31話 余熱


 体育祭の余熱のおかげか、俺の学院生活における悲惨な状況も少しずつ解消されて来た。人の噂も75日と言うが、そこまで時間が経たずとも皆の注意はおのずと他へ逸れて行く。

 向日葵の出来事から来る噂も、それによって引き起こされる風評被害も今はさほど気にならない。学食で昼食を心置きなく取れると言うのは誠に素晴らしい事だと再確認出来る。屋上で一人寂しく昼食を取るというのは嫌いでは無いが、何とも味気が無い。


 既にあの異様に広い学食堂で昼食を取り終わり、未だ体育祭の疲れが抜けきれない重たい体で自分の教室に向かって歩みを向ける。例の如く、雄介ゆうすけも俺の隣を歩いているのは、いつもの風景だ。この後の予定は、当然昼寝。



「あーまだ体が痛てえ。」


 腰をトントンと叩けば、返事をするように骨がポキポキと音を立てた。


「俺も、だ。にしても涼は今年の体育祭は無駄に頑張ってたな。」


「……無駄にとか言うな。流石に生徒会の業務と両立するのはマジで辛かった。」



 男子二人で怠そうに歩けば、傍から見てだらしなさそうに映るかも知れないが、それ所では無い程に体に疲労が蓄積される体育祭という行事。周囲に目を配れば辺りの生徒も体を引きずっている者は少なくない。

 体育祭の残り香が校内の至る所に残っているのを二人で眺める。


「にしても相変わらずというか、やっぱり結城ゆうきの運動神経は尋常じゃねーな。」


 雄介のその発言には深く同意した。


「もうあれは同じ生物じゃねーよ。向日葵のあれはもう反則だろ。」


「お、噂をすれば。」


 そんな雄介の台詞と共に、視線を追えば校舎に続く道に幾つか設置されているベンチの一つに一人で座っている向日葵を見つけた。購買に売られているオレンジジュースのパックを啜っている。


「ああ、そうだな。」


「にしても、ホント雰囲気変わったよな。以前とは、別人じゃね?」


「まあ確かに変わったかもな。」


「涼、お前話し掛けねーの?」



 まあ確かにそう言われると、話し掛けない理由も無い。別に、あれから幾度か話しているし、近くを通れば毎回目も合う。

 それでもやはり軽々しく声を掛けずらくなったのは事実だ。理由は単純明解。あの夕暮れに染まる教室での出来事の所為だろう。未だに思い出すだけで頬に少し熱を帯びる。だからといって、これから目の前を通り過ぎると言うのに、無視も出来ない。いつもは、あの仲の良さそうな4人組と一緒に居るからこそスルー出来る訳であって。



「あー……じゃあ悪いけど、先、教室戻っててくれ。」


「はいはい。」



 雄介の口元には軽い笑みが浮かべられている。毎度のお節介も、ここまでくると溜息を隠せない。



 雄介が先に歩みを進めると同時に、彼女に視線を移しゆっくりと近づいて行く。

 傍から見れば、何とも詰まら無さそうな目付きで足を組みながらオレンジジュースのパックをちゅーちゅーと吸う彼女は一見、不機嫌にしか見えない。周囲の人間がその雰囲気に自然と距離を取ってしまう気持ちも良く分かる。

 しかしながら実はこれが向日葵のデフォルトの態度だという事は俺にはよく分かっている事なのだが、それが今後学院内に浸透することは中々難しいだろう。


 少しずつ近づくにつれて足音が既に彼女へ伝わっている筈なのに、此方を見ようともしない所まで昔にそっくりで懐かしい。


 俺はあと数歩で触れられそうな距離にまで来たところで彼女に笑顔で話し掛けた。



「よ、向日葵。」


 その声を聞いた途端に向日葵の目は少しだけ大きく見開かれた後に、此方に視線を向ける。


「りょ、涼ちゃん。」


 彼女は少し驚いたような様子を見せている。


「こんな所で何してんだ?」


「いや別に。」


「一人か?」


「ん。今、連れがジュース買いに行くとか言い出したから待ってる。」



 おそらくはあの4人組のグループだろう。

 それならば話し掛ける事も無かったと、ふと思ってしまう。別にあの子達が苦手な訳では無い。只、女の子5人の中に一人だけ男子が混ざる様な状況になるのが、少々息苦しいだけだ。

 実際に過去そういう目に合いガールズトークの中、気まずさのあまり苦笑いしか出来ないという何とも居たたまれない状況に陥ったので、それからは向日葵グループが固まっている時には、無理はしない様にしている。



「そっか。暇なら少し話そうかなって思ったんだけどさ。それなら俺はもう教室戻るかな。」


 向日葵はそんな俺の様子をじっと見て、ポケットからスマートフォンを取り出し、ピコピコと何やら打ち始めた。


「もう戻って来なくていいってメールしといた。」


「え? なんで?」


「用事出来たから。」


「そっか。じゃあ俺はもう教室戻るな。」


 その言葉を最後に向日葵に背向ける。

 用事が出来たならもっと仕方がない。まあ彼女とはいつでも話せる。別に今に拘らなくてもいいだろう。


「おい、ちょっと待てっ!」


 背後から明らかに苛立ちと怒気が含まれた声と舌打ちが聞こえて来る。

 振り返れば、向日葵の鋭い目付きが此方を睨め付けていた。


「え? なんで怒ってんの?」


「涼ちゃんと話すって事に決まってんじゃん!」


「用事ってそれかよ……。」


「今の流れだったら当たり前でしょ!」


「いや、微妙な所な気がするんだけど……。」


「ったくもう!」



 少し場所を取るように、いそいそと数センチ横にずれた向日葵を見て口元が少し緩む。彼女が作ってくれた空白のスペースに腰を掛けた。

 何を話そうかなんて、ぼんやりと考えていれば、先に向日葵が口を開く。



「あー……そいえばさ、涼ちゃん。」


「ん?」


「ママが、偶には家にご飯でも食べに来いってさ。毎回毎回うっさくて。」


「あー沙羅さらさんが?」


 結城沙羅ゆうきさらさん。向日葵のお母さんで昔からよくお世話になってる。向日葵の事を一生任せるなんて事を本人の意志関係なく平気で言って来る事からも分かる様に、かなりアバウトな人で毎回会うと、その雰囲気に気圧されてしまう。

 向日葵のその美貌もお母さん譲りであり、ほとんどそっくりと言ってもいい程に美しい。向日葵も将来こんな風に成長するのだろうと毎回思わせるのだが、傍から見ていれば、姉妹にしか見えないくらいに若々しい。


「うん。」


「じゃあまた今度伺いますって言っといてくれよ。」


 笑顔で返事を返すも、向日葵の不機嫌そうな表情は変わりそうも無い。


「……いっつもそれで来ねーじゃん……。」


 ふと向日葵は、聞き耳を立てても聞こえないくらいの小さな声を零す。


「ん? なんか言ったか?」


「……別に。」



 向日葵の家には中等部の頃はかなり頻繁に通っていた為に、その流れで未だに誘われるのは仕方が無いが、断り続けるのも心苦しい。そういえば沙羅さんにも、優弥さんにも最近めっきり会っていない。そろそろ顔を出しておいた方が良いかもしれない。

 しかし年々、沙羅さんが俺たちの関係について、しつこく勘繰りを入れてくるので、今回の向日葵の告白の事が彼女にもしバレでもしたら、想像を絶する茶々を入れてくるに違いない。



「ねえ涼ちゃん!」


 唐突に大きな声を上げてこっちに身を乗り出している向日葵。

 俺はその距離と雰囲気に仰け反る程驚いた。その大きな声に周囲を歩いている生徒達も一様に此方の様子を伺って居る。


「急に大声上げんなよ……。びっくりするって。」


「涼ちゃん卒業したら進学するって前言ってたよね。何処にするかもう決めた?」


「い、いや前に聞かれてからまだ決めて無いけど……。」



 以前から、向日葵との会話で進学か就職の話題をした事は何度かあった。

 その度に進学はするが、まだ何処に行くかは決めていないと言って来た俺は、今回も同様の答えを彼女に返す。



「早く決めて欲しいんだけど! もうずっと前から聞いてんじゃん!」


 向日葵の目は真っ直ぐ此方を見つめている。

 何故そんなに真剣に俺の進路を気にするのか。


「なんでだよ……。」


「私もその大学に行くから!」


 俺は先程同様に大きく驚きを見せる。

 以前、向日葵は行きたい大学を決めていた筈だ。


「え!? なんで? 向日葵の学力なら俺より全然良い所狙えるだろ? ていうか、行きたい所もう決めてるって前に言ってたよな?」


「そんなん一緒に居たいからに決まってんじゃん! 一回告ってんだから気づけよ、ばか! ほんとは行きたい大学なんてねーよ!」


 向日葵は相変わらず鋭い目付きを此方に向けるも、頬は一目見れば分かるほどに赤く染まっている。


「そ、そうだったのか……。」


「まあ……そゆこと。私もう教室戻るから……。」


「わ、分かった。」


 俺と向日葵の間に、何とも言えない空気が出来ると同時に向日葵はそれに耐えられないと言わんばかりの表情を残してベンチから立ち上がった。

 別れの言葉も告げずに、この場から小走りで去って行く。


 俺は一人ベンチに取り残されて天を仰いだ。気が付けば今日の天気は晴天。俺は頬に未だ収まらない熱を感じながら、空に向かって深い溜息を付いた。


 今感じている余熱は、そう簡単には冷めてくれそうも無さそうだ。

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