第5話 『願い』
見覚えのある景色。けれど、記憶にはない景色。
記憶が流れ込んでくる。
木でできた机に、チョークが走る乾いた音。次々と教卓の後ろへと駆り出されるクラスメート。全員前に出て自己紹介する、なんて方法をとった先生が、とんでもないブーイングを受けていたことを覚えている。
『おい梶間、藤崎って理想児なんだってよ』
自己紹介が終わって、諸々が落ち着き始めた頃。
『だからなんだってんだよ。気に入らないなら真っ向から言ったらどうだ? こそこそ噂流して、意図的に避けて虐めんのは面白くねえ』
机を叩き、立ち上がる。集まる視線。冷たい視線。白い目に、交わる大きなため息。
つまらない、何言ってんだ、面白くない、この偽善者が。
沢山の思いが混じり、無言の波となって押し寄せる。
『……蓮、気持ちはわかるけどあんなこと大声で言ったら……』
『なんだよ、じゃあ黙って見てろってのか?』
言い合い、飛び出し、あてもなく駆け出し、街を練り歩き、赤、赤信号が、止まって、殺人事件、叔母さんに気をつけろって言われて、何気なく迷い込んだ路地裏で、赤、赤が、死が、血が、血、血、血、血。
『────、────』
人が倒れてて、夥しいほどの血を、カラダから、死が、生臭くて、地面に膝をついて、嗚咽して、内容物をその場にぶちまけた。
『ひとが、しんで』
そうだ、藤崎が死ぬもっと前。あいつが虐められてるのをみるよりもっと前にも、俺は、たくさんの血を見て、二度と見たくないって。
俺は、あの時に、
◇◆◇
「……ったま、いた」
頭痛と吐き気、それから体を満たす倦怠感に背中を押され、意識が浮上する。
視界に入ったのは自分の部屋の天井。重たい体を持ち上げて、なんとか半身を起こしてやる。
下を向く度、頭を揺する度眉間が痛む。頭痛が吐き気をさらに加速させ、思わず右手で口元を覆って。
「……大丈夫?」
聞き覚えのありすぎる声と共に、目の前に水の注がれたコップが差し出された。
ゆるりと視線を向ければ、不安げな愛生の視線とかち合う。
「……サンキュ。じゃなくて愛生、なんで俺の部屋に居るんだ?」
とりあえずコップを受け取って、投げかける問い。それを聞いた愛生は一瞬、迷うように口元を歪めて。逃げるように目を逸らしてから、ゆっくりと口を開いた。
「覚えて、ないの? 学校の帰りに、何があったかとか」
「学校の帰り……?」
記憶が混濁している。整理されていたはずの記憶の棚が無理やり引き抜かれて、中身を撒き散らされたようだった。
「……だめだ。なんか急に、頭の中に記憶が沢山流れ込んできて混乱────」
いや、思い出せ。何か、忘れてはいけないものを忘れている気がする。
散乱する記憶のピースを拾い上げて、ゆっくりと、あの夜を辿るように。ゆっくりと、ゆっくりと前に進んでいく。
血。炎。黒い、炎でできた槍。
死の気配、降りかかる血液、苦しそうな藤崎、
「そうだ、あの夜、俺は死にかけて」
藤崎大翔に、命を救われた。
「……藤崎が、目の前で」
「全部、思い出せた?」
「……ああ、全部」
炎でできた槍。それを突き刺された大翔と、消えゆくような儚い笑顔。
込み上げてきた憎しみと、握りしめた拳。心臓の鼓動と、それに重なる謎の鼓動────。
全て、全て、鮮明に覚えている。
「そうだ愛生。あれは何だったんだよ? あんなところで何してたんだ? 藤崎はどうなった、フードのあいつは、あいつはどうなった!!」
「待って待って、そんなに質問責めにされても困る。ゆっくり、順番に話すから」
変わらず視線は逃げ腰のまま、短く切り分けられた黒髪と両手を振りながら、愛生は深く項垂れて。とりあえず、と愛生はベッドのすぐ隣の床に腰を下ろし、言葉をまとめるように、ゆっくりと両指を組んだ。
「……まず蓮が、理想児だっていうのは覚えてる?」
「ああ、覚えてる。つい最近まで忘れてたみたいだけどな」
蓮が理想児だと発覚したのは高校一年生の春。
とある事件を境にそれが発覚し────その事件の記憶が、何故か蓮の頭からは失われていた。
「……覚えてるならよかった、説明が省ける。それで────世間には隠されている事実だけど、私たち理想児の身体には特別な臓器が備わってるの」
「特別な、臓器」
「そう。普通の人間にはない臓器が、心臓の隣にね」
言いながら、自分の胸に触れる愛生につられるように。自分の胸に手を当てて、静かに頷く蓮。
覚えがないわけじゃない。あの夜、謎の力を発揮したあの瞬間。一年前、死体を目撃した瞬間。
心臓とは別の、心臓に重なる鼓動を感じた。
「何で世間に隠されているのか、その臓器が何で
ここで挟まる沈黙。まるでこの先を本当に話していいのか、迷っているような。躊躇い、必死に何かと戦うような、痛々しい沈黙だった。
蓮には何を迷っているのかはわからない。けれどどうすることもできず、ただただ黙って、その言葉の続きを待つ。
数秒経って、愛生が小さく息を吸った。それを皮切りに愛生の吐露は再開する。
「……その臓器は、私達の身体に、常人とはかけ離れた超常現象を引き起こす。身体能力の異常な上昇と、アニメみたいな異能力の発現……蓮が戦ってた寺前の炎も、炎の槍もソレね」
信じられない、現実離れした話だ。
……しかし、蓮は自分の目で既に目撃してしまっている。
異常な身体能力も、異能力も。しかも自分まで使ったとなっては、信じるしかないだろう。
信じてくれる? と言いたげな愛生の視線に、蓮は静かに頷きを返した。
「……その能力を駆使して、私たちは戦っているの。自分の願いをかけて」
「願いを、かけて?」
「そう。ホントにアニメみたいな話なの。アニメみたいなことが今、私たちの周りでは起きている」
願いをかけた戦い。どこまでの願いが許されるのかはわからないけど、本当に何でも叶うなら、
「でも私は、蓮にこの戦いに参加して欲しくはない」
そんな思考は、まるで全てを読んでいたかのような愛生の言葉に遮られた。
「……私は、自分の『傷力』で蓮の身体に二つの細工をした。貴方の記憶への干渉と、貴方の臓器の『覚醒』の強制停止。私の『傷力』は自由が効くけど、他人の身体に作用しようとするとかなりの負担がかかるの。しかも蓮に関しては長時間干渉しなくちゃいけなかった」
まくし立てるような愛生の言葉。ここに来て初めて視線は蓮の瞳に突き刺さり、真剣な表情と震えた声を真っ向からぶつけられて。蓮は何も、愛生に言葉を返すことができない。
「常にそっちに力を割いていれば戦いに使える力は限られてくるし、集中力も厳しくなってくる……死ぬ可能性だって高くなる。それなのに、そこまでして貴方の記憶と臓器を『停止』させていたのは、この戦いに巻き込みたくないから。貴方の身体に勝手に『傷力』を使っていたことは謝る。何度でも謝る。だから、」
熱心に言葉がぶつけられる。避けられることもなく、ただただ真っ直ぐに。
ついに愛生はその身を乗り出して。蓮の右手を、両手で強く握りしめた。
「……だから、だから。お願い。もう貴方を、失いたくないの……」
俯く顔。肩と声はひどく震え、何かに怯えているようだった。
……愛生のこんな怯えている様子を見るのは初めてだった。こんなに必死に頼み込まれるのは初めてだった。
「わかった。でも、最後にひとつだけ聞いていいか?」
そんなに頼まれて、必死に懇願されて、蓮に断れるはずがない。
けれど、これだけはどうしても気になって。
「……お前の能力は、多分時間に作用するようなモンだよな。止めたり、戻したり、早めたり」
「うん、そう。色々と制限はあるけど────」
「だったら、その能力で藤崎のことも助けられたんじゃないか?」
静かに、溜息を吐きながら、どこか遠くを────脳裏から離れてくれない、大翔の散り際の笑顔を見つめながら、問いかけた。
「……私の傷力はあくまでも『生きているモノ』の時間に干渉するの。修復不可能なほどに壊れた物や、死んじゃった人には干渉できない。私があそこにたどり着いた時には、藤崎くんは、もう」
「────、───」
ああ、わかっていた。わかりきった、ことだったのに。
「……そっ、か」
気づけば、止められないほど、蓮の瞳から涙がこぼれていた。
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