10話 仮病

 朝から腸が煮えたぎりそうになる思いをしながら、唯ゆいは自分の下駄箱から室内履きを取り出し地面に叩きつけた。

 いや問題は向日葵ひまわりでは無い。向日葵の一年中続いている盛さかりなど、いつもの事で。その程度のことでは私は微動だにしない自信がある。だが、涼の言葉の方はそう上手くはいかない。


―――じゃあ今年は俺も応援行こうかな。



 たったそれだけの一言に、真っ黒な嫉妬が自分の体内を一瞬で侵食し、体を支配する。

 向日葵に対してでは無く、涼りょうが他の女の子に気を向けているという事実にだ。勿論、今のところ涼に向日葵に対してそんな気が無い事は分かっているし、大切な幼馴染程度に思っているだろう。別に、向日葵じゃなくても涼は優しい。誰に対しても優しいのは涼のこれ以上無い魅力だ。


 だがその反面、涼がその優しさを誰か別の女の子に振り撒くたびに、私は黒く黒く染まっていく。


 1年Cクラスに続く階段を登っていく。

 5階建ての校舎に一年生のフロアは5階に割り当てられている。一年過ぎる毎に一階ずつ下がって行く。2年生は4階、3年生は3階。毎日、5階分の階段を何度も往復するのは、それなりに大変。



「圷さんじゃん。」


 ふと声を掛けられそちらに気を向けると、見知った男が此方を向いてニヤニヤと笑っている。


 高橋圭吾たかはしけいご。涼の同級生。

 男にしては長い髪を明るく染め上げており、前髪が片目を塞いでいる。それなりに容姿は整っており、心愛ここあが言っていたように女子にもそれなりに人気があるが、賛否両論。

 だらしなくネクタイをぶら下げ、姿勢も悪い。私の嫌いな人種だ。


 つい先日、この男から告白されて断っている。

 返事もせずに一瞬合わせた目を逸らし、再度登りかけの階段を歩き出した。



「ちょっと待ってよ! この前の返事聞かせてよ!」


「は? きっぱりお断りしたはずですが。」


「そんな冷たい事言わなくてもいいじゃん! ね?」



 追随して私の横から覆うようにして行く手を阻もうとしてくる。



「興味ないです。そもそも私言いましたよね? 好きな人いるって。」


「勿論聞いたけどさ! 俺本気なんだって! 圷さん可愛いし、付き合いたいんだよ! 一緒に居れば好きになるって!」


「ありえないです。退いて下さい。」



 この男が言っていることは、大方嘘。ちゃらちゃらしたその見た目だけあって、女もコロコロ変える。今まで何人と付き合って来たのか聞いただけでも数えきれない。

 浮気癖もあるようで、それを以前、武勇伝の様に語っていた。まさにとっかえひっかえ。見た目はそれなりに良くても、中身はクズ。


 高橋先輩とは2週間前くらいに、よく話す機会があった。というよりか私から接触を図ったのだが。何を勘違いしたのか、私がこの男に好意を持っていると思い込んでいるので、その時からこうして言い寄られている。



「そんな事言わないでさ~。頼むよ~。」



 なぜ2週間前に高橋先輩と関わっていたのかと言うと、この男があの芹沢優奈せりざわゆうなの元彼氏だったからこそ。

 その時私は怪しまれないようにと、自然に近づき仲が良くなるよう振る舞ったので、まあ勘違いをしても仕方がないが、そろそろこの鬱陶しさにも拍車が掛かって来ている。しかしその甲斐あってなのか、この男がバカなのか、芹沢優奈の有力な情報を吐き出してくれたのは、未だ記憶に新しい。


 私は今朝のストレスを払うため、高橋先輩に笑顔を向ける。



「そうだ。高橋先輩、私は好きな人いるのでダメですけど。可愛い子紹介しますよ。」


「えー圷さんより可愛いの~?」


 案の定、簡単に釣れる事に口元が緩んでしまう。


「勿論、超可愛いですよ?」


「だれだれ!?!?」


「結城向日葵ゆうきひまわりちゃん紹介してあげます。」


「え!? まじ!? 圷さん、結城さんと仲良かったの!?」


「はい。親友ですよ? じゃあ今、先輩に連絡先送りますね。」


「え? 今? 本人に確認しなくていいの?」


「親友だから、私が紹介したって言えば全然大丈夫です。」



 高橋先輩のトークを作成し、向日葵の連絡先を貼り付ける。そのまま高橋先輩のホーム画面を開き、削除のボタンを押した。

 子供の様にはしゃぐ先輩に笑顔を作りながら、階段に再び視線を戻した。


 教室に入り自分の席に着席すると、周りが異様に騒がしい事に気が付く。一つの席を中心に周りにクラスの生徒のほとんどが集まっているようだ。勿論自身のクラスなのだから、そこが誰の席かは十二分に把握している。

 基本的に登校自体してこないその席の持ち主に鋭く視線を送ると、横から心愛の声が聞こえると共に、切れそうな視線を切り、途端に笑顔を作る。



「ゆいー、おはよー。」


「心愛おはよ。なんかすごいね。」


「ねえ。流石は芸能人ってね。」



 相変わらずの女子らしからぬ立ち振る舞いで心愛はにこりと微笑む。心愛もこの騒ぎに別段大きな関心は無いらしく、二人で人だかりを傍観する。

 今日の登校時に玄関でやたら人が集まっていた事の意味をようやく理解した。今朝は、涼にやきもちを焼いていた所為で全く気に出来ていなかった自分に溜息を付いてしまう。よほど周りが見えていなかったらしい。



「てかそれより、唯、昨日連絡しろし!」


「え?」


「え、じゃないよ! 買い物行きたいから連絡してって言ったじゃん!」


「あー。……すっかり忘れてた。」


「やっぱりか! 昨日普通に待ってたのにー。」


 だらんと、うな垂れる心愛。

 確かにそう言って約束したが、すっかり失念していた。


「ごめんごめん。私も買い物行きたいし、来週あたり一緒に行こ?」


「唯はホントしょうがないなー。じゃあ来週いこー」



 そんな会話に割り込むかの様に会話に交ざる人影が一つ。



「えー私も買い物行きたいなー!」



 ふと気が付けば、先程まで話題に上がっていた少女がすぐそこまで迫って来ており、会話にするりと入り込む。心愛も少し驚きながら、それでも持ち前のフランクさを発揮し、すぐさま笑顔を返している所を見るに心愛のコミュニケーション能力の高さが伺える。



「じゃあ夢乃さんも行くー?」


「えー! いいのー?」



 夢乃白亜ゆめのはくあ。高等部1年生。歌手。テレビで見せる健気なお淑やかそうな雰囲気はイメージアップの為の造り物。実際の彼女はもっと普遍的で口も悪い。黄色が掛かった明るい髪にウェーブを掛けている様は下品な雰囲気を醸し出す。そこから覗く完璧に整った目鼻立ちとスタイルは、ネットや週刊誌で整形を疑われるほど。今や彼女を知らない人はこの日本では少ない。学院3大美女の最後の一人。

 一時期芸能活動を休止している間に入学し、少し前に活動を再開。その間に何があったのかは誰も知らない。人気絶頂期に唐突な芸能活動休止を宣言したことから、何か人には言えない秘密があるのは明らかだろう。



「お仕事忙しいんでしょ? いつ行くか決めて無いし、無理しないで構わないからね?」


「えーいいじゃん。仲良くしようよ。あたし、唯ゆいちゃんの事気に入ってるんだよー。妹にしたいくらい。」


「そうだね。妹は無理だけど、友達として仲良くしよ?」


「どうかな~。唯ちゃんのお兄さんと結婚したら、唯ちゃんは妹になれるじゃん!」


「へえ。アイドルってそういう事軽々しく言っても大丈夫なの?」


「アイドルじゃなくて歌手なんだけどね。」


「そうなんだ。ごめん、全然知らなかった。見た目大差無かったから。」



 笑顔を崩さずに会話をしていると、隣の心愛が額に一筋の汗を垂らしながらキョロキョロと視線を泳がせた。



「え、えっと……。唯も夢乃さんも何かあった……?」



 キーンコーンカーン……。

 タイミングよく、授業の開始を知らせる音が会話の終わりを知らせた。



―――――




「唯ゆい!!!」



 保健室のベッドで休んでいると、涼りょうの慌ててドアを開く音が大きく響いた。そんな不躾な効果音も今は心地いい。

 涼は息を切らしながら、此方に詰め寄って来る。相当急いで向かって来てくれた事が一目で分かった。



「涼……。」


「大丈夫か!?」


 そんな彼の表情は瞳孔がゆらゆらと揺れていて、顔も真っ白。涼の方が今にも倒れそうだ。


「うん。大丈夫だよ。」


「倒れたって、いきなりどうして……。」


「ちょっと落ち着いて……? 大げさ過ぎだよ。私は大丈夫だから。」


「大げさって事無いだろう! 倒れるなんて今まで無かったんだから……。」


「保健の先生は、脳貧血じゃないか、って。成長期にはよくある事らしいから。」



 涼はその話を聞いて、胸を撫で下ろすかのように表情から心配の色が引いて行く。



 今回は失敗した。

 7時限目に夢乃白亜の姿が見えない事に違和感を覚えたものの、まさか涼にラブレターを送っていたとは。

 授業が終わり、下校時に涼の親友の鴇雄介ときゆうすけに声を掛けられ、涼が慌てた様子で教室から出た事を聞いた。

 鴇雄介が涼がコソコソと授業中に手紙を見ていた所を見ていなかったら、そしてそれを私に伝えていなかったらと思うとゾクリと悪寒が背筋を走る。恐らく白亜は今日、告白するつもりだったのだろう。

 登校頻度の少ない彼女の現状と以前から告白のチャンスをずっと伺って居た事、7時限目に教室にいない彼女と、涼が教室でコソコソと読む手紙。正直確信があった訳では無いし、実際告白したのか、してないのか。する気があったどうなのかすら分からない。しかし私の嫌な予感は的中する事が多い。


 結果的に今回の様な無理な手段を使わざるを得なかった。

 この手はそう頻繁には使えない。私と涼、お互いの信頼関係あっての一度きりの手段。



「涼、もう帰ろう。」


「もう大丈夫なのか?」


「うん。」



 笑顔で対応し、制服の上着を片腕に掛けて帰路に着く。

 校門を出るまで、涼はずっと心配そうな顔をしながら此方を伺って居た。



「無理しなくていいから。」


 涼は触れはしないものの、支える仕草だけは取ってくれようとしている。


「ふふっ。そんなに心配?」


「当たり前だろ。」


「じゃあ一応念のため、腕つかんでもいい?」


「ああ、いいよ。」



 私はまるで恋人の様に腕を絡めた。

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