をつれて、住宅街を進んでいく。
今日は何も用事がないらしく、校門前で待ってくれていた。
「……別に教室まで迎えに来てくれていいのに。クラス違うんだし」
「え、えー……普通に嫌です。恥ずかしいし」
愛生のよくわからないところだ、と蓮は小首を傾げてさりげなく愛生の横顔を見つめる。
愛生と一緒に学校に帰るのは、小学校からの生活の一環で。どちらかが部活やら何やらあってひとりで帰ることはあれど、基本は二人一緒に帰ることになっている。
それだけの回数一緒に下校しては、周りに見られているものなのだけれど。愛生は何故か、クラスに迎えにいくことをヤケに恥ずかしがるのだ。逆もまたしかり。
「こう、好奇の視線をたくさん向けられるのは嫌なんだもん……だからナシね。迎えに来るのも、迎えにいくのも!」
「はいはい、わかったわかった」
このやりとりも、覚えてる限りでは今月で二度目だった……はず。記憶があやふやで仕方がない。
未だなれない感覚にため息を吐いて、頭をボリボリと掻き毟る蓮。
「……ほんと蓮、よくため息つくよね。どうしようもない時とか、その他諸々」
そんな蓮を揶揄うように、愛生が小さく笑みをこぼした。
……否定ができない。というか、否定をする気は無いのだが。
蓮自身自覚している、蓮の悪癖だ。どうしようもない時、かったるい時、しんどい時、意識していないとため息が漏れてしまう、なんて蓮は語る。現実、今日も何度もため息を漏らしていたし。……無論、自覚のないところでも。一体どれだけの幸せをその口から吐き出して来たんだろうか。蓮の明日はどっちだ。
「……あ、そうだ」
ため息といえば、と。蓮の散らばった記憶から、ひとつのピースを拾い上げる。
愛生に話そうと思っていたこと。
「藤崎、転校したことになってた」
「ああ、うん……そうだね。この戦いでの被害は、基本何故か日常に紛れて処理されちゃうの。人が死んでも、何があっても」
愛生は何処か遠くを見つめて、拳を強く握りしめながら。
「……しかも、死体はちゃんと埋葬されたかもわからない。気がついたら消失してるの」
「……そうなのか」
愛生の声が震えている。
昨日のソレとは違う。昨日の声の震えは、何かへの怯えを孕んでいたのだが、今回は紛れもなく憎しみで。
また、蓮が見たことのない一面だ。愛生が遠くへ行ってしまった気がする。
「……まぁでも、蓮が気にすることじゃないよ。蓮は普通に、生活すればいいんだから」
そういうひと言も、儚い、何処か遠くを見るような目も。
何処か、手の届かないような、遠いところへ。
寂しさと共に、胸に何か痛みを感じる。この痛みはなんなんだろうか。
「そうだな、俺は……普通に」
普通に、いつも通り。まったりと日常の流れに、身を任せるように。
しかしそのまま生活していて、戦いの全てが終わった頃。愛生は、どうなってしまっているんだろうか。
隣で見ていることができない、日常を生きる蓮には知る由も無い。
「……なんだ、あれ」
そう思って、居たのに。
立ち上る火柱と、遠くにいても伝わってくる熱風。
家の前には人だかりができていて、防火服を着た大人たちが必死に遠ざけているのが見えた。
蓮の家の、目の前で。
「待て、待ってくれ、どういうことだよ」
駆ける。肩にかけていた鞄なんて放り投げて、全力で、焦燥感に駆られるまま、必死に足を回して。
ごたごたとうるさい人混みを掻き分けて、必死に前へ、前へ。
「叔母さん、叔父さん!!」
最悪のイメージが脳裏をよぎる。こういう時ばかり想像力が働いて、嫌な予感と脂汗を引き起こして。そういうところが、嫌で嫌で仕方ない。
必死に声を上げながら人混みを掻き分け続け、とうとう一番前までたどり着いた。
その頃には丁度、焼け焦げ、変わり果てた玄関から二人の人影が運ばれてくるところで。
消防士に背負われた、黒く煤けた人だった何か。辛うじて形で人だとわかるだけ。
そして隣を歩く消防士に肩を借りる形で、必死に何かを抱え込んだ叔母が、虚ろな目で運ばれてくる。
「叔母、さん……叔父さんは? なあ、叔父さんは?!」
蓮の呼びかけにも、必死な声にも、叔母は応えてくれない。
「……ここの家の子かい? あまり話しかけないほうがいい。今は話せる状況じゃ、」
「黙ってくれ!! 叔父さんは、叔父さんはどこに行ったんだって俺は聞いてるんだよ!!」
消防士の注意も跳ね除けて、とうとう叔母の目の前に倒れ込み、縋り付く。
叔母はそこでようやく蓮の存在に気がついた。
「……れん、」
「そうだよ、俺だ。蓮だよ。叔母さん、叔父さんは一体────」
必死に叔母の服の裾をつかみ、問いかける蓮。
蓮の言葉を、必死な叫びを聞いた叔母の視線が、
「────、ぁ、」
消防士の背中の、人型の、黒い炭のようなナニカに向いた。
言葉が出ない。代わりに出てくれたのは嗚咽だけ。何か言葉を発そうとも、喉に何かが突っかかって上手く吐き出させてくれなかった。
「蓮……、これ。お姉ちゃんから、渡されてたモノなの。私に何かあったら蓮に渡してって……」
言葉を紡げず、蓮は、ただただ過ぎ行く現状を他人事のように眺めるしかない。
「……私も、少しずつ足して行って、結構な額になってるはずだから……」
目の前に差し出される、少し黒く変色した通帳。
蓮の母親の名義のモノだった。
「叔母さん、叔母さ────」
受け取る間も無く叔母の腕はだらん、と力が抜けきって。膝を折り、消防士の肩にぶら下がる。
「────ぁ、」
現実を受け入れきれない。やめろ、やめろ、やめてくれ。
俺が、一体、何をしたっていうんだ。
助けを求めるように、地面に膝をついたまま背後を振り返る。
慰めの言葉が欲しいわけじゃない。この一瞬で死を感じすぎて、何でもいいから生きているモノを見て現実から目を逸らしたかった。
「…………お、い。おまえ」
現実から目を逸らしたその先に。家事を、叔母を、叔父を、渋い顔で見る人混みの中に。
見覚えのある、フードの男を見た。
「おまえ、おまえ、おまえ、おまえ!!!」
立ち上がる。震えで力がうまく入らない脚に鞭を打ち。膝に手をつきながら、必死に、必死に。
けれどそんな合間に男は人混みに紛れて、何処かへ消え去ってしまう。
「ああ、ああああ、あああ────」
声をかける暇もなく。拳のひとつもくれてやる暇もなく、無慈悲に。
「う、ぁ、ああああああああああああああああ、あああああああああ!!」
蓮は悲壮な叫びを上げることしか、できなかった。
◇◆◇
全てが終わり、跡形もなくなった家の前。残ったのは黒い黒い骨組みと、あちこちに転がる家具だったもの。
その前に蓮と愛生は佇み、ただただ唖然としていた。
────見てしまった。アイツだ。あの男が、この家に火を放った。
事故でも何でもない。これは、意図的な、殺人事件。
「……ごめんな、愛生。俺、おまえとの約束守れそうにない」
全てを見てしまっては、全てを理解してしまっては────日常を流れる一般人でなんて居られるはずがない。
強く拳を握りしめ、奥歯を噛み締めながら、
「愛生。戦いと『傷力』について詳しく教えてくれ」
自分から、非日常に足を踏み入れる覚悟を決めた。
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