32話 刺激
既に空は薄暗く、いつも人で溢れている校内にはもうあまり人影は無い。
校舎に隣接するグラウンドで照明に照らされながら、部活動に精を出す生徒達も残り少ない。いずれ訪れる本番に向けて汗を流す姿は、この濁った眼には少しだけ眩しく映る。
私も何かスポーツでもやっていたら、傍から見ればあんな風に見えるのだろうかなんて、抽象的な感想をふと抱いた。まあ人間関係を諦めた私でも個人種目ならそれなりに楽しめるかも知れない。
そんな感慨に浸っていれば、グラウンドに一人見知った人物。
以前あの暗闇で話した時は、少々普段の態度と大分違う、酷い偽りようだと思っていたのだが、何が起きたのか。今となっては、以前の彼女がどのような人間だったかもよく思い出せない。それ程までの変わり様。
それと同時に、一体どんな事があればあんなにも人が変わるのか。涼君は彼女に何をしたんだか。きっと私では想像も付かない事かも知れない。
もう既に日は落ちているというのに、少し汗が滲む程の蒸し暑さを憎らし気に睨んだ。
今日は学院の業務も滞りなく捗はかどり、少し早い帰宅。最近は学院の理事に関する業務にも大分板について来た。この程度なら卒業後も、大学に通学しながら片手間に熟こなしていけるだろう。勿論、志望の大学は蛍光院大学。蛍光院家が所有する大学の一つ。入学にはある程度の学力レベルが必要だが、あの程度の偏差値なら特に問題は無い。
フェンスを挟んだ向こう側に、小さなボールが此方に転がって来る。
それを追いかけて来る彼女に自然と目が行く。彼女も此方に気が付いた様で、一瞬目が合うも、すぐに逸らした。
私はフェンス越しのすぐ近くまで詰め寄って来た、結城向日葵にそっと話し掛けた。
「やあ。調子はどうかな?」
この距離とこの声量なら聞こえている筈だが、彼女は鋭い目付きで一瞬睨んで来ただけで何も言わず器用にテニスのラケットだけでボールを拾い上げた。
気を逸らすかの様に、未だに残っているテニス部員達に練習の終わりを告げる号令を掛けている。どうやら私とは話す気も無いらしい。
「以前とは見違えるようだな。一瞬誰だか分からなかったよ。」
再度話し掛けても、結城向日葵の無視の姿勢は変わらない様だ。
それでも私は彼女に話しかけるのを辞めない。
「最近は唯君が私に標的を移したようでね。もう君には興味は無いようで、困っているんだよ。いやいや全くどうしたものか……。」
これだけしつこく語り掛け続ければ、彼女も無視を諦めたのか、深い溜息を付いた。
「……はあ。……うるせーな。ちょっと黙れよ。」
「ふふっ。ホントに怖いな。もしかして涼君の前でもその態度なのかね? 流石にそれは嫌われるんじゃないのかな?」
「んなことお前にガタガタ言われる筋合いねーんだよ。さっさと消えろ……。」
「わかったわかった。それじゃあ私はこれで帰るとするよ。」
今にも怒りが爆発しそうな表情をしている結城向日葵を見て、口元が自然と緩んでしまう。しかしこれ以上の挑発も不要な諍いを引き起こしかねない。
少しの暇つぶしのつもりが、ついつい遊び過ぎてしまった様だ。私は踵を変えす様に、フェンス越しの結城向日葵を一瞥しながら振り返った。
数歩進んだ今でも、彼女の視線が背中に刺さっているのが痛い程伝わって来る。不意にその視線から声が発せられた。
「別にあんたが、これからどうなろうと知った事じゃねーけど。圷唯をあまり甘く見てると痛い目見るよ。」
その言葉を期に振り返れば、もう彼女の背中は少し遠い場所に行ってしまっていた。
確かに甘く見ているかも知れない。たかが、高校1年生の華奢な女の子。触れれば折れてしまいそうな腕や足。弱弱しそうな雰囲気。同時に今まで私自身の中にあった筈の闘争心が少しずつ薄れている事など、誰にも知る由は無い。
その二つの感情が反比例しながら自分の中で混ざり合う。
校門に待つ黒塗りの自家用車に少しづつ近づいて行く。
自分の中の大きな矛盾と向き合う事も出来ないまま、時間は刻一刻と進んで行く。
―――――
天井をボケーと眺めてもうどれだけ時間が経つのか。
いやそこまでは経っていない筈だ。30分か、1時間か。
2階の自室のベッドに寝転がって全身筋肉痛の痛い体に負荷がかからない様にしながら、意識を遠くへと追いやる。こうしてゆっくりするのは酷く久しい気がする。最近は生徒会の業務で忙しかったし、その前は中間試験対策。
よく大人は学生時代は楽しいと言うが、自分のしたい事をしたいだけ出来る大人の方が明らかに楽しいのでは無いだろうかなんて、ふと思う。
いや、きっと大人になったら大人になったで、大人の事情が付き纏い自由時間が削られて行くのだろう。結果、過去の楽しい時間を思い浮かべて、あの頃は良かったなんて将来俺も思うのだろうか。
一階のリビングからは相も変わらずテレビの音が少しだけ漏れて来る。
唯は今もリビングに居る様だ。唯はいつもリビングに常駐している様なものだ。自分の部屋に籠らない女子高生というのも不思議なものだ。
もしかしたら今は夕食の用意をしているのかも知れない。
偶には俺も料理を手伝ってやりたいのだが、俺がキッチンに入ると途端に唯は怒った猫の様な態度を取るので、俺はキッチン立入禁止。キープアウト。
恐らくこれは予想だが、以前「じゃあ卵をお願い」と指令を貰った時に電子レンジを活用した事が原因と思われる。しかし当方としてはあの件は少し納得が行かない。頼み方が「お願い」では、電子レンジに投入しても間違いとは言い切れない様に思う。
逆に俺は比較的、自分の部屋にいる時間が多い方だと思う。籠る事は少ないが、唯の様にリビングにしかいない訳では無い。というよりかは、唯がリビングに常駐しているからこそ俺が部屋に追いやられているという面も無くは無い。
勿論、唯と一緒にリビングにいる事に不満がある訳では無いし、一緒にいつも居るのだが、長時間一緒にリビングに居ると、唯は無意識に俺に寄りかかったり、手遊びの延長で手を繋いで来たりして来る。そして最終的には俺の膝の上で寝始める。
これらの行為は少しの時間なら可愛い妹で済むとしても、膝の上で3時間も昼寝をされた日には此方が逆にぐったりだ。そんな訳で、俺は自分の休息が必要な時は自分の部屋で、こうして天井を眺める事が多い。
コンコン。
自室のドアが二回ノックされた後、ゆっくりと開かれた。
「涼。」
唯がひょっこりと顔を出した。
「ん?」
「御飯だよ。」
優しい口調の妹に笑みを返した。
「わかった。今行く。」
その言葉を聞いた唯は、そのままドアを閉じた。
腹筋に痛みを感じながら上体を起こす。そのまま自室のドアを開ければ、脇には未だ唯が壁に背を預けていた。俺を待っていたようだ。
「先に下行っててもいいのに。」
「そう言って、そのまま寝ちゃう事あるから一応。」
「いや偶にな? すっごい偶にな?」
「うん。10回に一回くらい。」
失礼な。そんなには無い筈だ。せめて15回に一回だ。
唯は俺の後ろをスリッパの音を立ててペタペタと付いて来る。ふと思い出す。昔から唯は俺の後ろを付いて来るのが好きな典型的な妹像の様な女の子だった。
逆に、俺は典型的なお兄ちゃんでは無く、そんな妹を突っぱねる事はしなかった。小さい頃はずっと手を繋いでいた記憶しか無い。もうあまり覚えていないが。
リビングに入れば、スパイスの良い香りが鼻孔を刺激する。今日はカレーの様だ。
二人でいつもの様にお互い向き合う形で食卓に着き、手を合わせる。
母の教育のおかげか、見事に料理上手に育った唯のカレーは絶品。スプーン
は止まる事を知らず、5分と経たずにお皿の中身は空になる。御代わりを一度だけして俺の空腹感は綺麗に消え去った。
それと同時に、先程から机の端に置かれた封筒について、そろそろ唯に尋ねようかと、頭に浮かぶ。いつもはこんな封筒はこんな場所に置かれていない。わざとらしく此処に置いてある所からしても、唯もそれを理解しての事だろう。
そんな俺の思考を先読みするかのように、唯はその何の変哲も無い茶封筒を手に取った。
「涼。これ読んで。」
封筒を差し出しながら、その目は真っ直ぐ此方に向けられている。唯の真剣な内容の会話をする時の表情だ。
俺はその茶封筒を恐る恐る受け取った。少しの違和感と嫌な予感が走る。
「これなんだ?」
「見れば分かるよ。」
ゆっくりとクラフトパッカーの紐を廻しながら解いていく。
中には数枚の資料。よくよく見れば蛍光院学院の過去の資料の様だった。
内容は、過去起きた事件や、生徒の問題行為。
俺はもう一度同じ質問を妹に問う。
「唯。これは、なんだ?」
唯の表情からは何を考えているのかは読み取れない。
それでも俺の妹は何の意味も無く、こんな資料を態々引っ張り出して来たりしない事は、俺が一番知っている。俺に何か伝えたい事があるのだろう。
「涼。もう蛍光院先輩には近づいちゃだめだよ。」
その一言は俺の質問の答えにはなっていなかった。
それでも彼女が伝えたい事はしっかりと伝わった。
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