33話 衝撃


 我が家のリビングに静寂が訪れた。

 いつも流れているテレビの雑音も今は無い。痛いくらいの静けさが一層、俺の精神を掻き乱した。

 唯は今、俺の手元にある資料を誰が引き起こしたものなのかを、はっきりとは告げていない。それでもあのタイミングで栞先輩の名前を出したという事が、俺の脳が勝手に結果を先回りさせる。

 唯はその一言を告げてからは何一つ言葉を発する事無く、真っ直ぐ此方を見つめている。その目を見つめ返せば、その疑問について、もうこれ以上の質問は必要なさそうだった。



 ――――何故。


 たった一つのその疑問しか俺の思考には浮かばない。

 額から一筋の汗が滴となって落ちる。部屋の温度はそう高くない筈だ。今俺は動揺している。


 唯はそんな俺の心中を見透かしているのかと思う様なタイミングで口を開いた。



「涼。……わかった?」


 唯の表情には何の感情も表れていない。声色も無色透明。


「でも……。」


「だめだよ。今回は向日葵の時とは違う。」


「そうは言っても、栞先輩にも……。」


「―――涼。」


 唯は俺の言葉を幾度となく遮り続ける。

 そして優しい口調で、まるで俺を諭す様に言い聞かせているみたいに。


「常識的に考えて、そんな人友達にするべきじゃない。涼の事が心配で言ってるんだよ? お願い分かって。」



 俺は黙り込む。

 唯の耳には俺の声は届かない。唯は昔から、こうと決めたらテコでも動かない。


 確かに、今俺の手元にある資料を一目見れば、こんな事件を引き起こすような人物と交流を持つことを禁止するのは家族なら当たり前かも知れない。俺だって、もし唯がこんな危険な人物とツルんでいたら同じ事を言うかも知れない。

 そして家族愛の強い唯なら、この反応は当然。冷静な態度で今、俺と話しているのが不思議なくらいだ。


 しかし何故こんな資料がこんな所になんて疑問が湧く。どうやってこんな物を手に入れたのか。確かにそれも気になるが、それ以上に今は栞先輩が何故こんな事を引き起こしたのかという疑問が俺の中で膨らむ。


 確かに、栞先輩の悪い噂なら俺の耳にも少々なら届いた事はある。

 しかし彼女は有名人。そんな根も葉も無い噂をいちいち信じる訳も無く、聞き流していたのは事実だった。それが、そんな噂が比較にならない程の事実を目の前に突き付けられて動揺を隠し切れない。


 ここにある資料には暴行事件や恐喝など、俺の知っている栞先輩という人物からはとても連想出来ない様な事件ばかり。そもそも此処に記されている事が真実かも分からない。



「唯。」


 向かい合う様に座る唯は、表情を変えずに此方の様子を伺って居る。


「ん?」


「これは本当の事なのか……?」


「うん。これは事実だよ。」


「こんな物をどうやって……。」


 その質問に唯はすんなりと答えた。


「新聞部の部長に貰ったの。学内新聞のネタを探してたら、見つかったんだって。」


 それを聞いて俺は大きく驚嘆した。


「な……。こんなものを記事にするつもりなのか!?」


「ううん。流石にそこまではしないみたい。」


「それにしても何で、新聞部の部長がこんなものを唯に渡したんだ……?」


「たまたま見つけちゃったんだよ。それで誰かに口外しない事を条件に貰ったの。」



 既に口外してるじゃないか、という疑問は今は考えない事にした。

 唯も俺を信用してこれを見せたという所か。それにしてもなんて安易な。この情報がもし校内に知れ渡れば大変な事になる。学院3大美女であり生徒会長でもある彼女のスキャンダルなど、それこそ皆の注目の的だ。



「唯。これを誰かに話したか?」


「ううん。涼だけだよ。だからね涼、もうこれ以上はあの人に関わっちゃだめ。」


「それは……。」


「涼。」



 唯は此方を咎めるような目付きと口調を再度繰り出した。

 唯の言っている事も深く理解できるし、間違ってはいない。唯の気持ちだって勿論同じ家族として痛い程分かる。それでもこんな唐突にそんな事を言われて、すぐさま納得も出来ない。


 俺は苦し紛れに、ボソリと呟いた。



「少し時間が欲しい。」



 その言葉を残してリビングを後にした。

 未だにこの場所には、気を紛らわせてくれる雑音は存在しない。

 階段を登りながら、先程見た資料の内容を思い出す。


 暴行事件の被害者は4人。一人は骨折。全治2か月。

 他にも様々な状況や日付などが正確に書かれていた。基本的にかなり古いものが多い。場所は校内、校外様々だったが、その中に一つどうにも解せない情報があった。



 俺は自室のドアを気だるげに開ける。いつもは殆どと言っていい程使われていない自室のテレビを付ける。今は気を紛らわせてくれる雑音が欲しい。興味の無いバラエティ番組を選局して目も向けずにベッドに倒れ込んだ。



 解せない。

 あの資料のほとんどには、蛍光院栞が事の発端だと言う意味合いの取れる言葉がそれぞれに記入されていた。つまり、手を出したのは栞先輩だという事。


 あの栞先輩がそんな事をするだろうか?

 もし仮に、彼女自身がそういう状況を望んだとしても、自分から手を出すと言うのは非常に考えにくい。栞先輩は馬鹿じゃない。


 栞先輩という人間とキチンと付き合いだしたのは、この約一年。確かに彼女の本質がどういう人間なのかは俺には分からない。だとしても、少なくともあの資料には信憑性に欠けると言えるだけの時間を彼女と過ごしてきた。

 あそこに書いてあった事が事実であっても、栞先輩の真意までは読み取れない。


 少なくとも、何の抵抗もしない相手を甚振いたぶったりはしない。どちらかといえば、強いものに向かって行くタイプの女性だ。


 彼女が以前言っていた言葉だ。


「情報というのは受け取り手次第で如何様いかようにも変化する物だよ。物事の表面ばかりに捉われて、その真意を測ろうとしないのは実に愚かしい事だ。考えた所で結局は分からないからと、思考を停止させるのは実に良くない。涼君はそういう普遍的な人間になってはいけないよ? ふふっ。」


 その時の栞先輩の笑顔が脳裏に浮かぶ。


 恐らくあれは本心で言っていただろう。あんな魅力的な笑顔で人は嘘を吐けない。


 結局、栞先輩が何を考えているのかは直接聞いて見なければ分からない。もしかしたら栞先輩は俺の求めている理想の人物像の様な人じゃないのかも知れない。

 それは俺自身が勝手に思い込んだ理想を彼女に押し付けていただけなのかも知れない。


 では、もし栞先輩が俺の思っている様な人じゃなかったら友人を辞めるのか。


 きっとそれも俺自身、彼女の考えを聞いてみなければ分からない事だ。誰かに言われたからと言って、その人との関係を断つなんて出来はしない。結局、決めるのは俺なんだから。

 明日、栞先輩と話してみよう。全てはそれからな気がする。



 自分の中の想いが固まると同時に、それについての不安も焦燥も薄れていく。

 テレビの雑音に不快感を感じながらも、ゆっくりと瞼を閉じた。




―――――




 放課後でもいいかと思ったが、早い方が良いと思い昼休みに話に行く事にした。


 既にスマートフォンで栞先輩にアポイントを取ってある。栞先輩は事情を知らないのだから当たり前だが、いつもの様に心良く了承してくれた。

 昼休みという事で、廊下には人だかりが幾つも出来ている。それらを縫う様にすり抜けて行く。


 今朝あれから起きてみれば、唯は昨日の雰囲気が嘘だったかのように、いつもの柔らかい雰囲気に戻っていて、朝から鼻歌を口ずさみながら朝食の用意をしていた。朝という事もあってか昨日の話は、唯とはまだしていない。

 今日話に行くなんて唯に言ったら猛反対されるのは目に見えている。それでも栞先輩と話したいと言う俺の欲求が、唯の忠告に逆らって俺の足を動かしているのは事実だ。



 栞先輩のクラスに着く。3年B組。

 皆学食に向かったのか、残っている生徒は半数以下。


 その中に誰かを待っている雰囲気を醸し出している栞先輩を見つける。



「栞先輩。」


「やあ。遅かったね。」


 顎肘を付きながら、目線だけを此方に向けてくる。


「ここでは何なので、教室の外で話せますか?」


「ああ、どこでも構わないよ。」



 栞先輩はいつもの凛とした仕草で立ち上がる。

 共に教室を出た。それでも昼時。廊下には少々人が多い。

 溜息を付き仕方なく階段の方まで離れれば、そこまで人はいない様だ。


 3年生のフロアは3階。食堂と逆方向に校内を進めば、人の数はどんどん減っていく。3階と2階の中間。階段の踊り場で止まった。

 正直、もっとゆっくりした所で話した方が良いとも思ったが、今は唯に見られたくないという思いが頭に過り、こんな中途半端な場所になってしまった。


 こんな場所で立ち止まる俺を見て、栞先輩は此方に怪訝な表情を向けた。



「いったい何の話かな? こんな場所に連れて来て。もしや、如何わしい事をしようとしてるのではあるまいな?」


 その表情にはいつもの冗談交じりの色が含まれている。


「今日は真剣な話です。」


「ふふっ。なんだい? そんなに改まって。少々怖いな。」


「昨日、唯が学院の過去の事件についての書類を持って帰ってきました。」


 その言葉を聞いた途端に栞先輩の表情は固まった。

 俺は言葉を続ける。


「内容は、暴行事件や恐喝、その他にも色々と……」


「そうか。あれを見たのだな……?」


 気が付けば栞先輩の目は鋭く尖り、此方を睨み付けていた。


「はい。唯は栞先輩が引き起こした事件だと言っています。資料にもそう記述されていました。」


「……それで?」


「……本当なんですか?」


「ああ、本当だよ。私がやった。それでだから何だ……?」


「ど、どうしてそんな事を……?」


「やはり意外かな? 暇つぶし……気晴らし……まあ理由は色々あるが、まあ一番はやりたいからやった。それだけだ。」


 いつもの栞先輩からは想像も付かない表情と声。


「嘘だ。貴方はそんな人じゃない。」


「ふっ。逆だよ。」


「……え?」


「嘘なのは君に見せていた方の私だ。こっちが本当の私だよ。済まないね。君の理想にそぐわなくて。」


 栞先輩は鋭い目付きのまま、口元だけに笑みを走らせる。

 こういう笑い方を嘲笑というのかなんて思ってしまうような笑い方。


「今でもこんな事をしているんですか?」


「必要であれば。」


 栞先輩の表情は変わらない。声色にも感情は感じない。俺は黙り込み足元を見つめる。

 少しの間、二人の間に静寂が訪れる。

 その沈黙に水を差すかのように彼女は口を開いた。


「それで……? だから何だと言うのかな? 君には何の関係も無い話だよ。私のイメージを勝手に決めて違ったからと言って勝手に落胆されても困るな。」


 そうかも知れない。

 俺は栞先輩がそういう人だと思い込んでいた。俺の理想の様な人だと。

 この胸の苦しさはきっと彼女の今言った言葉そのままの感情だろう。勝手な

理想を押し付けて、違った途端にこの落ち込み様。自分勝手にも程がある。


 それでも一つ解せない台詞が一つあった。それは彼女の自分勝手で、勝手な思い込み。


 ―――俺には何の関係も無い。


 それは違う。関係無い事なんて一つも無い。

 これまで俺と栞先輩はたった一年だが関係が出来た。それは断じて浅くない関係だった。

 もう俺と彼女は他人では無い。


 俺は栞先輩の目を見据えた。


「……いえ、関係はあります。もうそういった事は辞めて下さい。」


「……は?」


 栞先輩の顔には全く理解が出来ない、正に意味不明とでも言いたげな表情が浮かぶ。


「一体君に何の権利があって私の行動を規制させる? 笑わせるのも……」


 俺は彼女の言葉を遮る。


「親しい友人が危険な事をしようとしているのを黙認は出来ません。」


「……友人……?」


 栞先輩の目は大きく見開かれた。


「はい。これは友達として当たり前の権利です。」


「ふ、ふざけるな!! その言葉を軽々しく私に使うな!」


 栞先輩は途端に大声を上げ、俺はビクリと驚いた。


「そ、そもそも今までの態度は嘘だと言ったはずだろう! まだ分からないのか!? お前馬鹿だろう!」


 栞先輩は酷く動揺した様な態度を見せる。

 こんな姿を見るのはこの一年でも初めての事だ。


「分かってないのは、栞先輩の方です。そんなものは関係ありません。これだけ一緒に居ればもう立派な友達です。」


 俺は栞先輩に少しずつ近づいて行く。

 彼女は怯える様に後ずさる。


「ですから、もうそんな事はしないで欲しい。今まで俺に語って来てくれた貴方の理想と信念は「嘘だった」なんて一言で済ませられる様な物じゃない。」


 栞先輩は縮こまり何とも弱弱しい。体中が震えている。

 俺はその態度を見て、真剣な表情で手を差し出した。



「う、うるさい! こっちへ来るなあああ!!!」



 ドンッ!

 溜まった物が爆発する様に、栞先輩は体を過剰に動かして俺を強く押し返した。


 途端に俺の体は後方に飛ばされる。


 ここは階段の踊り場。

 上の階にも下の階にも繋がる場所。それ故に勢いよく押された俺の体は運悪く下りの階段に吸い込まれていく。


 一瞬思考がスローモーションになる。

 身体が宙に浮く感覚の中、彼女の表情がちらりと視線に入った。

 目に涙を浮かべている。ふと、思い出す。栞先輩は普段のイメージで勘違いしやすいが案外子供っぽい所があるから、もう少し宥める様に言ってあげた方が良かったかも知れないと。


 それから頭に強い衝撃を感じた後の事は記憶には無い。

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