第3節 cafe③

 店の中は一面、かすみ掛かっているかのように白い。わぁ幻想的。でもこれ、煙だから。しかも密室。冗談じゃないよね。

 発生源はサクラさんの煙草。この愛煙家、エリを見送った途端にこれだ。ぼくにとっても受動喫煙ですがその点はどうお考えですか? なんて抗議は華麗に無視された。


 カップを洗う音がする。食洗機を導入しないのはサクラさんのこだわりだ。なんでも、愛しの食器たちを機械に任せていられないんだとか。倹約の言い訳でしょ、というのはぼくの個人的な見解。

 とはいえ客数とコスパを考えたら確かに賢明だ。本人に言ったら頭にげんこつをくらったけど。いくら店主が認めなかったところで、売上のほとんどを数少ない常連客に頼っているのは紛れもない事実。こういう時、過疎地域は不利である。

 それでもサクラさんがこの町を離れることは多分、ない。本人いわく、他に行き場所がないんだと。ぼくと違って、どこへだって行けるはずなのだけど。


「いくら惚れてたって、なかなかあそこまで言えないわよ」

 サクラさんが蛇口を締めると、キュッと高い音がした。年季を感じる。

 その呟きは独り言と見せかけて、明らかにぼくに向けられていた。

「あんたって幸せよねえ。羨ましいわ」

「……そいつは、どうも」

 言われなくても重々承知してます。自分が身に余るほどの幸せ者だってこと。

 だから強調したい。今こうして適当な返事をしていることに、抗議の意は一切ないと。

 単に返事をできる状態ではないだけだ。

 身体が……固まっている……。

「よい、しょ」

 掛け声なしでは動けなかった。こいつら、本当にぼくの手足か? 脳の信号にまったく従おうとしない。反抗期か。仕事しろ。

「あは、年寄りみたい」

「……茶化さないでもらえます?」

 こう見えてぼく、必死なんですよ。どう見えてるのか知らんけれども。


 サクラさんの喫茶店はよくあるカウンターキッチン式で、その下には椅子が入る程度のスペースが空いている。

 エリが店にいる間、ぼくはずっとそこに隠れていた。

 店に入ってくるエリが見えたから、瞬時に隙間へと華麗に滑り込んだまでは成功。隠れるというミッションにおいては非の打ち所のない失敗だけど、それはいいとして。よくないか。

 想定外だったのは、あまりにも長期戦になったこと。体育座りよろしく丸まらなければ入れないスペースに全身を押し込んで一時間動かずにいたら関節という関節がバッキバキになってました、と。そりゃそうだ。


 そして現在。やっとの思いでカウンター下から抜け出した。大きく伸びをすると、首と肩と肘と腰と膝と足首が一斉に嫌な音をたてた。すさまじい解放感! 代償はやるせない痛み。

「エリが来るなら、先に教えてくれればよかったのに」

 事前に知ってさえいれば、屋根裏に引きこもることだってできた。この惨状どうしてくれる、なんてね。半分は八つ当たり、残りの半分は本音。

「言ったら逃げるんでしょ、どうせ」

 ご明察。逃げたも同然でしたけど。

 ぼくは全身をできる限り伸ばしつつ、カウンター席に腰を下ろした。さっきまでエリが座っていた席の、ちょうど隣。

 さすが椅子だな。感動的なまでの座りやすさだ。人が座るために考え出されただけのことはある。安物だから侮ってた。ごめん。

 訪れた平穏は濃霧のごとき煙に遮られた。

「……………うわ」

 しくじった。喫煙中のサクラさんの正面に来るなんて、迂闊すぎる。

 煙たい。実に煙たい。手であおいでも全く効果なし。失態だ。

 今さら健康だの長生きだの望むほどタフな精神は持ち合わせてないけど、せめて吐き出してから喋ってくれないものか、くらいのことは思う。全部こっち来るんだよ。わざと大きく咳き込んだのに、サクラさんは態度を改める様子すらない。

「中途半端に隠れたりするから、幽霊になっちゃったじゃないの、あんた」

 中途半端か。ごもっとも。やるならやるで完全に見えないようにやれってね。

 幽霊設定はサクラさんの独断だけど。

「なんで隠れたりしたのよ」

「脱獄したからでしょ」

 そこ、疑問に思う方が不思議ですよ。

「だって姫、プライベートよ?」

「エリは公私分けるタイプじゃないです」

 そんな器用なことができる子だったら、たまの休みにわざわざ相談しに来たりしない。

「サクラさんこそ、なんでエリにあんなこと言ったんですか」

「あんなことって?」

 特徴的な切れ長の眼が、きょとんと丸っこく見開かれる。待ってよ。それ、本気の疑問形でしょ。

 自分で説明しなきゃなんないの? エリもぼくも相手を想いすぎるとか、ぼくが信頼できるのはエリだけだとか、本当のこと言わないでくださいよーって?

 無理。恥ずかしいにも程がある。

「それはさておき」

「自分で切り出したくせに」

「チラチラこっち見るの、不自然でしたよ」

「え、出てきてたの? 引くわ」

「視線でわかります」

 カウンター越しだからって、この短距離から見られたらぼくが気づかないわけない。育ってきた環境の産物だ。

「何してたかも、だいたいわかってますよ。突拍子もなく抱きしめてたでしょ」

「あらやだ、嫉妬? ちっさーい」

「……って話です」

「したくても? やらしいわね」

「そういう意味じゃないです」

 やらしいのは、そんなとこをピックアップするあんたの脳みそだって話。


 エリは『こう』と決めたら本当に頑固だ。絶対に譲らない。確信があるからこその信念なのであって、彼女の長所の一つなのは確かなんだけど、悪く言うと融通が聞かないもんだから口喧嘩となったらまあ強い強い。勝った記憶ないもんね。

 だからサクラさんには驚いた。あのエリを言い負かすとは。しかも論破ではなく、話題転換。良い戦術だ。機会があったらパクらせてもらおう。

「サクラさん、心得てますよね。エリの……扱い方というか。良くも悪くも」

「まあね。あたしが入所した時、もう姫は牢に出入りしてたから。してたっていうより、させられてたんだけど。将来のための勉強、みたいな。だから姫との付き合いはあたしの方がずっと長……ちょっと、王子。聞いてる?」

 聞いてたけど、聞かんでも知ってます。

「はい。その自慢話、16回目ですね」

「可愛くないわねえ」

 げんなり、がっかり。純度100パーセントの落胆。それでいて少し嬉しそうに見えるのは、どうしてなんだろうか。


「っていうか、あんたさ」

 一通り食器を拭き終えると、サクラさんはぼくの隣の椅子に腰かけた。コーヒーを寄越してくる。ぼくは浅く会釈をしてグラスに口をつけた。この寒いのにアイスコーヒー。ぼくの猫舌を覚えていてくれたらしい。

 サクラさんが、くわえていた煙草を灰皿に押し付ける。やっと終わった、なんて安心も束の間、エプロンのポケットから第2部隊が顔を出した。ああ、無限ループ。

「あたししか頼れないんだってねえ」

 ええ、まあ。それはもうエリの予想通り。エスパーかと思いました。それはそれとして、にやつき方めっちゃ腹立つな。

「その割には、随分でかい顔して転がり込んできたものね」

「ぼく、何も答えてませんけど」

「つまり図星なんでしょ」

 ……ぐうの音も出ない。エリならともかくサクラさんにまでお見通しなんて、ぼくはどれだけわかりやすいんだ?

「なんで落ち込んでんのよ」

「だって、よりによってサクラさんに見透かされたんですよ。繊細とか聡明とは程遠いサクラさんに」

「いい度胸してるわね。行く宛ないくせに」

「知ってる人がそもそも、サクラさんしかいないってだけです」

「ここで開き直れる神経を疑うわ」

 容赦なし。人の心をグサグサ抉ってくる。エリにはめちゃくちゃ優しかったくせに。

「姫の方が落ち込んでたよ。あんたのことわかってなかったって。完全正解なのに、可哀想」

「……わかってますよ」

 わかっている。何回も言われなくても。

 涙が混ざったエリの声。主成分は悲しみと、やりきれない自責。

 なに一つ、きみのせいじゃないのに。


 コーヒーに浮かんだ氷を遊ばせる。ぶつかり合って、カラコロと鳴った。軽い音だ。なんだか気が緩む。無意識に口から言葉がこぼれた。

「エリは、綺麗ですよね」

 常々思ってるせいだろうか。それについては否定しない。照れるけども。

「なにを今さら」

「空の下でエリを見たの、昨夜が初めてなんです」

 ぼくに刀を向けたエリ。

 照らす灯りは夜空だけ。月光は銀髪を鮮やかに映し、星々が碧眼を煌めかせる。まるで幻想の中から現れたようだった。

「夜だし裏道だったから暗かったのに、薄い月明かりだけなのに、綺麗で。天使かと思いました」

 あのまま斬られていたとしても、それはそれで……。

「あの子は人間よ」

「いや、例えですって」

「人間なのよ。どうしようもなく」

「……………」

 いつの間にかサクラさんの視線が鋭くなっていた。射抜くようだ。ぼくを責める眼。

 遠回しな言葉は、なんだかサクラさんらしくない。コーヒーが底をつくと、隙間の空いたストローは渇いた声で鳴いた。


「そうだ。いっそのこと顔、変えたら?」

 まるで名案浮かんだりというように提案された。本気で言ってるのか。

「冗談でしょ」

「なんでよ。その方が都合いいでしょうが」

「サクラさんみたいに、ですか?」

「…………………」

「………ごめんなさい。言い過ぎました」

「あんた、何のために脱獄したのよ?」

「理由は2つです」

 サクラさんにVサインを突きつける。2つと示しただけなのだけど、結果的にピースの形になった。

「教えませんけどね」

「あー、そう。何でもいいけどさ」

 がしがしと豪快に、サクラさんが頭を掻く。一瞬、昔のサクラさんが見えた気がした。気がしただけだ。言うまでもなく。

「あんたが逃げたのは、獄からだけじゃないんだからね。わかってる?」

「当然です」

 即答した。だって、当然ですもん。

 刑から自由になりたいだけなら、こんな無謀なことはしない。まして今まで無抵抗でいることもなかっただろう。油断させたところを逃げ出すなんて手段としては有り得ても、そんな器用さ持ち合わせてない。自分が一番よく知っている。

 ってことも。自分が一番、よく知っている。

「サクラさんには感謝しています。数えきれない面倒をかけてしまいましたが」

 今回に限ったことじゃないですかね。と思いはしたが、言わないでおく。きっと怒らせてしまうから。

「ありがとうございました」

「言いたいことは山ほどあるけど、明日でいいわ。もう寝なさい」

「子供ですか、ぼくは」

「わかってんじゃないの」

 なんて表情をしてくれるんだ。呆れた声で話すくせに、瞳は今にも泣き出しそうで。ぼくが顔を背けたのは、反射に近かった。

 見ていられない。見ていたくない。

「おやすみなさい」

『寝なさい』。恩人の指示だ。忠実に守ろうじゃないですか。

 また明日、とは返さなかった。

 嘘は少ないに越したこと、ないもんな。

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