cafe③-1

 店の中は一面、かすみ掛かっているかのように白い。わぁ幻想的。でもこれ、煙だから。しかも密室。冗談じゃないよね。

 発生源はサクラさんの煙草。この愛煙家、エリを見送った途端にこれだ。ぼくにとっても受動喫煙ですがその点はどうお考えですか? なんて抗議は華麗に無視された。


 カップを洗う音がする。食洗機を導入しないのはサクラさんのこだわりだ。なんでも、愛しの食器たちを機械に任せていられないんだとか。倹約の言い訳でしょ、というのはぼくの個人的な見解。

 とはいえ客数とコスパを考えたら確かに賢明だ。本人に言ったら頭にげんこつをくらったけど。いくら店主が認めなかったところで、売上のほとんどを数少ない常連客に頼っているのは紛れもない事実。こういう時、過疎地域は不利である。

 それでもサクラさんがこの町を離れることは多分、ない。本人いわく、他に行き場所がないんだと。ぼくと違って、どこへだって行けるはずなのだけど。


「いくら惚れてたって、なかなかあそこまで言えないわよ」

 サクラさんが蛇口を締めると、キュッと高い音がした。年季を感じる。

 その呟きは独り言と見せかけて、明らかにぼくに向けられていた。

「あんたって幸せよねえ。羨ましいわ」

「……そいつは、どうも」

 言われなくても重々承知してます。自分が身に余るほどの幸せ者だってこと。

 だから強調したい。今こうして適当な返事をしていることに、抗議の意は一切ないと。

 単に返事をできる状態ではないだけだ。

 身体が……固まっている……。

「よい、しょ」

 掛け声なしでは動けなかった。こいつら、本当にぼくの手足か? 脳の信号にまったく従おうとしない。反抗期か。仕事しろ。

「あは、年寄りみたい」

「……茶化さないでもらえます?」

 こう見えてぼく、必死なんですよ。どう見えてるのか知らんけれども。


 サクラさんの喫茶店はよくあるカウンターキッチン式で、その下には椅子が入る程度のスペースが空いている。

 エリが店にいる間、ぼくはずっとそこに隠れていた。

 店に入ってくるエリが見えたから、瞬時に隙間へと華麗に滑り込んだまでは成功。隠れるというミッションにおいては非の打ち所のない失敗だけど、それはいいとして。よくないか。

 想定外だったのは、あまりにも長期戦になったこと。体育座りよろしく丸まらなければ入れないスペースに全身を押し込んで一時間動かずにいたら関節という関節がバッキバキになってました、と。そりゃそうだ。


 そして現在。やっとの思いでカウンター下から抜け出した。大きく伸びをすると、首と肩と肘と腰と膝と足首が一斉に嫌な音をたてた。すさまじい解放感! 代償はやるせない痛み。

「エリが来るなら、先に教えてくれればよかったのに」

 事前に知ってさえいれば、屋根裏に引きこもることだってできた。この惨状どうしてくれる、なんてね。半分は八つ当たり、残りの半分は本音。

「言ったら逃げるんでしょ、どうせ」

 ご明察。逃げたも同然でしたけど。

 ぼくは全身をできる限り伸ばしつつ、カウンター席に腰を下ろした。さっきまでエリが座っていた席の、ちょうど隣。

 さすが椅子だな。感動的なまでの座りやすさだ。人が座るために考え出されただけのことはある。安物だから侮ってた。ごめん。

 訪れた平穏は濃霧のごとき煙に遮られた。

「……………うわ」

 しくじった。喫煙中のサクラさんの正面に来るなんて、迂闊すぎる。

 煙たい。実に煙たい。手であおいでも全く効果なし。失態だ。

 今さら健康だの長生きだの望むほどタフな精神は持ち合わせてないけど、せめて吐き出してから喋ってくれないものか、くらいのことは思う。全部こっち来るんだよ。わざと大きく咳き込んだのに、サクラさんは態度を改める様子すらない。

「中途半端に隠れたりするから、幽霊になっちゃったじゃないの、あんた」

 中途半端か。ごもっとも。やるならやるで完全に見えないようにやれってね。

 幽霊設定はサクラさんの独断だけど。

「なんで隠れたりしたのよ」

「脱獄したからでしょ」

 そこ、疑問に思う方が不思議ですよ。

「だって姫、プライベートよ?」

「エリは公私分けるタイプじゃないです」

 そんな器用なことができる子だったら、たまの休みにわざわざ相談しに来たりしない。

「サクラさんこそ、なんでエリにあんなこと言ったんですか」

「あんなことって?」

 特徴的な切れ長の眼が、きょとんと丸っこく見開かれる。待ってよ。それ、本気の疑問形でしょ。

 自分で説明しなきゃなんないの? エリもぼくも相手を想いすぎるとか、ぼくが信頼できるのはエリだけだとか、本当のこと言わないでくださいよーって?

 無理。恥ずかしいにも程がある。

「それはさておき」

「自分で切り出したくせに」

「チラチラこっち見るの、不自然でしたよ」

「え、出てきてたの? 引くわ」

「視線でわかります」

 カウンター越しだからって、この短距離から見られたらぼくが気づかないわけない。育ってきた環境の産物だ。

「何してたかも、だいたいわかってますよ。突拍子もなく抱きしめてたでしょ」

「あらやだ、嫉妬? ちっさーい」

「……って話です」

「したくても? やらしいわね」

「そういう意味じゃないです」

 やらしいのは、そんなとこをピックアップするあんたの脳みそだって話。


 エリは『こう』と決めたら本当に頑固だ。絶対に譲らない。確信があるからこその信念なのであって、彼女の長所の一つなのは確かなんだけど、悪く言うと融通が聞かないもんだから口喧嘩となったらまあ強い強い。勝った記憶ないもんね。

 だからサクラさんには驚いた。あのエリを言い負かすとは。しかも論破ではなく、話題転換。良い戦術だ。機会があったらパクらせてもらおう。

「サクラさん、心得てますよね。エリの……扱い方というか。良くも悪くも」

「まあね。あたしが入所した時、もう姫は牢に出入りしてたから。してたっていうより、させられてたんだけど。将来のための勉強、みたいな。だから姫との付き合いはあたしの方がずっと長……ちょっと、王子。聞いてる?」

 聞いてたけど、聞かんでも知ってます。

「はい。その自慢話、16回目ですね」

「可愛くないわねえ」

 げんなり、がっかり。純度100パーセントの落胆。それでいて少し嬉しそうに見えるのは、どうしてなんだろうか。

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