9話 手紙
「おはよう。
新しい週の始まり。自宅を出てすぐのところに花の様な笑顔で迎えてくれている幼馴染の姿が目に映った。革製の学生鞄を両手で持ち、背筋をピンと伸ばしている。
日々、あまりにも近い距離感や幼稚園からの幼馴染というイメージからついつい失念してしまうが、向日葵は生粋のお嬢さま。立ち振る舞いや姿勢など細かな所まで洗練されている。
「おはよっ。涼ちゃん。」
「最近ちょっとずつ暑くなってきたよな。」
「ねっ。今年は暑くなりそうだよ~。」
「向日葵は部活もあるし、気を付けろよな。」
「うん。涼ちゃんありがとう! 今年の大会も頑張るぞ~!」
いつも通りに元気いっぱいの笑顔で空に向かって握りこぶしを掲げる姿は、なんとも健気だ。
向日葵はテニス部に所属している。持ち前の抜群な運動神経とひたむきに頑張る性格で全国大会にも出場するくらいの腕前。2年生ながら、キャプテンであり絶対的なエースという話を人づてに聞いた事がある。
蛍光院学院のテニス部が相当な強豪と噂される中で、そこまでの立ち位置を獲得してしまうのは一概に向日葵だからだろう。昔からテニスに限らず、何をやっても人より長けていて、周りから絶賛される姿が見慣れる程だ。
勿論、それらには勉学も含まれており、2年生の中でもトップクラス。それに加えこの可愛さなのだから、学園3大美女に選ばれているという話を聞いても特には驚かなかった。
「じゃあ今年は俺も応援行こうかな。」
「ええ! だめ!だめだよ! 涼ちゃんは絶対来ちゃだめだからね!」
向日葵は顔を真っ赤にして手をぶんぶんと振る。
「ははは。なんでだよ! 向日葵の応援ならいつでも行くのにさ。」
「だって恥ずかしいもん! 逆に緊張しちゃうよぅ。あ、汗とかいっぱい掻くし……。」
「それは試合の緊張じゃないの? それにスポーツしてるんだから汗くらい掻くだろ?」
「と、とにかくだめだからね! 涼ちゃんは女子テニス部立ち入り禁止!」
「いや、女子テニス部には入る気無いけどな……。」
昔からよく一緒にいた幼馴染の存在も成長と共に段々と距離が遠くなっていく事に少し寂しさを感じた。
小さな頃から、お互いの家でよく遊んでいたし、こういう向日葵の応援にもよく足を運んでいた。お互いが高等部に進学してからは、家に呼ばれても適当な理由を付けて断るようになった。
向日葵は気にしていないのかも知れないが、男の立場から言わせてもらえれば、部屋に男女二人きりというのは、精神衛生上非常に宜しくない。
もし幼馴染に変な気を起こせば、長年お世話になっている向日葵の両親に面目が立たない。最悪、優弥さんに殺されるまであり得る。
向日葵の父である
よく見かける過剰な娘に対しての愛情を持っている人という訳でも無いが、昔からよくしてやっている近所の男の子に娘が襲われたとなれば、国家レベルで抹殺されても文句は言えないだろう。
気が付けば学校までもう目と鼻の先という所まで迫っており、校門を通り過ぎながら異様な程人だかりが出来ているのが自然と目に入る。校舎入口周辺の下駄箱がある場所に、室内履きに履き替える目的以外の人間がごった返した様に溢れ返っている。
皆一様にしてキャーキャーと黄色い声を出しながらスマートフォンで写真撮影をしているようだ。
「あ~。今日、夢乃さんの登校日なんだね。」
多少覇気の無い声で、向日葵がぼそりと呟いた。途端に俺も一つ溜息を漏らした。
この蛍光院学院には、かの有名な芸能人も存在している。基本的には芸能活動が忙しいという理由でほとんどと言っていい程学校に来ることは稀だが、こうしてたまに登校してくるらしく、その時になると大方の生徒達が揃って大騒ぎを始める。
溜息を付くのも、大方の生徒という表現の裏には、俺や後ろでムスっとしている唯や、そこまで芸能人に対して興味の薄い連中がこの騒ぎに大いに迷惑を掛けられる事がもう分かっているからこその客観的な視点からの不満である事をここでははっきりと示しておこう。断じて個人的な問題ではない。
「じゃあ私も自分のクラス行くね。涼ちゃんまたね!」
「ああ、またな向日葵。」
俺はAクラスで、向日葵はGクラス。下駄箱からは逆方向。現在高等部2年生はJクラスまであり、1クラス40人弱。2年生だけでも400人程度。高等部全体で1000人を超える。
気が付けば
向日葵と別れて、自分に割り振られた下駄箱を開く。
するとそこにはいつも使っている少々傷んだ室内履きの上に可愛らしいレターセットの様な物が置かれている。
それが目に入った瞬間、最大の反射神経を持って下駄箱の戸を閉めた。
ガチャン!
大きな下駄箱を閉める音が周囲に拡散する。周りの生徒の数人はこちらを怪訝な様子で見ていたが、未だに芸能人を騒ぎ立てる騒動のおかげか、事無きを得たらしい。
心臓が大きな鼓動を発して、動揺が隠せない。これはいわゆるラブレターというものではないのだろうか。勿論、今までにラブレターなんて夢の世界の代物を貰った事なんて無いのだから分からないし、中身を確認してみれば分かるのかも知れないが、もし俺の様な一介の男子高生が、ラブレターなんて貰ったと周囲にバレれば被害は想像を絶する。
ここは誰にも知られない様、細心の注意をしなければならないと、一瞬の間に下駄箱に入った手紙を鞄にしまい込んだ。
―――
7時限目の授業がもうじき終わろうとしている。今は数学の授業中。教師がいつも通りに淡々と授業が進められているが、この授業どころか今日一日中、全く頭に入ってこない。
数学の教師はこの学校でも比較的緩い人柄で、手紙を見るのならこの授業中しか無いと計画を立てていた。授業に集中しないのも気が引けたが、休み時間の短さとセキュリティの甘さから授業中に見る以外選択肢は無かった。もしこの情報が他の誰かの手に渡れば、その時こそ俺の学園生活の終わりが訪れる。
結果から言えば、この可愛らしいレターセットに入っていた手紙は紛うことなくラブレターだった。
女の子特有の丸い文字で書いてあった文が、
「ずっとずっと先輩の事が好きでした。今日の放課後、屋上で待ってます。」
という、かなり簡潔な文章であったが、女の子が可愛い文字で書くだけでこれ程までの破壊力を発揮するものかと感動を覚え、じんわりと涙すら滲んでくる。
キーンコーンカーン……。
授業終了のチャイムが鳴り響く。既に俺の机の上には綺麗に片付けられている。離れた席から、
♦
屋上に出ると、強い風が吹き抜け日光が肌に刺さる。階段を走った所為で息が切れて少し息苦しい。授業が終わってから即座に此処に向かったというのに、屋上のフェンスの際には黄色が掛かった明るい髪色の後ろ姿を見て既視感を覚えた。
この広い屋上で彼女がいる位置まで移動するのにそれなりに時間が掛かる。
その女の子の後ろ姿は、遠目でも細く長い。印象だけでもモデルの様なスタイルに目を奪われる。
手を伸ばせば届きそうな位置まで来て、ようやく俺は息を整えてゆっくりと話しかけた。
「あの……手紙読みました……。」
「……。」
「えと……お名前聞いても……?」
「……。」
後ろを向いた少女は何も答えない。不自然に体を少しふるふると震わせている所を見るに俺の声は届いているようだ。
「……。」
「……あのー?」
「ぶはははは! ハイひっかかったー!!」
唐突にくるりと此方に振り向き、指を差しながら爆笑する女の子。
一時期芸能活動を休止している間に入学し、少し前に活動を再開。元々若い層を中心に絶大な人気を博していた事から、一時期の休止を感じさせない程に現状もメディアで活躍している。偶然にも唯と同じクラスであるらしいが、交流はあまり無いらしい。
「あー悪いけど、俺今日ここで用事あるんだわ。またな、白亜。」
「あははは! ひゃひゃひゃ!……ひー。あーウケる。何回騙されれば気が済むの? 先輩バカすぎー。あの手紙もあたしに決まってんじゃん!」
この引き笑いである。何回とか、あの手紙も、と言った様にこいつは毎回俺の事を騙しからかってくる。以前ひょんな事から知り合い、この屋上で話す様になったは良いが、それに伴いこの悪ふざけにも毎回付き合わなければいけなくなった。
「いやそんな予感はした! 予感はしたんだよ! でも希望は捨てたくなかったんだよ! お前の悪ふざけより、愛の告白の可能性に賭けたんだよ……。」
「先輩に告白するような物好きなんて滅多にいる訳ねーじゃん! はい自意識過剰~。」
「うるせーよ! 言っとくけど告白成功率は100パーセントなんだからな!?」
「は……? 彼女いんの……? それ聞いてないんだけど……。」
「い、いやまあな。今は、ぼちぼちって感じだけど……。」
「え? 今は彼女いるの? 居ないの?」
「い、いや、それ聞く?」
「どっち……?」
唐突に真剣な表情で問いかけて来る。いつもながらの軽い冗談の類では無さそうだ。
「いや、今はいないけどな? 俺が言いたいのはそこじゃなくて、俺の告白成功……。」
「まあ先輩なら当たり前かっ! 普通の女の子じゃ無理だし! きもいし。」
「おい! きもいは言い過ぎだろ!」
この偽りの無さそうな笑顔はテレビでも変わらない。彼女の魅力はこの笑顔だと俺は思う。それはネットでもよく呟かれている事で、本当に魅力的な笑い方が出来る女の子だ。流石に引き笑いは画面の中では見た事は無いが。
そんな魅力的な子に未だ彼氏がいないとは不思議な事だ。まあ芸能界に属しているのだからしかたないのかもしれないが。
「まあまあ。彼女いなくても、どんまいだよ先輩。」
「いやそんな楽しそうに言うなよ……。」
「てかさ……。先輩じゃこのまま一生彼女出来ないかもだし、なんなら私が……」
ピピピピ!
会話の最中に騒がしくケータイが鳴る。
「あ、ちょっと悪い。」
画面の表示には「唯」と表示されていた。
唯が電話してくる事は稀で、普段はほとんど無い。
そんな違和感を覚え、会話の最中でも仕方なく電話に出た。
「もしもし?」
{涼……?}
「ああ。どうかしたか?」
{ごめん。体調悪くて今日倒れた……。}
「は!?」
{今保険室に居る。帰るときに、ついででいいから迎えに来てくれない……?}
いつもの唯の声からは想像も付かない程に弱弱しい。
「ちょっと待ってろ!すぐ行くから!」
{え、いいよ。今忙しいんじゃない?}
「いいから。すぐ行くから。」
{う、うん。ありがとう。ごめんね……。}
ケータイを切ると、振り返り白亜に動揺していると思われても可笑しくない声で告げる。
「悪い。妹が倒れた。俺行かないと。」
「そか。」
「ごめんな。また話そうな。」
「うん。そだね……。」
俺はその言葉を最後に急ぎ走り出した。
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