34話 戦争
授業の終わりを告げる鐘の音。途端に教室の中に騒めきが広がった。
授業時間が終わりを告げたと言うのに、教師は未だに授業を終えようとしない。予定が狂ったのか、雑な進め方で数ページ分の内容を飛ばし読みしていく。その表情には焦燥が見て取れる程表れていたが、ふと諦めに変化した時点で私はノートを閉じた。
教師が教室を出て行くと同時に私のすぐ横には、いつもの様に
「ゆいー。学食いこ?」
彼女は毎度の、はにかむような笑顔を見せている。
ここ最近は心愛とも大分親しくなったように思う。高等部に進学してから一緒のクラスになったのにも関わらず、すぐに打ち解けられた事も事実だが、最近では下校時や休日によく共に遊びに行っているのが原因かも知れない。
今では、私の友人の中でもずば抜けて親しみやすい。
「そうね。お腹空いたね。」
心愛は私の顔を眺めながらニヤニヤと笑いを飛ばして来る。
「なーんか今日の唯、機嫌いいよね~? なんか良い事でもあったの?」
「そ、そう?」
私達は足を進める。他の生徒達も同様に移動して行く様で、大きな流れに逆らう事無く、学食堂に向かう。
「えー、いつもと全然違うよー。基本ムスッと顔がデフォルトの唯が今日はニコニコしてんじゃん!」
「失礼ね。言う程ムスッとしてないわよ。まあ確かに良い事はあったけどね? ふふっ。」
「なになに!? 恋愛絡みでしょ?」
そんな心愛の発言にはスルーを返す。
そう。私はようやく
涼は優しい。相手がどんな子でも基本的には、涼から別れを告げる事なんて中々無い。
だからこそ例の資料に多少の手を加えた。
蛍光院栞は基本的に自分から手を出す事をしない。どの事件でも相手を挑発こそすれ、正当防衛の中で戦うタイプ。でもそれじゃあ、涼の気持ちを動かすのは難しい。結果的に効果は覿面てきめんだった。
昨日の涼は明らかに動揺を隠しきれていない雰囲気。自分の中の彼女のイメージが壊れてしまったみたいに。理想で憧れの人の。
それだけ蛍光院栞が涼に影響を与えていた。
彼女の上っ面の綺麗事に、涼が感化され尊敬の眼差しを向ける事にずっと苛々して来た。あの女はそんな人間じゃない。
「あ、また怖い顔してるよ?」
今度は心愛が此方に怪訝な顔を覗かせた。
私は食券機にお金を入れ、ラーメンのボタンを押す。
「そう?」
いつもの様に食券を係員に渡し、いつもの様に素早く出て来た料理を受け取る。
何の変わり映えの無い風景。ふと今日の晩御飯は何を作ろうかなんて、頭に過る。
彼は今日何が食べたいだろうか。
涼は好き嫌いの類は殆どと言っていい程無い。何を作っても笑顔で「美味しいよ」と言ってくれる。確かにそれは嬉しい。
しかし、色々ある「美味しい」の中でもやはり種類があり、凄く美味しそうに食べる時と、普通に美味しそうに食べる時の差は存在する。この前のカレーがいい例だ。
別に涼はカレーが特別好きな訳では無い。私は勝手に、私のカレーが好きなんだと思ってしまっている。それでも美味しそうに食べて貰えると死ぬほど嬉しい。だからと言って、毎日カレーにするような愚の骨頂を犯せない。
それ故に、毎日の献立を考えるのは難しい。
「今度は何ニコニコしてんの?」
「してないってば。」
「してんじゃん。なんか今日はホントおかしいね、唯。」
「もしそうだったとしても、今日くらいは良いのよ。」
そう言って、あっという間に食べてしまったラーメンの食器が乗ったトレイを持ち上げる。心愛も既に食べ終わっているようで二人並んで食器の返却口に向かった。
そう。今日くらいは浮かれてもいいだろう。
学院3大美女の一角をようやく一人、涼の前から消せそうなのだ。計画は順調。未だに、切り札を使っていない状態でこの優勢。
生徒会長補佐の
もう私の負けは無い。
心愛と二人で教室に向かって歩き出す。
未だに食堂には沢山の人がごった返しており、それを一蹴する様に後にした。
外に出れば、突き刺すような日差しが肌を照らす。途端に普段外に出ていない故の白い肌に熱を感じた。熱い。
少し前までもうすぐ夏だなんて感慨に浸っていたのも束の間、気が付けばもう夏だ。夏休みの予定なんかが少しだけ頭に浮かぶ。今年も涼と夏祭りに行けたらなんて。
今日の私は確かに、心愛に言われた様に少し浮かれすぎているのかも知れない。
セミの鳴き声に合わせて歩みを進めれば、校舎の前に救急車が止まっているのが目に付いた。
心愛も同様に見つけた様で訝し気な表情で二人で見つめる。
「なんかあったのかな?」
心愛の声には心配の色が見受けられる。赤の他人を即座に心配出来るのは正直凄いと思う。
「さあね。熱中症かなんかじゃない?」
「いや、確かに最近熱いけど、まだ熱中症になるほどじゃないでしょ?」
周囲の生徒もこの事態を見つめる。
「さっさと教室に戻りましょ?」
「唯は冷たいなー。無関心かよ~」
「そんな事言ってないでしょ。勿論、気の毒だとは思うよ?」
特に執着することもせず、その場を後にした。
こういう事は稀にある。学校という、こんなに人が密集する場所故に。蛍光院学院が小中高一貫校なのも相まって。
あまりこういう事に慌てる感覚は分からない。今まで、誰か近しい人が救急車で運ばれた経験なんて無い私には少し遠い存在の様な光景だった。
教室に入れば、休み時間にも関わらず担任の教師が教卓に立っていた。
私が入って来たと同時に此方を見て、近寄って来た。
「
「はい……?」
誘導されて教室を出る。
担任の先生は酷く深刻そうな表情を見せている。
「お前のお兄さんがついさっき救急車で運ばれた。階段から落ちて、頭を強く打った様だ。」
手に持っていた財布が地面にぽとりと落ちた。
途端に頭の中が真っ白になる。思う様に手に力が入らない。担任の先生の話はこれで終わりでは無さそうだったが、此方の心中を察した様で。
「意識が無いみたいで……お、おい。財布落としたぞ。」
「あ、兄は! 兄はどうなったんですか!?」
気が付けば、財布を拾い上げようとしてくれていた先生の胸ぐらを強く掴んでいた。
「圷! 落ち着け! とりあえず今は病院で見てもらわなければ分からない!」
脳内に最悪の状況が連想される。もし涼がこのまま。
そう考えるだけで指先から体中の熱が抜けていく感覚が全身に広がる。冷や汗が滴り、震えが止まらない。
考えるより先に口が動いた。
「……早退します。」
―――――
エレベーターがゆっくりと上がっていく。車椅子の少女が一緒に乗っている所為かそこまで狭くない筈が、あまり広さにゆとりが無い。
病院の匂い。嗅ぎ慣れていない薬品の匂いがそこらじゅうに充満している気がした。私の首には、面会用のその日限りの使い捨てのカードを下げている。QRコードが鍵になっているようだ。カードには、圷唯あくつゆいと書かれていた。
目的の階は7階。723号室に涼はいるらしい。
もう既に意識は戻っていると、受付のナースさんが教えてくれた。走り込んで来た私はその場で腰を抜かしてしまったが、それでも私の中の不安は全く消えてくれ無かった。
先にその車椅子の少女の目的の階に到着し、会釈と共に降りて行く。
ゆっくりと閉まるエレベーターのドア。
あと2階登れば涼の居る階に到着する。一秒間に1センチしか進んでいないのでは無いかと思ってしまう程に長く感じる。
ここまで走ってきた所為か、体中が熱い。汗が滲む。この体の震えは、精神的なものか、身体的なものか。
ここ、セイントルカ病院は私と涼が生まれた病院だ。東京都中央区にある大きな病院。キリスト教由来の病院であり、病院内に礼拝堂もある。少し不思議な病院だ。無神論者の私には宗教には元々興味は無かったが、今ならその意味も少しだけ分かる気がする。
生まれたと言っても、普段はもっと近場の病院を活用しているので、正直ここは慣れない。そんな見慣れない景色が私に更なる不安を与えている気がした。
エレベーターが到着の知らせる音を発しドアがゆっくりと開く。
私は走ることなく、それでも出来うる限りの速さで目的の723号室に向かう。
受付で貰ったカードをゲートの認証機に当てると透明なドアが開く。先程発行して貰ったQRコードには不備は無さそうで、安堵の溜息が漏れた。
ゲートを潜れば、病室は想像していたよりも沢山並んでいる。723号室というくらいだから、23個目の病室だと言う事はすぐ理解出来たが、7階にはその倍以上の病室が存在していた。
その光景が余計に不安を加速させる。
一つ一つ数字を確認していく。
あった。723、
私は震える手を支えながら2回ノックをする。
扉を開けば、頭に包帯を巻いた兄の姿が見えた。
「涼!」
小走りで詰め寄れば、涼は優しい顔を此方に向けて来る。
「唯。こんな時間に此処にいるって事は学校早退したんだな。ダメじゃないか。」
「何言ってるの! ……どれだけ心配したか分かってるの!?」
「はは。ごめん。でもそんなに心配するほどの事でも無かったのに。」
涼はいつも通りの笑顔を見せている。
私の心はここに来て深い安堵を得た所為か、自分でも止められない程に勢いよく涙が溢れて来た。涼はそれを見て、私の頭をいつもの様に優しく撫でてくれた。その行為が、よりこの感情を促進させる。
今の私はきっとキチンと喋れていないだろう。
「……心配しない……訳ないよ……。」
「ごめん。」
「今日は一緒に……帰れるの……?」
「いや、先生がさ、一応検査するから2、3日入院しろってさ。結構強く頭打っちゃったみたいだから。」
「……そっか。」
「ごめんな。今週末、遊びに連れて行くって約束したのに。」
こんな状況になってまで私の事を考えてくれる。
「ううん。……そんなのどうだっていいんだよ。」
「埋め合わせはするから。」
「うん。」
それからは面会時間ギリギリまで涼の傍に居たかったのだが、さっさと今日は帰れと言われて仕方なく帰宅した。
そして今、こうやってリビングで一人座っている。
なにもしないまま。時計は既に11時に届きそうだった。テレビすら付いていない。今日の晩御飯は適当にコンビニ弁当で済ませた。
こんな時間に家で一人きりになるのは酷く久しぶりの事で。何をすればいいのか、まるで分からない。というよりか、何かをする気分になれなかった。
家の中には何の音も無い。いつも座っている筈のソファが固く感じた。
ピピピピピ!
ふと、ポケットに入っているスマートフォンが鳴る。
涼からかと思い、口元が少し緩んだ。
しかし、画面に表示された名前は、
画面を睨む。
いつまで待っても、鳴り止む気配は無かった。
「……はい。」
{やあ。}
「……なんでしょうか?」
{涼君の事を聞きたくてね。}
「お構いなく。」
{そう言わず、教えてくれるとありがたい。}
「なぜ、あなたに教えなければいけないのですか?」
私は訳も分からないまま、苛立ちをそのまま声に出した。
{なぜ……か。私が原因で涼君が階段から落ちたからだよ。}
「……え……?」
何を言っているのか、まるで理解出来ない。
それでも今言われた一言が頭の中に何度も反響する。
{私が、涼君を階段から突き落とした。}
「何を……言って……。」
{だから、安否を知りたい。}
手に持つスマートフォンに熱が籠る。
この熱が、機械から発せられるものなのか、自分の手から発せられるものなのかは分からない。
それでも、自分の中から想像を絶するような殺意と憎しみが一気に湧き上がるのを感じた。
「……本気で言ってるんですか……?」
{ああ。}
蛍光院栞の声からは、何の感情も感じられない。
「……涼は無事です。」
{そうか。良かった。}
「……は? 良かった……?」
{ああ、こんな事を言う資格が無い事は重々承知しているが、心から良かったと、そう思う。}
何か理由があるんじゃないのかとか、偶然たまたまそうなってしまったのかとか、そんな思いが頭を巡る。
でも、そんな事はどうでも良かった。理由なんて知った事じゃない。
私は一度だけスマートフォンに表示され続けているその名を見つめる。
蛍光院栞けいこういんしおり。
そして再度耳に当てる。
「貴方の言いたい事は分かりました。」
{どうかな……私はもう……}
身体の中を真っ黒な感情が侵食していき、自分の中が満たされた。
未だにボソボソと何かを話そうとしている彼女の声は、もう私の耳には届かなかった。
私は、涼を私から奪おうとする女を許さない。でもそれ以上に、涼を傷付けようとする奴はもっと許してはおけない。
過去に涼を傷つけた奴は只一人、結城向日葵だけ。
向日葵も涼に初めて会った時に、血を流すほどの喧嘩をした。あの傷は今でも涼の体には、痛々しく残っている。
゛こいつも向日葵と同じく、涼に酷い事をする人間だ。゛
あの時と同じ様に、私の頭には急激に血が昇って冷静な思考を下す事はもう出来ない。
さっきから耳から入って来る彼女の発する雑音を遮る様に呟いた。
「……戦争をしてあげる。」
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