8話 休日
身体全体にこれ以上無いだるさを抱えながら上体を起こす。今日は日曜日。学校は休み。この不細工なニワトリを模した目覚まし時計にも久々の休日が訪れた。
昨日の夜、休日の前夜という事もあり多少の夜更かしはしたものの、既に時計には11時半と表示されている。明らかな睡眠の取り過ぎである。寝癖の付いた頭を掻きながら大きな欠伸が止められない。長時間の睡眠の所為か喉がカラカラになっていた。
今日は特別何か予定が入っている訳では無く、俺自身何処かに出かける気も無い。ここ最近は休日であっても早起きを敢行していたため、今日は映画でも見ながらゆっくりしたい。
2階にある自室を出ると一階のリビングからテレビの音が漏れてくる所を見るに、唯も今は家にいる様だ。一瞬止めた足で階段を下り、リビングに入ると甘い匂いが部屋中に漂っていた。
キッチンで何かを作っている唯の後ろを通り過ぎ冷蔵庫を開くと、いつもの様に牛乳を煽るように一気に飲み干す。
「はい味見。」
「朝からクッキーかよ……。」
唯はお菓子作りが趣味で、休日に一人で何やら作業している事が多々ある。今日はクッキーの日らしい。半開きになった口に彼女の手で掴まれたクッキーをそのまま放り込まれた。
「もうお昼だから。どう?」
「ちょっと甘すぎ。」
「そう。」
とは言ったものの、非常に美味しい。俺が甘さ控えめな方が好みというだけであり、実際に市販されているクッキーと甘さは遜色無い程度。素人がこれを作ったというのなら、十分すぎる程の完成度だ。
唯がキッチンに寄りかかる様にして、スマホでレシピと睨み合いをしている姿は少し微笑ましい。欲を言えば、味見させる時には「はい。あーん。」と言って欲しいものだが、それを口に出すほど俺は愚かでは無い。
我が家の教育上、休日であっても寝巻きで家の中を徘徊する事は禁止されている。唯もそれにキチンと習い、タートルネックのカットソーにスカートという、ラフな出で立ちではあるが私服を着ている。
勿論そのルールは俺にも適用されるので、すぐにでも着替えないといけない。というよりか、幼少の時からそう教え込まれた所為か着替えないと落ち着かない。教育とは誠に恐ろしいものである。
「着替えてくる。唯、今日出かけるのか?」
「今日は家にいるよ。」
「そか。今日、居間のテレビ俺が使うから。」
「なんか見るの?」
「見たい映画あるんだよ。」
「自分の部屋で見ればいいじゃん。私だって見たいテレビあるのに。」
「それはお互い様だろ? 映画はやっぱ大画面で見たいじゃん。」
不満そうな唯を横目に自室に戻る。いつも唯にテレビを譲っているのだから、休日くらいは俺が占領してもバチは当たらないだろう。そもそも俺たちのお互いの部屋には18インチと小さくはあるがテレビが備わっている。だというのにも関わらず、唯は基本的に家にいるときは居間のテレビの前にいる事が多く、自室に籠る事はあまりない。あったとしても試験前くらいだろう。
手早く無地のロングTシャツと黒のストレートパンツに着替える。俺のファッションは昔から母が選んでいて、最近ではもっぱらそれが妹の仕事になっている。俺が若い世代に人気がありそうな服を希望しても「却下。」の一言。
リビングに戻るとテレビの前に設置されているセンターテーブルに先程まで唯が作っていたクッキーと、コーヒーが二つ並べられている。どうやら、私も見る、という事らしい。
「なんて映画なの?」
「リフリジレイター? って映画。ちょっと前、雄介ゆうすけに借りたんだよ。」
「ああ、なんかネットで不評だったやつ? 内容が寒いとかなんとか。」
「え? そうなの?」
折角これから見るのにそういう事言うなよ。なんて在り来たりなツッコミを心中に吐きながらDVDをレコーダーに挿入する。
唯はこんな事を言ってはいるが、CMやPVはそれなりに凝っていて記憶に残る程度には、面白そうな映画の印象だったのをよく覚えている。
映画が始まると同時に、お互いの会話も無くなっていく。唯はクッションを抱き抱えながら、画面に集中しているようだ。
俺たち兄妹は世間一般的に見てもだいぶ仲が良い方だと思う。こうして一緒に映画やテレビを見たりと、時間を共にする事が多いのは一概に両親が今までの間ほとんどの時間、家を留守にしていたからだと思う。そのための小中高一貫校への入学でもある。
兄妹共にそれなりに聞き分けが良かったせいか、中等部に上がった頃には、ひと月に一度帰って来るかどうか。最近では正月に会えればいいかと思ってしまうくらいに帰ってこなくなった。
俺もそうだが、別に唯も寂しい訳では無さそうで、特に不満も言わずに暮らしている。だからといって家にいる時間全てを自室で一人過ごすのは、正直辛いし誰かと会話したくなるもので、特に約束している訳でも無いのに夕食は必ず一緒に食べるという暗黙の了解が出来ているし、こういった娯楽を共にする機会も多い。
まだ口を付けていないコーヒーを、一口啜りながら、映画のシーンが起承転結の「承」の部分に差し掛かり、自然と意識がそちらに固定された。
唯は難癖付けていたが、思いの外自然と集中してしまうくらい面白かった。
―――――
気が付けば、物語も佳境に入っている。ネットの情報は間違いでは無かったが、見始めてしまえば結末が気になり、自然と見入ってしまう。
それもこれも最近、気分も機嫌も良いのが原因だろう。今ならつまらない映画でもそれなり楽しめる自信がある。
正直、涼が今日この映画を見ることは検討を付けていた。2週間程前に借りて来たとリビングに置かれたままになっていたDVDを見るのなら、今日が最適だったからだ。涼は基本的にはそこまでテレビを好まず、映画を見る時は大きな画面を好む。
昨日の下校時に、今日は出掛けないという話を聞いた時点で一緒に見ようと、朝からクッキーまで焼いて置いた。甘すぎると涼の好みから外れてしまう事は理解していたが今日のお菓子は失敗だったようだ。これでも甘さをそれなりに控えたつもりだったのだが、これでもまだ甘すぎるとなると、ほとんど砂糖の混入を許さない、只のせんべいになってしまうのだが……。
それにしても涼と休日を一緒に過ごすのは、約一か月振りとなる。ここ最近の休日は芹沢優奈せりざわゆうなと出かけていた所為で、涼と一緒にいる事がほとんど出来なかった。その間、私はイライラしっぱなしで学校の授業に集中出来なくなる程だったが、それももう終わり。ストレスの根源は排除したのだから。
はっきり言って今、私は幸せだ。
これが束の間の休息だと言うことは分かっているが、こんな時間がずっと続けばいいのにと、そう思う。
{ピンポーン}
そんな幸せな時間を邪魔するかの様に、インターホンの音が鳴る。
「誰だろ? 俺行こうか?」
「ん、いいよ。あたし行く。」
「サンキュ。」
映画に集中している涼を置いて、玄関に向かう。
一応の確認のために、ドアスコープから外を覗く。そこには可愛らしい笑顔の結城向日葵の姿が映り込んでいた。
「涼ちゃんいる?」
玄関が開かれると向日葵は万弁の笑みで、されど挨拶も無しに、要件だけを唐突に述べる。
「残念。涼は今日は出掛けてる。」
「嘘。居るんでしょ?呼んで欲しいんだけど。」
障害物の向こうを見るかの様に、向日葵は私の背後に視線を向けた。その態度に先程の気分の良さが消え去ると同時に、苛立ちが体中を支配した。
「は? いないって言ってんでしょ?」
「嘘つかないでよ。唯ゆい一人なら玄関から出てくる訳無いでしょ? いいから涼ちゃん呼んで?」
「しつこい。そんなに話したければ電話でもしてみれば?」
「ふーん。じゃあ今は1階にいるんだ? 涼ちゃんケータイ、家の中では持ち歩かないもんね。」
「人の話聞けよ。やっぱ向日葵って頭可笑しいんだね。」
「まあいいや。明日話せばいいし。今日は帰るね。バイバイ。唯。」
最後まで笑顔を崩さずに、向日葵は踵を返し圷家から離れて行く。
私も玄関のドアを閉めると、映画の続きを思い出しリビングにパタパタとスリッパを鳴らしながら戻ると、ボスッと音が鳴るくらい勢いよくソファに座った。横に座っていた涼が振動で少し驚く。
「うお。なんだった?」
「ん? なんか宗教の勧誘~。」
その言葉と共に、今日私は初めて笑った。
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