第2節 cafe②


 カノン・フィリオ、17歳。

 彼には終身刑が執行されている。


 判決が出たのは彼がまだ10歳の時。

 改正後の少年法は、年齢を理由に彼を逃したりはしなかった。

 罪は殺人。より正確に言うなら大量殺人。具体的には、村がひとつ壊滅した。

 事件も判決も衝撃的で、世間はしばらく大騒ぎだった。前例のない事態に司法も腹を決めかねたという。


 唯一冷静だったのは、その渦中というか渦の中心にいるはずの、

 判決を告げられた時でさえ、退屈そうに虚空を見つめていたそうだ。瞳は深い漆黒で、奥まで覗いても光が見えない。

 悪魔か死神か。獄中ではそんな噂が囁かれた。全面否定は致しかねる、不思議な雰囲気を纏っていたのは確かだ。

 でも、それが全部じゃない。

 憂いと影が潜んだ瞳は、どこか寂しくて。何もかも拒絶する強さと、傷つけられたら簡単に壊れてしまいそうな儚さ。視線を合わせようとしないのは、何かに怯えているんじゃないかって思えて。

 なんだか、ほうっておきたくない。


 カノンはそんな男の子だった。


 ***


「脱獄ねえ〜。大胆というか、向こう見ずというか。ほんっと、食えない王子様だわ」

 チップスをひとつまみ。ポリポリと軽快な音と共に、豪快に頬張るサクラ。

 その隣でエリーゼは両手に包むようにしてマグを持ち、ラテから分離しつつあるトッピングを見つめていた。温度はもうドリンクよりも、エリーゼの手の方が高いだろう。

「姫もどうぞ、召し上がれ。 いけるわよ」

「せっかくですが、そういった気分では……それよりカノンの話を」

「赤い方、ハイパータバスコ味ですって」

「……いただきます」

 味覚は正直。エリーゼは不本意な本心を覗かせながらも結局、ハイパータバスコチップスを頬張った。ほんわり、顔が緩む。尖っていた唇も咀嚼に波打ち、刺激的な辛さを楽しんでいた。

「姫には『マカロンおいしい』とか『好きな食べ物はイチゴ』だとか言っててほしいんだけどね、あたしとしては」

「辛いもの、好きなんです。昔から」

「知ってるわよ」

 嫌と言うほどね。知られてないとでも思ったのか。そんな唯一無二のカフェラテを注文しておいて。


 そういえば。エリーゼの印象を思い返すと、幼い頃から周りと『違う』子だった。どこかが決定的にずれている。そんな印象。

 どこが? と聞かれると答えに迷う。銀髪は確かに珍しいけど、容姿の話ではなくて。

 地に足がついていないような、ふわりふわりと浮きながら進んでいるような、心が眠っているような、ぎこちなくて所在なくて。

 うーん、伝わる気がしない。

 可憐なところも、危なっかしいところも、総じて『お姫様』って感じ。


 などと物思いに耽っていたせいで、気づくのが遅れた。ラテを冷ます息づかいが聞こえてこないこと。エリーゼが黙ってサクラを見つめていることに。

「………はぐらかすということは」

 エリーゼの声にしては低い、否、暗い。

「やっぱり、ご存じなんでしょうか」

「何を?」

「カノンの居場所です」

 迷いのない瞳。透明度の高い碧。疑問形の語尾なのに、内側で確信が渦を巻く。

「そういうことなら悪いけど、力になれそうにないわ。王子が逃げたことすら初耳だし」

 一言ごと、注意しながら言葉を選んだ。視線は逸らさずエリーゼを捉える。

 わずかな隙とて疑われる理由になるだろう。いくらサクラが上手うわてでも、相手の迷いを見逃すほど、エリーゼも甘くない。


「ていうか、それって結構な機密でしょ。 あたしなんかに話しちゃって大丈夫なの?」

「大丈夫です。サクラさんですから」

「……そう、ありがと」

 うっ。胸を押さえそうになるのを堪えた。

 信頼が痛い。ズキズキ来る。

 多分これ、何か言われるほど削られていくタイプのダメージだ。うわ、やだ。

 姫の方から諦めてくれないかな、くれないだろうな。誰あろう、エリーゼ・トアイモアだもんなあ。現役刑務所官の目を、どうやって欺けというのか。こっちは元囚人だぞ。

 内心パニック状態に陥りつつも、サクラは冷静を装い続ける。囚人たちがエリーゼには心を開いていたことを、走馬灯のように思い出した。自分もしかり。

 純粋かつ真摯な眼差しは心を見透かしてしまうようで、彼女の前では張りつめた神経もほどけてしまうのだ。幼女の頃からそうだった。魔性? それな。なんて雑な現実逃避。

 目を逸らないでいるのもそろそろ限界だ。さあどうする―――


「…………ごめんなさい」


 ――え? そんな、まさか。

「彼が行くとしたら、絶対にサクラさんのところだと、思ったんです。サクラさんを疑うような言い方をして……ごめん、なさい」

 諦めた? 仕事の鬼たる、エリーゼが?

「そんな、やめてよ。気にしてないから」

「……………」

 参ったな。削られるスピードが加速した。すり減る良心。もはや音速。

 嘘は言ってない、言ってないけれども。


「私、自惚れていました」

 聞き取りにくいのは、声が下に向かっているせいだけではない。時々、嗚咽のようにも聞こえた。なのに、泣いてはいない。

「彼のこと、わかってるつもりでいたんです。私とは全然違うけど、どこか似てるなんて思っていて。でも……彼はそんなふうには思ってなかったんです……よね」

 泣いたらいいのに。

 その方がきっと、楽なのに。

「だから、いなくなっちゃったのかな……」

 言い切る直前、語尾が消え入るのと同時。エリーゼの身体は温もりに包まれた。


「………!」

「他人の中身なんか、どうしたって想像する以外にないわ」

 きつめのハグ。髪を撫でられる感触がくすぐったい。こんなふうに抱きしめられるのはいつぶりだろうか。もう子供ではないはずなのに、心地良い。

 不思議なものだ。やるせない切なさ、もどかしい寂しさ、後悔に似た悲しさ。昨夜からエリーゼの心を支配して離れなかった暗闇が、少しだけ静かになった気がする。

 だが、これは。

「当然でしょ。だって自分の心すら、全部はわからないじゃない」

「……サクラさん、あの」

「王子なんて余計にそうよ。顔にも態度にも出さないもんを解れって方が無理だっつの。ああいう甘えたのにはね、一度ガツンと」

「………くるしい、です」

「え?」

 エリーゼの顔が小さいのか、サクラの胸が大きいのか。おそらくどちらも正解。前者は後者にすっぽりと埋もれてしまう。

 体格は劣っても腕力で勝るので、抜け出ることは可能のはず。というのは理論上の話。

 愛情表現を邪険にする神経を、エリーゼは持ち合わせていない。

「あらら、ごめんね」

 詫びてはいるが、大して気にした様子はない。解かれたエリーゼは深く息を継いだ。


「おかしいなあ、そんなに強くしたつもりはなかったんだけど」

「……ご自覚がないのですか」

 エリーゼが視線を下げていく。サクラの胸と己の胸とを交互に見比べて、溜息をついた。問題は力の入れ具合などではなく、そもそもの大きさであるからして。

「ああ、そういうこと。気にすることないわよ、姫もすぐ大きくなるから」

 そう信じ続けて数年になるのだが。悪気がないとは、かくも残酷なり。

「なに、王子って巨乳好きなの?」

 ごきゅっ。エリーゼの喉がおかしな音で鳴いた。カフェラテを詰まらせたらしい。咳き込むまいとするほど、赤面メーターが上昇していく。

「なんで、そう、なるんです、か」

「ちょっと、やだ。むせてるんだから喋るのやめなさいよ。タバスコ入れすぎたかしら」

「サクラ、さんが、変なこと、言うから」

 渡された冷水をちびちびと飲む。サクラに背中をさすられながら。目の端に滲んだ涙が

 長い睫毛にも水滴を残した。


 エリーゼの呼吸が整ったことを確かめると、サクラは穏やかに口を開いた。

「……初めて王子を見た時ね、やばいのが来たな、って思ったの」

 もう7年も前のことだ。例の事件の犯人が収容されるという話は瞬く間に施設全体へ伝わり、囚人たちはその話題で持ちきりだった。当時のサクラはその中の一人である。

「すごい数の人を殺したって聞いてたし、子供だってのも知ってたからね。想像するでしょ、ごついんだろうなとか。蓋開けてみたらひょろひょろの痩せっぽちなんだもん。驚いちゃった」

 10歳のカノン。サクラに促されるように、エリーゼも記憶をたどる。

 彼は確かに小柄だった。細かったし、身長も小さかった。癖のある髪は肩につくほどに伸びていて、後ろ姿なら女の子と見間違うくらい。今ではエリーゼより頭ひとつ分も高いところから見つめてくるというのに。

「……確かに、イメージとは違いました」

「ね。身体は小動物みたいなのに、目だけが完全にイッちゃっててさ」

 サクラは眉間にこれでもかとシワを寄せ、ぎりぎりまで目を細めてみせた。カノンの目付きを真似ているらしい。正直、まったく似ていない。

「普通の子じゃないのは見てすぐわかるけど、聞いてたことができるようには、到底見えなかった。本当にこの子があれだけの殺しをやったんなら、内側に全部、隠してるわけでしょ。相当やばいなって」

 逮捕されても、刑が決まっても、牢に入れられても、顔色を変えない少年。それはもう不気味だった。

 何を考えているかわからない者ほど扱いにくいものはない。十分な食事も摂ろうとしない彼に、誰もが手を焼いたそうだ。


 そんな時。刑務官の一人が、カノンと同じ年齢の娘がいることを申し出た。

「そんなのの話し相手に連れてこられたのが、よりによって姫だった。可哀想にって、みんな言ってたわよ。ボスのやることに反感持ったのなんて、あれが最初で最後」

 仕事のためか、子を持つ親としての同情か。10歳だったエリーゼが刑務所を訪れたのは、父の紹介ゆえだった。

「私はカノンと出逢えてよかったです」

 そう言うとエリーゼは顔をほころばせた。床と距離の開いた足がぶらぶらと遊んでいる。いつだってそうだ。エリーゼはカノンの話をしている時が一番かわいい。

 その笑顔が、しぼむように曇る。

「でも……忘れてって、言われちゃった」

「王子に?」

 エリーゼがうなずく。本棚の最下段、左から7冊目、奥付けのページに挟まれたメモ。

 信じられなくて、信じたくなくて、何度も何度も読み返した。


「あんた達、やっぱり似てるわよ」

「そう、でしょうか」

「相手を想いすぎるところなんか、特にね」

 サクラはそう言って笑いつつ、脚を組み換える。途中で足元に視線を落とした。ちょうどエリーゼが霊的な何者かを見たあたり。

「……もし、私が思う通りなら」

 マグカップをあおる。最後の一口を飲み込んだ。すっかり冷めてしまっている。

 温かかったものが知らないうちに冷たくなっているのは、どうしてか少し寂しい。

「カノンが頼れるひとは、サクラさんしかいないと思います。だから、彼がここに来たら……」

 エリーゼが顔を上げた。父親似の、強い瞳だ。大人でも気圧される。父に似ようと強くある、17歳の少女の瞳。

「どうか、カノンを守ってください」

「……王子が信じられるのは、貴女だけよ」

「私にはできないんです」

 サクラは思う。そうだ、この子はこういう子だ。悲しみの全てを内側に抑え込んで、感情が通りすぎるまでじっと待つ。

 泣かないのではなく、泣けないのか。

「もう……できないんです。私には」

 涙も流せないほどの痛み。彼女にとって、どんなに重いことだろう。

 今回ばかりは、想像すらできない。


 サクラは何を言うこともできず、再び視線を足元に落とした。

 そこに、恨めしい誰かを見つめるように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る